終わらない夏 セカンドエピソード
終わらない夏 セカンドエピソード
~夏の落し物 夏の贈り物
「ユウさ~~~んっ!!」
沈みかけた夕日が、真夏の真っ青な空、真っ青な海、青々とした山の木々を真っ赤に染め上げる夕暮れ時。港に入ってきた連絡船を追いかけ、岸壁を走りながら大きく手を振り、そう声を張り上げたリン。客席の鳴海は遠くから走り寄ってくるそんなリンを見て嬉しそうに微笑みました。
四国本土からこの美那野洲島の間を往復している定員二十名ほどの小さな連絡船は船着場に停泊、少々不安定な足場板を渡り下船した鳴海のところへリンが駆けつけます。
「はあ…はあ…ふぅ…ユウさん、久しぶりっ」
息を切らしながらそう言い、ニッと笑って見せたリン。
「ははっ、なにもそんなに急いで来なくても家で待っててくれればいいのに」
「いやだもん。だってユウさんに薄情な奴だって思われちゃうでしょ? そんなの絶対いやっ」
「大丈夫。そんなこと思ったりしないよ。それより、そのユウさんって呼び方やめないか? なんかシックリこなくってさ。今まで通りおじさんでいいよ」
「ダメっ! 絶対ダメ。だって、おじさんって呼んでると私が子供みたいなんだもん。私もう子供じゃないんだよ? それに、その…それじゃコイ……に…ないもん…」
なんだか恥ずかしそうに語尾を濁したリン。不思議そうにしている鳴海にリンは「なんでもないの」と少し頬を赤らめ身振り手振りごまかしました。
「子供じゃない…か。そうかもな。ホント大きくなったよな。初めて逢ったときは小さくて小学生にしか見えなかったもんな」
「もう、ユウさんのエッチっ。確かに大きくなったけどさっ」
ほんの少し、本当に少しだけ大きくなって膨らみが確認できるようになった胸をワザとらしく突き出して見せて悪戯っぽく笑ったリン。
「こらっ、大人をからかわないの」
赤面してそっぽを向いた鳴海が、そうリンを叱りつけると「ごめんなさ~い」とリンが可愛らしく舌を出して見せました。
「へへっ、初めて逢ったときもそんなふうに怒られたよね」
「そうだっけか? よく覚えてるな」
「うん。だってユウさんと一緒の時間は、私の一番大切な時間だもん。絶対忘れたりしないよ」
「リン……ありがとな。今の俺があるのはリンのおかげだから…ちゃんとお礼言ってなかったよな」
「やだっ、私なんにもしてないもんっ」
水平線に沈んでいく夕日を横目に岸壁をゆっくりと並んで歩いていた二人。恥ずかしそうにスタスタと早歩きで先に行ってしまったリンは足を止めてしゃがみ込み、遠くの海を眺めます。
「どうした? なんか見えるのかい?」
ゆっくりと歩み寄り傍らに立った鳴海がそう尋ねます。
「この辺りをね、世界一周中の豪華客船が通るんだってお父さんが言ってたの。その間の漁船の出港は控えてほしいって通達がきたんだって。今日のお昼過ぎには通るって話だったから、ず~~っと一日中海を見てるんだけど、まだこないんだよね」
「昨日の嵐、凄かったろ? だから、どっかで泊まったんじゃないか? そのせいで俺も昨日、本土に足止めくらったんだし」
「そっかもね。ねえ、ユウさんはそういう船って乗ったことある?」
「自慢じゃないけど俺は一回も海外に行ったことがないんだ」
「うそっ、世界中回ったことあるのかと思ってた。風景写真専門なのに?」
「俺は国内専門なの。そういえばリンと出会ってもう二年も経ったんだな」
「そうだね…誰かさんは相変わらず年に一回しか来てくれないしねっ」
口を尖らせ、そう言ったリン。
「ごめんな…寂しい思いさせて…」
「ううん。大丈夫。分かってるもん。しかたないことだもん…」
寂しそうにうつむいたリン。しゃがみ込んだ鳴海は、そんなリンの頭を優しく撫でました。
「リン。今度はさ、春夏秋冬で年に四回来れそうなんだ。この島の写真集出せることになってさ」
「ホント?」
尋ねるリンにうなずいて見せた鳴海。リンは嬉しそうに瞳をキラキラ輝かせて鳴海の腕に両手で抱きつきました。
「そういえばリン、高校はどうするんだ? 今までみたいに通うってワケにはいかないんだろ?」
「うん…まだ決まりってワケじゃないけど、下宿先を探して、そこから通うことになるんじゃないかって」
「そっか…寂しくないか? 島を離れるのは」
「う~ん…まだ実感ないからわかんないけど…楽しみかな。街に出たら楽しいこといっぱいありそうだし、思いっきり朝寝坊できるしねっ。どうせ休みになれば帰ってこれるし」
「それなら大丈夫だな。なんか心配だったもんでな」
なんだか妙にホッとした表情の鳴海。そんな鳴海を見て少し不思議そうにしていたリンでしたが、そのときはそれほど気にも留めなかったんです。
リンの家(兼旅館)へ向かって歩き出した二人。港を抜け、ほとんど車の通ることの無い緩やかに上る粗い舗装道路をゆっくりと歩いていると、突然リンが駆け出して数メートル先で足を止めます。
「ユウさん、そこでストップ!」
リンにそう言われ足を止めた鳴海。リンは両手の親指と人差し指でキャンパスを作り、それを鳴海に向けると、左目を閉じて中を覗きます。長四角のキャンパス内に納まる鳴海と真っ赤に染まる港の全様。
「うんっ! いい感じ。じゃあ~~~んっ、これ見て。おねだりして買ってもらったんだ」
得意げな顔でポケットからデジタルカメラを取り出したリンは、電源を入れてシャッターボタンを押します。
「おいおい、いきなり撮るなよな~。俺、今変な顔してたろ?」
「ふふっ、してた。ポカ~ンと口開けてボケら~って。へへ~ん去年の仕返しだよ。このデジカメはね、私の夢への第一歩なんだ…」
大切そうにデジカメを胸に抱いたリン。
「私もユウさんみたいにたくさんの人を感動させられるような写真家になりたい。それでいつかはね、ユウさんと一緒に日本中を巡るんだ。そしたら、ユウさんとずっと一緒にいられるもん…」
「リン…行こっか。静流さん、遅いって今頃やきもきしてるよ」
「そうだねっ。お母さん、すっかりユウさんのファンなんだもん。ダメだよ? 綺麗だからって手を出しちゃ。絶対ダメなんだからねっ!」
「確かに綺麗だよな静流さん…大丈夫だよ。その辺の良識はわきまえてるって。第一、武敏さんを敵に回す勇気が俺にはないな」
振り返り港の風景を視界に入れた鳴海は、心の中でキャンパスを作り、自分ならこう撮るだろう構図とリンがさっき撮った写真に写っているだろう構図を比べてみます。
「どうしたの? ユウさん。なんかムズカシイ顔してるけど…」
「い、いや別になんでもないよ。さ、行こう」
歩き出したリンの背中を見つめ、なんだか複雑な表情を見せた鳴海は、口元に笑みを浮かべ嬉しそうに溜息をつきました。
「おかあさ~~ん! ユウさんきたよ~っ」
玄関の引き戸を開け、そう叫んだリン。「は~い」と返事を返した静流がスリッパの音をパタパタいわせながら慌ててやってきます。
「いらっしゃいませ鳴海さん。お久しぶりですっ」
嬉しそうにそう言った白いエプロン姿の静流。年齢は鳴海よりも少しだけ下くらいでしょうか、長い黒髪で色白の綺麗な女性。リンは母親似で、大人になると静流のような女性になるのかな?
「お久しぶりです静流さん。そういえば頼まれていた写真集、持ってきましたよ」
持っていたバッグから数冊、自分の写真集を取り出した鳴海は、それを静流に手渡します。
「ありがとうございますっ!」
満面の笑みで渡された写真集を胸に抱える静流。
「すみません…荷物、重かったでしょうに増やしてしまって…御代は後でお支払いしますね」
「いえ、そんな、いいですよ差し上げます。静流さんには、ずいぶんお世話になってますしね」
「そんな…こちらこそ鳴海さんには、来るたびにリンのお守りをしてもらってしまって」
「ちょ、ちょっと、お守りって!」
赤い顔で頬を膨らませているリンを見てクスクスと笑う鳴海と静流。リンは「もうっ! 二人して子ども扱いしてっ」と、プンとそっぽを向き、ふてくされています。
「ふふっ、リンったら。鳴海さん? もうすぐ夕食の用意ができますけど、お部屋にお持ちします? それとも…」
「ああ一緒に食べようよ。そのほうが賑やかでいいしね」
「鳴海さんなら、そう言ってくれると思ったんです。私、鳴海さんと話したいことがいっぱいあってもう、ふふふっ」
なんだかとっても浮かれ気味の静流。リンがワザとらしく咳払いをして見せます。
「だって鳴海さん、いつもリンと一緒で、なかなか二人で話す機会ってないんですもの。それと鳴海さん? お泊りになられている他のお客様方が鳴海さんにお会いになりたいそうなんですが、そういうことは私では決められなくて一応お断りしてあるんですけど、どうしましょうか?」
「う~ん…じゃあ、みんなでメシ食いましょうか。色々手間が省けていいでしょ?」
「でも…いいんですか? 長旅でお疲れでしょうし…」
「いえ俺は平気ですよ。なんせ旅慣れてますし、せっかく俺なんかのファンになってくれた方々が会いたいって言ってくれてるんだしね」
「そうですか…そう言ってもらえると助かります」
済まなそうにそう言い頭を下げる静流に「いいんですよ、ホントに」と気さくに笑って見せた鳴海。
お世辞でも広いとはいえない居間に、二つ付けて並べられたテーブルを囲む鳴海とリン、静流、それに宿泊客の老夫婦に若い男性が二人、中年男性と三十代半ばほどの夫婦。テーブルには新鮮な魚介のお造りや塩焼き、煮物、山菜の天ぷらや和え物などが所狭しと並べられています。
恥ずかしそうに乾杯の音頭をとった鳴海。宴会が始まり、写真の話で大盛り上がり、話に入れず、つまらなそうに一人麦茶をチビチビ飲んでいたリンでしたが、サインを求められたり、握手を求められたり、宿泊客たちの羨望の眼差しの先にある鳴海を見て、なんだか誇らしげに顔を綻ばせていました。
日付が変わるころまで続いた宴会もお開きになり、最後に鳴海と握手を交わし、嬉しそうに頭を下げて部屋へと戻っていった宿泊客たち。リンはボケ~っと座ったまま眠そうに目をトロンとさせ、大きなあくびをしています。
「ははっ、無理に付き合うことなかったのに」
そう言った鳴海も随分お酒が回っているようで、真っ赤な顔で目をトロンとさせています。「へーきだよ」と返したリンは、もう一度大きなあくびをしました。
「鳴海さん、ずいぶん飲まされていましたけど大丈夫ですか? はい、これ胃薬です」
静流に手渡された錠剤とコップに入った水。鳴海は錠剤を口の中に放り込み、水で流し込みます。
「ありがとうございます。なんだか嬉しそうにお酌してくれるもんだから、断りづらくって…こういう姿見せるの格好悪いですね…」
「ふふっ、そういうの鳴海さんらしいですね。いいと思いますよ? 赤い顔の鳴海さんも素敵です」
「ははは…お世辞でもそう言ってもらえると助かります」
照れくさそうに頭をかいて見せた鳴海。
「俺、目が開かなくなってきてしまって…限界みたいなんで、そろそろ寝かせてもらいます。リン? リンっ、ほら、リンも寝よう?」
寝ぼけてしまい、ほとんど目が開いていないリンは、鳴海の声になんとなく反応して力なくうなずくと、ヨロヨロと立ち上がります。
「…えっと、ユウさん? 明日、一緒に泳ぎにいかない? ダメ…かな」
「だめよ、リン。鳴海さん、長旅で疲れているんだし、お酒もずいぶん飲まされちゃったから、明日は休ませてあげないと」
寝ぼけ眼をこすりながら遠慮気味に尋ねたリンを優しい口調で叱った静流。
「いえ、いいんですよ静流さん。行こう、リン」
「ホント?」と、眠気も何処へやら瞳を輝かせて聞き返すリン。
「ああ。そう言い出すような気がして、今年はちゃんと用意もしてきたからな」
「へへっ、私、新しい水着買ったんだよねっ。それじゃオヤスミっ、ユウさん、お母さん。約束だからね~っ」
そう言って元気に居間を駆け出していったリン。
「すみません鳴海さん…いつもリンのワガママに付き合ってもらってしまって…」
「いいんですよ。リンがこんな俺のこと慕ってくれているうちは、あの子の気持ちに精一杯応えてあげたい。ホントに短い間しか一緒にいてやれないですからね…さて、それじゃ俺も寝ますね。おやすみなさい静流さん」
重い腰を上げ立ち上がった鳴海は、居間を出ていきます。
「あ…あのっ、鳴海さん」
言うか言うまいか迷っていた言葉…意を決して静流がそう声を出したとき、すでに鳴海の姿はありませんでした。片付け物をのせようと手に持ったおぼんに食器をのせることも忘れ、その場に立ち尽くし居間の入り口を見つめたまま表情を沈ませた静流…。
翌朝、太陽の昇りきった頃に目を覚ました鳴海。二日酔いでガンガンと痛む頭を押さえながら階段を下り、居間に顔を出します。
「おそよう。ユウさん」
テーブルに肘をかけ頬杖をつきながらテレビを見ていたリンが、皮肉たっぷりにそう言います。
「おはよう…って時間でもないか。ごめんなリン」
リンの横に腰を下ろした鳴海。
「ま、別にいいけどさっ。まだお昼前だしね。それよりホラ、見て見て、テレビのニュース。もう、ず~っとこればっかり流れてるの」
液晶画面に映る黒ずんだ海と夥しい数の救助艇や救助ヘリ。男性アナウンサーのアナウンスが入ります。
『一昨日の未明におきました世界一周中の客船と石油タンカーの衝突事故についてお伝えいたします。原因は嵐により客船の航路がずれてしまった為と思われ、衝突、炎上、ともに沈没。乗客、乗組員、合わせておよそ三百名のうち、死亡が確認されたのが五十名ほど。生存者は確認されておらず、残りはいずれも行方不明。嵐により救助活動が遅れたこともあり、生存者の確認は、ほぼ絶望的とみられています。なお、乗客、乗組員に日本人は確認されておらず…』
「ほ~う…そりゃ、いくら待っても来ないワケだな、リン」
「ホント、そうだね…もうっ! 見たかったのにな~…って、そんなこと言っちゃダメだよね。死んじゃった人いっぱいいるんだしね…」
「まあ、そうだな…」
なんだか身近に起こっている出来事だけに他人事とは思えず、少々表情を沈ませ、ボケ~とテレビを眺めていた鳴海とリン。
「おはようございます鳴海さん。二日酔い大丈夫ですか?」
台所で宿泊客の朝食の片付け物をしていた静流が居間にやってきて、エプロンで手を拭いながらそう尋ねます。
「まあ、なんとかですね」
「ふふっ、よかった~。リンったら明け方に目を覚ましてしまって、待ちきれなくって鳴海さんを起こしにいくって聞かなくて大変だったんですよ」
「ははっ、リンらしいな。ごめんごめん早く起きてやれなくて」
「もうっ! お母さん、そういうことは言わないでよ~」
ふてくされているリンを見てクスクスと笑う鳴海と静流。
「鳴海さん、朝食はどうします? 軽いもの用意しましょうか?」
「いえ、いいですよ。もうお昼になってしまうし…なっ? リン?」
「へへっ、まかせといてっ! 腕によりをかけて作ったんだから」
自信満々にそう言ったリン。「楽しみにしてるよ」とリンの頭を優しく撫で微笑む鳴海。リンは嬉しそうに目を細めています。
「さっ、じゃあ行こっかリン」
立ち上がる鳴海。「うんっ!」と満面の笑みでうなずいたリンも鳴海の後に次いで立ち上がります。
家を出て海岸線へと続く所々雑草の生えた荒い砂利道を深い緑を横目に歩く鳴海とリン。肩にバスケットと水筒を掛け、ウキウキと早歩きのリンの後に少し遅れてパラソルを肩に担いだ鳴海。やがて二人の眼前に何度見ても見劣りすることのない、本当に美しい真っ青な海と真っ白な砂浜が広がります。
砂浜にパラソルを立て、レジャーシートを敷き、バスケットの中を広げ、お昼ご飯を食べる二人。
「はい、ユウさんっ。どう? おいしい…かな?」
水筒に入った麦茶を鳴海に手渡し、少し不安そうに尋ねるリン。
「相変わらずうまいよな、リンの料理は。まあ静流さんには負けるけどな」
「もうっ! 一言余計なんだからっ!! …確かにお母さんには負けてるけど…でも、そのうち絶対に追い抜くんだからねっ!」
「なにもそんなにムキにならなくても…今のままでも十分過ぎると思うけどな」
割り箸で摘んだ卵焼きを一口で頬張り、おいしいけれど少し甘めの味付けのそれを味わいながら、まだまだ子供だな~なんてなんだか幸せそうに顔をほころばせる鳴海。
「う~~~ん…やっぱりダメっ! 女として負けられないもん。よーしっ、私、先に泳いでるねっ」
そう言って立ち上がったリンは、鳴海の目の前で膝くらいまで丈のあるピンク色のワンピースを脱ごうとします。
「ちょ、ちょっとまて! ここで着替えるつもりか?」
飲もうと口をつけていた麦茶を噴出しそうになりながら慌ててそう言った鳴海。
「私、ユウさんになら見られても平気だけど…な~んてねっ。へへ~ん、中に着てきてるんだよ~だ、ほらっ」
服を脱ぎ、水着姿になったリン。胸元に小さなリボンのついた水色と白のボーダー柄のワンピースタイプの水着。
「すごく似合ってるよ、リン」
「ホント? へへっ、よ~~しっ」
駆け出したリンが波打ち際に入っていきます。
「きゃっ、冷た~い。ユウさ~~ん、ユウさんも早くきてね~っ」
そう言って大きく手を振ったリンは、勢いよく海に飛び込んでいきます。
誰もいない真っ青な海を一人泳ぐリンの姿が、まるで人魚でも見ているかのように幻想的で美しいものに思え、鳴海の気持ちを高揚させ、ついカメラに手を掛け構えてしまいそうになりますが、そんな気持ちを抑え、首に掛かっていたカメラをそっとレジャーシートの上に置きます。
鳴海は思ったんです。形に残して誰かに見られてしまうのは嫌だって、自分だけの心に留め、大切なリンのことを独り占めしたいって。
五メートルほどの高さがある岩場から海の中へ飛び込んだリンが水面から顔を出し、膝くらいまで海水に浸かり、そんなリンを少々心配そうに眺めていた鳴海のところへ泳いで戻ってきます。
「…大丈夫か? リン」
「全然平気だよ。ユウさんもやってみる? 気持ちいいよ」
「いや、俺は遠慮しとくかな」
「え~~っ、ユウさん怖がりなんだ。私もう一回行ってくるね~」
そう言ったリンは岸に上がり、軽いロッククライミングのように岩場をよじ登り頂上に着くと、遠くの海をなんだか不思議そうな顔で眺めています。
「どうした~~~っ、リン」
「あれって…たいへ~~~ん、ユウさん。多分、救命ボートだと思う。あそこの岩場に引っかかってるやつ。人が一人、倒れてるみたい」
「あっちの岩場? よく見えるな、そんなの」
「私、両目とも視力2.0超えてるもんね~」
「ケニア人並みだな、そりゃ」
「へへ~ん…って、そんなこと言ってる場合じゃないよ。ユウさん泳ぐの自信ある? 私一人じゃ無理っぽい」
「ああ、まあ、それなりには…な」
「はぁ…はぁ…さすがに…はぁ…これ以上は泳げないな…」
「はぁ…はぁ…私も無理っ…」
砂浜に大の字になって倒れこむ鳴海とリン。しばらく呼吸を整えた二人は、重い体をなんとか起こして岸辺に引き上げた救命ボートへ歩み寄ります。
「外人…だよな。この子…」
「うん…きっと世界一周の船に乗ってた子だよね。日本人はいないってテレビで言ってたし…生きてる…かな」
二十人前後は乗れそうな大きな救命ボートに横たわっている赤いドレスのような服を着た見た感じ十~十二歳くらいの女の子。真っ白な肌で軽いブロンドがかった金髪、どこかヨーロッパ系の貴賓を漂わせています。鳴海はその子の口元に耳を近づけ胸元に視線を向けます。微かに上下する胸、聞こえる呼吸音。
「ああ、大丈夫みたいだ。息はしてるし、外傷もないみたいだから、とりあえず命に別状はないと思う。まあ俺は医者じゃないから、断言はできないけど…このままってワケにもいかないし、つれて帰ろう。リン、荷物お願いできるかい?」
そう言った鳴海は、その女の子をそっと抱え立ち上がります。
「うん。あ~っ、お姫様だっこ。いいな~私もしてほしいな~なんてね」
「中年のおじさんだぞ? 王子様とか、そんなガラでもないって…って、そんな冗談言ってる場合じゃないだろ~」
「へへっ、そうだよね~」
「どうだった?」
武敏と静流の寝室のドアの前に立って待っていた鳴海。中から出てきたリンにそう尋ねます。
「服を脱がせて、お母さんのベッドに寝かせたよ。やっぱり怪我とかはなさそうだから、気を失ってるだけかもってお母さんが。あとは、お母さんがついていてくれるって」
「そっか…一応、病院に連れて行ったほうがいいんだろうけど…この場合は海上保安庁なんかに連絡入れたほうがいいんだろうな。リン、電話借りるな」
居間にある電話のところへ向かった鳴海は、受話器を手に取ります。
「えっと…どこに掛ければいいのかな…ってリンに聞いても分からない…よな」
「海の事故のときは118番だよ」
一緒に居間についてきていたリンが、そう答えます。
「へぇ~よく知ってるな」
「まあ、これでも漁師の娘ですから」
電話機のボタンに人差し指をのばす鳴海。その鳴海の手を「待って!」とリンが止めます。
「リン…どうしたんだ?」
「うん…なんかね、このまま人任せにしちゃっていいのかなって。きっと、なんか偉そうな人がゾロゾロきて、まるで犯罪者みたいに連行されてみたいな感じ想像しちゃって…私、あの子のために何かしてあげられないかな? テレビで生存者はいないって、絶望的だって…あの子、一人であの船に乗ってたワケないよね。じゃあ、あの子のお父さんとお母さんも…きっと偉い人に連れて行かれたあと、あの子には不幸なことしか待ってないかもしれないよ。絶対そうだって言い切れないけど、でも…少しでもその不幸を減らしてあげられないかな。プラスマイナスゼロなんて無理に決まってるけど、少しでも幸せな気持ちを増やしてあげて、その不幸を減らしてあげられないかなって…私なんかじゃ出来ないよね? お節介だよね…だけど…」
傍らで真っ直ぐに鳴海を見つめ、そう言ったリンが鳴海の腕に弱々しくしがみつき、うつむきます。そっと受話器を置いた鳴海は、そんなリンの頭を優しく撫でます。
「リン…やっぱりリンは、いくつになってもリンなんだな」
不思議そうに首を傾げるリンをなんだか嬉しそうに微笑み、見つめた鳴海。
「いったいこれから何人の人たちが俺のようにリンに元気をもらって救われるのかなってさ。ホントは、すぐに知らせないとマズイんだろうけど…やってみよう? リンが思った通りに。俺も出来る限り力になるし、何があっても俺が全部受け止めてやる。だから安心してリンは、あの子のことだけを…な? プラスマイナスゼロなんて言わずにさ、リンならどんな不幸だってプラスにできるって俺は信じてる」
「プラスにできる…か。そうだよねっ! 可能性はゼロじゃないんだからっ。私の取り柄って元気だけだもんね。ありがとうユウさん。私、やってみる!」
鳴海に背を向け、一歩、二歩、距離を取り、クルンと振り返ったリンは、キラキラと瞳を輝かせてそう言いました。
そのとき少々困り顔の静流がパタパタとスリッパの音を響かせ、慌てて居間へとやってきます。
「あの、あの子が目を覚まして…元気そうに見えるんですけど、言葉が全然わからなくって…鳴海さん、外国の言葉って話せない…ですよね?」
「そう…ですね~…まあ英語なら少しくらいは。写真家になりたての頃は、世界中を回ってなんて夢もあって、勉強してた時期もあったんで。片言なんですけどね。とりあえず話してみますよ。その前に、リン? ほら、異国のレディーが見知らぬ男に海水でベトベトになった姿を見せたがるとは思えないし、服だって着てないんだろ? まかせても大丈夫か?」
大きくうなずいたリン。微笑み、小さくうなずき返した鳴海。リンは居間を駆け出していきます。
「ちょ、ちょっと、リンっ! …大丈夫…なんでしょうか?」
呼び止めようとしたリンは、すでに駆け出していったあと。不安そうに居間の入り口を見つめ鳴海に尋ねた静流。
「大丈夫ですよ、リンならきっと…」
さっきリンと話したことを静流に伝えた鳴海はテーブルのところに腰を下ろします。
「そういえば静流さんは知りませんでしたよね。二年前、俺がこの島に来た理由。あのとき俺は写真家をやめるつもりでこの島に来たんです。もしリンに出会っていなければ、今こうして写真を撮り続けていられなかった。リンは、すごい子です。信じて待っていてあげましょう。きっとリンに元気を分けてもらったあの子が、笑顔でここにきてくれますから」
「そうですね…なんたってあのリンですもんね。ふふっ、私お茶入れてきますね」
それから一時間くらい経ったでしょうか、居間にリンがやってきます。
「お待たせっ! 見て見てっ、じゃ~ん♪」
なんだか自慢げにそう言ったリンに招かれ居間の入り口に姿を現したあの女の子。少し頬を赤く染め、照れくさそうにうつむいています。
「どう? すっごく可愛いでしょ? まるでお人形さんみたいだよねっ」
鳴海と静流は「ほぉ~…」「まあ~…」と呟いたきり言葉が出ず、マジマジと女の子を見つめてしまいます。
胸のところに大きなリボンのついた淡い黄色でノースリーブのワンピース。二年前にリンが着ていたその服を着た女の子は、思わずどこかに飾って置きたくなるくらい本当に可愛くて…そんな二人の反応に気づき、ちょっと恥ずかしそうに、でも嬉しそうに無邪気な笑顔を見せた女の子。その笑顔の可愛らしさに思わず笑顔のこぼれる鳴海、静流、それにリン。
「ははっ、とても同じ服を着ていたとは思えないな。なあリン?」
「もうっ! ユウさん、それは余計っっ!!」
プウッと頬を膨らませるリン。笑い声をあげる鳴海と静流。女の子もつられてクスクスと笑っていました。そのとき、一瞬、女の子に視線を向け、悲しげな表情を見せたリンに誰も気づかなかったんです。
「Come here」
そう言って女の子を手招きし傍らに座らせた鳴海。
「can you speak English(あなたは、英語が話せますか?)」
「a Little(少し…)」
そんな問答で始まった鳴海と女の子の会話。
二人とも流暢には程遠い、思い出して話し、考えては話しといった途切れ途切れのつたない英会話。そんな二人を何をしゃべっているのか全くわからず、ポカ~ンと見ている静流とリン。二人の会話が終わり、鳴海が静流とリンにその内容を話してくれます。
女の子はフランス人で、名前はミリィ。年齢は十一歳。両親は産れてすぐの頃事故で亡くなったと聞かされていて、祖父母に育てられ、一緒に世界一周旅行をしていて…事故の記憶はほとんどないらしく、気がついたらここにいたという話で、大きな事故の後は一時的に記憶喪失のような状態になることがよくあるっていうし、それだけが不幸中の幸いかなって鳴海は話していました。明後日には迎えがくるので、それまではここでのんびりしていてという嘘を伝えてあるということでした。
「お母さん、ユウさん、私ミリィに港のほうを案内してくるね。えっと、ミリィ? ディス アイランド イズ ベリー ビューティフル うんと…アイ…う~…ユウさん、案内って英語でなんていうの?」
「ははっ、guideかnavigationだよ。それにしてもひどいカタカナ英語だな。ほら、ミリィも笑ってるぞ」
「もうっ、いいんだもん。私は日本人だから英語なんて話せなくても。行こっ、ミリィ」
ミリィの手を引き、玄関のほうへ向かっていくリン。「夕飯までには帰ってくるのよ?」という静流の声に「は~~~い」と返したリンは、ミリィをつれ、ドタバタと家を出ていきました。
「リン、ミリィは病み上がりなんだから無理に連れまわさないようにな」
玄関へ行き、引き戸を開け、ずいぶん遠くへ行ってしまっているリンに向かってそう声を張り上げた鳴海。
「うんっ! わかってる~」
「ミリィ~、Because it prepares the delicious meal and it is waiting for it」
もう一度声を張り上げた鳴海に「It makes pleasure(楽しみにしてます)」というミリィの返事が返ります。
手をつなぎ、なんだか楽しそうに港へ続く舗装道路を下っていくリンとミリィを玄関で見送っていた鳴海とその傍らにやってきた静流。
「鳴海さん? 今、ミリィになんて言ったんですか?」
「おいしいご飯用意して待ってるって」
「えっと…どうしましょ…私、フランス料理なんて作れないし、今日はお客さんがいないから、あまり食材も揃っていないし…いえ、でも、その、鳴海さんだけだからって手を抜いているってわけじゃ…」
「大丈夫。わかってますよ。いいんじゃないですか? いつも通りで。日本食って海外で人気があったりしますし、かえってそのほうが喜ぶかもしれないですしね。それにしてもリンはやっぱりすごいな。言葉なんか分からなくてもリンの元気は万国共通なんだろうね」
「ええ…でもミリィは祖父母が亡くなっているかもしれないってこと…」
「わかっている…みたいでしたよ。自分の身に起きている現実を。それでも、ああやって笑顔でいられるってことは、それがリンの力なんですよ。たとえあの笑顔が今だけのものだとしても、無理に作ったものなんだとしても、リンがあの子のためにしたことは、きっと無駄にはならないって俺は信じてます」
日の傾きだした港の岸壁を波に揺れる漁船や飛び交うカモメに視線を送りながら手をつなぎ歩いていたリンとミリィ。
「どう…かな? こじんまりしてて、みすぼらしいのかもしれないけど、私は大好きなんだ。この港…って日本語で言ってもわかんないよね? へへへっ」
そう言ってポリポリと頭をかいて見せるリン。ミリィはゆっくりと首を横に振って「It likes me too」と返します。
「えっと…ライクス、ミーだから…私も好きってこと? ホント? なんか嬉しいな、へへっ」
目を細め嬉しそうにニコッと笑ったリン。その笑顔につられ笑顔になるミリィ。
「It is easy to understand phosphorus because the feeling are straight(リンは気持ちがストレートだから、わかりやすい。だから私のことを考えてくれているのがよくわかる)」
「イージーでアンダースタンドだから…う~ん…ごめんねミリィ…もっとちゃんと英語勉強しとくんだったな~」
「It is OK even if it doesn’t understand a word and so on(大丈夫。言葉なんてわからなくても)」
首を横に振り、ニコッと笑って見せたミリィ。
「言葉がわからなくても大丈夫ってこと…かな? うん、そうだよね。私わかるよ。ミリィがすごくいい子だってことも、頑張り屋だってことも、それにミリィが…ううん、今はダメだね。そんな顔しちゃ…へへっ」
つい沈んでしまいそうになった表情を笑顔に戻すリン。
「リン? The one with such a smiling face which forms why for a stranger?(どうして他人のためにそんな笑顔ができるの?)」
そんなリンと向かい合い、真剣な眼差しでリンを見つめたミリィは、一語一句、ゆっくりとそう話しました。
「スマイリング フェイス…どうして笑顔かって…スマイル リーズンってこと?」
尋ねたリンにうなずいて見せるミリィ。
「どうしてだろ…そんなの考えたことないな…気がついたら私って、いつも笑顔になってるみたいだし…きっと笑顔…スマイルには、ノー リーズンなんだと思う。スマイル イズ ハッピーだよ。ダーク フェイスだと暗い気持ち…ダーク ムード? センセーションかな? になっちゃうでしょ? でもスマイルだとね、それだけでハッピーなセンセーションになれると思うの。でね、私がスマイルでいれば、エブリバディもスマイルになってくれる。ハッピーになってくれる。私もね、ミリィに比べたら全然たいしたことじゃないのかもしれないけど、とってもアンハッピネスなことがあってね、それはきっと、どんなに努力…エンデバーかな? してもアンリーズナブルなことで…だけど私は、スマイルでいる。大好きな人に言われたんだ。私のスマイル、元気…エナジーは、みんなをエナジーにするって、それが私のいいところだって。だから私は、いつでも、どんなときでも笑顔でいようって思う。だって私には、それしかないから…って何言ってるかわかんないよね? はははっ…私もわかんないもん」
大きく首を横に振ったミリィは、無意識に表情を沈ませてしまっていたリンを見つめ、「smile is happy」と言ってニコッと笑って見せます。
「そっか、スマイル イズ ハッピーだもんね。アイム ソーリー ミリィ。サンキュウ ベリー マッチだね。えへっ」
「You are welcome」
お互い最高の笑顔を見せたいと作ってみた笑顔が、なんだか痛々しくて…。水平線の向こうを見つめ、ボソッと呟いたミリィ。
「それってフランス語…だよね? でも私なんとなくわかるよ…」
同じく水平線の向こうを見つめたリンは、繋いでいるミリィの手をギュッと握ったんです。伝えたい自分の想いを込めて…。
その日の夜、同じ食卓を囲む鳴海と静流、リンにミリィ。ちなみに武敏(リンの父親)は、カタブツなうえ、人付き合いが苦手なタイプで、外人と話すなんてもってのほかとダイニングで一人、手酌でチビチビと焼酎を飲んでいます。仕事で夜中や朝方に出て行かなければならず、早く寝てしまうため、本編にはあまり登場してこなかったりします。
初めて目にする和食に大喜びのミリィ。折角だからと意地になって使い続けた箸に悪戦苦闘、好奇心で口にしたワサビの辛さに驚き、目を白黒。食後は四人でテレビを見たり、トランプをしたり、鳴海の写真集を見て、鳴海が有名な写真家だと知ったミリィの鳴海を見る目が、ちょっとだけ羨望の眼差しになったりで。
一緒の布団で寝たリンとミリィ。そんな二人に、朝方、日が昇らないうちに叩き起こされた鳴海。家を出た三人が向かったのは、そう、あの渓谷です。
渓谷で日の出を見た三人は家に戻り、いつものようにピクニックの準備を済ませたリンの案内で島中を見て回るミリィ。
どれもこれもが美しい島の風景たちに瞳を輝かせるミリィ。鳴海はそんなミリィにカメラをむけ、真剣な表情でファインダーを覗き、シャッターを切り続けていました。
どんな一瞬も逃すワケにはいかない。リンの想いが紡いだミリィの笑顔。時折見せるとびっきりの笑顔、最高の笑顔を最高のカタチで残したい。この先どんなに辛いことがあったとしてもカタチとして残ったそれは、今この瞬間の笑顔をきっと思い出させてくれる。それが写真家である鳴海が、リンのために、ミリィのためにできる唯一のことだったから。
午後、用事があると本土へ向かう連絡船に乗り込んだ鳴海を見送ったリンとミリィ。リンは人差し指を口に当て「シークレット プレイス」とミリィに話し、鳴海にも内緒にしているのだというある場所にミリィを案内します。
「今日は多分ここだと思うんだ。あの子、驚かせちゃうから、そっとね」
深い森の中、そう言って人差し指を口に当て、そっと歩き出したリンの後について静かに歩くミリィ。
「ミリィ、見て。えっと、ルック…かな。あの子なんだ。ミリィに見せたかったの…」
視界を覆う茂った木の枝をそっと持ち上げて、できた隙間を覗き込んでそう言ったリンと顔を並べ、同じく覗き込んだミリィ。
チョロチョロと流れる小さなせせらぎ沿いの、所々コケの生えた黒光りした岩場。そこで数匹の狸と、なんだか楽しそうにじゃれあっているキツネ色のまだら模様の小さな子猫。
「この島にはね、猫って一匹もいないの…ディス アイランド イズ ノー キャット。ザット キャット イズ オンリー キャット イン ディス アイランド…う~ん…わかんないよね、ごめんね…アンダースタンド?」
「yes alright リン」
「…あの子ね、多分、連絡船に間違って入り込んじゃって…海岸を歩いてるあの子を見つけて、きっと本土にいるハズのパパとママのところへ帰してあげようって思ったんだけど、逃げられちゃって…あの子を助けてあげたくって、毎日、暇をみつけては島中を探し歩いて、やっと見つけたあの子にね、私は何もしてあげられなかった。あの子はね、私なんかの力を借りなくても、ここに自分の居場所を見つけて、たった一匹で、他に仲間がいなくても、たくましく生きてて…パパとママのところに戻れれば幸せなのかもしれないけど、じゃあ今のあの子は、幸せじゃないのかなって。親の力を借りずに、あんな小さな体で必死に頑張って生きてる今のあの子の生活を奪うことって、あの子にとってどうなのかなって、考えても答えがでなくて、結局、私には何もできないまま、こうやって見ていることしかできなくって…」
「リン…Thanking you. One I too live strongly(ありがとう。私も一人でも強く生きていくから…)」
「一人でも…強く生きていくってこと? 違うっ! 違うの」
今にも泣き出しそうな顔で大きく首を横に振ったリン。
「私が言いたかったのは、そんなことじゃなくて…ミリィがね、あの子…ザット キャットと同じ…セイムだって思った。だから…ごめんね…ソーリー…ミリィ…私、あの子と同じでね、あなたに何もしてあげられない…ナッシング メイ ビーかもしれない…ごめんね…ごめん…」
「リン? Smile is happy」
ポロポロと涙を流してうつむくリンの顔を覗き込み、そう言ったミリィがニコッと笑って見せます。
「You let me know an important thing. I am weaker than that cat. When you are not It thinks that it was crying for a long time(リンは、大切なことを教えてくれた。私は、あの猫よりも弱い。リンがいなかったら、ずっと泣いていたと思う。リンのおかげで、私は何があっても笑っていられる)」
「ミリィ…ごめんね…全部はわかんないけど…でも、所々はわかるよ。ありがとう…サンキュー、ミリィ」
「No. It is this that says thanks(いいえ、お礼を言うのはこちらです)」
「うん、えへっ。スマイル イズ ハッピーだよね?」
「yes smile is happy」
そう言い合い、なんだか嬉しそうに微笑みあった二人。その日の夜、別れを惜しむように寄り添い、ギュッと手を握り合ったまま眠りについたリンとミリィ。
翌日、港にやってきた海上保安庁の救助艇、そこから降り、待っていたスーツ姿の男性が二人。一歩引き、見守る鳴海と静流。立ち止まり、顔を向かい合わせたリンとミリィ。繋いでいたリンの手をギュッと握り、ニコッと笑い、そっとうなずいたミリィは、パッとリンの手を離し、二人の男性のもとへ歩いていきます。
そんなミリィを呼び止め、駆け寄った鳴海が、ズッシリとして厚みのある封筒を一つ、ミリィに手渡します。
「ミリィ、This is a present from me and the RIN. It comes to Japan if there is something, it calls on the bottom of me and it spares it below. In always the power(これは、私とリンからのプレゼントです。何かあったら、日本に来て、私のもとを訪ねて下さい。必ず力になります)」
そう言った鳴海に、封筒を胸に抱き、うなずいて見せたミリィ。
「ア リ ガ ト リン、ナルミ、シズル。Good bye」
満面の笑みで大きく手を振るミリィ。鳴海たちへ向け、深々と頭を下げた二人の男性にそっと背中を押され、ミリィは船へと乗り込んでいきました。
動き出した船を立ち尽くし、ただ黙って見つめる鳴海、静流、リン。自分たちは、もうミリィのために何もしてあげられないんだって、どうすることもできないんだって、その事実を受け止めるしかないもどかしさが三人の心を締め付けて…。
あっという間に見えなくなった船、それでも船の消えていった水平線の向こうを見つめ、黙ったまま動けずにいた三人。今にも泣き出しそうな顔をしていたリンの頭にポンと手を置いた鳴海は、優しく微笑み、重い口を開きます。
「リン…よくやったな。ミリィ、最後までずっと笑顔だった。何一つ曇りの無い、最高の笑顔だったよ。リンがいたから…そうだろ? あの子のために俺たちはもう何もできないのかもしれない。でも大丈夫。あの子は忘れないよ。あの子の心の中で、ずっと力になってあげられる。リンがミリィの心に残したものは、きっとそういうものだって俺は思うから…」
「ユウさん…ホントに私ミリィの力になれたのかな…あのね、ミリィ、事故の記憶が無いって言ってたでしょ? あれ嘘だと思うんだ。多分、私たちを心配させたくなかったから、そんなこと言ったんだよ。ミリィはね、とっても強い子なの。きっと嵐の中で自分の祖父母が乗ってるかもしれない船が海に沈んでいくところも、周りでたくさんの人が死んでいったことも、いつ死ぬかもしれない恐怖に怯えながら必死に救命ボートにしがみついていたことも、きっと全部覚えていて…ミリィね、初めは何度も何度も泣いたの。壊れちゃいそうなくらいブルブル震えて何度も…私ね、何度も何度も抱きしめてあげた。それしかしてあげられなくて…それでもミリィは笑ったんだよ。あの子は強いの。だから私なんかがいなくても大丈夫だったんじゃないかって…」
そっと首を横に振り、リンの頭を優しく撫でた鳴海。目尻に涙を溜め、不安そうに鳴海を見上げたリンに、鳴海は微笑み、うなずいて見せました。
「ねえユウさん? さっきミリィになんて言ったの?」
そう尋ねたリンに「内緒」と言って恥ずかしそうに笑った鳴海。
「ふ~ん…ま、いっか。なんとなくわかるし~。へへっ、やっぱりユウさんはユウさんだよね」
「ん? それってどういう意味だ? リン」
「どういう意味って、そういう意味だよっ。へへ~ん、仕返し。ユウさん、そんなこと私にも言ったじゃん」
「そんなこと言ったっけか?」
「うん。あ~あ~…ユウさんって明日帰っちゃうんだったよね?」
「ああ。なんか慌しかったからな。あっという間で…そういえば俺、仕事してないな。まいったな~」
「へへっ、大丈夫っ。私が手伝ってあげる。新しい場所、いっぱい見つけてあるんだから」
「ホントか? リン」
「うん。任せといて。なんたって私はユウさんの助手、第一号だもんね」
「ああ。毎度毎度、優秀な助手がいて助かるよ」
鼻高々でなんだか誇らしげな表情のリン。そんな二人のやり取りを見て自然と笑みをこぼしていた静流の「行きましょうか」という声にうなずき、歩き出した鳴海とリン。
「リン、なってるといいな。プラスマイナスゼロ」
港を離れ、坂を上りかけたとき、ふと足を止め、振り返って水平線の向こうを眺めたリン。同じく足を止め、そう声をかけた鳴海にリンは「うんっ!」と大きくうなずきニコッと笑って見せました。
ホテルの一室。ベッドに腰を下ろしたミリィは、これからの不安に苛まれ、重く視線を落とし、膝で両拳をかたく握り締めて…。
ふと視界に入った鳴海からもらった封筒を手に取ったミリィは、丁寧に封を開け、中をのぞきます。
中には、ミリィの笑顔や島の風景を写したたくさんの写真と、たくさんのお金、それに小さなメモ書きが入っていました。
メモ書きには、このお金は自由に使ってください。もしなにかあれば日本までの旅費に…という英語の一文と鳴海の携帯番号が書かれていました。
「ナルミ…」
『私は一人じゃない!』そう心に想い、立ち上がったミリィは、ベッドに広げた写真に写る自分の笑顔にチラリと視線を向け、笑顔を作ってみました。
「リン…smile is happy」
この後、フランスに戻ったミリィが日本語の勉強をして、数年後、お金を返すために日本の鳴海のもとを訪れることになったりするんですが、それはまた次の機会ということ…かな。
その日の夜、昼間、写真を撮るため鳴海と島中を歩きまわったため疲れたのでしょう、夕食が終わってテレビを見ながらくつろいでいるとき、ウトウトとしだしたリン。
「リン、寝てもいいんだよ? 今回は朝一の連絡船ってわけじゃないから昼間ゆっくりだし」
「そっか…ふぁ~…うん、じゃあ私、寝るね…おやすみなさい、ユウさん」
「ああ、おやすみ」
居間を出ていったリン。それを見計らったように立ち上がった鳴海は、台所へ向かい、ダイニングテーブルの椅子に腰掛け、一人でお酒を飲んでいた武敏の正面の椅子を引き、腰を下ろします。
「武敏さん、たまには一緒に飲みませんか?」
そう声をかけた鳴海の前に無言でトンとコップを置き、一升瓶を持って傾ける、なんだか不器用な武敏。
「じゃあ、いただきます」
コップを持って差し出した鳴海。お酒を注ぐ武敏の表情は、いつもどうりの少し不機嫌そうな仏頂面ですが、目がなんだか嬉しそうです。静流は洗い物をしながら武敏を見てクスクスと笑っています。
「私もおじゃましていいかしら」と、洗い物を済ませた静流も加わり、三人で日本酒を酌み交わして…ずいぶんお酒も進み、時間もいつの間にか0時をまわっていました。
トイレに起きたリンが寝ぼけ眼をこすりながら廊下を歩いていると、居間のほうから明かりが漏れているのが見え、居間に入ると台所のほうから三人の声が聞こえます。
和気藹々というより、なんだか込み入った話をしているように聞こえ、中に入っていきづらくて壁に身を隠して立ち聞きしていたリン。
「これを見てもらえますか?」
二枚の写真を出してテーブルの上に並べた鳴海。どちらもミリィの笑顔を撮ったものです。
「見てもらえば分かると思いますが、これが俺の撮った写真で、これはリンがデジカメで撮ったものです。お二人には、どちらがいい写真に見えますか?」
難しい顔をしながら鳴海の撮った写真のほうが…と、目で訴える静流と武敏。
「そう…ですか。確かにデジカメで撮った写真は鮮明で綺麗で、でも誰が撮っても代わり映えのない同じような写真になってしまう。誰が撮っても綺麗なんだからという先入観からデジカメの写真ってあまりよく見えなかったりするんでしょうね。だから逆にフィルムの多少の不鮮明さが古き良きって感じになるんだろうし、プロの俺が撮ってるって頭があるから余計よく見えてしまうかもしれない。でも俺は、リンの撮ったこの写真って、すごくいいと思うんですよ。多分、俺の撮ったのなんかよりずっと。確かにプロの目で見れば写真の構成もいまひとつですし、明らかなシロウト写真です。ただリンの撮った写真のミリィは本物のミリィなんです。この島の、こういう環境で育ったためなんでしょう、あの子はすごく感性が豊かで、見たものをそのまま、ありのまま、自然に感じられるんです。だから写真のミリィも本当に自然で…俺の写真には、しょうがないんでしょうけど無意識にプロ根性みたいのが出ちゃうんでしょうね。実物よりもよく見せようとか、どこか飾った感じが写真に出てしまっていて…正直リンの写真を見たとき悔しかったんですよ。酒なんて飲みながらこんなこと言うのも…なんですが…」
リンの撮った写真を見つめ黙り込んでしまう鳴海。意を決し、顔を上げた鳴海は、真剣な目で静流と武敏を見つめ、その口を開きます。
「お願いがあります。俺に…俺にリンを預けてもらえないでしょうか?」
驚き、目を丸くする静流、武敏、それにリン。
「幸い、リンは写真家になるのが夢だと言ってくれてる。まあ俺の影響であって、どこまで本気かはわかりませんが、それでも、今それが夢だと言ってくれているなら、俺にはリンのためにしてあげられることがある。リンのためなら、どんなことでも力になってあげたい、俺に教えてあげられることは、すべて教えてあげたい。だから中学を卒業したら、俺の家から向こうの高校に通って、学校の無い日は俺の助手として写真家の仕事をしながら…どうせ高校に上がれば島を離れなければならないなら、いっそ、そうできればと…お二人がどれだけ大切にリンのことを育ててきたかは分かっているつもりです。だから赤の他人の俺が、大事な娘を奪っていくようなもので、許せないとお思いになるでしょうし、あくまで俺個人の意見で、リンの気持ちは聞いていません。もしリンが望んでくれるのなら、どうか俺にリンをあずけてくれませんか? お願いします!」
テーブルに額がつくほど深々と頭を下げる鳴海。
「…鳴海さんなら安心して任せられますし、私はいいと思いますけど…」
そう言った静流の声にかぶるように「駄目だ!」と少し強い口調で武敏が言います。
「鳴海さんがいい人だってこともわかってるし、信用もしてる。それでも、それだけは悪いが許せない」
腕組みをして難しい顔でそう言った武敏。そこで勢いよく乱入してきたリンがテーブルにドンと両手をつき「どうしてダメなの!」と武敏に食って掛かります。
「リン! お前…聞いてたのか?」
「うん…私、行きたいっ! ねえ、なんでダメなの? ねえっ!!」
驚き、尋ねた鳴海にうなずいて見せたリンは、武敏に向かって声を張り上げます。
「どうしても…だ」
三人が固唾を呑んで見つめる中、武敏の口からそれ以上は語られませんでした。
「どうして…なんでダメなの? 理由は? それじゃわかんないよ! お父さんのバカっ!! 大嫌いっっ!!」
すごい剣幕でそう言い、台所を飛び出していくリン。そんなリンを追いかけていく鳴海。自分の部屋に駆け込み、背中でドアを閉めたリンは、ドアに寄りかかります。
「リン…武敏さんにあんな言い方しちゃ…それに、まだ先の話だし、行くか行かないかゆっくり考えて答えを出しても…」
ドア越しでそう声を掛けた鳴海。
「私、行くもん! 絶対行くんだからっ! お父さんがダメだって言ったって関係ないもん。ねえ、いいよね? ユウさん」
「それはできないよ。わかるよな? リン…」
「うん…わかってる…でも…でもね、私…お父さん一度言い出したら絶対に聞かなくって…私、寂しいよ…もうユウさんと離れたくない…わがままだってわかってるけど…」
座り込み、膝に顔をうずめるリン。
「リン…俺もさ、同じ気持ちだから…武敏さんは俺が説得する。ただ考えてあげてほしい。赤の他人の俺なんかに大切に育てた一人娘が奪われるようなカタチで離れていってしまうことになる武敏さんと静流さんの気持ち…」
「うん…」
「それじゃ、おやすみ…リン」
「うん、おやすみ…ユウさん」
その場を後にした鳴海が台所に戻ると、武敏はいなくなっていて静流がテーブルの上の後片付けをしていました。
「あれ? 武敏さんは?」
椅子に腰掛け、そう尋ねた鳴海に、お茶を出し「もう寝ました」と返した静流は、鳴海の正面の椅子を引き、座りました。
「すみません静流さん…俺が余計なことを言い出したせいで…」
「いえ…私は賛成なんですよ。ただ武敏さんの気持ちもわかるんです。鳴海さん…これから話すこと、リンには内緒にしておいてほしいんです。いずれ話さなければとは思っているんですけど…実は私と武敏さんはカケオチしてるんです。私たち地元は関東のほうで…武敏さんって見た目がああじゃないですか。十代の頃は結構有名なワルって感じで、でも根はすごく真面目で優しくて何事にも一生懸命な人で…そんな武敏さんのこと好きになって交際することになったんです。でも私の両親が厳しい人で、武敏さんのうわさも聞いていましたから、私たちの交際を認めてくれなくて…私は結婚しようって言ってくれた武敏さんと家を飛び出して各地を転々としながらこの島に流れ着いて、この家の持ち主だった老夫婦にとてもよくしてもらって、本土で老後をというそのお二人にこの家と漁船を譲っていただいて…こんな話をするのは恥ずかしいですし、リンには親の勝手な都合で、こんな辺鄙な場所に閉じ込めることになってしまった負い目もあって、まだ話せていないんです。そんなワケで私と武敏さんは、親兄弟、親類関係とは絶縁状態になったままで、あの子には私たちしかいないんです。それに武敏さん、ここにたどり着くまで散々苦労しましたから、一人でこの島をでることになるリンのこと余計に心配なんだと思います…」
「そう…ですか…そんなことが…俺、こういうこと口で言うと薄っぺらく聞こえるのかましれませんが、リンのこと、お二人に負けないぐらい大切だと思っていますし、何があってもリンのこと守ってみせます。俺、リンのためにできること、とにかく何でもやってやりたい。今の俺があるのはリンのおかげですから…」
「大丈夫。武敏さん、きっとリンがいなくなるのが寂しいだけなんですよ。あの子は、いずれこの島を出て行くんでしょうし、こんなところに縛り付けて、あの子の可能性を潰すようなこと、したくないって武敏さんもわかってると思うんです。あの人、頑固で一度言い出したら…なんですけど、私が説得しますから。それでもダメだなんて言ったら私も鳴海さんのところに行っちゃおっかな~、ふふふっ。リンのことよろしくお願いしますね。鳴海さん」
「はい。ありがとうございます静流さん」
「いえいえ、お礼を言うのは、こちらのほうで…あの鳴海さん? 私、鳴海さんにお聞きしたいことがあって…きっとこれってお節介で、私なんかがどうこう言うことじゃなくって二人の問題なんでしょうけど、親バカなんでしょうね、どうしてもリンのことが心配で…鳴海さんは気づいていますか? リンの気持ちに」
「リンの気持ち…ですか。正直わからなかったんです。ただ慕ってくれているだけなんだと…でも違うんですよね?」
「ええ。リン、鳴海さんのこと男性として、恋愛の対象として見ているんです。私も女ですから、わかるんです。リンが恋をしてるのが。それにね、わかるんです。鳴海さんがリンのこと娘のようにしか見てないってことも…そうなんでしょう?」
「そう…ですね。リンのことは好きですよ。でもそれは異性としてではないんだと思います」
「やっぱり子供…ですもんね、リンは…母親の立場からすると、あの子の傷つく姿は見たくないし、幸せになってもらいたいって思うんです…でも…」
「俺、リンの気持ちに応えてあげたいって思う。けど、わからないんです。自分のリンに対する気持ちがどうなのか。本当に好きで、誰よりも大切だってそう思うけど、そこに恋愛感情が湧かないのは、多分、年齢なんでしょうね。俺はリンの父親みたいな歳で、どうしてもリンに対しては父親のような接し方になってしまうし、リンはまだ中学生で、これから高校に行って、もしかしたら同い年の奴を好きになるかもしれない。その時俺は、嫉妬どころか、その恋をリンと一緒に喜んで応援してやれると思う。俺の気持ちって、どこか曖昧で真剣ではないのかもしれない。そんな俺が、リンの真剣な気持ちを受け止めることなんてできませんよ。あの子に対していい加減なことはできませんから。だから今は少しだけ時間を下さい。あの子と、今よりももっと真剣に向かい合って、俺の中の答えを見つけますから。その結果、リンを傷つけることになるんだとしても、俺、精一杯リンを傷つけないよう努力しますから。すみません…こんな言い方しかできなくて…」
「いえ…私、ホント親バカですね。鳴海さんならリンを傷つけるようなことをするハズないってわかってたから、もしかしたらリンを恋人にしてあげてなんてお願いする気だったのかもしれません。バカですね~ホントに…そういうものじゃないですもんね、恋愛って…さってと、私そろそろ寝ますね。すみません遅くまで付き合ってもらっちゃって。それに余計なこと言ってしまって…」
そっと首を横に振って微笑んで見せた鳴海。
次の日、なんとなく気まずい雰囲気の三者三様、鳴海、静流、リンは会話もなんだかぎこちないまま午前中をダラダラと過ごし、午後、まだ連絡船の出航時間には早いけれど、ゆっくりと散歩でもしながら港へ向かおうということになり、静流が見送るなか家を出た鳴海とリン。
「まだきてないね…連絡船」
「ああ、そうだな…」
なんだか口数の少ない二人。船着場に着き、やっと交わした会話も、それだけで途切れてしまいます。
ただ黙って立ち尽くしたまま連絡船がやってくるだろう水平線を眺めていた二人。
「消えたね…指輪の痕…」
ぼそりと呟いたリン。
「ホントだな。全然気がつかなかった」
左手を眼前でかざし見てそう言った鳴海。
「ねえユウさん? まだ忘れられない?」
「う~ん、いや、時々思い出すことはあるけど…かな」
「そっか…私…私! その指に予約していい?」
「なっ!? お前、何言って…冗談だよな?」
それが冗談じゃないことは、すぐにわかって…真剣な表情で自分を真っ直ぐに見つめるリンを見て戸惑いを隠せなかった鳴海。そんな鳴海に気づき、瞳を曇らせるリン。
「冗談なんかじゃないよ。私、来年は十六歳なんだよ? もう結婚できる歳なんだよ? もう子供なんかじゃないよ…わかってる…ユウさんが私のこと子供としか見てないこと…ねえっ! どうすれば私のこと大人として、女として見てもらえるの? 好きなのっ! 私、ユウさんのこと大好きなのっ!! ダメなの? 私はなれないの? 私はユウさんの恋人にはなれない…の…かなぁ……」
ポロポロと涙を流すリン。鳴海を見つめるリンの瞳は一途で、一生懸命で、そしてあまりにも辛く悲しげで…そんなリンを見ていられず、鳴海は自分の胸にリンを引き寄せ、ギュッと抱きしめます。
「ユウ…さん?」
驚き、鳴海の顔を見上げたリン。いつもなら優しく微笑んでくれるハズの鳴海の表情は、なんだか硬く複雑なもので…。
元気で、素直で、思いやりがあって、可愛くて、本当に大好きで、こんなに自分のことを真剣に想ってくれていて、それにそう、つい抱きしめてしまうほど愛おしいのに、どうして…探しても探してもリンのために答えてあげられる明確な返答は見つからなくて…。
「ごめんな…リン…俺、お前のこと、こんなに愛おしいのに、わからないんだ…」
「ううんっ、私が悪いんだね…私がワガママな子供だからユウさんを困らせてるんだよね…」
「ちがう! リンは何も悪いことなんかないんだ。多分、悪いのは俺…なんだろうな」
ふと鳴海は左手の薬指に視線を向けます。
「ホントに気づかなかった…この二年間、こうやって改めて見たことなんて一度もなかったからな…実はさ、リン…俺、まだ指輪、捨てられずにいるんだ。最初のうちは正直いつか戻ってきてくれるんじゃないかなんて思ってた。けど、今は別に未練があるってワケでもないし、本当に時々思い出す程度の思い出ってやつなんだ。ただ消えてないんだろうな。指輪の痕は消えても、心の傷は残ってるんだと思う。リンに言われるまでこんなこと考えることなかったけど…そうだな…俺、怖いのかもしれない。リンが子供だから、俺が大人だから、歳のせいにして逃げてるだけなのかもしれない。また大切なものを失ってしまうかもしれない…本当にリンのことが好きで、大切だから…だから無意識に今の距離を保とうとしているのかもしれない。リンを失わずに済む今の親子みたいな関係をな」
「ユウさん…あ…きちゃった…連絡船…」
二人の視界に入る連絡線。そっとリンの体から離れた鳴海。別れを急かすようにどんどん近づいてくる連絡船を寄り添い寂しげに見つめる二人。
「ユウさん…私、バカだけど、わからない子じゃないよ? 私の気持ち、強要したりしないし、ダダもこねない、困らせたりなんかしない。だから私、待っててもいい?」
「リン…俺自身、今はどうしていいかわからない。その結果、傷つくことになっても、辛い思いをすることになっても? 俺がお爺さんになってしまっても?」
「平気っ! 全然平気だよ。平気だから…ねっ」
そう言ってニコッと笑ったリンのその笑顔が、あまりにも痛々しくて…。
接岸した連絡船に乗り込んでいく鳴海へ、ぎこちない笑顔で小さく手を振るリン。そんなリンを見て辛そうに視線を落とす鳴海…。
出航し離れていく連絡船、離れていく二人の距離…お互いが見えなくなるまで見つめ合い続けた二人。
見えなくなった連絡船、その場に立ち尽くすリン…。悲しいワケじゃない。でも全然嬉しいワケじゃない。自分でもどうしていいかわからないそんな気持ちを抱えたまま、リンは、ただ鳴海の姿を追い、連絡船が消えていった水平線の向こうを見つめ続けて…。
こうして過ぎ去った二人にとって三度目の夏…鳴海とリン、二人の物語は秋へと続いていきます。
つづく