ver0.01―『ああ、無情』
晴ればれとした青に白い雲がたゆたう空。風になびいて心地よい音を奏でる青い草々。自然による演劇と天然の演奏が組み合わさって歌劇となる姿は、人々が「草原」と聞いて思い浮かべるであろう光景をこれ以上ないほどに体現していた。
訪れた人々は目的地の途中だというのに身を投げ出し、草床で横になりたい衝動にかられること間違いないだろう。気配に敏感な獣でさえも木陰に横たわり小鳥は枝木で休むだろうと思い浮かべてしまうほどに、ここ〈手弱女原(タオヤメハラ)〉は一種の楽園――人為めいたものを感じてしまうくらいの――空間を見渡すかぎりに広げている。弱肉強食の摂理に縛られる動物達でさえ共に安心して目をつぶるという希有な場所だ。
そんな楽園で人間達がしていることは――――殺し合いだった。
「弓、構えぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
弓という武器は連射できるものではない。正しい作法に則れば、矢を取り出す、矢を弦に噛ませる、的を見る、弓を頭上に持ち上げる、弓手を的へ向ける、弦をひき絞りながら弓を肩の位置までを下ろす、狙いを定める、矢を放つ、矢が命中したのを確認する、弓を下ろす、残心の姿勢をする―――という幾多もの手順がある高度な技術だ。
実践的にいくつかを省略するとしても、このように矢羽が風を切る〈ひぅん〉という音が〈ひぅんひひひひぅん〉と間断なく傘を打つ雨音のように聞こえるなど有り得ないことである。
それが一人の手によるものではなく何十人もの弓兵によるものだとわかったとしても、なお目を見張ることだろう。
「第十隊、放てえええええええええええ」
何十人も並んだ弓兵の一斉総射。何十という矢の群れの飛翔は、壮観なんてものではない。水面の鴨が一斉に飛び立つのに比肩する躍動があった。
矢羽で鳴く細長い鳥は青空を目指そうとするも、鳥の翼を持たないがために山なりに落ちていく。文学的なたとえではあるが、それはとても悲劇のように思える。
無論、一番の悲劇は矢の落下位置にいた敵兵である。空から重力によって墜落する矢は直射するよりもはるかな威力を身に秘め、具足を貫き籠手を貫き鎧を貫き兜を貫き盾を貫く。防具など紙同然の破壊力によって至る所で悲鳴が上がる。矢の命中率が高いのは弓兵の腕がいいから、ではなくどこに射られても当たるくらい兵が一面にいるからだ。
「第五隊、武器構えぇぇぇぇぇ」
指揮官の声によって、板金鎧のがちゃつく音とともに前線の歩兵が槍を構えた。狙う先は同じく平原にて防御陣を敷く歩兵の一団。大量の矢雨で傷つきながらも健在な兵はまだ多いが、それでも曲射によって傷つき倒れた者もいて集団としての綻びは確かにあった。
「突撃ィィィィィィ!」
すぐに指揮官の声はのまれ、聞こえるのは歩兵の吶喊(とっかん)と剣戟のみとなった。
戦闘が繰り広げられているのはそこだけではない。剣や槍、斧や大鎚、弓や投石、さまざまな武器が打ちつけ合う音が、平原の至る所で繰り広げられている。
死闘を演じている味方も敵も両者ともにさまざまな外見―――甲冑、鎧、帷子と統一性がない格好だ。顔どころか体中が鈍色で覆われた甲冑騎士がいれば、鎧どころか兜もつけず槍一本で戦場を駆け抜ける猪武者もいる。馬のような生き物の上で馬乗槍(ランス)を掲げる騎士、青竜刀を腰に据えた歴戦然とした武将、水滴型兜(ノルマン・ヘルム)に円形盾の古代剣士、太刀(カタナ)で敵兵を紙のように斬り捨てる袴姿の侍―――平原で争いあう戦士達は時代も地域も特徴もバラバラな格好であり、もし彼らの装備から歴史的・民族学的見地をもって何かしらを割り出そうとする人間がいるとしたら、無謀というよりただの暇人だと断言できるくらいの無秩序さだ。
雑然とした見てくれのせいでか、彼ら戦士には組織的行動が見受けられるのに統一感に欠けていて、敵味方が入り乱れる戦場では敵味方が識別できるのかも怪しいものである。
ただ、敵と味方を区別するモノはあった。それは形ではなく色。どこもかしこも外見が違う兵士だらけではあるが、兜の羽飾りや鎧のふちなど、また防具をつけていない者は衣服や髪留めなどに二種類の色がほどこされていた。群青色と、緋色に。
緋色の兵を群青の兵が突きとばして剣で貫く。直後に数十メートル離れた場所から飛来した緋羽の矢に脳天を射られて倒れる。
そのような入り乱れた戦いが戦場のあちこちで起きているが、決まって群青は緋色に、緋色は群青に向かって攻撃をして反撃されている。兵士たちは群青と緋色の二派に別れていて、敵対しているようだ。
そして〈彼〉もまた、群青の兵士へ剣を向けていた。
巨漢としか表現しようのない全身を銀の甲冑―――板金鎧でくまなく固めた大漢。めんどりの尾羽のように板金兜から突き出た飾りの色は緋色。鎧のわずかな隙間も防面(アイシールド)で覆われ、それも緋色であり素顔を隠している。
その緋色は『無花果共和国』、通称「ハナナシ国」の兵士であることを示していた。
「うおおおおおおおおおぉぉぉぉぉ!」
千を軽く超える人間が入り乱れた戦場でも埋もれることのない存在感―――というより重量感の大漢。山の如しである大漢が、その身の丈ほどもある無骨な大剣を風の如く振り回した。一撃一撃が大樹すら薙ぎ倒せる威力を秘めながら、その全てに達人の冴えが秘められている。ここまでの剣域に達するにはどれほどの研磨とどれほどの流血があったのだろうか、その道程をうかがうことはできないが、彼に出会ってしまった兵士は行く先だけは知ることができる。その身をもって、だが。
銀色の刀身は餓狼のようだった。獲物へと襲いかかる直線的ながらも避ける方法が思いつきさえもしない獰猛な獣の突進は、瞬く間に二人の兵士を斬り飛ばす。哀れな兵士たちも鋼色の鎧に身を包まれていたというのに、刃は一秒も止まることなく易々と紙のように切り裂かれた。
叫び声すら上げられず袈裟・逆袈裟に斬られた二人の兵士の影から、さらに二人の兵士が飛び出す。焦茶色の皮鎧という防御よりも速度重視の装備をした二人の伏兵。二人もの人間を斬り飛ばした大漢の隙を好機と捉えたのだろうか。いや、それとも二人の兵士は囮として織り込み済みだったのか、伏兵はこれ以上ないタイミングで大漢に襲いかかった。
いくら全身を銀鎧で固めているとはいえ、持ち上げるだけで一苦労しそうな大剣を振り回した後だ。彼の動きは〈硬直〉してしまっていて、接近する伏兵に対しあまりにも無防備な瞬間だった。
伏兵の手にあるのは、戦場で用いるにはあまりにも短くて頼りなく見える刃物。だがそれには折れそうにない厚みがある。〈鎧通し〉と呼ばれる種類の短刀だ。強固な全身鎧だとしても間接の部分までそうはいかず、そこを狙われてしまえば単身城塞のような大漢でも崩れてしまうだろう。
暴風のように大剣を振り回している状態なら近づくことすらできないが、今この時、たった二本の短刀で単身の城塞が陥落しようとしていた。いくら体格が埒外といえども人間で、いくら武勇を誇ろうともここは戦場。戦乱の世に名をとどろかせる猛将が、名もなき一兵卒に討ちとられることなど珍しくもなかった。
かの兵の夢はここで果てるしかない。
そう、ここが――――――『現実(』ならば。
「――――――【門獲】」
筋肉と骨格と間接で組み立てられた人体は歯車以上に機械仕掛けだ。どうあがいても肌は刃を止められず、関節は逆には曲がらない。地面が抉られるほど渾身で叩きつけられた大剣は抜くことが出来ず、一度矢を放った弓はまた弦を引き絞らねばならないように、膨張した筋肉は収縮して次の動きに移るために一瞬なれども絶望的な刹那を要求する。
はずなのに。
木の幹ほどもある彼の二の腕は、膨れたまま次の動作に移った。即ち、己を討ちとろうとする雑兵二名の撃退。地面にバネでも仕込まれていたのかというほど不自然な動きで大剣は閃き、伏兵は飛び下がる間もなく――――それ以前に危機を感じることすらできずに、二名はあっさりと二閃のもとに斬り捨てられた。
「…………温いな」
一閃ではなく二閃。地面から跳ねあがって一閃、そこからまた宙に見えない弓でもあるかのように大剣は矢のごとく射出されて、計二閃。どちらも常人どころか人間には不可能だと考えるまでもない超人の動き。もしこれが達人のみが許される武芸の冴えだというのならば、達人とは武術とは、なんとも巫戯けた存在だろうか。
それを象徴するかのように微かに【発光】していた大剣を腰に戻した大漢は、たった今しがた人間を4人も斬ったのを忘れたかのような感慨の浅い声でつぶやいた。
「いくら〈|NPC(口無し)〉とはいえ、戦場(いくさば)であるのだからもう少し骨のある戦いが出来ぬものか」
鎧自身が口をきいているような重さを持つその声色は落胆だが、それは無茶というもの。人体構造どころか物理法則すらも無視した猛将の動きを一兵卒ごときが止められるわけもない。
「――――そうは思わんか、猪武者殿」
故に、その前に立ちはだかるのは同じく一騎当千をその身で体現する猛将である。
「………………それを言うなら戦場で口を利くほど無意味なことはない、です」
全身鎧の猛将の前に現れたのは、彼とは真反対の兵士だった。体格が大漢と比べ小さいのはともかくとして、肘当て・膝当て・胸当てといった最低限の防具しか身にまとわず、頭部に至っては兜も被らずに素顔をさらしている。その防具も皮製という剣を完全に防ぐことなど視野に入れていない軽装備だ。あちら こちらにて斬り結んでいる剣が飛び交っている矢がいつ自身の命を奪うかもしれない戦場において、この軽装備などあってなしがごときである。
しかし猪武者の場合においてのみ意味が変わる。あってなしがごときとは、装備が防具の役目を果たせないほど貧弱だからではない。猪武者の防具には創穴どころか刃傷一つなく、防具が必要だとは思えないという意味にすりかわる。
見かけとは裏腹に、どう見ても雑兵とは思えない猛者であった。
「戦場で交わすべきは言葉ではなく武器。結ぶべきは手ではなく剣閃。異論はありませんよね?」
交差した二つの剣が群青色の星を貫いている紋章。それが背中に刺繍されている猪武者は髪留めも群青色。群青と〈星連剣〉の紋章から『軍国アスター』――通称「星花軍国」の兵士、それもかなり位が高い戦士であると判断できる。
若い声色とは反対な沈着した猪武者の態度に気を悪くした風どころか、それでこそもののふなり、と大漢は満足したような声を鎧の中から発した。
「否やなし」
「ならば―――――」
猪武者は自分の得物である身の丈より明らかに長い槍を軽々と一払いする。まるで箒で払うかのような軽い所作だが、穂先が風を切る音は重々しい。そして猪武者が続ける言葉のなんと物々しいことか。
「―――――ボクの経験値になれ!」
己が言に従い、開戦の合図などと悠長な物は無粋だとばかりに猪武者は敵に向かい疾駆する。
猪武者の得物である十字槍―――鋭い刃が取り付けられた穂先の両脇からさらに刃が突き出ている――〈李下不正冠〉は鴇色(ローズピンク)で拵えられた長い柄を持つ。そこに幾つもの数学記号が知恵の輪のように組み合わさった看板印が刻まれているのは鍛冶製・屋号(ブランド)〝%(パーセント)〟の手による武器だという証しだ。
英雄譚(おとぎばなし)の敵に立ち向かう勇敢な戦士が手に持つのは決まって剣ではあり槍であることはめったにない。が、それは槍が戦力的価値観に照らし合わせて剣に劣っているということでは決してない。「剣道三倍段」などという古い言葉を持ち出すまでもなく、攻撃範囲が相手より長いというのはそれだけで相手を打倒する勝因になりうるのだ。
それが猛者の手の内にあるのならば、戦場で無双を誇るのは道理である。
「――――――――ッ!」
急停止の直後、声にならない気迫と共に突き出される十字槍の威力はまさに無双。剣よりも〈突く〉ことに長けている武器ならではの〈点〉の攻撃は、振りかぶる動作もない上に標的までの最短距離を直線で進む。それゆえに最速。ただ単に大剣の届かない距離からの何の工夫もない刺突が、その速度だけで必殺の域に達している。
〈双つも無い〉という評価通り、これほどの速度には空飛ぶ矢ですらも届かないだろう。相対すれば弓矢で射落とされた飛ぶ鳥のように、訳がわからぬまま斬り伏せられるのは至極当然。
だからこそ、この結果は当たり前とすら言える。
この大漢が鳥のような軽い存在なわけがない。
「見事………!」
緋色の防面(アイシールド)に向けられた刺突を、軽口を叩けるくらいこともなげに大剣の一撃で叩き落とした。だけに終わらず、返す刀で猪武者を斬り上げようとまでする。
必殺の一撃をしのがれたことに驚愕はないのか、少なくとも表面上は精悍な表情を崩さない猪武者は怖気を誘う大剣の擦過音(ノイズ)を耳元で聞きながらも、逆にふところに潜り込み攻撃を加えようとする。
無双の技をいともたやすく破った大漢は、猪武者の技量を遥かに超える――――わけではない。ただ単に、先の一撃が拙かっただけである。
十字槍の顔面への刺突は最速であり最短であり、なおかつ相手の攻撃である大剣の届かない距離からの一撃という、必勝法のお手本のようなものだった。だが、お手本すぎたのだ。大剣の届かないぎりぎりの距離で止まってしまえば、あとはもう最短で唯一届く刺突しか猪武者の攻撃は有り得ない。手合いを読まれてしまったのだ。
それでも雑兵(NPC)どころか生半可な兵士ならば顔に大穴が空けられていただろう。されど、どんなに速かろうが対策を練られてしまうのは同程度の力量の戦士ならば当たり前のこと。
無論、その程度のことは猪武者も、勿論だが受けた大漢も承知の上だ。だから今のはいわゆる小手調べ。世界最速の走者でも必要な助走、どんな名奏者でも必要な音合わせ。
だから、これが猪武者の児戯のない本気である。
「――――――シッ!」
繰り出されるは指折り数えるのが間にあわないほどの必殺。斬・突・叩・抉・斬・突・払、と息をつく間もない攻撃に次ぐ攻撃。華々しい口上も雄々しい叫びも必要ない、全てが必殺。
十字の刃先をうまく使って斬撃を浴びせようとするだけではなく、槍の胴でしたたかに打ち付けるという打撃技をも織り込んでくるのは見事としか言えないであろう。現にあれほど大剣に技の冴えを見せた大漢ですら人達も浴びせられずにひらひらとかわされ、防戦一方である。そしてその防御は崩され始める。
「そこぉっ!」
「ぬっ!?」
首筋を狙いながらも避けられた刺突が勢いあまって兜を削る。火花を散らしたのは防具で威力が5割以上削られたことを意味している。そして首脇を通り過ぎた槍が手前に引き戻された際、板金と首筋をえぐって漏れた『痛みの火』は攻撃が直撃したことを意味していた。
「ぐぬっ!」
いくら大漢が戦闘に長けた戦士であっても見えない所からの一撃は避けきれなかった。否、ここは見えない所からであっても一撃を加え、致命傷を与えた猪武者を称えるべきであろう。しかしその賛辞はすぐに撤回されるだろうが。
「――――――ぬんっッッ!」
十字槍が己の首元を往復している間に大漢が何もしていなかったわけがない。小技の応酬に焦れた大漢はその身の丈もある大剣を振りあげて――――振り下ろした。
破砕。
その一言に尽きるだろう。大剣が振り下ろされる音も中々のものだったが、地面に叩きつけた音に比べると生易しすぎる。まるでこの世界には存在しない爆薬が炸裂したかのような音が、ただの人間によって作り出された。まき散らされたのは音だけではない。青草、土、そして衝撃波。
衝撃派はどういう原理も何もないが、うちつけた大剣と地面を中心として黄褐色(トパーズ)の風のように吹き荒れた。風というにはあまりにも凶悪に、周りで背景となって戦っていた雑兵達を敵味方問わず吹き飛ばす。
「―――――【轟涙斬(ゴウルイザン)】」
無論、最も近かった―――斬り結んでいた猪武者も巻き込まれた。大剣の一撃をかろうじてかわすことは出来たものの、黄褐色の風になぶられ木の葉のように吹っ飛ばされる。が、猪武者も然る者。十字槍を地面に突き刺し一筋の傷をつけることで勢いを殺すことに成功していた。
図らずとも出来た半径10メートルの闘技場に立っているのは二人だけ。
猪武者は地面から刃先を抜き、大漢は大剣を構えなおす。仕切り直しの前に、剣を交える前に口を交わすのが流儀だとばかりに大漢は口を――覆面兜(フルフェイス)をかぶっているので見えないが――開いた。
「流石、と評価させてもらおうか。この〝若い世界〟で早くも轟かせる名に負けぬ猪武者よ。その齢でよくぞ、そこまで鍛え上げたものだ」
「…………その言葉遣い〈成りきり遊び(RPG)〉ですか? 似合いすぎですよ」
「はっはっはっ、折角このような切った張ったの『世界観』なのだ。雰囲気作りも一興ではないか。それとも戯れはお嫌いかね?」
つい数秒前に致命傷を受けたにもかかわらず、それも致命傷をつくった相手と対峙しているというのに、悠々と大漢は饒舌である。それもそのはず、切り裂かれたはずの首筋には傷跡など既になかった。それどころか斬り裂いたはずの首元の板金には引っかき傷すら銀の表面に浮かんでいないのだ。
怪奇な現象――だというのに当人である大漢は当然として、猪武者までもが気にしていない。
―――――それはこの『世界』では至極当然だからだ。
『世界』の物理法則として装備品を破損させようと思えば〈状態値(コンディション)〉をゼロになるまで消耗させるしかなく、大漢に目に見える傷を負わせたくば四肢を斬り飛ばし《損失》状態にするか仮想体力値―――いわゆるHPをゼロにするかのどちらかしかないのだ。
もっともその仮想体力値も全身鎧のせいでほとんど削れていなくて、その削った分ですら【自動手当】で徐々に埋められていくだろう。
生半可な攻撃では傷もつけられず、傷ついても回復する。まさに生きた城壁だ。ハナナシ共和国一とすら言われる武芸者の名にふさわしい。
「……………」
そして槍という得物ではこの兵士を討つのは難しい、というのも猪武者は感じているだろう。槍というのは斬・突・打の三種類の手段を持つ優秀な武器だが、多彩な手段を持つ道具の宿命としてどうしても特化したモノに劣ってしまう。叩き〈斬る〉なら大剣に、〈打つ〉なら棍棒に劣る。要するに、槍による斬撃と打撃では全身鎧の中身にダメージを与えきれないのだ。
首筋を抉(えぐ)った先程のような芸当が何度も成功するはずもなく、攻撃手段は〈突き〉だけになる。〈突き〉というのは手前から奥にという最短の攻撃手段ではあるが、だからこそ読まれやすいのは先に実演した通り。
それだけではない。大漢にとって先のような鎧の防御力が薄い部分と急所への攻撃以外は無視してしまって構わないのだ。十字槍を振り回すことによる打撃も穂先による斬撃も、全身鎧の前では決定打にはならない。
むしろその隙に【轟涙斬】の時のようにカウンターで攻撃を当てればそれで終わりだ。大漢と違って猪武者はその細い体を金属鎧どころか最低限の防具でしか身を包んでおらず、渾身の一撃でなくても急所に当ててしまえば一撃で討ち倒せてしまう。
防戦など必要がない大漢を猪武者が滅多打ちに出来ていたのは彼が戦闘を楽しんでいた、その一言に尽きる。
舐められていた、とも言える。
その事実に対し猪突猛進の武者は、
「―――だからこそ、討ち甲斐があります」
強敵どころか天敵とすら言える城壁の戦士に対して、言ってのけた。
「壁なんてものは高ければ高いほど、硬ければ硬いほど、難ければ難いほど、壊し甲斐があるというものです。世界が自分より大きいのなんて当たり前で、いつまでたっても強くなった気がしない。だからボクは戦う」
「………………」
「戯れ? アナタは遊んでいればいい。ボクはその間にアナタを越える」
不利、無謀、だからどうしたそんなものいつものことだ、と猪武者は吠える。それは曲がりなりにも戦いの最中で、これから殺し合おうとする相手に向けるには挑発になれどもふさわしくない宣誓で――――大漢は大剣を目の前に掲げた。
「………………その心意気や、天晴れ」
剣身で顔を隠すような構えは、野良試合の終わりなどで見かける共和国流の敬意を払う儀礼。周りでは変わらず泥臭く兵士たちが入り乱れているというのに、戦場のど真ん中でやるにはあまりにも相応しくない動作。
それを見て、猪武者も十字槍の柄頭を地面に叩きつけ刃先を天へ向けた。
「『無花果共和国盟軍』〈先鋒隊隊長〉〝壁男〟ニュードー」
「『軍国アスター国有軍』〈遊撃隊副隊長〉〝称号なし〟ツァンリャオ」
「いざ尋常に――――――」
「――――――勝負!」
地面を先に蹴ったのは、どちらかだったかわからない。それぐらい息が合っていると言えるほど、同時だった。
ただ言えるのは城壁の兵士らしくないということ。大漢の戦法はまさしく壁のように構えて相手の攻撃をしのぎ、出来た隙に強烈な一撃を加えるという典型的な防御型だ。
いつもならば後退も前進もしない大漢が攻勢に打って出たのは、猪武者の熱気に当てられたのか。しかし、それは城壁がもろくなったことを意味しない。
生半可な攻撃では止まりもしない壁が迫ってくるのが脅威ではなくてなんであろうか。矢が当たろうが弾かれ剣を向ければ大剣で潰される難攻不落。ここは通さぬ、と前進する絶壁が襲いかかる。
これを前にすれば槍など針に等しい。全身鎧で身を文字通り包む大漢に隙などなく、先のような斬撃などでは牽制にもなりはしない。勝機があるとすれば槍の本領である、渾身の正面突き。これ以外に全身鎧を貫くことなど出来ないだろうが、そんなことは大漢も承知であり、そんな隙など見せない。
針では壁を壊せない。だから投げ捨てた。大漢に向かって。
「ぬぅっ!?」
投擲槍のように打ち出された十字槍に大漢は不意を突かれる。彼の得意な迎え撃つ戦法でなかったからか。槍はまるで破城鎚のような勢いで大漢を鎧ごと貫いた。
刺突が効かないのなら投擲。あまりに思い切った【槍投擲(アームスロー)】だったが、板金鎧と大漢の肩を貫いただけ。意表を突かれたにもかかわらず反応した大漢はとっさに身をよじって胸部にあたる射線から体をずらしたのだ。十字の刃は刺さり肩を貫通したが、それだけ。これは鉄壁。飾りが少々増えた程度で瓦解などしない。
「温いわっ――――――!」
針が刺さろうとも壁は崩れず勢いも殺がれない。肩甲骨の下あたりに生えたままの槍を抜く暇をも惜しんで迫る鉄壁に対し、猪武者は唯一の武器を手放してしまい素手で対処するしかなくない。
無謀――――ではあるが、そんなこと猪武者は百も承知であり、ハナからそうである。数秒後には自分を轢き殺さんばかりに突進してくる、見上げるほど大きな巨壁をうつす瞳には恐れも怯えも一切浮かんでいなかった。
だが、それはむしろ猪武者の命を削る理由となる。無手の人間に対してどうしても感じてしまう油断を大漢から奪った。あの瞳は自分の不手際に絶望した目でも、負けを認めた目でもない。戦いの挑む武(もののふ)の眼光だ。
武器をなくせども、未だに戦士。このはしっこい猪武者は大振りの一撃を一か八か避けて反撃をするつもりなのだろう。
ゆえに手加減など一欠片もない、必殺どころか必壊の暴力が振り上げられた。
後ろに下がろうが横に逃げようが前に出ようが等しく巨大な鉄塊が襲いかかる。どうあがいても猪武者の運命はきまっていて、大漢の勝利は約束されていた。
だから、猪武者が前に出てこようと巨壁は微塵も揺らがなかった。小柄ゆえの瞬発力でふところに潜り込まれたのと肩から生えた槍のせいで、やや剣を振り下ろしにくいが問題ない。重量級で両手重剣(ダンベルソード)と呼ばれるこの〈貝砕き〉は何の特徴も装飾もない〈銘無し〉ではあるが切れ味はなかなかであるし、そも速度で斬るのではなく筋力で潰し斬るのがこの手の武器の使い道だ。
大漢からしてみれば華奢な若者が、たとえ槍を持っていた時でも己の力に互するとは思えず、今となっては素手である。
油断ではなく冷静な観察で――――大剣が振りおろされた。
振り下ろされ、無残に斬り潰す。
「ぐ――――ギッ」
漏れた音は苦悶。異性に歌でも聞かせればそれだけで腰砕けそうな猪武者の声が、苦しげに歪む。だが、それだけだ。大剣で肉裂き骨断つ音など、全く聞こえない。
その代わりに聞こえたのは大剣が何かを捉えた金属音と猪武者の唸り声。そして―――大漢の悲鳴である。
「ぐがあああぁぁぁあああああああァァッ!?」
意味がわからないだろう。殺そうとしていたのが大漢で、殺されるのが猪武者だ。それは定まっていた。なのに何故己はこんな悲鳴を、痛みを発しているのか。そんな驚愕と疑問が大漢を駆け廻っただろう。
傍目からなら一目瞭然の問い。
大漢は猪武者を斬れなかった。では何を捉えたのか。
捉えたのは金属。〈石突き〉という金属部位。もっというならば槍の柄頭。現在進行形で大漢を貫いている槍の刃に比類する堅い箇所。
ふところに潜り込んだ猪武者は、大漢の肩から〈半分くらい生えた〉十字槍の末端部分で大剣を受け止めたのだ。
槍は斬・突・打の三種類の手段を持つ。そして〈突〉はさらに二種類に別れる。先端の刃による〈刺突〉と末端の石突きによる〈打突〉だ。むしろ他二つがおまけであり、最短距離による速い刺突をかわされれば槍を回し遠心力を加えての力強い打突というのが槍の真骨頂。
先の応酬で石突きによる打突を見せなかったのは、堅牢な鎧にはあまり効果が出ないというのと、日中の星光よりもか細い起死回生の手立てを隠すためだった。
土壇場とはいえそれが功を奏したのは、猪武者の智略による勝ちと言っていいだろう。
そして武力の方は、互角だった。
「ぐぅ……………!」
猪武者は槍を両手で押し上げてはいるが未だに頭上からの圧力は衰えない。猪武者の胴ほどもある剛腕による圧力を細腕で抑えられているのは、これが純粋な力比べになっていないからだ。まともにやり合えば槍だろが盾だろうと圧し潰される。だが、他の道具を使えばその限りではない。たとえば、梃子(てこ)。
「ぬぅあ………!」
大漢が体内の異物感と痛みにうめく。突き刺さったままだった槍を思いっきり己で叩いてしまえば、反作用で己が肉をえぐってしまうのは梃子の原理を引き合いに出すまでもない。石突を押し切ろうとすれば、穂先で己の肉をえぐられ痛みを伴うストッパーとなってしまう。大剣は猪武者と大漢自身で止められてしまっていたのだ。
まさか敵から生えた武器で防御するなど誰が想像つくのか、などは言い訳だろう。人と人が知識と閃きと死力で殺し合う戦場とは、そういった出来事がよく起こるもので、嘆くべきは己の未熟さ、これのみである。
責めるべきは己が肉を削ってでも敵の骨を断てなかった自分の未熟さだ。
「ぐ、がああああぁぁぁ!」
自分の肩の内側を異物感と痛みが暴れる。だが《痛覚緩和》によって減衰していく痛みは覚悟していれば我慢できないほどではない。このまま叩き潰せる…………!
腹を決めてしまえば、もう単純な力比べだ。巨漢とその半分の背丈もない猪武者のせめぎ合いがいつまでも続くわけがない。覚悟を決めていたのは大漢だけではなった。「んがっ!?」大漢の視界が激しく揺れる。猪武者が槍から離した右手による掌底を兜ヅラに見舞ったのだ。手の平から出たとは思えない重低音と葡萄色の衝撃波。スキル【徹し(トオシ)】だ。装備の防御値を無視して衝撃を内面に貫通できる中位格闘スキル。板金兜を貫通して頭どころか脳を揺さぶられた。
一瞬、猪武者の姿を見失う。不意の衝撃だけではなく、低確立で発生する混乱状態(スタン)という目まいに似た症状のせいだ。まずい。迂闊にも大剣から力が抜けた瞬時に胸の異物感が消えたのを大漢は感じた。十字槍が引き抜かれ、猪武者がなくした牙を取り戻したのだ。
無手の人間を手易くひねろうとしていた大漢が、窮鼠というにはあまりに獰猛な戦士に噛み殺されそうになっていた。断頭台が首を断ち切るその時まで諦めなかった執念の逆転劇。立場の入れ替え。
なれば、無力な盲目の戦士もまた同じようにまた不屈の窮鼠だ。
「まだ―――――まだぁ!」
槍が抜かれて痛みの火が漏れるよりも速く、反射とも言える速度で牙をむく。目が不自由な上、恐るべき敵はすでに死角へ逃れて居場所がわからない。だがそれがどうした、子ネズミがどこから噛みついてくるかわからなかろうが関係ない。三百六十度全方位を斬ればいい、とばかりに大漢は大剣を振りかぶ――――らない。
大剣を右肩に寄せて左手は刀身に添える。剣術の構えにしてはいささか実用的ではない構え。
武術とは、気が遠くなるような鍛錬で動きを体に染みこませ、思考の間などいらずに技を繰り出すことをいう。無意識運動。条件反射。パブロフの犬。どれであろうが時間をかけて自分の中に溜めてきた熱(エネルギー)を吐き出すことだ。
だがこれは違う。
これは内から外に向かうのではない。内には決してない熱をよこせと請うているのだ。神に祈るほど真摯ではなく悪魔に願うほど真剣ではない、《世界》に対する人知超越のそれは、タネも仕掛けもない単純な技能―――スキル。
六連撃重量剣上位【スキル】―――――――――
「――――――――――――――――【浮惑斬】!」
前面斬り二回、後背斬り一回、そして前薙ぎ一回、後薙ぎ二回。慣性の法則を無視する機敏さで黄檗色の直線が走り、大漢を中心とした六芒星が描かれる。
見た目は単純な振り回しだが、実害は巨木を両断する死の鉄塊の乱舞だ。大剣が届く――巨漢の腕の長さに剣の長大な寸法を足した――範囲に巻き込まれてしまえば、それまで。ミキサーに撹拌された果物の行方など問うまでもない。
重力が喪失したかのような大剣の高速回転は、まさに小型の台風。
しかし、それが台風ならば唯一安全な空隙(め)がある。
しゃらんと鳴ったのは群青の髪留め(かんざし)。大漢の肩に突如増した重みは羽毛よりも軽い。小鳥のように静やかに留まれども、されど手に持つ槍は肉食獣の牙。そしてその笑みは餓狼の如く。
「―――――――っ」
「目が見えなくて焦りましたか? 子供みたいなわかりやすい反応、ありがとうございます」
一時的な盲目となった大漢が少しでも敵を遠ざけようと無暗(むやみ)に振るった大剣をまるで予期―――していたのだろう、スキルが発動する直前に垂直に飛び上がるという超人技――ではなく【跳躍】スキル――で回避した猪武者は鎧肩に着地したのだ。
「終わりです。アナタにもう用はない」
「――――――ッ」
反応しようにも大技を出した必然の硬直時間(フリーズ)によって大漢は指一本動かせない。伸びきった筋肉が縮むまでという理にかなった時間ではなく、世界を統べる設計者に決められた二秒間。
「ボクはアナタを越えた」
それだけあれば、ビリヤード棒(キュー)のように構えた十字槍を猪武者が真下に突き出すのには十分だった。最も防御が薄い防面を破壊して奥の眼球もろとも顔面を貫くだけにとどまらず十字の刃が兜を割る。
「み………ごと………」
洒落気のない致死の一撃に口から真っ赤な血、ではなく真っ赤な痛みの火を吐きだす。すでに大漢の肩から飛び降りた猪武者の背後で、不落だった巨体は地面に沈んだ。
降り立ったことで群青のカンザシがしゃらんと鳴った。まるでその涼しげな音が合図だったかのように、大漢の亡骸が全身鎧もろとも――――――爆発する。炎と光を撒き散らす様は爆薬が炸裂したかのようだったが、それよりももっと静かで幻想的な光景。海辺につくられた砂城が波にさらわれるように全身鎧の輪郭が崩れ、砂城が風にさらわれるように大漢の〈破片〉が舞い上がった。
ざっと数百もある破片の全てが均一の大きさと均等の明るさをもった指先大の立方体であり、その正体は《仮想分子(ポリゴン)》である。この世界に存在する森羅万象、人も動物も植物も剣も何もかもを構成している極小の分子、という設定の物質。
この『世界』の〈生命〉体は死亡すると仮想分子と痛みの火(ダメージエフェクト)を撒き散らしながら消滅する。骸を残さない代わりに、ほのかに輝く残滓が空中で蛍のように舞う《残り星(スペクトル)》をその場に残すのだ。
大漢の体に合わせた多量の光が漂う、非現実感が溢れる光景に猪武者は目もくれない。反応するのはカンザシで束ねられた長い髪が揺れる様だけ。
既に鋭い視線はすでに次の獲物を探し、あれだけの死闘を演じたというのに薄い唇からは吐息しか漏れていない。
巨漢の猛者が討たれ、矮躯(わいく)の武者が戦場に残る。
弱者倒れて強者立つは戦場の常ではあるのだが、先の戦闘と猪武者の力量をふまえたとしても両者の体格差を考えると信じがたいことであった。
筋肉なんて自分の体を腕立てで支えることも出来なさそうなほどに付いていない細腕。
――――――この世界では筋力というものは関係しない。存在するのは数値(STR)のみ。
小細工を弄したとはいえ大漢の剛腕を真っ向から受け止めるとは思えない矮躯。
――――――この世界では物理法則というものは存在しない。関係するのは英数字羅列。
死闘を演じるにはあまりにも頼り気ない、槍よりも花を握らせた方が似合うだろう手。
――――――この世界では強いものが生き残る。それだけだった。
カンザシで一つに纏められた長い真紅色のポニーテールが砂埃臭い風で舞い、ほんの少しだけ頬にさした赤みが見えるがすぐに隠される。宝玉のような瞳には恐れも怒りも悲しみも苦しみもなく、戦争に場違いにもほどがある華奢な姿。
それでも〝彼女〟はこの〈臨兵世界〉有数の戦士であった。
晴れ渡る青空。踏み潰されても茂る草原。続く殺伐とした争いの音。
男も、女も、老いても、若かろうとも、肌の色も髪の色も何もかもが違う人間達。同じなのは皆ひとしく戦っていることのみ。それがこの『世界』のたった一つの真実――――そう、この時は誰もが感じていた。
猪武者は強敵を倒したことで安堵することも休息することもなく、次の戦うに値する獲物を探しに一歩を踏み出した途端、爆音と火炎によって吹き飛ばされた。