気ままな王女殿下は、婚約破棄された令嬢を磨き上げる
第1章 笑顔で受ける婚約破棄
婚約破棄は、庭の噴水の音よりあっさりしていた。
春の光はやわらかく、王都の社交庭園に薄い金を振りまいていた。
噴水の跳ねる音が、昼の音楽のように続いている。
リリアーナは白い石畳の上に立ち、両手を静かに重ねていた。
胸の奥で、目に見えない糸がぴんと張る。
息を止める癖が、また出た。
「リリアーナ・ハート。君との婚約を破棄する」
エドモンドの声はよく通った。
小鳥が飛び立ち、近くの貴婦人が扇を止める。
噴水の水滴だけが、何事もなかったように光る。
「……お心のままに」
彼女は深く一礼した。
裾が石に触れ、淡い布の匂いがわずかに揺れる。
手は少し震えたが、背筋はまっすぐだった。
「平民上がりの娘を妻に迎えるなど、伯爵家の恥だ」
言葉は刃物より鈍く、ゆっくり刺さる。
だが、礼は盾だ。
彼女は沈黙で受け止める。
周囲の視線は優しかった。
哀れみが半分、残りの半分に、彼女の整った一礼への静かな敬意が混じる。
風が草の匂いを運び、頬の熱を隠してくれた。
(泣かない。泣けば、礼が崩れる)
噴水のしぶきが、白い点線を空に描く。
その向こうで、誰かが小さく息を呑んだ。
「王女殿下が今日の庭園を視察なさるとか……」
そんな囁きが、どこかで聞こえた気がした。
◇◇◇
アメリアは芝生の向こうを眺め、微笑を深めた。
「あのご令嬢、婚約者のあまりに礼を失したふるまいに困っていらっしゃるのね」
扇の骨が陽を受け、小さく光る。
「放っておいてもいいけれど……そうね、やっぱりちょっと気になるわ」
立ち上がり、スカートの裾を払う。
風もないのに花びらが舞った。
アメリアはお茶会の席を後にし、芝生を軽やかに渡っていく。
◇◇◇
「みなさん、おもしろいお芝居をしていらっしゃるわね。
でも——少し、礼が足りないようですわ?」
その声は、陽光の中でもっとも澄んだ鈴のように響いた。
一瞬で庭園の空気が張り詰める。
貴婦人たちの扇が止まり、噴水の水音だけが、やけに遠くに聞こえた。
扇の先がゆっくりと空をなぞる。
陽の粒が舞い、花弁がひとひら、リリアーナの肩に落ちた。
「ちょっと目に余りますわ。では、礼儀作法の復習を始めましょう」
その言葉は冗談のようでいて、誰も笑わなかった。
アメリアの瞳は笑っていない。
そこにあるのは、王族としての正しい怒りと、計算された慈悲。
「王女殿下……!」
貴族たちの間にざわめきが走る。
エドモンドは慌てて一歩退き、
声の調子を整えながら、なんとか体面を保とうとした。
「殿下、これは我が家の事情で――」
アメリアはゆるく首を傾けた。
その動作ひとつで、場の力関係が逆転する。
「まあ、事情はどうでもよくてよ。
けれど――あなた、礼がどこにも見当たりませんわね」
声は柔らかい。
だが、その柔らかさがいっそう痛烈だった。
扇の先が、陽光を反射してきらりと揺れる。
「だからこそ、礼を学ぶ好機ですわ。
礼は習うものではなく、見せるものですもの。」
彼女はエドモンドに視線を向け、
ゆっくりと微笑んだ。
「あなたは先ほど“平民上がり”とおっしゃったわね。
では、私は王女として、“品位の上がり方”をお見せしましょうか」
息を呑む音があちこちで重なった。
エドモンドの頬が引きつり、
誰もが、王女が笑いながら舞台をひっくり返したことを悟った。
アメリアはするりとリリアーナの方へ歩み寄り、
自然にその手を取る。
指先は驚くほど温かく、紅茶に落ちる蜂蜜のような安心を残した。
「笑顔を忘れてはだめよ、リリアーナ。
礼儀とは、心を守るためのものですもの」
リリアーナは一瞬だけ目を伏せる。
笑えない。
けれど、王女の手に引かれて、口元がわずかに形を探した。
「よろしい」
アメリアは満足げに頷くと、周囲に向き直った。
「本日の“復習”は、王宮の温室で行います。
関係者の方々、後ほどご案内いたしますわ」
その場に誰も反論できなかった。
彼女の一挙手一投足が、まるで風向きを変えたように、
庭園の秩序を元の位置へと戻していく。
(……助けられた? でも、どうして“復習”なんて)
リリアーナの胸に、その意味が静かに沈んだまま残る。
拾い上げるのは、もっとずっと後のことになる。
◇◇◇
温室のカーテンが、風もないのにふわりと揺れた。
空気の層がひとつ変わり、紅茶の香りがわずかに流れる。
「また妹が勝手をしたようだね」
その声は低く、よく響いた。
ガラスの天井に反射して、遠くの鐘の音のように広がる。
ユリウス王子がゆっくりと入ってきた。
彼の歩みには威圧感がない。
だが、その静けさがかえって、場の温度を一度下げる。
アメリアは椅子の背にもたれたまま、
紅茶のカップをくるくると回した。
「いいえ、兄上。今回は勝手ではなく、“投資”ですわ」
ユリウスが片眉を上げる。
「投資?」
「ええ。王国の未来に、ひとつ金貨を投じたのです。
“笑って戦う淑女”という名の、新しい通貨ですわ」
リリアーナは、何を話しているのか最初はわからなかった。
けれど、王女の目がほんの少し真剣になっているのに気づく。
ユリウスは微かに息をつき、
近くの机に封蝋の押された書簡を置いた。
「……まったく、君の言う『投資』はいつも予算外だ」
「でも、回収率は悪くありませんでしょう?」
兄妹の会話は、まるで軽い音楽のようだった。
言葉の表層は冗談めいているのに、
その下に流れるのは“王族の責務”という確かな旋律。
ユリウスは机に手をつき、
紅い封蝋を指先で軽く叩いた。
「王宮の温室を使う許可書だ。
……“礼儀の復習”の場としてなら、まあいいだろう」
「さすが兄上。寛大なお裁き」
アメリアがにっこりと笑う。
「それにしても、あの場で婚約破棄とは、見事な不作法。
私が止めなければ、噴水が代わりに怒ったでしょうね」
「怒る噴水……?」
リリアーナが小さく首を傾げると、
アメリアは肩をすくめて笑った。
「だって、あんなに静かに跳ね続けていたのですもの。
あの場の誰より礼儀正しかったわ」
リリアーナの喉の奥から、
思わず笑いがこぼれた。
小さな音だったが、確かに空気を変える。
アメリアは満足げに頷き、
カップを軽く掲げた。
「さ、復習の続き。笑って一口、どうぞ」
リリアーナはゆっくりと息を整え、紅茶を口に運ぶ。
香りはさっきより少し甘く、
舌の上に春の味が広がった。
ユリウスが窓の外を見やる。
「……あの笑いなら、次の社交の場でも通用する」
「ええ、きっと」
アメリアは満足げに微笑む。
「礼儀とは、結局“笑う勇気”のことですもの」
リリアーナはその言葉を胸の奥で繰り返した。
(泣かなかった。
次は——笑って返す)
ガラス越しの陽が、彼女の髪に小さな光を落とす。
その笑みはまだ小さい。
けれど、沈黙の中に確かな強さを宿していた。
◇◇◇
第2章 社交は戦場、礼儀は剣
王都の午後は、光の角度が穏やかだった。
新聞よりも速い噂の風が、庭園の隅から隅へと駆け抜けていく。
「王女が新しい令嬢を引き立てているらしい」
その囁きは、薄い金粉のように社交界一帯へ舞い広がった。
リリアーナ・ハート。
数日前まで「平民上がりの婚約破棄令嬢」と呼ばれた名が、
いまや“王女の教え子”という響きを帯びていた。
鏡の前で、彼女はそっと微笑の形を確かめる。
目と頬が同時に緩むか。
呼吸が浅くなっていないか。
「人前で笑うって、思っていたより体力がいるのね……」
◇◇◇
「慈善茶会の招待が届いたわ」
アメリアは封書をひらひらと振り、
まるで新しい遊びを見つけた子どものように目を輝かせた。
「噂好きのご婦人たちが勢揃いするらしいの。
いわば——社交界の戦場ね」
「わ、戦場……?」
「そう。礼儀は剣、微笑みは盾、沈黙は弾除け。
あなたも今日から立派な兵士ですわ」
アメリアの比喩は軽やかだった。
けれどリリアーナは、その奥に本気の励ましを聞き取った。
「……わかりました。戦ってみます」
「いい返事。でも、血は流さないようにね?」
アメリアは扇を閉じて、片目をつぶってみせる。
◇◇◇
慈善茶会の庭園は、絵のように整っていた。
銀のティーセットが陽を跳ね返し、
菫色のテーブルクロスが風に揺れる。
蜂蜜の香りのする紅茶が注がれ、
貴婦人たちの笑い声が光の粒のように空気を満たしていた。
「まあ、あの方が例の“破棄された令嬢”よ」
「でも、王女殿下の庇護を受けているとか」
「ねえ、どうやってあの立場から立ち直ったのかしら」
噂は花粉のように飛び、
リリアーナの耳をくすぐった。
それでも、彼女は静かに席に着く。
白い手袋の上に光が滑り、
指先は微かに震えている。
けれど、その震えは“怯え”ではなく“覚悟”に近かった。
(礼儀は盾。笑って返すのが、いちばん上品)
「リリアーナ様、ご無沙汰しておりますわ」
柔らかく微笑んで近づいてきた貴婦人の目は、
金糸の刺繍を検める職人のように冷ややかだった。
「まあ、婚約破棄とはご心痛でしたでしょう?
でも、平民出の方はお強いと伺いましたわ」
庭の風が止まり、葉のざわめきが遠のいた。
ティーカップを置く音が、やけに大きく響く。
金の縁取りが細く震え、紅茶の表面に細波が走った。
リリアーナはその揺れを見つめた。
唇の裏で、ほんの小さく息を整える。
笑うのではない。
微笑む——それは、呼吸のように自然でなければならない。
「まあ、ありがとうございます。
おかげで紅茶の味が少しわかるようになりましたの」
「……紅茶?」
「ええ。苦いものほど、砂糖の入れどきがわかりますから」
その一言は、まるで落とした指輪のように、
静かに地面へ転がって——光を拾った。
隣席の貴婦人が、唇の端を押さえて小さく笑う。
それを皮切りに、周囲に淡い笑いの波が広がった。
銀のスプーンがカップに触れる音、扇の開く音、
そして軽い笑声が混ざり合い、場の空気がほどけていく。
リリアーナは目を伏せた。
自分の中にあった硬いものが、
春の日差しの中で、ゆっくりと溶けていくようだった。
紅茶を一口。
舌の上で広がる甘みは、ほんのりと温かい。
(……笑えた)
その小さな気づきが、胸の奥に灯をともした。
◇◇◇
その後も茶会は穏やかに進んだ。
話題は宝石、服飾、流行、そして噂。
「お召し物が少し控えめですのね」
向かいの令嬢が、刺繍の少なさを指先でなぞるように言った。
「ありがとうございます。
金糸より、洗い立ての白布の方が落ち着く性分でして」
「まあ、なんて素敵な考え方!」
ひとりの夫人が弾む声で頷き、
隣の席の笑みが連鎖して灯った。
「ところで、倹約は——」と別の声が上がりかけ、
リリアーナはやんわりと笑って受け止める。
「工夫、と呼ぶ方が、刺繍の目もきれいに揃いますの」
言葉の選び方だけで、棘は飾りに変わる。
誰も傷つかず、けれど場の印象は確実に傾く。
庭園の隅で、アメリアが扇を高く掲げた。
遠くからの合図は、まるで「よくやった」と言っているようだった。
リリアーナは目で「はい」と返し、
カップの縁に小さな笑みを映した。
◇◇◇
茶会の終わりが近づくころ、
例の貴婦人がもう一度、彼女のもとへ歩み寄った。
「リリアーナ様。
先ほどは失礼がありましたわね。
あなたの笑顔、とても……上品ですこと」
彼女はほんの少しだけ頭を下げた。
その角度は、社交の“降参”の形に見えた。
「もったいないお言葉。紅茶のおかげですわ」
リリアーナは静かに笑い、
テーブルへ砂糖壺をそっと寄せた。
「よろしければ——もうひと匙、どうぞ」
貴婦人は一瞬だけ目を見開き、
それから、可笑しそうに唇をゆるめる。
銀のスプーンが、軽やかな音を立てた。
甘さは争わない。
けれど、勝敗はもう決まっていた。
◇◇◇
夕暮れ。
庭の噴水が金色の水を跳ね上げる。
「お見事ですわ」
アメリアが帰り道で言った。
その声は、満足げで、どこか誇らしげ。
「あなたの笑顔、少し王都で流行りそうね」
「そんな、私なんて……」
「いいえ。今日のあなたは、“笑って戦った淑女”でしたもの」
リリアーナは胸の奥が温かくなるのを感じた。
春の風が頬を撫で、日差しが髪に小さな光を落とす。
(泣かなかった。
そして、笑って返した。
なら——次は、誰かのために笑えるように)
アメリアが歩みを緩め、いたずらっぽく囁いた。
「次は舞踏会。仮面は要らないわ。
あなたの笑顔が、一番似合うから」
リリアーナは小さく頷き、
噴水の音を背に受けながら、一歩前へ出た。
光の粒が、足もとからほどけていく。
その笑みは、もう仮面ではなかった。
◇◇◇
第3章 仮面舞踏会と、笑う復讐
王宮の夜会は、百本の蝋燭の光に包まれていた。
音楽と香水と、ざわめきが渦を巻く。
白い手袋が滑り、羽根扇が揺れ、
笑い声が金の粉のように宙へ散っていく。
「仮面舞踏会って、ほんとうに仮面をつけるのね……」
リリアーナは舞踏室の柱の陰から、
きらめく人の海を眺めていた。
頬にかかる仮面の紐が、緊張のせいで少しきつい。
アメリア王女は隣で、
満足げにグラスを回している。
「ええ。社交の舞台では、みんな仮面をかぶるの。
それが“礼儀”というものですわ」
「……皮肉ですね」
「いいえ、風雅と言ってちょうだい」
王女は笑い、扇をひらりと開く。
その所作は、まるで夜そのものを操るようだった。
◇◇◇
音楽が変わる。
人々の視線が自然と中央へ向かう。
そこにいたのは――エドモンド。
金の刺繍を散らした燕尾服。
横顔の線まで計算されたような貴族的な笑み。
彼の傍らには、新しい婚約者の令嬢。
宝石をちりばめたドレスの裾が光を跳ね返す。
リリアーナの喉の奥が、
一瞬、冷たいものに満たされた。
けれど、それは恐れではなかった。
(泣かない。
そして――笑って返す)
「行くわよ、リリアーナ」
アメリアの声が軽やかに響く。
「あなたの舞台、始まりの合図よ」
◇◇◇
「まあ、これはこれは……」
エドモンドが目を細め、
一歩、こちらへ進み出た。
「おや、殿下までご一緒とは。
まさか、元婚約者の社交復帰をお手伝いとは思いませんでした」
「社交は慈善事業ですもの」
アメリアが涼しい声で返す。
エドモンドの唇が皮肉に歪んだ。
「慈善とは、施す側がするものでは?」
リリアーナはその瞬間、
アメリアから教えられた言葉を思い出した。
――“礼儀とは、怒りを飾る知恵のこと”。
彼女は静かに笑い、
軽く会釈してから口を開く。
「確かに。けれど、“施す”にも品格が要りますの。
お言葉遣いなど、まずはお手本を見せていただければ」
ざわめきが、薄い波のように広がった。
アメリアが横で、唇の端を上げる。
その笑みは、まるで“チェックメイト”の合図のようだった。
「言葉で斬るのはおやめなさい」
王女はひときわ明るい声で続けた。
「せっかくの舞踏会ですもの。
剣ではなく――ステップでお返しして?」
エドモンドの表情が、わずかに強張る。
だが、リリアーナは笑みを崩さず、
ゆっくりと手を差し出した。
「お相手いただけますか?」
周囲の視線が二人を包む。
音楽が再び高鳴り、弦の響きが空気を震わせた。
リリアーナは足を一歩、前へ。
白い裾が床を滑り、
エドモンドの動きに自然と呼吸を合わせる。
(大丈夫。笑って返すだけ)
踊りの中で、彼女の声がふと零れる。
「紅茶は、もうお好きになられまして?」
「なに?」
「前は、苦いものが苦手と伺っていましたので」
エドモンドの眉がわずかに動く。
彼の視線が揺れ、
周囲からくすくすと笑いが広がる。
リリアーナは軽やかに回転し、
ふわりとスカートを広げた。
風が花弁のように香りを運び、
扇の音がその合間をすり抜ける。
最後の一拍。
彼女はくるりと身を翻し、
そのまま優雅に一礼した。
「ありがとうございました。
おかげで、踊りの“間”がよくわかりましたの」
拍手が広がる。
その中でエドモンドは、
微笑を保ったまま、目だけを逸らした。
アメリアがそっと囁く。
「完璧だったわ、リリアーナ。
あなたの笑いは、剣より強い」
(泣かない。笑って返す。
そして――これが、わたしの答え)
◇◇◇
夜会の終わり、
王宮のバルコニーに月光が落ちていた。
風が静かにカーテンを揺らし、
遠くで馬車の音が響く。
「ねえ、アメリア様」
「なあに?」
「笑うって、やっぱり難しいですね」
「ええ。でもね、リリアーナ。
本当に笑える人だけが、他人を赦せるの」
王女の声は、春の終わりの風のように優しかった。
二人の視線の先で、
噴水が月光を散らしながら、静かに跳ねていた。
リリアーナはそっと目を閉じ、
もう一度、心の中で微笑んだ。
(もう、泣かない。あの夜も、今日も。
わたしは笑って生きていける)
月の光が、彼女の頬をやわらかく照らす。
それは、涙よりも静かな輝きだった。
◇◇◇
第4章 春の庭にて
春の光は、やわらかく差していた。
王宮の庭園には、チューリップと白い百合が並び、
風がその花弁を軽く撫でていく。
リリアーナは温室の前で足を止めた。
あの時と同じ場所。
噴水の音も、紅茶の香りも、あの日のままだった。
手にしているのは、小さな包み。
中には、自分で縫った布の扇子袋。
王女に教えられた“痛みを飾り直す工夫”の結晶。
温室の中では、アメリア王女が談笑していた。
新しく王立学院へ通う令嬢たちに、
礼儀と微笑みの授業をしているらしい。
「“笑顔は、剣よりも強い”——と、殿下はおっしゃいましたの」
少女のひとりが照れくさそうに笑う。
その笑みはまだ幼いけれど、どこかまっすぐだった。
アメリアがこちらに気づき、
いつものように扇を軽く掲げた。
「リリアーナ、いらっしゃい。今日も花がきれいよ」
「はい。……殿下のおかげで、私も笑えるようになりました」
王女は目を細め、少しだけ得意げに笑う。
「笑うことは、礼儀作法の最終形ですもの。
怒りを飾り、悲しみを縫い直し、
それでも前を向く力になる」
リリアーナは包みを差し出した。
「こちら、王女殿下に。……扇子袋を縫いました」
「まあ、これが例の“工夫”の結晶ね?」
アメリアは袋を手に取り、
陽の光にかざした。
布の縫い目が、春の風に透けて美しく光る。
「ええ、とても素敵。
リリアーナ、あなたの縫い目は、痛みを感じさせないわ」
「痛みが、ようやく飾りに変わったのだと思います」
ふたりは視線を交わし、
そして声を立てて笑った。
◇◇◇
そのとき、庭の向こうから足音がした。
ユリウス王子が歩み寄ってくる。
手には分厚い書簡の束を抱えていた。
「投資の成果はどうかな。回収はできたかい?」
アメリアはすました顔で扇をぱたぱたさせた。
「失礼してしまいますわ。ほら、ご覧のとおり。」
兄妹の会話にリリアーナは微笑を堪えきれず、
肩を揺らして笑った。
その笑いは、あの温室で教えられた“心を守る笑い”そのものだった。
ユリウスはそんな彼女を見て、少しだけ柔らかく微笑んだ。
「なるほど。王女殿下の弟子は、なかなか優秀だな」
「当然ですわ」
アメリアが胸を張る。
「この国に、“笑って戦える淑女”が一人増えたのですから」
噴水が高く水を跳ね上げる。
光の粒が、春の風に散っていく。
リリアーナは目を閉じて、その音を聞いた。
(泣かなかった。
笑って返した。
そして今、笑って生きている)
頬をなでた風が、
まるで祝福の手のようにやさしかった。
白い花びらが舞い、
扇の骨が陽を受けて、小さく光る。
◇◇◇
リリアーナは歩き出した。
城門の外に続く道の向こう、
春の町並みが柔らかく霞んで見える。
「殿下、これからは?」
「好きなようにお歩きなさい。
礼儀も、笑顔も、もう身についているもの」
振り返ると、アメリアとユリウスが
並んで立っていた。
金と銀の光が風に揺れ、
二人の姿が少しずつ遠ざかる。
リリアーナは深く息を吸った。
香るのは、紅茶ではなく春そのものの匂い。
(ありがとう、アメリア様)
微笑みながら、彼女は春の光の中へ歩き出した。
その背に、アメリアの笑い声が明るく響いた。
噴水のしぶきが、虹を描く。
風に溶ける笑い声が、
王都の空にいつまでも残っていた。
ーーfin.
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