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第九章 鏡合わせの爪とノート

 境界は、守りの線ではなかった。

 それは、こちらと向こうを優しく仕分けるはずの薄い折り目でありながら、指でなぞれば刃に変わる。紙は刃物ではない——けれど、紙の端は切れる。私はその事実を、もう観察の言葉ではなく、皮膚の記憶として持っている。


 波紋は画面の中だけで増殖しているのではない。窓ガラスの反射、電柱に貼られた注意書き、踏切の警告音、すれ違う誰かの視線——日常のどの面にも、訂正と再訂正の薄い輪が広がって、私の歩幅を一歩ずつ削っていく。

 「最初の物語を外す」という正しさが、私の唯一の現実を外していく。私にとっての現実は一つだ。落ちていった体温。静まった呼気。掌に残った震え。だが社会にとっての現実は、複数の円として合理的に並べ替えられる。真実の座標は、平均の中で見えなくなる。


 私はノートを開いた。危険度行列をもう一度、最初から描き直す。

 これまでの行には、固有名があった。彼/彼女/彼ら/当局。今夜はそこに、新しい行を追加する。自分。

 — 自分:最大振動源。観測の震源であり、行為の端点。

 — 自分:暴発の媒質。黙ると拡散し、喋ると凝縮する。

 — 自分:切断の角度決定器。恐怖で角度が甘くなり、怒りで角度が深くなる。


 観察は守りではない。観察は、対象を変形させる力であり、時に攻撃と同義だ。

 私は「観察者」という名称の陰に隠れて、行為から目をそらしてきた。けれど、波紋は名前を通過する。名前は媒質であって盾ではない。

 なら、名札を外す。観察者を名乗るのをやめる。観察を、仕様に変える。仕様は、舞台装置だ。舞台装置は、行為を要請する。


 「殺意は観察の延長である」という私の命題は、今夜、逆向きにも成立する。

 ——観察は、殺意の前口上である。

 対象の角度を測るたび、その角度に合わせた切断面が頭の中に現れる。私はそれを見ないふりをしてきた。ふりは、いつか破れる。紙の折り目のように、薄いところから裂ける。


 風の順序を思い出す。

 夕方の渡り廊下で、風が先に来て、音が遅れて届く。順序の入れ替わりは、観測の罠であり、同時に救いでもある。風が先。それなら、私は風の側に回る。音に追われないうちに、角度を決める。

 決め方は知っている。恐怖は角度調整装置で、私はいま充分に冷えている。冷えは、刃をまっすぐにする。


 行列の余白に、今夜の仕様を書き足す。

 — 目的:震源の固定を解く。

 — 対象:観測を逆向きに使う者。

 — 条件:第三者の物語に先回りしない。自分の物語で、折り目を決める。

 — 中止条件:温度が上がり、角度が甘くなったとき。


 私は、彼女の名を書かない。

 名前は折り目だ。折り目は水に沈めると薄くなるが、消えない。だから、名を沈めたまま、角度だけを取り出す。あの猫背の影、紙の木目を親指で読む癖、増幅という技術。

 それらを名のない仕様として、今夜の頁に固定する。


 沈むのは、最後でいい。

 まずは、折り目を反転させる。

 これまで私を切ってきた観察の刃を、私の手に戻す。戻した刃で紙を裂き、裂いた端で頁を閉じる。閉じた頁の上に、私は新しい折り目をつける。浅ければ戻る。深ければ、戻らない。

 私は、その差を、今夜のうちに自分へ刻む。


 ノートを閉じる音が、部屋の温度を一度下げた。

 波紋は続くだろう。訂正の環は、また増えるだろう。

 それでも、私の中心は私が決める。震源を、他人のラベルに渡さない。

 観察の外に出る準備はできた。仕様は、演算から行為へ翻訳済み。


 扉に手をかける。

 風が先に来る。

 音は、あとからでいい。

 安アパートの一室は、静かに鳴っていた。冷蔵庫の小刻みなコンプレッサー音、共用廊下の非常灯が周期的に放つ微かなスイッチングノイズ、遠くの踏切が空気の薄皮を擦るように三拍で鳴る。音の薄膜が幾重にも重なり、部屋の輪郭が膨張と収縮を繰り返す。そのわずかな膨らみのたびに、私は「見られている」という圧を思い出す。


 カーテンは二重にした。内側は遮光、外側は透けるレース。レースの編目を指で辿ると、網の目の交点が規則正しく光を止める。網は守りの形をしているのに、視線は網目を通過してくる。窓ガラスの向こうに誰もいないと分かっていても、ガラスは黒い鏡になり、私の輪郭を外から覗く誰かの眼に変わる。


 天井の火災報知器。赤いインジケーターが一定間隔で瞬く。私はその点滅が監視カメラの赤点に見えて仕方がない。換気扇のグリルに走る放射状の筋は、いつでもレンズの絞りになり、中の暗闇は覗き穴に化ける。電子レンジの扉は黒いフィルム越しに台所の光を反射し、これもまた黒い瞳だ。日用品が視線の形をとる。家具は家具の役目をやめ、部屋のどの面も「観察の面」へと変換される。


 スマホが机の上で、一度、小さく震えた。

《非通知設定の着信》

 タップしない。通話履歴の数字だけが増える。すぐに別の通知が重なる。

《緊急情報メール:臨時会見—19:00》

《学校広報:未確認情報の拡散にご注意ください》

 続いて個人の名前。

《遥:どこ? 無事なら既読だけでも》

《母:心配しています》

 そして知らない差出人。

《ご連絡ください。お話を伺いたいだけです》

 メッセージの文面は、どれも柔らかい。けれど、柔らかさは吸着力だ。触れれば、離れにくい。私は機内モードに切り替えた。

 ——それでも震える。幻肢のように。通知の振動が止まっても、皮膚の下で微小な震えが持続する。手の甲に広がる毛細血管の拍動が、内側からドアを叩く。


 覗き穴に養生テープを二重に貼る。ドアの下の隙間に畳んだタオルを差し込む。窓の鍵を二度確認し、戸当たりのゴムの位置を半ミリ単位でずらして、開閉のときの音量を最小化する。音は位置を暴く。

 私は部屋の中で歩幅の実験をした。六歩で壁、八歩で戸棚、三歩で窓。足音は床材の下地で変わる。板目の継ぎ目を外せば、音は薄くなる。私自身が、私を観察する。観察は、守りの技術だった。だが今は違う。観察は対象を固定する。固定は、拷問の形式だ。動けないようにするのが、最も効率的な痛みになる。


 ルーターの電源を抜いても、筐体の小さなLEDが残光で一瞬だけ点いた。光は消えたのに、消えたことが逆に「何かの痕跡」を可視化する。コンセントからプラグを抜く手つきに、自分でも過剰さを感じる。遮断は安全にならず、遮断の手つきが観察の資料になる。私は知っている。観測者は「切断の手つき」を非常によく見ている。切る角度、切る速度、切った後の沈黙の長さ——それらが全部、私を特定する手がかりに変わる。


 ノートを開く。危険度行列の見出し行に、新しい列を一本増やす。

 — 匿名群衆:無数の眼。総和としての観察。

 — 端末:表面が鏡。内部が記憶。

 — 室内:家具=レンズ。配線=痕跡。

 — 自分:観測対象/発信源。

 行ごとに小さく重みをつける。群衆は広く薄いが、総量が大きい。端末は狭く深い。室内は連続監視の錯覚を生む。自分は振動源。

 余白に書き込む。

 『観察=時間伸長装置/一秒が裂け、内側に無数の亀裂時間が生まれる』

 『沈黙=音の圧縮/出ていない音が、出るはずだった音を連れて押し寄せる』

 『可視=拷問の規格/照度・角度・持続が規格値を超えると、対象は自発的に語り出す』


 共用廊下を誰かが通る。足音の周波数と踵の打ち方で、人物の体格がぼんやり分かる。今のは軽い。学生か配達か。ドアの前で一瞬止まり、また動いた。止まるという事実が、刃物より鋭い。録音ボタンを押される代わりに、空白を押される。空白は、想像力の暴力だ。


 水をコップに入れる。水面張力が歪み、窓の格子が逆さに映る。私はその反射像をしばらく見た。像の端に、私の手とスマホの黒い鏡面が重なり、さらに遠くのテレビの暗画面まで連結する。反射の連鎖。どの面も、どこかの目になりうる。

 私は机の端に置いたマスキングテープで、スマホの前面カメラを覆う。覆う行為は可逆だ。だが覆ったという事実は不可逆だ。「隠す」は最も目立つ——小田先生の言葉が、遅れて胸に届く。


 その瞬間、アラームのような短い電子音が鳴った。ドアの郵便受けが僅かに揺れる音。私は呼吸を止め、耳の筋肉だけを動かす。三拍の静寂。四拍目で、廊下の気配が遠ざかる。ポストからは何も入らない。入らないという情報が、入ったのと同等の圧で胸に乗る。


 私は観察の語彙で自分を落ち着かせようとする。対象、角度、持続、増幅、減衰。言葉を並べるたびに、私は織機のように細い糸で自分を固定する。固定は安定をもたらすはずだった。だが、今は違う。固定=拘束だ。用語は包帯にはならない。用語は結束バンドになる。


 机の端に置いたノートの頁が、空調の息でわずかにめくれた。紙の擦れるごく薄い音。私はその音に過剰に反応する。音が、「記録せよ」と命じている。だが、記録は体温を奪う。奪われた体温は、角度を甘くする。甘い角度は、戻り刃になる。

 私は鉛筆を持ち上げず、ただ親指の腹で頁の縁を撫でた。繊維の流れが、親指の渦と逆向きに走っていく。逆向き。そこで私はようやく、心拍の波形が少し整うのを感じた。逆向きに撫でれば、紙は波立たない。角度は恐怖で微調整できる。


 まな板の上に置いた折水の小瓶——布で包み、さらに箱に入れ、さらに冊子の陰に沈めてある——その位置を視界の端で再確認する。見ないようにして見る。見ると、行為が始まる。見ないと、波紋が広がる。どちらにしても、観察は拷問だ。

 私は結論を短く頁に刻んだ。

 『観察=拷問(対象固定/時間伸長/自己注視)』

 書きながら、もう次の行に手が動く。

 『行為=解放(震源移動/角度決定/持続遮断)』


 共用廊下の突き当たりで、誰かが小声で通話する。「……いえ、灯りは……」「開けるのは……」断片が網の目をすり抜け、部屋の空気に刺さる。私の肩は知らず強張り、耳の奥で蝉の抜け殻のような高音が鳴り続ける。

 私は扉のチェーンを一段だけかけ、椅子の位置を扉の裏へ半歩分ずらした。逃げる動線は残し、踏み込みの角度だけを鈍らせる。設計図は頭の中で完成している。あとは温度だ。温度が上がれば中止。冷えていれば、動く。


 機内モードのアイコンが画面の隅に鎮座している。私はそれを見ない。代わりに、窓際で風の順序を確かめる。風が先、音が後。

 観察に耐える時間は、ここまででいい。

 これ以上、見られることは、私を作られることだ。私は、私を作り直す側へ移る。

 震源を、外の網から、こちらの手のひらへ。


 そして、息を一度だけ深く吸い、静かに吐いた。

 角度は、今ならまだ、冷えている。


 ノートを真ん中で開き、背を親指で押さえる。紙の繊維が親指の渦と逆向きに流れ、頁が波立たない角度を確かめる。左頁を「行」、右頁を「列」に割り付け、冒頭に小さく記す——危険度行列/再演算。鉛筆を寝かせ、芯の平たい面で最初の枠を引く。音は出さない。線は出る。


 今回は最初の行に自分を置く。これまで私は、他者と構造の観測点から世界を並べ、そこに自分の視点を投げ入れるだけで済ませてきた。だが震源が自分の内部にあるなら、表の一行目は私でなければならない。対象=観測者=媒質。三役が一つに重なるとき、行列はただの表ではなく、動く盤面に変質する。



行(対象)

•自分:振動源/媒質/端点

•黒咲:増幅器/選別器/観測の設計者

•朝永:減衰器/秤/時系列の保守者

•小田先生:閲覧経路/文脈保持者

•遥:バッファ/遮蔽板/拡散抑制

•匿名群衆:総和の眼/ラベル生成装置

•端末・室内:記憶の鏡/痕跡の保管庫


列(作用)

•観測強度(照度・持続・角度)

•波及係数(一次→二次への増殖率)

•切断閾値(関係が切れるまでの傾斜)

•露見確率(名が表に浮く速度)

•反転可能性(物語を書き換える余地)

•温度感応性(恐怖・怒りによる角度変化)

•触媒性(第三者を巻き込む力)


 枠が埋まるごとに、鉛筆の芯がわずかに丸くなる。私は何度か芯を回し、平面と点の間で手触りを切り替える。文字は記号だが、記号の背後に温度がある。温度は角度を決める。角度は切断面を決める。



自分(行1)

•観測強度:∞/-(自己注視は停止できない。停止は死角を生む)

•波及係数:高(沈黙が長いほど噂の穴が拡大)

•切断閾値:低(疲弊によって微少な刺激で断裂)

•露見確率:上昇中(「隠す」の痕跡が目立つ)

•反転可能性:中(物語を自分で語れば一時的に方向を変えられる)

•温度感応性:高(恐怖→角度甘化/怒り→角度深化)

•触媒性:中(自分の動きが他者の動機づけに変換される)


 ここに小さく脚注をつける。『自分=固有ベクトル』。系に手を入れれば、固有値(振動の固さ)が変わる。観察は調律、行為は固有値の上書き。いま必要なのは後者。


黒咲(行2)

•観測強度:極高(照度一定・角度可変・持続長)

•波及係数:極高(言語化→社会拡散の最短路を知る)

•切断閾値:高(関係は容易に切れない。観測を他者へ委託できる)

•露見確率:低(自らは名の外へ佇む)

•反転可能性:低〜中(増幅を減衰へ転じさせるには直接介入が必要)

•温度感応性:低(増幅は感情ではなく仕様)

•触媒性:極高(沈黙すら材料化する)


 欄外に赤鉛筆で線を引く。『最大増幅点=黒咲』。系全体の有効利得は、ここで決まる。増幅器は遠ざけても減らない。遮断ではなく直列接続の切断が要る。


朝永(行3)

•観測強度:中(等速・等振幅)

•波及係数:低〜中(情報は時系列で止める)

•切断閾値:中(均衡維持のため介入は遅い)

•露見確率:中(秤は見えるが針は見えにくい)

•反転可能性:中〜高(仮説固定を避ける姿勢)

•温度感応性:低

•触媒性:低(増幅しない)


 脚注。『減衰点=連絡線の確保価値』。敵でなく、地線。ショートさせず、帯電を逃す役目。


小田先生(行4)

•観測強度:中(閲覧者の眼)

•波及係数:中(学校系統へ)

•切断閾値:中(制度を背にする)

•露見確率:中〜高(ノートへの到達経路を持つ)

•反転可能性:中(「文脈」の保存が効く)

•温度感応性:低〜中

•触媒性:中


 注記。『紙は刃ではないが端は切れる』。端=先生の指先。端を鈍らせる=端を人間へ預ける。


遥(行5)

•観測強度:低(意図的に優しい)

•波及係数:抑制方向バッファ

•切断閾値:高(容易に切れない)

•露見確率:低(守秘意識)

•反転可能性:高(私の物語を“保温”する)

•温度感応性:中

•触媒性:低


 注記。『保温=偽名ではなく“別名の毛布”』。凍死は防げる。刃は鈍る。


匿名群衆/端末(行6-7)

•観測強度:総和で高

•波及係数:極高

•切断閾値:測定不能

•露見確率:状況依存

•反転可能性:極低(方向は慣性で決まる)

•温度感応性:高(感情で一斉に傾く)

•触媒性:高


 注記。『慣性の群れ=最初の物語の奴隷』。ここを直接制御する設計は時間切れ。上流を断つしかない。



 行列を書き終え、私は線をもう一本引く。関係グラフ。自分から各ノードへの最短路と、系全体を二分する最小カット。紙の上で擬似コードを走らせる。

•最短路(露見):自分 → 小田先生 → 学校系統 → 黒咲

•最短路(拡散):自分 → 端末 → 匿名群衆 → 黒咲(言語化)

•最小カット(利得):自分—黒咲のエッジ

 (ここを切ると、増幅の主経路が失われる。朝永経由の減衰路だけが残る)


 結果を鉛筆で囲み、太字で頁の端に書く。

 『黒咲との接触=必然(直列接続の切断)』


 避けるは負けだ。増幅器は距離で弱らない。傾度で弱る。つまり、角度を変える必要がある。彼女の設計(増幅)を、こちらの設計(減衰化)へ転写する。観察を逆向きに使う——“私が観測されている”という事実を、彼女にも観測させる。観測者効果を反射させる。彼女のノートに私の仕様を書き込ませるのだ。


 頁の余白に、作戦の微分を書き足す。

•接触目標:黒咲。ただし名ではなく仕様へ働きかける。

•接触様式:公開空間の半死角(風が先/音が後)。観客の目は圧として利用、証拠としては使わせない。

•話法:彼女の語彙(増幅・似せる正確さ・生成経路)を鏡像で返す。反証の層を先回りして提示し、「固定しない」という彼女の旗をこちらの免罪符に置き換える。

•中止条件:温度上昇→角度甘化→戻り刃の兆候。もしくは彼女の視線が私のノートの位置を言い当てたとき。

•成功判定:彼女の言葉が“断定”を避け、お願いや仮定に変調したとき。増幅器は断定が燃料。曖昧化させれば利得が下がる。


 最後に、自分の処理の列を一本だけ独立させる。

 『自分の処理=温度制御』

 — 恐怖が上がったら、角度を一段浅く。戻れる折り目を残す。

— 怒りが上がったら、角度を一段深く。戻らない覚悟を確認。

 温度=刃の調整ノブ。私はノブを時計回りに一目盛りだけ回す。頁の上で、手首がわずかにひねられる。紙の繊維が喉奥の乾きと同じ方向へ流れた。


 息を整え、短い結論を頁の下端に刻む。

 『増幅を切るには、増幅点に触れるしかない。迂回は拡散。接触は切断。』

 芯を立て、最後の一行を細い線で引く。

 『黒咲との接触=必然。

 私が震源を持ち帰る。』


 ノートを閉じる。背を親指で押したまま、閉じた頁の上を平らに撫でる。折り目は浅くも深くもできる。今夜は中深。戻れる確率を2割だけ残す。残すという設計が、私の最後の保温になる。

 机から立ち上がると、部屋の温度がわずかに下がった。風が先に来る。音は、あとからでいい。私は最小カットに向けて歩く。


 夜半近く、スマホの表示が小さく震えた。液晶の端に白く浮かぶ新着通知は、送信者の名前だけで心臓の鼓動を変えることがある。

 ——黒咲。


 私の指先が画面に触れないように、手を止める。触れれば返信の痕跡が残る。痕跡は、後で誰かの手に渡る。私は長く考えずに、まずログの様子を観察する。送信時刻、アプリの種別(メッセージ/メール/匿名フォーム)、デバイスの有無。通信のメタデータは、メッセージ本文より先に語る。黒咲はデジタルの文脈を知っている。彼女が使うチャネルは、彼女の戦術を暗示する。


 通知をタップすると、短い文が表示された。

《会いたい。朝永経由で話がある。明日、校内で。昼休みではなく、放課後。》

 行間に「観察の回路」が見える。彼女はいつも、言葉を設計する。句読点の位置、行末の空白、呼称の省略——すべてが受け手の想像を誘導する部品だ。文体の断片を分解すると、即時反応を求めないが、距離を詰めさせる設計になっている。彼女は「会いたい」と言うだけで、こちらの動線を作る。私がその動線を辿れば、彼女は私の角度を再計測できる。観測の循環が起動する。


 返信しないことが選択肢になる。返信すれば、私の所在情報が増える。返信しなければ、黙している間に別の流れが生まれる。沈黙自体が情報になる。黒咲はそれを利用する人だ。私の頭の中で数式が走る——返信確率、追跡強度、挙動変更係数。結論は毎回同じだ。会うことは、必然的に観測の再配列を招く。


 夜が深まると、画面はさらに幾つかの通知で満たされた。匿名の問い、親しい女性からの短い励まし、そして不可解なアラート。いくつかの通知に目を通しているうちに、黒咲のメッセージの意図が三層目で見えてきた。

 第一層:公式のフレーム——朝永を介する、局所での会話。公的な匂い。

 第二層:行動の誘導——放課後という時間帯指定。群衆の少ない半死角を選ばせる。

 第三層:心理の干渉——呼びかけは優しく、非攻撃的。だが、それが被観察者の不安を増幅する。


 私はノートを開き、三層構造の簡潔なフローチャートを描いた。黒咲の入力メッセージ→私の反応(返信/無視)→彼女の再配置(増幅/沈静)→外部効果(メディア/警察/匿名群衆への波及)。各ノードに、観察強度と露見確率を割り当てる。彼女のメッセージは、露見確率を微量ながら確実に上げる作用を持つ。それが私の胸を締め付ける。


 翌朝、校舎の影で黒咲を見たとき、彼女はまるで設計図から抜け出した人物のように自然だった。黒いショートヘアが日光で鈍く光り、猫背に見える姿勢は注意を逸らす効果を持つ。だが彼女の眼は計測器だ。視線を合わせると、私の心拍の変化を読み取られるような錯覚に襲われる。観測者が、私を観測する。その逆説が、私を脆くする。


 彼女は私の前に来て、社交辞令と研究のあいだの距離で話した。言葉はいつも通り穏やかで、しかし鋭いエッジを内包している。彼女の話題は──あえて私を刺激するようなトピックへと誘導される。昨日の「露悪の偽装」の一般論、情報拡散の仕組み、誤認の生成経路——それらはすべて、私の罪の輪郭を仮説でなぞる素材だ。黒咲はそれを、まるで教育的解説のように並べる。公的で中立的な言い方に包まれて、私の内側に小さな地震が起こる。


 彼女の言葉が一度途切れ、私は息を整える時間を与えられる。そこで彼女は、少しだけ口を開いて私に問いかけた。

「あなたは、何を“破棄”したいの?」

 質問は表面上は単純だ。だが彼女が仕掛けた罠は、質問の「公差」だ。公差=答えの幅。広ければ曖昧が守られ、狭ければ露見に近づく。黒咲は私の答えの「公差」を測っている。私が答えれば、答えの細部が公開され、外部へ流用される。答えないと、彼女は別の手段でその穴を埋める。私は両方とも恐れた。


 帰り際、彼女は軽く笑って去った。振り返ると、背後でノートをめくるような仕草をしていた。見ていたのかと問いたくなる。だが、問いは刃だ。私にはまだ切る角度が残っているはずだった。だがその夜、家に戻ったとき、ポケットのスマホは知らない番号からの着信履歴で満ちていた。番号の多くは追跡可能な業務連絡ではなかった。群衆の先触れが、私の内側に到達している。


 黒咲の接触は段階を踏んでいた。初回は観測の示唆、二回目は言葉の鏡、三回目は行き先の指定。彼女は観測の回路を利用して私を「犯人」に配置する方法論を持っている。それは彼女の職能の一部だ。だが私はその仕組みの中に自分を投じる覚悟を既に固めている。接触は必然だと書いたノートの結論が、現実になりつつあった。


 深夜、またメッセージが来る。今度は簡潔で直接的だ。

《今夜、公園のベンチに資料を置いておく。見るだけでいい》

 置かれる「資料」は、観測のトリガーだ。見るだけでいい—この一文が最も危険だ。見る行為は、既に観測の輪に入る。私が資料を見れば、資料の痕跡は私の視線に結びつく。見ないと、資料は別の誰かの手に渡るかもしれない。選択は観測の新たな起点を作る。黒咲の観察はいつも、二択を押しつける。


 私は返信を打たなかった。画面を伏せ、手の甲で額の血管を押さえる。脈の震えが、耳の奥でリズムを刻む。ノートの頁をめくり、接触に対する対応をもう一度検算する。観察を反射させること、増幅点と直列を切ること。黒咲の観測をそのまま受け取れば、私は観測の対象になって終わる。利用するなら、こちらから観測を送るしかない。


 翌朝、ポケットには短いメモを仕込んだ。文章ではなく仕様を書いた小片だ。見られたくない情報は言語を削ぎ落とし、行為の指示だけを残す。黒咲がそれを拾えば、彼女は設計者として反応する。反応が予測可能なら、彼女が動かす増幅の角度をこちらが先に読むことができる。観察は設計であり、設計は逆襲の道具にもなる。


 黒咲との遭遇は、私の行列のある行を必然的に活性化した。彼女は増幅点として機能し、私はその反射鏡になろうとしている。恐怖は、彼女の観察が私を“犯人”に仕立て上げる可能性からきている。それは単なる推測ではない。彼女の言葉、チャネル選択、タイミング、そして無言の仕草——すべてが、私を追い詰める幾何学を形成する。私はその幾何学を読み、角度を定めるしかなかった。観測される恐怖が、最終的に私を行為へと移す理由の一部になることを、私は理解している。


 夕刻の駅前広場。電子掲示板のスクロールに【第二の遺体/会見19時】が繰り返し流れ、拡声器の調整音が空に薄い皺を刻んでいた。取材車のアンテナが伸び、警備線をかすめるように人流が曲がる。カメラ、スマホ、通話、足音、紙コップ。無数の微弱な音が重なって、街全体が低い持続音になっている。


 そのノイズの中で、彼女と目が合った。

 猫背の線、黒い短髪、視線の静脈の通り道のような直進。黒咲。彼女は人波の粘性を読み、渋滞の縁だけを滑るように近づいてくる。私は反対側から斜めに進路を取り、ぶつからない角度で停止した。二人の周囲だけ、群衆の速度がわずかに落ちる。観察に気づいた空間は、まず速度を失う。


 マイクを肩に担いだ記者が背後を横切り、通話中の若者が「誤報じゃなかったの?」と素っ気なく言い、子どもを連れた親が警備線の手前で向きを変える。雑多な動きが視線の乱流になって、私たちの境界をふちどる。


 黒咲は一歩、影の濃いところに入った。光が落ち、彼女の表情が情報モードに切り替わる。


「こんにちは、佐伯さん」

「偶然ですね」


「偶然は、観測の後で名前が与えられる現象です」

「名前は、折り目。折り目は、最初に付けた人の手つきが残る」


 周囲からシャッター音がこぼれ、どこかで「LIVE」の赤いランプが点いた。オービタルマイクの先が風を受けて小さく震える。私はカバンの底にあるノートの厚みを指先で確かめる。記録は体温を奪う——小田先生の声が、遅れて背骨に触れた。


「あなたは、私を見に来た」

「あなたは、見られる場所に来た」


 黒咲の口角がわずかに動く。

「観察は真実を照らす」

「観察は真実を壊す」


 言葉が、互いの鏡面に触れて反射した。照明と破壊。同じ光子が、角度で意味を変える。


「照らされない真実は、いつまでも物語に負ける」

「照らしすぎた真実は、輪郭が崩れて物語に食べられる」


「では、あなたは暗さを選ぶ?」

「では、あなたは白飛びを選ぶ?」


 黒咲は人混みのリズムに合わせて半歩だけ寄る。距離は社会的に許容される最小。彼女の声量は群衆ノイズの谷間に正確に落とされ、私だけが拾える。増幅ではなく選択。プロの話法。


「あなたは“次”を持っている」

「あなたは“次”を作ろうとしている」


「止めに来ました」

「終わらせに来ました」


 すれ違う二つの動詞は、同じ終端を指す。止めることと終わらせることの、責任の配分だけが違う。


 近くでクルーがインカムを触り、「七時、入りました」と言った。警備員が短く笛を鳴らし、青いコーンが三つ、等間隔で配置される。人の流れがまた一段階、粘性を増す。媒質が変わる時、言葉の粘度も変わる。


「あなたの観察は、私を犯人に仕立てる道具です」

「あなたの観察は、あなた自身を行為者に押し出す装置です」


「装置は、設計者の責任」

「装置は、使用者の責任」


「では——」黒咲は小さく息を吸い、目を細める。「あなたは、どちらですか」


「いまは、媒体です」


 答えた瞬間、背後でスマホのフラッシュが弾け、誰かが「映っちゃった」と笑い、別の誰かが「録れてる録れてる」と囁く。周辺の無関係が、対話の縁取りに使われていく。街は、会話の額縁だ。


 黒咲は視線だけで角度を変え、私の肩越しの空間を測った。

「距離、詰めますね」


「距離があると、あなたは照らし続けるから」

「距離が近いと、あなたは壊しにかかる」


「選んでください。照らすか、壊すか」

「選ばせないで。角度で決めるから」


 そのとき、報道のブームマイクの影が風に押され、私の頬に一瞬だけ触れた。反射で手が上がり、黒咲の手首と交差する。触れない約束が、街のノイズに一拍だけ乱される。彼女は払わず、私も引かない。二つの手首は接触せず、皮膚と空気の薄膜だけが間に残った。


「肉体は、嘘をつきにくいですね」

「身体は、観察を嫌うから」


「嫌うものほど、よく映る」

「映るものほど、歪む」


 視線が絡み、周囲の音が後ろへ退く。局所的な無音——街中でよく起きる、聴覚の選択性のいたずら。私は自分の呼吸の数を数える。四拍で吸い、四拍で吐く。黒咲は二拍で吸い、三拍で吐く。拍の差は、会話の先手後手に映る。


「あなたは、まだ書いている」

「あなたは、もう話し終えている」


「紙は破るより、隠すほうが難しい」

「声は隠すより、溶かすほうが早い」


 記者が一人、私たちの前に一歩踏み出し、マイクを差し入れようとした。黒咲はさりげなく手のひらを上に向け、その軌道をやわらかく逸らす。増幅を、まだ入れない。二人の間にあるのは、クローズドな回路だ。


「佐伯さん」

「何」


「観察は真実を照らす」

「観察は真実を壊す」


 再び、同形の文が重なる。鏡像反復。私たちは互いの言葉で互いの武器を磨いている。摩擦熱が生まれる。まだ音にはならない熱。


「次に会うとき、ここは群衆ではなくなります」

「次に会うとき、私は群衆を選びません」


「場所は」

「渡り廊下」


 黒咲の瞳孔がわずかに締まり、すぐ平衡に戻る。

「風が先。音が後。あなたの好きな順序」


「順序を変えるのは、私」


「順序を戻すのは、私」


 そこまで言って、私たちは同時に半歩、離れた。接近の前段は終わる。街のノイズが戻り、赤い「LIVE」のランプが視界の端で点滅する。どこかで小さな拍手が起き、すぐに解けた。通行人の誰かが「何か撮ってた?」と訊き、連れが「いや、わかんない」と答える。観客に物語はまだ渡っていない。


 黒咲は肩をすくめ、ノートの背を親指で一度撫でた。

「観察は、あなたを照らす」

「観察は、あなたを壊す」


「どちらでもいい」私は言った。「角度は、私が決める」


 彼女は微笑を薄く残し、人波の中に背中から溶けた。私は反対方向へ。群衆の粘性がふたたび速度を取り戻し、私たちの間に匿名の壁が立ち上がる。

 ——導入戦は終わった。

 次は、照明と破壊の、実体の角度を決める番だ。


 街のざわめきの中で、私はまだ震えていた。

 あの視線。あの声。黒咲と私が互いに放った言葉は、まるで鏡の表面に重ねられた二枚の刃だった。光を照らすと同時に、影を深くする。真実を照らすはずが、むしろ壊してしまう。


 観察とは何なのだろう。

 私はそれを拠りどころにしてきた。ノートに書きつけ、危険度を行列に並べ、誰が、どこで、どう動くかを冷静に測ってきた。だが今や、その観察は私を「犯人」に仕立て上げる鏡の仕掛けに変わっている。


 黒咲はそれを知っている。

 いや、知っている以上に、それを望んでいるのかもしれない。

 観察の先にある「行為」を私に背負わせるために。


 私は逃げ続けている。だが、逃げながらも「次」に向かってしまう。

 危険度行列の再演算の答えはただ一つ——黒咲との接触。必然。避けられない。

 そして、さっき交わした視線が、それを決定的な形にした。


 群衆は騒ぎ、記者は問い、SNSは断片を増幅させる。

 けれど、最終的に私を追い詰めるのは群衆ではなく、あの一人の観察者だ。

 彼女は照らす。私は壊す。

 どちらにしても、折り目は増えていく。


 次に会うとき、もう言葉だけでは済まないだろう。

 それを私は恐れているのか、それとも望んでいるのか。

 その答えさえ、いまはまだ書けない。


 おやすみ。また、明日。


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