第六章 沈黙の落下
観察は、行為の手前にある。
私はこれまで、それを盾にしてきた。言葉を並べ、数字に置き換え、現実を距離化することで「観察者」でいられた。
けれど、観察が長すぎれば、行為は遅れる。遅れは隙を生む。隙は、侵入を許す。
少年の影は、その隙を突いて私の生活に入り込んだ。
彼は「弱さ」を名として利用し、折水を鎖に変え、晒しを舞台に変えた。
私が与えた一滴が、彼にとっては世界を割る鍵となった。
ならば、観察はここで終わらせるしかない。
行為者として踏み出すこと。殺意を観察の延長として実装すること。
それが、裂け目を閉じる唯一の方法
「パチパチ……昨日はいい会話でした」
拍手の音は三拍で止んだ。乾いていて、湿度がほとんどない。
心臓が跳ねるより先に、私は怒りの温度を上げた。頬の内側に熱が集まり、呼気の出口が狭くなる。
「盗み聞きですか」
「観測です」
黒咲は淡々と、しかし楽しげに言う。猫背の線は崩れず、足元は床の目地にきっちり合わせられている。
「会話の内容は、ほとんど推定可能でした。彼は“言い訳”の言語能力が高い。あなたは“距離”の言語感覚が高い。いい組み合わせです」
「はい……? 何がしたいんですか」
「あなたを守りたい」
「……信用できません」
「当然です」
彼女は猫背のまま、やわらかく微笑む。歯は見せない。
「でも、信用は不要です。必要なのは、あなたの“次の動き”の予測だけ」
「予測してどうするんですか」
「先回りします。危険の構造に入っていくあなたより先に、危険の枝を折る」
「折れると思っているんですね、簡単に」
「簡単じゃない。けれど、“複雑”は私の得意分野です」
彼女はノートの角を親指で一度、撫でた。繊維の流れに沿って。
「複雑は、分解ではなく結線で扱うのが早い。あなたの動きは、枝の分岐角が小さい。だから、読みやすい」
「だったら、どうして私に話すんです」
「観測対象に、自分が観測されていると知らせるのは、時に反応を増幅させるから」
片目を細くし、笑いの温度だけを上げる。
「増幅した反応は、捕まえやすい」
「罠」
「そう。罠」
廊下の風が窓の桟で切れて、彼女の髪の先だけ揺れる。
「私には、私の罠がある」
「わあ……それは楽しみです」
黒咲は、軽く会釈して一歩だけ下がった。すぐに戻ってきて、囁きの高さで続ける。
「折水——いい名前ですね。薄く沈む、けれど残る。名は、折り目」
喉の奥が固まった。
ノートの見返しに鉛筆で小さく書いた文字。光の角度が合わなければ、反射は起きないはず。
なのに、彼女は知っている。
「どうやって」
「推定ですよ」
肩をすくめる仕草は、猫の伸びに似ている。
「昨日、教室の窓際で、あなたのノートの背に斜光が入りました。鉛筆は削ったばかりの芯ほど金属っぽく光る。見返しの押圧は表紙に筋を作る。水の語を好む人は、線を長く引きがち。合わせれば、音になる」
彼女は人差し指で空に“折”の字の上半分だけを描いた。
「名は、折り目。折り目は、水に沈めても消えない」
返す語が見つからない。怒りの温度と、恐怖の温度が、胸の中で干渉する。
「——話、いいかな」
朝永。
黒い手帳は出さない。出さないことで、場の温度を上げない技術。
靴音は一定、声は半音低いところで固定されている。
「あなたまで……何についてですか」
「何でも。何でも、というのは嘘だな。君の体調について、かな」
「体調」
「眠れていないだろう」
「どうしてそう思うんですか」
「歩幅。目の焦点の戻り方。言葉の“間”の取り方。あと、君の友人——遥さん、彼女が君の肩に触れる頻度」
朝永は黒咲に短く視線を投げ、また私に戻す。
「瞬目の周期も少し早い。呼気と語尾の位相がずれている。過労、もしくは思案過多だ」
「観察されるのは、気持ちのいいものではないですね」
「そうだね。だから最小限にする」
黒咲のノートがこちらへわずかに傾く。朝永はそちらを見やらず、言葉の粒径だけを小さくする。
「彼女は、時々、増幅を使う。私はなるべく、減衰で話したい」
「減衰」
「声を小さく、質問を短く」
朝永は息を整え、言葉を置く。
「君は何かを“破棄”しようとしている」
胃のあたりが、急激に冷える。
「証拠は」
「ない。仮説だ。仮説は固定しない」
彼はそれを言う時だけ、語尾の圧をさらに落とした。固定は誤りを生む——と、秤のほうが先に理解している。
「……私は、観察者でした」
「過去形だね」
「はい」
「観察者は、時に抗体になる。抗体は、しばしば病原体と似た形をとる」
黒咲が、そこで初めて口を挟む。
「擬態は、自己保存の記法でもあります」
「私を、犯人にしたいんですか」
「したくない」
朝永ははっきりと言った。甲高くならない低さで。
「犯人を作るのは、簡単だ。だが、簡単な解はたいてい間違っている。君を“犯人の形”に押し込めば、見落とすものが出る」
「何を見落とすんですか」
「弱さの偽造、という仮説が、すべての“弱さ”を偽物に変える危険」
黒咲がうなずく。
「包括的仮説の欠点です。説明力を拡げると、排除の力も拡がる」
肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。
秤は、いまのところ、私を指していない。
だが、針は揺れている。揺れは、いつか止まる。止まる場所は、私が決めることはできない。
「佐伯」
朝永は、最後に名を呼んだ。呼ぶことで、私を一点に戻す。
「君が“破棄”を選ぶなら、方法を間違えるな。間違った破棄は、破棄の痕跡を最も強く残す」
黒咲が続ける。
「焼けば分散。溶かせば変態。封じれば休眠。消去という語は、たいてい誤訳です」
私は目を伏せ、喉の奥で空気を転がした。
彼らは私の頁の内側の地図に、直接触れてはいない。けれど、地形の等高線を外側から読み取っている。
危険度行列の朝永の列に「減衰」の印を、黒咲の列に「増幅」の印を重ねて描く。どちらも必要で、どちらも危うい。
「では」
朝永は短く会釈し、黒咲も同じ高さで頭を下げる。
二人は歩き去る。靴音は急がない速度を保ち、角で減衰して消えた。
言葉の温度は上がらない——はずなのに、その言葉は、紙の繊維の奥で広がっていく。毛細管現象のように、ゆっくりと。
私は一度だけ深く息を吸い、危険度行列の欄外に三つの小さな式を追加する。
『増幅=反応を可視域へ』
『減衰=温度を観測値へ』
『破棄=痕跡の再配置』
指先はまだ冷たい。
冷たさは角度の代入値としては十分だ。
廊下の斜光が少し移動し、床の矩形が一列、細くなる。順序が入れ替わる気配。
私はノートを閉じ、背に親指を添えないまま、抱えた。所有の錯覚を避けるために。
——見られている。
——ならば、見せる角度は、私が選ぶ。
窓の桟を渡る風の音が、一瞬だけ先に来て、すぐに後が追う。
増幅と減衰のあいだに、私の罠を置く。
それが、今の私に相応しい計算だった。
帰宅前、廊下の蛍光灯が一度だけ明滅した。
準備室の前を通りかかり、取っ手に触れた瞬間、背後から声が落ちる。
「佐伯」
静かな呼び方。だが、呼び止める声の高さは、既に用件を持っている。
振り返ると、そこにいたのはやはり——小田先生。
「君の観察ノート、見せてほしい」
机の角に視線を逸らし、私は一呼吸の間を置いた。
「……嫌です」
「理由は?」
「私のものだから」
「その通りだ」
先生は頷く。だが、その頷きは一拍で止まらなかった。
「だが“学校のものでもある”と言われたら?」
「先生の言葉ですか」
「違う。制度の言葉だ」
彼は、やや苦い笑いを添える。
「私はできるだけ制度の言葉を使いたくない。けれど、制度が私を使うときがある」
「……見せません」
「頑固だね」
小田先生は少し笑い、すぐに表情を引き締めた。
「じゃあ、こうしよう。ノートは見ない。だが、君は私に“何もない”と、教師への虚偽申告をしないと約束できるか」
喉の奥で言葉が詰まる。
「それは……」
「“ない”を“ない”と言う勇気は、時に“ある”を告げる勇気より難しい」
彼の声は、低くて平板だった。強さではなく、重さで圧す声。
「……先生」
「私は君を疑っているのではない」
目の奥に濁りはなかった。
「君の“孤立”を疑っている」
「孤立……」
「観察者は、時に孤立する。孤立は、誤った切断を呼ぶ」
言葉は抽象だが、刃の冷たさを含んでいた。
私は視線を落とした。
「……私のノートは、誰かを傷つけますか」
「ノートは紙だ。紙は刃ではない」
先生は答える。
「だが、紙の端は切れる」
「先生は、私を守りますか」
「守りたい」
返答は遅れなかった。その即答が逆に、真実を滲ませる。
「だが、守るためには、君が見せてくれる何かが必要だ。全部じゃなくていい。端でもいい。紙の端でも」
私はうなずかなかった。
うなずけば、ノートが開く。
ノートが開けば、名が出る。
名は、折り目だ。
折り目は、水に沈めても消えない。
小田先生は、それ以上は強く言わなかった。
ただ、扉の前で立ち止まり、「明日、また話そう」とだけ告げて、出て行った。
残された準備室の空気は、静かすぎて、逆に音を孕んでいた。
蛍光灯がまた一度だけ明滅し、その明滅の残像が、まるでページの余白に走る鉛筆の跡のように見えた。
——「紙は刃ではない。だが端は切れる」
私は胸の中で繰り返す。
端だけ見せろ、と言われた。だが端もまた、全体の一部だ。
端を見せれば、折り目の角度が透ける。
角度が透ければ、構造が読まれる。
私はノートの背に触れず、抱えたまま廊下に出た。
触れれば所有の錯覚が強まる。錯覚が強まれば、いつか本当に「開いてしまう」。
だから触れない。
だから閉じたまま、冷たい指先をポケットに沈めた。
孤立。
その語は、刃よりも深く胸の中に残った。
夜。
暗がりの中、机の上に伏せられたノートの角が、スマホの微光を淡く反射した。
画面が震える。新しい通知。遥だ。
《起きてる?》
指先で触れる前に、私はすでに答えを心に用意していた。
《起きてる》
一拍おいて、次の文字列が届く。
《あのさ、黒咲さん、怖い》
呼吸が浅くなる。返答は短くした。
《……うん》
《観察がさ、怖い。観察って、優しさの形でもあるけど、刃物の形でもある》
私は画面を長く見つめ、返す。
《知ってる》
《でもね、私はあなたを見る。あなたを守るためにだけ》
画面の光が指に吸い込まれる。
《ありがと》
《なんでもない》
そこから沈黙が落ちる。
スマホの光だけが、部屋の空気を切り取る。
やがて、新しい文が届いた。
《美沙。名前って消せると思う?》
心臓が一度、硬く跳ねた。
画面を前に、指はしばらく動かなかった。
長い停止ののち、私は打った。
《繊維の中には残る》
間を置かず、返答。
《そっか》
私は続ける。
《でも、沈めることはできる》
《どうやって》
《別の名前で覆う》
《それって、嘘?》
《保温》
短い沈黙のあと、返信が一つだけ。
《……うん》
そこで、会話は終わった。
画面の光はなお机を照らし、白い紙の繊維の奥へ沈んでいく。
その光は一瞬のうちに消えるのではなく、薄い層に染み込み、跡のように残った。
——名は折り目。
折り目は、水に沈めても消えない。
別の層で覆っても、繊維の奥で脈打ち続ける。
私は画面を伏せ、暗がりに戻した。
残像だけが瞼の裏で光っていた。
夕方。職員室前の小さな面談室。
蛍光灯は一本だけ切れていて、残る二本がわずかに色温度を違えた光を落としていた。壁時計は秒針の音を抑え込むタイプだが、耳を澄ませば、ガラスの内側で微かな摩擦音が擦れている。机は四角、椅子は三脚。私は端、黒咲が正面、朝永が壁際。
窓は磨りガラスで、廊下の往来は影の濃淡だけに変換されていた。外気は乾いていて、紙がよく鳴る湿度だった。
「——で、あなたは“破棄”を考えている」
黒咲の言い方は断定だった。声量は上げないのに、文末の角度だけが鋭い。確率ではなく、既定事実の音程。
「仮説の域を出ません」
朝永がやわらかく差し挟む。
「固定しないでおこう」
「でも、固定しないと、犯罪は止まらない」
黒咲は笑顔を動かさない。頬は緩むが、目は閉じない。
「ねえ、佐伯さん。あなた、ノートの見返しに書いたでしょう。『O-λ』。その横に、小さな点を一つ。あれは何?」
まばたきの回数を一度だけ増やす。呼吸は乱さない。
「見ていないはずです」
「見ていない。けれど、見える」
黒咲は、指先で机の縁を撫でた。繊維の逆目を確かめる仕草。
「紙背の押圧は、表紙に筋を残す。鉛筆の芯は、削りたてだと金属反射を帯びる。見返しは閉じていても、光は周縁から漏れる。点は、語の起点にも終点にもなる。だから、見える」
「観察の錯覚だ」
朝永がゆっくり遮る。
「視野の外にあるものを、見たと確信してしまう。プロの罠だ」
「罠は嫌いですか」
「嫌いだ」
「私は好き」
黒咲は肩をすくめ、こちらを見る。猫背の線は崩さない。
「佐伯さん。あなたは優秀です。観察者の優秀さは、時に捜査の邪魔になる」
「邪魔」
「犯人でない人を、犯人より先に『動く』位置に置くから」
微笑のまま、言葉だけを低くする。
「“先に動く善意”は、因果の並びを乱す」
「——私を、犯人にしないでください」
「しない」
黒咲は即答し、唇だけで笑った。
「あなたは犯人には向かない。犯人は、もっと『孤独』を美化する」
壁際の朝永が、そこで初めて姿勢を変えた。背を離さず、重心だけ前へ寄せる。
「佐伯。ここで私からの依頼がある」
彼は声を半音落とし、言い切りを避ける調子で続ける。
「君は“破棄”をするにしても、必ず誰かに——できれば私に——方法を残せ。方法の記録は、破棄の切れ味を鈍らせるが、破滅を防ぐ」
「方法は、書かない」
「書けとは言っていない。残せと言っている」
「同じです」
「違う」
朝永は、声をさらに一段落とした。空気がそこで吸い込まれる。
「『紙』に書くな。だが、『方法の断片』を、『人間』に残せ。人は、紙よりも破れにくい」
黒咲が笑い、掌を一度だけ静かに叩く。
「いい。人間を媒体にする。古典的で、強い。——で、誰に」
視線を落とす。紙ではなく、人。
遥の顔が一瞬浮かんで、すぐ沈む。小田先生の指の白さが浮かんで、消える。
教師の震えの皺は、今でも新しい。
そして、黒咲の笑顔。朝永の秤。
媒体にする人間には、刃の鈍さが要る。鋭すぎる媒体は、運ぶ前に切る。鈍い刃は、傷をつけにくい。
「……考えます」
「考えがまとまるまで、君は危険の構造に近づきすぎるな」
朝永の声は、終わりの合図のように静かだった。命令形を避け、助言の相で固定する。
「これは『命令』ではない。『お願い』だ」
「お願い」
「捜査には、『お願い』がいる。命令ばかりだと、仮説が壊れる」
彼はそこで黙り、筆記具を一度だけ回して止めた。机に触れない、音の出ない回し方。
黒咲が、椅子の前脚を一ミリだけ浮かせ、すぐ戻した。
「補足します。あなたが破棄に選ぶ方法は、物理・化学・秘匿の三系統に分かれがち」
指で空に三本の線を描く。
「焼却は分散を生み、溶解は変態を生み、封印は休眠を生む。消去という語は、たいてい誤訳。配置換えが正確」
笑って、すぐ真顔に戻る。
「だから、人に断片を残すのは、配置換えの安全弁になる。保温としての別名でもいい」
私は喉の奥で唾をひとつ折り畳み、のみ下す。
名は折り目。折り目は、水に沈めても残る。覆うなら、温度を変えるのがいい。保温は、嘘の代名詞ではない。温度管理だ。
「——もう一つだけ」
朝永が締めの前に、わずかに息を置く。
「孤立は、誤った切断を呼ぶ。孤立の徴候が出たら、誰でもいい、一人に何かを預けなさい。端でいい。紙の端でもいい。人に預けることで、切断面は鈍る。鈍れば、致命になりにくい」
黒咲も頷く。
「観測はしばしば孤立を生む。孤立は反応を増幅する。増幅は模様を出すけれど、破綻も早める。……だから、減衰を一つ、持っておいて」
面談は終わった。
私は椅子を静かに戻し、脚のゴムが床の蝋をわずかに噛む音を聞いた。
ドアノブの金属は冷たく、掌の熱が表面で散っていく。
外の廊下の空気は少し冷え、音はよく通った。遠くで部活動の号令が反響を一回だけ起こし、すぐ減衰する。
私は、靴底を静かに運んだ。足音の幅を半拍狭める。存在の振幅を下げるために。
曲がり角で一度だけ立ち止まり、面談室の密度を振り返る。
黒咲の増幅。朝永の減衰。
そして、私の保温。
紙は刃ではない。だが、端は切れる。
人は紙より破れにくい。だが、裂け目は残る。
だから私は、端だけを、誰かに残す。断片を、鈍い刃に預ける。
——固定しない。
——消去しない。
——配置を変える。
それが、最後通達として受け取った仕様だった。
私はノートの背に親指を添えず、胸の前でただ抱えた。所有の錯覚を避けるために。
光は低く、風は細い。
終端はまだ先にある。だが、端はもう私の手の中にある。
夜。机の上に開いたノートは、すでに「記録」の器ではなかった。余白に書き込まれた危険度行列は、数式から戦術へ、観察から設計へと変わりつつあった。
神代——最大リスク。その名はもはや「点」ではなく「起点」だった。彼から放射されるベクトルが、他のすべての対象の挙動を歪ませている。ならば、起点を切断することでしか、行列を閉じることはできない。
私はノートに三つの条件を書き出した。
一、場所。死角ではなく「視線の密度が薄まる縁」。人が通るが滞留しない。渡り廊下、あるいは水辺の堤防。
二、時間。人の流れが半拍ずれる夕刻。影の角度と風の順序が指標になる。
三、媒介。彼が必ず反応する符号。それは折水、そして私という観測者。
条件は揃っていた。あとは呼び水。曖昧な便箋一枚でいい。署名はいらない。曖昧は彼に余白を与え、余白は欲望を増幅する。
——観察者としての最後の記録を、私は踏みにじる。
観察は予測を生み、予測は行為を呼び寄せる。
殺意は、観察の延長だ。
⸻
翌日。私は短いメッセージを送った。
《話がある》
《どこで》
《渡り廊下》
返事はすぐ来た。
《いい場所だ》
⸻
夕刻。渡り廊下。
西日の斜光が床に長い矩形を幾つも並べ、その端で風が先に抜け、音が遅れて届く。人影は希薄に流れ、誰も長く留まらない。
そこに、神代が現れた。肩の力を抜いた歩き方。だが視線は散らしながら、こちらを測っていた。
「呼び出すなんて、珍しいね」
彼は笑った。声は平板。だが、余白のある笑いは観測者を誘う罠だ。
「確認がある」
「俺の罪状?」
「あなたの“次”」
彼は片眉をわずかに上げ、問いを返す。
「じゃあ先に。君の“次”は?」
「破棄」
「何を?」
「名」
「折水?」
彼はその名を、わざと甘やかすように発音した。
「いい名前だと思うよ。沈んでも消えない。君らしい」
「あなたは、その名を利用した」
「名前は便利だから。信号になる。合図になる」
神代は腕を組み、斜光を背に立った。
「俺は“弱さ”という名を自分に貼った。あるいは貼られた。どちらにせよ、貼られた事実だけが残る」
「あなたは弱さを偽装している」
「偽装って言葉、便利だよね。俺のも、あいつらのも、全部“偽物”にできる」
会話は、裁判の口頭弁論のようだった。
彼は「被害」を盾にし、私は「観測」を刃にして応じる。
言葉がぶつかるたび、風の流れが一瞬だけ止まり、矩形の影が揺れる。
「あなたは、誰を消したい」
「次?」
神代は靴先で影を崩しながら言った。
「俺を測る人。俺の折り目を指でなぞる人」
「黒咲」
「名前は言わない。でも、君も同じだ」
空気が硬くなった。
「わかってるよ。俺に“力”をくれたのは君だ。俺を観察して、俺の角度を測って、そこに“近づけるだけ”のものを置いた」
「私は——」
「言い訳はいらない」
彼の声は穏やかに響いた。だが基音は冷たい空洞。
「君は観察者。観察者は抗体になりたがる。病原体があれば、抗体は動く。俺は病原体なんだろう?」
「あなたは、感染する弱さ」
「だったらどうする」
「止める」
「どうやって?」
「——ここには書かない」
神代は笑った。
「またそれか。“書かないこと”が君の刃なんだな」
「書けば、証拠になる」
「証拠が怖いの?」
「あなたが怖い」
「嬉しいな」
彼はにこりと笑った。
「やっと対等だ。俺は君と継続したい」
「させない」
「じゃあ、しょうがないね」
声は静かに落ちた。
「君の“観察”と、俺の“演算”。どちらが先に、どちらを切断するか」
言葉の応酬は、すでに開始の合図だった。
観察者の座標は、今ここで行為者の座標へと転換する。
風が先に吹き、音が後れて届く。
矩形の影が揺れ、角度を深くした。
沈黙が裂けるのは、一瞬だった。
神代が一歩踏み出す。靴底の音は渡り廊下に乾いた波紋を広げ、距離を一気に縮める。私は後退しなかった。むしろ、指先が冷えたことで体の芯は逆に安定していた。
「君は観察ばかりしてきた。でも、観察は行為の前座だ」
神代の声は、低く滑るように近づく。
「行為者にならなきゃ、舞台は閉じられない」
「だから——来た」
次の瞬間、彼の腕が伸び、私は胸の前で瓶をかばった。
小さなガラスの容器。その透明な揺れに、全ての均衡が集約している。
彼の手が私の首を締め付ける。苦しい…。
私も必死に神代を押さえ込む。
観察はもう役に立たない。記録する時間は、ここにはない。
「返せ」
彼の声は低いが、震えはなかった。
「それは俺のだ。君が渡した、君の証明だ」
「ちっ……違う。——これは、私が終わらせるための証明」
廊下に二人の影がもつれ合う。
風が先に吹き抜け、次に音が遅れて届く。衣擦れ、靴底の摩擦、瓶の震える硬質音。
取っ組み合いの形は、互いの視線を逸らさないままに続いた。
私は気づいた。彼は瓶そのものよりも、私が「観察者」であり続けようとする執着を狙っている。瓶を奪えば、記録も論理もすべて逆手に取れると確信しているのだ。
だから——私は逆を選んだ。
ノートを守るようにしてきたこの手で、私は瓶を握り直した。
観察者としての最後の記録を踏みにじり、行為者になるために。
「観察は終わり。次は——処置」
私は神代の口に瓶を押し込んだ。
抵抗の力が一瞬、空気の中で途切れる。
神代の身体は、支えを失った影のように後方へ撓み、渡り廊下の手すりを超えて傾いた。
彼は高所から落ちていった。落下は短く、終わりは静かだった——静けさが突然満ちる。渡り廊下の風が、さっきまでよりも透き通るように鳴った。
私はただ立ち尽くした。胸の内で何かが剥がれ落ちる音がした。観察者としての自分が、物語の一部としての死を記録することを停止し、代わりに行為を行ったという事実。
言葉の正当化は、もはや私を保護しない。記録は踏み潰され、折り目は深く刻まれる。
周囲の時間は逆戻しできない速度で動き出す。足音。叫び。スマホの光。誰かが駆け寄る影。私は息を吐くことができず、視界の端で薄く嗚咽が聞こえた。救急車のサイレンの音は遠くで伸び、向かってくる。
その場面で私がなしたのは、もはや観察の延長ではないと言われるかもしれない。だが、私の内部ではその行為は、観察に由来する最後の選択として記憶される。ノートに記した角度と、現場で決めた角度は重なり、刃は研ぎ上げられた。
無論、言葉は行為を完全には覆い隠せない。私の正当化は言語の領域に留まり、世界は別の物語を立て始める。
後のことは、報道が形作り、警察が調べるだろう。だがその直後、私の身体は冷たく震え、掌に残った破片の切子は視覚的にも心理的にも深い後遺を残す。私は膝を折らずにその場を離れた。
逃げるというよりも、選んだ道を最後まで辿るための移動だった。足音は私の意志の記譜であり、背後に残されたものは――折り目の深さだけだった。
観察者は、もう戻れない。
私は記録のページを破ったのではなく、自らの手で折り目を深く刻んだ。
沈黙はまだ私の中で続いている。風が先に吹き、音が遅れて届くように、決断の余波もまた遅れて私を襲うだろう。
けれど——その遅れは、もはや恐怖ではなく、私が選んだ「責任」の影だ。
折水の名は沈められない。だが、沈めるふりをしてでも、私は生き延びなければならない。
私は渡り廊下を離れ、影の残響を背にした。
観察は終わった。次に続くのは、行為の記録だけだ。
おやすみ。また、明日。