第五章 切断の序曲
境界は、いまや線ではなく設計図だ。
観測の記法は、行為の仕様に翻訳される。風が音に先立ち、恐怖が角度を調整し、記録は供述にも凶器にもなりうる。
私は理解した——危険は対象ではなく構造だ。切るべきは誰か一人の名ではなく、連結を生む結び目。それでも、最初の切断点は座標ではなく起点として私の前にある。
おびき寄せは偶然を装う必然であり、未完は誘導、完了は切断。
風向きで退出路を決め、影の長さで時刻を測り、言葉は予備実験として紙に置く。
観測者であるために、私は行為者になる。矛盾は仕様だ。仕様は、やがて方法になる。
——この章は、設計が角度に置き換わるまでの記録である。
そして、角度が刃へ変わる直前の温度についての覚書でもある。
夜の部屋で、私は机の上にノートを開いた。
余白に並ぶ危険度行列を、もう一度なぞる。数字や記号というより、矢印と矩形が紙の上で呼吸していた。
——神代。最大リスク。
それはすでに「座標」ではなく、「起点」だった。ここからあらゆるベクトルが伸び、他の全ての点が撓む。
私は「おびき寄せ」を設計に置き換えた。観測の記法を、行為の仕様に翻訳する。
条件は三つに単純化されているようで、内部では微分が続く。
① 場所:孤立し、第三者の目が届きにくい。だが完全な隔絶は逆に不自然だ。必要なのは「気づかれない開放」——視界の端で見逃される種類の空間。通過者の足音が希薄に往来し、音が拡散して線にならない場所。
② 時間:人の流れが一度切れる遷移帯。部活の終わりと帰宅の始まりが交錯し、校内のテンポが半拍だけずれる夕刻。目撃は生まれうるが、物語化されにくい瞬間。
③ 媒介:彼が抗えない「呼び水」。それは折水、そして——「私」。相手の演算の中で必然へ変換される偶然。
計画は冷静さを装っていたが、内心の震えは消えない。
観測者を名乗る私が、観測対象を行動へ導く舞台装置を組んでいる。これは記録ではない。演算の出力だ。
私はまず、場所を確定した。
校舎裏の渡り廊下。片側は斜面の沈黙に面し、もう片側は金網の向こうに校庭の余白が落ちる。夕刻には光が傾いて長い影が敷かれ、足音は細く途切れる。ここでは風が先に来て、次に音が来る。
この地形なら、私と神代という二つの座標が局所的な座標系を支配できる。空間は味方ではないが、中立に保てる。
次に、呼び水。
引き出しから小さなガラス瓶を取り出す。折水のオリジナル。副系ではなく、本流。
光を受けた液体は、ごくわずかに揺れる。熱運動なのか、私の脈の映り込みなのか判別できない。
「渡す」前提にすれば、彼は来る。
彼にとって折水は「武器」ではなく、「関係を固定する錨」だ。錨が底に触れる音を、彼は聞き逃さない。
——問題は、どう呼ぶか。
私は便箋に短い文をしたためた。
「話がある。例の件について。渡り廊下、放課後」
署名はしない。だが筆跡と句読の癖、そして曖昧さそのものが、私個人の署名として機能する。
わざと空白を残す。空白は誤読の余地を生み、誤読は期待を増幅する。人は穴を埋めようとして、自分の欲望の形で埋める。
便箋は二つ折りにして、明朝、下駄箱の紙の層に差し込む。単純すぎると分かっている。けれど彼に必要なのは「明白な罠」ではなく、「偶然を装った必然」だ。
私は同時に、誤配の余白も測る。もし別人の手に渡ったとき、文面が示すものは単なる「相談」に過ぎない。
——痕跡は残すが、意味は固定しない。
ノートの余白に書く。
「おびき寄せとは、観測者が舞台を用意すること」
筆圧が強くなり、紙の裏へ跡が透けた。偶然ではない。計画は繊維に刻むと消えにくい。折水と同じだ。薄くなることはあっても、消えない。
さらに、失敗時の分岐を示す。
・不来訪:当日現れない場合、文言を一字だけ変えて二度目の便箋を用意する。「例の件」を「前の約束」に置換。意味は同じで輪郭だけを変える。
・想定外の第三者:渡り廊下の前方に人影がある場合、無言の通過を選ぶ。観測可能域に自分を戻し、舞台そのものを無作品にする。
・先着(彼が先に待つ):背後から近づかず、正面から入る。こちらの影を、先に見せる。影は警戒を鈍らせる。
退出動線も描く。
A経路は回廊を戻り、B経路は斜面側の階段を下る。選択は風で決める。向かい風ならA、追い風ならB。風向は紙切れの揺れを見れば分かる。
——物理量に決めさせる。感情で選ばない。
持ち物は最小化する。瓶、便箋の残り、折り畳みのメモ(破棄語のみ)。ペンは一本。可逆的な痕跡を残さないため、記録器具を記録しない。
衣服は音の少ないもの。色は影に馴染むが、目撃談に残りにくい無地。
時間管理は、チャイムではなく影の長さを基準にする。影は嘘をつかない。雲に隠れても、方向は失わない。
私は机の角に手の甲を置く。体温が木目に吸われ、表層から現実が沈む。
心拍数の変動は次第に振幅を揃え、鼓動は拍節を取り戻す。整っているのは覚悟か、それとも錯覚か。
錯覚なら、それでもいい。錯覚が行動の先行指標になることはある。
最後に、中止条件を書き足す。
・小田先生の視線が頁に触れたとき。
・黒咲の気配が風のように曲がったとき。
・自分の手が記号を取り戻し、「大丈夫」と書きそうになったとき。
この三つが揃えば、舞台は閉じる。
——私はまだ観測者でいたいのかもしれない。その余地を、完全には捨てない。
窓を開け、夜気を吸う。冷気の中で、心拍がわずかに整う。
視界の端で、街の灯りが遅れて瞬く。遅れは誤差ではなく、距離の証拠だ。
私は便箋を封じ、瓶を布で覆い、引き出しに戻した。戻す手つきは、儀式として十分に静かだ。
観測者であるために、私は行為者になる。
論としては矛盾だが、現場ではこれが唯一の解になる。
ノートの端に小さく、もう一行。
「設計=介入の隠語」。
机の上の影が、ゆっくり長くなる。
影の角度で、次の自分を決める。
浅ければ戻る。深ければ、戻らない。
私はその差を、今夜のうちに折り目として自分へ刻む。
放課後の廊下は、靴底の薄い音をよく拾う。
消えかけの蛍光灯が一拍遅れて明滅し、窓から差す斜光が床に長い矩形を幾つも重ねる。矩形の端に、猫背の影が立っていた。黒咲。
彼女は壁に肩を預け、ノートの角を親指で軽く撫でていた。繊維の流れを確かめる、紙の「木目」を読む人の癖。ページはめくられず、ただ触れられている。触れるだけで情報の輪郭が立ち上がると知っている、観測者の手つき。
「佐伯さん」
私の名を、柔らかい声で呼ぶ。音量は小さいのに、届く。廊下の反響を計算した声。
「昨日の講話、どうでした?」
「……怖かったです」
呼気と一緒に言葉が漏れる。述語が先に落ち、主語が内側に残る。私の悪い癖だ。黒咲は、そこまで見ているに違いない。
「怖い」
黒咲は同意の単語を、口蓋でひとつ転がすように反復した。
「いいことです。怖がらない人のほうが、ずっと危ない」
「危ないのは、誰ですか」
「“怖がらない”人全般」
彼女は語を選ぶ間に、ノートの背を人差し指で二度叩いた。
「たとえば、残虐の演出を“有効な手段”として整然と受け止められる人。恐怖を除去するのではなく、媒体化できる人、かな」
「媒体……」
「ええ。恐怖は拡散性が高い。粒子じゃなく気体に近い。拡散するものは、使い方を知っている者には便利な道具です。情報と同じで、媒質があると早い」
「——犯人は、その道具を使った」
「と、私は見ています」
黒咲は小さく笑った。笑いは温度を持たない。
「ところで佐伯さん。あなたは“観察”が得意なんですよね?」
「どうして、そう思うんですか」
「姿勢。話すときの語順。視線の跳ね返り。それから——ノートの持ち方」
親指が私のノートの背に重なる角度を、彼女は同じ角度で真似た。
「背を押さえる親指が、紙の繊維を撫でる習慣のある人のそれです。繊維の向きに沿って押さえると、ページは波立たない。知っている人の指の動き」
「……観察、しているんですね、私を」
「もちろん」
黒咲は、悪びれずに言う。
「ここに来てから、私は“観測者”として振る舞っています。犯人像は観測されたがっていないのに、痕跡は観測に弱い」
「観測は、対象を変えます」
「そのとおり。観測者効果ですね」
頷きは小さく、しかし等速。
「だから対象は観測者を嫌う。嫌悪が出れば、反応が出る。反応が出れば、模様が見える。模様が見えれば、連結が分かる」
「……ゲームみたいな言い方」
「いやですねー。仕事です」
微笑みは硝子のように無色透明で、冷たい。
「たとえば——これ」
親指がページの端をほんの数ミリだけ開き、鉛筆の細線がのぞく。
『公園/19:20/会話:彼・あなた/“迷惑をかけない”反復』
心臓が一度、強く脈を打った。
喉に乾いた音が落ちる。
「盗聴したんですか」
「いいえ」
彼女は淡々と首を振る。
「場所の観測。会話の断片の推定。時間帯の統計。あなたの歩幅の変化。スマホの発光のタイミング。それと——昨日のあなたの帰宅ルートが五分だけ長かったこと。全部、観察で足ります。推定は盗聴の代替物になりますよ」
「……気味が悪い」
「犯人からすれば、とてもね」
彼女はノートを閉じた。音を立てずに。
「佐伯さん。あなたは“怖がる人”でいてください。怖がる人は慎重になる。慎重な人は、たいてい危険を避けられる」
「怖がらない人は?」
「たいてい、刃の角度を間違えます」
彼女は言い、わざと廊下の矩形の影の縁に靴をかけて立ち位置をずらした。
「刃は素材ではなく、角度で成る。角度は怖さで調整される。怖さがないと、角度は甘くなる。甘い角度は、戻り刃になる」
その言い方はあくまで抽象的で、具体に触れない。だからこそ、想像の余白が冷たく広がる。
私は無意識に、危険度行列の重みを更新した。黒咲の行、外圧リスクが微増。見えているのに、掴ませない。透明な圧。
黒咲は踵を返しかけ、ふと動きを止めた。
「そういえば——」
猫背の線が、わずかにほどける。
「渡り廊下の風、好きですか?」
私は答えなかった。
代わりに彼女が一歩だけ歩み寄る。距離を詰めず、角度だけ変える。
「夕方の風は、音の順番を入れ替えるんです。風が先、音が後。誰かに近づくには都合がいい。でも、誰かに近づかれるにも、都合がいい。双方向」
それだけ言うと、彼女は本当に踵を返した。歩幅は一定、足音は矩形の影で薄くなる。
猫背の影は角で細くなり、見えなくなった。
廊下の空気が、ひと呼吸遅れて戻ってくる。私は壁から離れ、指先の温度を確かめた。冷えている。
震えは、まだ刃に変わっていない。
——変えるなら、角度からだ。
私はふと、黒咲のノートに露出した一行を思い出す。『“迷惑をかけない”反復』。
言語は痕跡だ。反復は、癖。癖は、鍵。
鍵穴の形を先に知る者が、扉の前で有利になる。
私が用意した便箋は、鍵か、鍵穴か。
渡り廊下の風は、味方か、媒質か。
危険度行列の欄外に、鉛筆で小さく足す。
『恐怖=角度調整装置』
『観測=反応誘発器』
『風=順序交換器』
意味は通じる。少なくとも、私には。
私は握り込んだ拳をゆっくり解いた。温度はまだ戻らない。
けれど、温度は角度の代入値として十分だ。
今は、まだ。
刃にならない震えを、設計に変える時間が残っている。
教室に戻ると、小田先生が私の席の横に立っていた。
「佐伯、ちょっといいか?」
「はい」
「最近、眠れていないんじゃないか」
声は柔らかいのに、音程の下端に記録簿の紙音が混じる。私は反射的に笑顔を貼った。
「寝てます」
「ふむ」
先生の視線が、私のノートの角で一拍だけ停滞した。ほんの一瞬。だが、それだけで充分だ。閉じられた頁の繊維方向まで量っていく目。
「観察記録をつけているんだろう?」
「少しだけ」
「観察はいい。だが、記録は体温を奪う」
チョークの粉が光を返し、先生の指先に白い微粒子が付く。
「冷えると、紙は破れやすくなる。破れた紙は、折り目のところで裂ける」
「先生は、私に何を言いたいんですか」
「“記録は武器にも凶器にもなる”。……これは授業でよく言うが、よく忘れられる」
板書の消し跡が斜めに曇り、窓の外の光と干渉する。
「私の記録が、誰かを傷つけると?」
「いや、記録が“誰かに使われる”可能性だ」
先生は呼吸の間を一拍あけ、ことさらに無造作に話題をずらす。
「最近、警察が学校をよく見ている。観察されると、観察する側の記録もまた観察対象になる」
「先生」
「ん?」
「私のノートは、私のものです」
「それはその通りだ」
先生は穏やかに笑い、声を半音落とした。
「だが“君のもの”であることを、誰が保証できる?」
返す言葉が見つからなかった。
保証。所有。閲覧権。私は頭の中で、危険度行列の小田の列に「閲覧経路」という変数を追加入力する。
先生は立ち去り際に、ふと振り返った。
「佐伯。紙は、破るより、隠すほうが難しい」
残された空気の温度が、わずかに下がる。時計の秒針が一拍だけ重くなる。私の指先は、ノートの角から意図的に離れた。触れれば所有の錯覚が強化される。離せば、露見の確率は下がる——はずだ。
耳の奥で、さっきの会話が再生される。
観察はいい。記録は体温を奪う。
言い換えれば、私は今まさに冷却の過程にいる。冷えた紙は裂けやすい。裂けるのは、折り目。
——私が自分でつけた折り目だ。
⸻
昼休み。遥が机を引き寄せる音は、普段より静かだった。キャスターのゴムが床の蝋を噛み、余計な音を吸う。
「美沙、今日、ちょっといい?」
「何」
「昨日の公園、行ってた?」
呼吸が止まる。肺が二秒の待機に入る。
「どうしてそう思うの」
「見たの。帰り、あなたの背中。横断歩道のところ」
遥は目線を逸らさず続けた。
「で、そのあとすぐ救急車の音がして——いや、別に関係あるとは思ってないけど」
救急車。サイレンの上がり下がりが、頭蓋の内側で記録を呼び出す。私の心拍は半拍早送りされ、喉の奥で乾いたクリックが鳴った。
「……怖がらせたいの?」
「違う」
遥は首を振る。ポニーテールが一瞬だけ遅れて揺れる。
「黒咲さんが言ってた“弱さの偽造”の話、さ。なんとなく、誰のことか皆、分かってるみたいに話してる。でも、私は信じたくない」
「何を?」
「“誰か一人”を犯人にする空気」
遥は言葉に括弧を付けるように指先を動かした。
「ああいうので、誰かが潰されるの、もう見たくない。前にもあったじゃん、違う件で。空気が物語を先に決めて、人をそこに押し込むやつ」
彼女は私の目を真正面から見た。視線の焦点は静止している。
「だから、訊いてる。あなたが苦しそうに見えるから。何があるの」
苦しそう。形容詞は主観だが、観測値でもある。私は喉の奥で息をひとつ折り畳み、言葉を低く置く。
「……何も、ないよ」
「嘘」
遥は即答した。声は大きくないのに、周波数が真芯に当たる。
「でも、今はそれでいい」
彼女は机の端に手を置き、私の側へ一センチだけ寄せた。
「言いたくなったら、私に言って」
「どうして」
「私の“観察”は、あなたを守るためだけに使うから」
言葉の置き方がやさしい。助詞の選び方が、責めず、囲わない。「だけ」という限定が、私にとっては遮蔽板のように機能する。
友情はネットワークだ。噂や視線の流れる配管にもなる。だがいまこの瞬間の彼女は、ただのノードではなく、緩衝材だった。
私は危険度行列の遥の列に「バッファ」と書き足し、重みを負に振る。負の重みは、拡散の減衰器になる。
教室の雑音が戻ってくる。弁当箱の蓋が開く音、牛乳パックの折り目が鳴る音、遠くの運動場から風に乗って届く笛。
私は視界の隅で、自分のノートを見ないようにした。見れば、触れる。触れれば、書く。書けば、温度が下がる。
小田先生の言葉が、別の角度で蘇る。
——紙は、破るより、隠すほうが難しい。
隠すことは、嘘をつくことではない。角度を決めることだ。
私は弁当の箸袋を細く折り、そこに短い線を一本引いた。誰にも意味の分からない線。
合図は自分だけが読めればいい。
遥は立ち上がる前にもう一度だけ言った。
「私の観察は、あなたの味方」
味方。
その二文字が、脳内の秤のゼロ点をわずかに戻す。
私はうなずかないまま、うなずいたのと同じ長さだけ息を吐いた。
観測と記録と沈黙。その三つのレバーの位置を、今日だけは人の言葉で微調整できた気がした。
そして同時に理解する。
——微調整ができるうちに、設計を終わらせる。
渡り廊下の風は、きっと今日も順序を入れ替える。
風が先。音が後。
その時間差の狭間で、私は角度を決める。
放課後、スマホが一度震えた。
《会いたい》
短い文字列には、説明がない。説明のない呼び出しは、たいてい説明を避けたい用件だ。
《どこで》
《君の好きな公園》
駅前の公園は、夕方の光が薄い膜になって、ベンチの板の上で剥がれかけていた。舗装の継ぎ目に入った砂の縁が白く乾き、噴水の水音は風に攫われて順序を失う。ハトが二羽、芝の低いところで同じ軌道を描き、遠くの横断歩道では信号の電子音が三拍子で途切れる。
私は風上に立った。音の順番が入れ替わるのを確認するために。風が先、音が後。誰かに近づくにも、近づかれるにも、都合がいい配列。
神代は、ベンチの端に座っていた。影の輪郭は細く、顔は平板に見えた。膝の角度、靴先の開き、背面の緊張。いずれも準備の姿勢ではないが、拒否の姿勢でもない。
「来てくれた」
「話があるんでしょう」
「話、というより、確認」
彼は、私を見るとも見ないともつかない視線で言う。視線の軌跡が、私の肩から少し後ろの空気へ滑っていく。人を見るふりをして、場の反応を測る目だ。
「美沙さん、約束しましたよね。“迷惑はかけない”って。俺は、守ってる」
「守ってない」
「どうして」
「五つの命が消えた」
「それは、彼らが先に、俺の“生活”を消したから」
生活、という語を彼は丁寧に置いた。生活=領域。領域の侵害に対する等価反撃。言葉の数式は、自己正当化としては滑らかすぎる。
「……あなたは、弱さを偽装している」
神代は笑った。歪みのない笑い。声帯の震えが音にならない種類の笑い。
「言葉って面白い。偽装って言えば、どっちの弱さも“偽物”にできる。俺のも、あいつらのも」
語の選択は両刃だ。両側の意味面を一度に切る。そうして責任の輪郭を薄める。
「あなたは、誰を消したいの」
「次?」
彼は少し考えるふりをした。視線は足元の影に落ち、靴先で影の輪郭を僅かに崩す。
「“観察してくる人、かな。俺を測る人。俺の折り目を指でなぞってくる人」
「黒咲」
「名前は、言わない。……でも、あなたも、そうだよね」
言葉の刃が紙を切らず、空気だけを切る。なのに、切断音だけが内耳に残る。
空気が硬くなる。私は姿勢を一度だけ正し、距離を半足分だけ調整した。
「わかってるよ。俺に“力”をくれたのはあなた。俺を観察して、俺の弱さの角度を測って、そこに“近づけるだけ”のものを置いた」
「私は——」
「言い訳はいらない。俺はあなたを責めていない」
彼は穏やかに言う。声の表層だけが穏やかで、基音は空洞だ。
「あなたは観察者。観察者は、たいてい“抗体”になりたがる。病原体がいると、抗体は動く。俺は病原体なんでしょう?」
「あなたは、感染する弱さ」
言いながら、自分の言葉の温度が下がるのが分かる。定義は、対象の温度を奪う。奪った温度は自分に移る。
「だったら、どうするの?」
「止める」
「どうやって?」
「——ここには書かない」
ノートの頁を閉じた指の感覚が蘇る。記録は、武器にも凶器にもなる。ここでそのどちらにもしたくない。紙に載せた途端、所有権が揺らぐ。
神代は小さく笑い、ベンチから立ち上がった。立ち上がり方が静かだ。体重移動の予兆が薄い。
「じゃあ、また。次に会うとき、あなたは“方法”を持ってくる」
「次は、ない」
「あるよ」
彼は首をかしげる。
「あなたは観察者だから未完を嫌う。終わりを見届けるまでは視線を外せない」
未完、という語が喉の奥でひっかかる。観測には終端が必要だ。終端に立ち会うこと自体が、観測者の罠だ。
「……」
「ねえ、美沙さん。あなた、今、俺を“殺さないと危険”だって思ってるでしょ」
語尾は上がらない。断定の平坦。私は答えない。沈黙は、肯定の角度で立つ。
「いいね」
神代はにこりと笑った。
「やっと対等だ」
彼は背を向けた。歩幅は広くないのに、離隔の速度は速い。ベンチの板が、彼の体重の移動に合わせて微かに鳴る。
私は呼吸を数え直す。指先まで冷えている。刃に必要な温度はまだ足りない。足りないのに、切らなければならない。
——ここから、私は観測の外へ出る。
⸻
彼の背が樹影に溶けかけたところで、私は環境を再測定した。
・噴水:周期は一定、風の層で途切れる。
・ベンチの配置:対角線上に二基、うち一基に買い物袋。所有者不在。短時間離席の痕跡。
・監視カメラ:歩道橋方向。死角の縁はここから四歩。
・出口:駅側/住宅街側。人流の相関係数は夕刻に向けて逆転する。
私は行列の神代の列に「未完の強制」と書き足す。未完を嫌う観測者心理に賭ける——彼はそれを理解している。理解している相手に、私は設計を上書きする必要がある。
折水の瓶は持ってこなかった。持てば、行為は目的化する。目的が先に立つと、角度を誤る。渡り廊下でやる。風の順序が私に味方する場所で。
今日の公園は、試金石だ。
彼が何を見て、何を見せなかったか。
彼は黒咲の固有名詞を回避し、自分を病原体に喩した。喩えの向きは、免責と誇示の両方を持つ。喩えを選べる者は、語の角度に自覚的だ。角度に自覚的な者は、刃の角度も誤りにくい——黒咲の言った通りに。
私は自分のポケットの空を確かめる。空は、選択の余地だ。
指先はまだ冷たい。冷たさは角度調整の装置として機能する。熱で突き動かされないぶん、設計に回せる。
ベンチに残ったわずかな温もりが、板の節から逃げる。温度が去る速さは、彼の体重と時間の積。意味はないが、私は測る。測ることが、私の体温を少し戻す。
スマホを取り出し、画面に映る黒い鏡に自分の輪郭を合わせる。通知欄は空だ。
私は短いメモを自分宛に残す。
『未完は誘導。完了は切断。順序を入れ替えるのは風。』
文字の並びが、私を落ち着かせる。言葉は、行動の予備実験だ。
帰路、駅へ向かう道で、私は影の長さを二度測った。影は嘘をつかない。
自販機の低音、踏切の警報、遠くの足音。音はそれぞれ別の時相を持ち、私の歩幅を調整する。
頭の中で、渡り廊下の設計図が再投影される。
——風が先、音が後。
——角度は恐怖で微調整。
——観測は反応を誘発。
神代との次の対面を、私は未完にしない。未完を嫌うのは彼であり、私でもある。
終端は、私が決める。
そのために、設計を終える。
そして、角度を決める。
指先はまだ冷えている。
だが、冷たさは十分だ。
刃になる前の震えを、私は方法に変える。
書き終えても、手の中の温度は戻らない。
私は“未完を嫌う観測者”として、終端を自分で定義する練習をした。
便箋の空白、渡り廊下の風、黒咲の透明な圧、小田先生の警句、遥のバッファ——どれもが、角度を決めるための補助線になった。
理解は、いつも行為より先に来る。
理解が先に来ると、人は言い訳と方法の境界を見失う。
だから私は、紙に残す語を減らし、角度だけを残した。
未完は誘導。完了は切断。順序を入れ替えるのは風。
この三行が、いまの私の全てだ。
たぶん、終端は私の外側からもやって来る。
報せという名の風が、順序を入れ替え、記録の意味を別の物語に差し替えるだろう。
それでも、私が決めるべき角度は変わらない。浅ければ戻る。深ければ、戻らない。
観測をやめたのではない。
観測を、切断のための設計にしただけだ。
次の頁で私は、設計を方法に、方法を行為に、行為を終端に変える。
——風の順序を、私の都合で借りるために。
おやすみ。また、明日。