第一章 日常という実験系
私は佐伯美沙。高校二年生。目立たない女子の部類に入る。けれど頭の中では、毎日たくさんの線が引かれ、分岐している。
ここに記すのは、まだ何も起きていない時のこと。
日常と、私が「確認」と呼ぶ些細な実験のこと。
安心してほしい。
いまはまだ、ただ静かな折り目がつくだけだ。
紙の角を、未来のためにそっと曲げておく
朝は、光の速度より遅い。窓際のカーテンが湿度を纏って、ひと息遅れて波打つ。目覚ましは五時半に鳴るけれど、私はその三分前に自然と目を覚ます。三分——十分でも五分でもない。三分がいい。身体が完全に眠りから戻らないうちに、頭だけ先に稼働させるには、三分がほどよい。
台所では母が保温ポットの蓋を外している。金属の軽い反響音が空間の密度を教えてくれる。父は新聞。紙を繰る音は、古いラジオのチューニングのようだ。会話は少ない——必要がないから。私は口に出すより先に結論を組むのが早くて、家族はそれに慣れてしまった。
トーストを齧る。噛む回数は一定ではない。パンの水分と焦げ目のばらつき、歯の位置、朝の唾液の粘度——そういうものが小さく効いて、回数は毎朝、分布になる。平均は二十二回。今日もだいたいそれくらい。
通学路は川沿い。反対車線に救急車が走る。サイレンは遠い地点で二回、近い地点で一回、それから交差点の反響でぼやける。わざわざ数えたのは、朝の頭に最初のしるしをつけるため。今日はどんな変数に遭遇するだろう——そう考えると、日常が少しだけ立体になる。
学校のロッカーの鍵は、去年から固い。潤滑スプレーの残香がまだ薄く漂うけれど、金属の嚙み合わせは改善しない。グリースの粘度と埃の粒径、鍵の微少な歪み。原因はいくつも考えられる。教室に入ると、窓際の席に友だちが手を振る。友だち、と言っていいのかは分からないが、少なくとも敵ではない二人——佳世と遥。
「みさ、また早い」
「うん。体内時計が仕様だから」
二人は笑う。私の言い回しはときどき機械っぽいらしい。自覚はある。直す気は、あまりない。
一限の現代文は、眠気に寛容だ。教師の声色は、母音が少し丸い。ホワイトボードのペンが擦れる音が妙に耳につく。私はノートの縁に細い線を引く。余白の管理は、思考の管理と同義だ。
黒板に映る一文——「人は名づけによって世界を切り分ける」。そう、名づけることで初めて見える輪郭がある。たとえば、ある不愉快の正体。あるいは、ある種の静けさ。
私は鉛筆を回して、解を組む。答えが一つしかない問いは退屈だ。けれど問いが無数の答えを許すとき、私は落ち着く。どれも正しく、どれも誤りうる。その中央に、温度がない点がある。そこに立ちたい。
昼休み、購買の列はいつもより長い。新しく入ったアルバイトの店員の動きが遅い。レジの指先の間合い——十センチが十二センチになっただけで、列は目に見えて延びる。
「ねえ美沙、今日、理科準備室行く?」
「行く。試料が乾いてるか確認したい」
佳世が顔をしかめる。「また難しいのやってるんでしょ」
「難しいかは、やってみないと」
「そういうところだよね……」
彼女が言いたいのは、私が難しくする、という意味だろう。分かっている。けれど、単純なものは私にとって滑り台だ。滑り始めたら止められない。速度のあるものが怖い。私は、ゆっくり崩れていくものの方がまだ好きだ。
放課後、理科準備室の鍵は理科教員の小田先生から借りる。
「佐伯、期限は守れよ」
「守ります」
鍵は金属の冷たさをきちんと持っている。私は受付簿に時刻を書く。四時〇八分。秒は書かない。そこまで正確に書くと、逆に嘘に見えることがある。正確さは、ある線を越えると不自然になる。
準備室はひんやりしている。蛍光灯は少しだけ緑がかって、棚のラベルは古い貼り紙の上に新しいテープが重なっている。層。ものごとはたいてい、層でできている。
私は白衣を着る。袖口のゴムの伸びが、去年より弱い。自分の手首が細くなったのか、ゴムが疲れたのか。答えは両方かもしれない。
机の上、ノートが一冊——表紙に「試行/記録」。タイトルは簡素でいい。いちばん大事なのは索引の作り方。私は見返しに自分だけのコードを引く。日付、温度、圧、時間、異常——五つの軸。これがあれば、後から何を探すにも迷子にならない。
今日は“混ぜない日”だ。混ぜるのは簡単だ。だから混ぜない。混ぜないで、近づける。近づけて、触れさせない。
乾燥器の中に入れておいた薄いフィルムを取り出す。透明に近い、しかし完全ではない。光を通すが、光を少しだけ遅らせる質感。私はそれをピンセットで持ち上げ、光の角度を変えて眺める。フィルムの端に小さな波形。乾燥が不均一だ。私のミスだろう。異常の欄に小さく記す。
試験片A-12。表面張力の測定。滴下した水滴は球にならず、やや楕円に潰れる。数字を取る。数字は嘘をつかない、というのは半分だけ本当。数字は、集め方と眺め方で、意味を変える。
私は結果をグラフにする。直線にはならない。ならなくていい。私は曲線を見たい。曲がり方に情報がある。曲がりは、物質の癖であり、そして人間の癖でもある。
吸着試験。これは擬似的なものだ。何かを纏わせ、時間を置く。置く、という行為は、何もしないこととは違う。条件は動いている。空気は変わるし、湿度は嘘がつけない。
私は時計を見ない。代わりに、窓の外の光で時間を測る。光が棚の角に届く位置で、いまが四時半から五時のあいだだと分かる。昔、祖母の家の柱に刻まれた傷で背丈を測ったみたいに、私は光で時間を測る。
準備室のドアが開く気配がして、私は顔を上げる。小田先生ではない。保健委員の男子が、備品のガーゼを取りに来たらしい。彼は目を合わせず、棚を探して、すぐに出ていく。人は、知らないものに触れるとき、目を逸らす。
静かになった室内で、私は再びノートに線を引く。さっきよりも太い線。太さは意思の強さだ。私は自分の意思を可視化したい。意思が見えないとき、人は無意識に従ってしまう。私はそれが怖い。
高校の実験室は、もちろん、本式の研究施設ではない。揃わないものが多い。でも、揃わないことで見えるものがある。
制約は設計を細くする。細くなった設計は、筋肉質になる。私は、その細い設計図をノートの余白に描く。矢印は少ない方がいい。矢印が多い計画は、たいてい破綻する。
今日の目標は「確認」。それ以上でも、それ以下でもない。仮説はまだ仮説のままでいい。むしろ仮説は、長く仮説であるべきだ。早く“事実”にしてしまうと、私は思考を怠けさせる。
五時を回ると、準備室の空気は少しだけ乾く。空調が切り替わるのかもしれない。私はグローブを外し、手の甲に残るゴムの跡を見る。皮膚の浅い凹みは、すぐに戻る。戻る、というのは、元通りが保証されることではない。戻るとき、人は少し変わる。
最後に、ノートの今日のページの角を、ほんのわずかに折る。折り目は目印だ。けれど、折り目をつけること自体が、未来の行動を誘導する。私は自分で自分を誘導する。自分がどこに迷い込むかを、いま決めるのだ。
帰り道、川面に風が走る。表面張力の実験を思い出す。水は、触れ方で形を変える。私はポケットから携帯を出して、メモに一行足す。
《表面は、拒絶ではなく猶予》
猶予——それは時間の別名。私は時間の使い方が下手ではないと思う。けれど、下手ではないことが、正しいこととは限らない。
橋の上で、自転車のチェーンの音がまた鳴る。朝の音と同じ音。反復は安心を連れてくるが、ときどき、その反復そのものが不吉に思える。
視界の端で、パトカーの赤色灯が回る。交通課だろうか。たいしたことはない。けれど、赤い光は、暗くなる前の空をわずかに硬くする。空気が、数ミリだけ厚くなる。
家に帰ると、父がテレビの音量を下げた。ニュース番組では、別の町の事件を短く報じている。言葉は慎重で、映像は抑制的で、テロップはきれいに整っている。
母が振り返る。「理科、どうだった?」
「確認が進んだ」
「確認、ね」
母は微笑んで、冷蔵庫から麦茶を出す。グラスの縁に水滴がつく。私はそれを指で弾かない。水滴は、放っておくと、勝手に落ちる。落ちるまでの時間は短くも長くもない。
「そういえば、佳世ちゃんのお母さん、警察の知り合いがいるって。なんとか警部さんだって」
「ふうん」
私は相槌を打つ。名前は聞かなかった。聞かなかったことを、ノートに書く必要はない。聞かなかったことも、選択だ。
父は「最近はいろいろ物騒だな」と言って、また新聞に目を落とす。物騒という言葉は、どの程度の危険を指すのだろう。私は頭の中でスケールを作る。危険の単位。犯罪の単位。倫理の単位。単位系が違うものを、同じ表に載せることはできない。けれど、人は同じ言葉で語ろうとする。そこに、誤差が生まれる。
夜、机に向かう。宿題は短い時間で片付ける。最短経路を選ぶのは得意だ。余った時間を、ノートの“走路”に費やす。
私はグラフの曲がりを、指でなぞる。人差し指の腹の感触が、紙の繊維の荒れで微かに変わる。紙の荒れは、鉛筆の黒鉛の粒の入り方を変える。微細な違いが、線の息遣いを作る。
私は今日の線を、昨日の線と重ねる。重ねると、見えてくる——ほとんど一致しないことが。私は安堵する。世界が揺れるのは、私が生きている証拠だ。
枕元の本は閉じたまま。眠気は、考えごとを始めたときの方が早く来る。脳は、結論の見えない問いを抱えたまま、眠りに落ちるのが好きだ。
目を閉じる直前、ノートの折り目の角度が頭に浮かぶ。四十五度より浅い。浅い折り目は、簡単に戻る。戻る、けれど、紙は完全には元通りにならない。
戻らない、という事実は、私にとって恐怖ではない。むしろ、秩序の証明だ。可逆でないことが、世界を世界たらしめる。
眠りは、音もなく降りてくる。呼吸の回数が安定する。どこか遠くで、また救急車の音がする。朝の音か、夜の音か。分からない。けれど、音は同じ場所を通らない。
明日、私はまた準備室に行く。混ぜないで近づける。触れさせないで見届ける。
それが私の日常——まだ、何も壊れていない日常の、全部だ。
——そして、こうして書きながら、私は知っている。
“確認”はときどき、扉の蝶番になる。わずかな油で、重い扉が音を立てずに開いてしまう、その瞬間のために。
読んでくれてありがとう。ここまでに、特別な事件は起きていない。起きていないのに、なぜか胸の中で小さな音が続いている。たぶん、それは折り目が戻る音だ。紙は、折られたことを忘れない。忘れないのに、私たちは忘れたふりをする。
私は、確認が好きだ。確認を重ねることで、私は自分を安心させてきた。けれど、確認は同時に合図でもある。次へ進め、という合図。進む先が正しいかどうかは、そのときには分からないのに。
次の話では、私の周辺に少しだけ“外の温度”が入ってくる。教室の空気とは違う温度。笑いながら、遠回しな言葉を上手に使う人たちの温度。
まだ名前も顔も知らないけれど、たぶん、私はその人をすぐに識別できる。にこやかな表情の裏で、こちらの息の数を数える人。質問の形をしていない質問を投げてくる人。
そうだ、母が言っていた警部さんの知り合いのこと。あの話題を聞かなかった私の選択は、きれいに無音だったろうか。無音のはずなのに、今になって、そこだけ音が増幅して響く。
私は明日も、混ぜない。近づけるだけにする。近づけたものは、時間の中で勝手に関係を作る。関係は、どちらかの名を吸い取って、別の名になる。
次の頁を開くとき、私は少しだけ指先を濡らすだろう。乾いた紙は、乾いた指に引っかからないから。
そういう小さな工夫が、いつか、私自身を動かす蝶番になるのだとしたら——それでも、私はページをめくる。
おやすみ。また、明日。