EP.2 影、走る
冬の朝靄が街道を満たしていた。
イェルメンの東門。その門外、粗末な馬車がひとつ、まだ薄暗い曇天の下で出立を待っている。荷台には旅商人が積荷を積み終えたばかりらしく、後方では護衛役の探索者たちが腰の剣を整えながら話していた。
そこに、黒い外套をまとった青年が近づいていく。
――リュカ・グレイヴ。
迷宮”第五”を制した者。都市の誰もが知らぬ“影の探索者”。
「バビロンまで同行したい。代金は不要。その代わり、護衛は引き受ける」
馬車の脇で荷綱を締めていた商人が、ぴたりと手を止めた。
ひと目で分かったのだろう。
この青年は、剣を握る者の“匂い”を持っていた。危険を知り、それを越えてきた者の静けさ。何より、その眼が正しかった。
「……代金いらずの護衛? 腕に覚えが?」
「それなりに。元は傭兵だった」
「ふん、いいだろう。馬車は満席寸前だが、荷台の端でよければ好きに乗れ」
商人は腕を拭いながら言った。無駄に詮索しないあたり、こちらもなかなかの玄人だ。
リュカが頷いたそのとき、後方から息を切らせて駆け寄ってくる影があった。
「やっぱり先に交渉してやがった……」
忘れ物を取りに戻った何とも決まりの悪い男――キル=ピンフォード。
軽めの外套に身を包んだ”自称”情報屋の少年が、肩で息をしながら横に並ぶ。
「なあ、リュカの兄貴。こういう交渉ごとは俺に任せてくれって何度も言ってるよな? 言ったよな? ……俺だったら、もっとこう、商人さんと深〜い信頼関係を築けたかもしれないのにさあ」
「必要な交渉だったから、終わらせた。あんまり時間はない」
「分かってるけどさ。俺の仕事、マジでなくなりそうなんだが」
肩をすくめるキルに、リュカはわずかに口元を緩めた。
「だったら、別のことで稼げ」
「おっと、これは兄貴流の激励と受け取っておこう。……まあいいや、乗る場所空いてる?」
「最後尾が空いてる。荷の横になるが、それでもよければ」
商人が口を挟む。キルは「ありがたや」と手を合わせ、ひょいと飛び乗った。
リュカも無言で荷台の端に腰を下ろす。その向かい側には、すでに乗り込んでいた探索者たちがふたり。ざっくりとした鎖帷子を着込んだ中年男と、無精髭を生やした若い男が、それぞれに剣を手入れしている。
リュカを一瞥し、視線だけで値踏みする。
「新顔か?」
中年の男が尋ねる。敵意も侮りもない、ただ事実を確認するような口調。
「リュカだ。バビロンまで護衛役として同行する」
「ほう……まあ、よろしく頼むよ。俺はドルク、あっちはヴァイン。俺の後輩みたいなもんだ」
若い方の探索者――ヴァインは軽く手を上げただけで、何も言わなかった。
会話はそれで終わった。だが、無理に広げる必要もなかった。
リュカは荷袋を引き寄せ、剣の柄に軽く手を添えながら、東の空を見上げた。
雲間から、ごくわずかに朝日がのぞいている。
バビロン。
連盟最大の迷宮都市。
世界で最も多くの”恩寵”が眠る場所。
(次の戦場は、そこだ)
馬車が軋みながら、ゆっくりと動き出した。
静かな旅が、今始まる。
*
馬車はゆっくりと丘陵地帯を越えていく。
冬枯れの原野に、風が吹いていた。
草はすでに色を失い、地面には霜が降りている。枯れ枝が風に揺れて、音もなく擦れ合った。空には雲が流れ、朝日はその合間から、淡く、冷たく差し込んでいる。
街の喧騒はもう遠く、ここは静寂の境界だ。
荷台の上、リュカは目を閉じていた。
眠っているわけではない。意識を深く沈め、ある“気配”に集中している。
”深淵”――千の視界を模す異能。
(深淵を覗く時、深淵もまたお前を見つめている)
視線の流れ、殺意の鼓動、敵意の網を、網膜の裏側で感知する力。
その中に――
ふと、異質な揺らぎを感じ取った。
(……視られている)
方角は北西。丘の先。見えないはずの位置から、こちらを“狙って”いる。
盗賊の気配だ。
旅商が狙われるのは、何も珍しい話ではない。
道沿いに伏兵を仕掛け、数の優位で馬車を奪う。よくある戦法だ。
ただひとつ違ったのは――
その“視線”の質だった。
(訓練されているな。……恐らく、ただの野盗じゃない)
リュカは目を開き、背後の荷袋からゆっくりと黒鉄の剣を抜いた。
その動きに、すぐ隣で座っていたキルが気づいた。
「……兄貴?」
「伏せろ」
声は低く、しかし鋭く切断するような命令だった。
それとほぼ同時に、地面が揺れた。
前方の茂みが爆ぜ、木の枝が裂け、飛び出してきたのは――
フードを被った男。手には曲刀。背後に続く複数の足音。
「襲撃――っ!」
ヴァインが叫ぶ間もなく、前衛の盗賊が馬車へ跳びかかろうとする。
だが、リュカの方が早かった。
「――〈隠遁〉」
一瞬で姿が消える。いや、“消えたように”なる。
敵の眼には映らない。音も、気配も、殺気すらもない。
そして次の瞬間。
「……そこだ」
リュカは敵の背後に回り、無言で一閃。
黒鉄の剣が、曲刀を構える前に盗賊の脇腹を穿ち、骨を断ち、血を噴かせた。
続けざまに、リュカは茂みの中へ駆け込む。
残る数名の盗賊たちの中を、刃が縫うように抜け、喉を裂き、腕を落とし、脚を砕いた。
気づいた者が振り向くより早く、すでにリュカは別の角度にいた。
”隠遁”によって、誰も“正確な場所”を掴めない。
気づけば死体が転がり、血が土を濡らしている。
残るは二人。逃げようとしたその背を――
「〈深穿〉」
リュカの一撃が貫いた。
静寂が戻る。
わずか数分。戦闘というにはあまりに一方的な殲滅だった。
リュカが最後の死体を蹴って転がすと、草むらの向こうに隠れていた商人が顔を出す。
「……た、助かった。あんた、すごいな。何者だ……?」
「名乗るほどじゃない。ただの護衛だ」
そう言って剣を払う。返り血はほとんどついていなかった。
キルが後ろからやって来て、辺りを見回した。
「さすがだよ、兄貴。……っつーか、早すぎる。俺が駆けつけた時にはもう全員倒れてたんだけど」
「普通だ。数も少なかった」
「いやいやいや、そんな冷静な台詞が出る時点で普通じゃねぇよ……」
商人がリュカに歩み寄り、深々と頭を下げた。
「本当に、命の恩人だ。礼を言う。私はクライス・ローレンスだ。ローレンス商会の長をしている。といっても……規模の小さい商会だ。無償の護衛を雇おうとするくらいのな。それが功を奏すなんて、不思議なもんだ。
ともかく、アンタのおかげで命が助かった。今は手持ちがないから払えないが、うちの商会に来てくれれば盛大にもてなそう」
「気にするな。もともと護衛の約束だった。歓待も不要だ」
「それは私が困る。何かさせてくれ……と言っても、させてくれないだろう。だから、私が個人的に貴殿に借りを作っていると考えておくことにするよ。それでいいか?」
「ああ。いつか頼らせてもらう」
「……っと! 名前を教えてくれないか?」
「……リュカ。リュカ・グレイブだ」
リュカは淡々と答えたが、その場にいた探索者――ドルクは、感心したように頷く。
「……すごいな。たった一人で全滅させるとは。俺たちの出番、まるでなかったぜ」
リュカは軽く会釈だけ返す。
だが、その横で、若い探索者ヴァインは苛立ったように唇を歪めた。
「ふん……勝手な真似をして。集団で動いていれば、もっと安全に済んだだろうに」
リュカは応じない。無言で剣を鞘に収めた。
(必要な動きだった。それ以上でも以下でもない)
馬車が再び動き出す。
その場には、血の匂いと、踏み潰された野盗の残骸だけが残されていた。
*
陽が沈み、夜が来た。
旅商の馬車は街道沿いの小さな林の外れに停車し、簡素な野営が始まった。
焚き火を囲んで、商人たちと護衛の探索者たちが食事を取る。薪は湿っていたのか、火はなかなか勢いを得ず、煙ばかりが立ち込めていた。
リュカは輪から少し外れた位置に腰を下ろし、無言で乾いたパンをかじっている。
ドルクがそれとなく火の番をし、クライスと和やかに談笑していたが、一方で、――ヴァインは焚火の横に寝袋を広げると、ふてくされたように身体を倒した。
「……ったく。昼の件、あんたの独断行動がなければ、こっちの出番もあったってのに」
ぶつぶつと文句をこぼしながら、寝袋のすぐ横で剣を横に置く。
リュカはちらと目を向けたが、何も言わなかった。
火は風上にあって、煙が隊列の寝床に流れ込みそうになっている。
焚き火の燃え方も不安定だ。風向きと火力、配置のバランスが悪すぎる。
(火の位置が悪い。煙が直撃する。……それに、交代の時間も定まっていない)
このままでは、夜間の危険察知に支障が出る。
リュカは食事を終えると、立ち上がり、淡々と告げた。
「火の位置を変えよう。風上だと煙が全員にかかる。見張りも、交代を二刻ごとに決めるべきだ」
「はあ?」
ヴァインが面倒くさそうに起き上がる。
「いちいち指図してくるなよ。さっきからお前、偉そうなんだよ。強いのはわかったけどさ、集団で動くってのは、もっと“調和”を大事にするもんじゃないのか?」
リュカは言葉を返さず、ただ冷たい視線だけを向けた。
ヴァインは苛立ちを抑えきれずに吐き捨てる。
「……お前って、独りでしか動けないんだな」
それ以上、リュカは何も言わなかった。
静かに荷物を背負い、焚き火の輪から離れて歩き出す。
すぐ後ろから足音が追ってくる。
「……リュカの兄貴」
キルだった。
彼は肩に荷袋を引っかけ、焚き火の方を軽く顎で示す。
「一応言っとくけど、あっちの輪に戻って機嫌とるつもりはないぜ? 俺は兄貴の方が正しいと思ってる。”調和は盾にするモノではなく、結ぶモノだ”って言うしな」
リュカは肩越しにだけ答える。
「ああ。困るモノだな。依頼者に対する敬意がない護衛は三流だと、俺は傭兵だった父に習った」
「分かってる。やっぱ、俺は兄貴の方が“肌に合う”かな。でもな、モグリの四流探索者様。伝え方さえ気をつければ円満に終わったと思うぜ?」
「そうか……正しい探索者の在り方を学ばねば、困るかもしれない。10年ほどモグリだったのが悪かったのだろうか」
「そらそうだろ。未登録探索者は信頼も実績も失敗も成功の記録も、仕事も相棒も全くみつからないんだぜ? 良くてせいぜい魔石売却だろ? それも中抜きばっかの低賃金! エゼルの爺ちゃんから盛大に中抜きされるなんてこと、協会じゃゼロ! ま、ちょっとは税として取られるが、収入は何十倍にも増えると思うぜ?」
「ということは、さらに良い仕事道具を集められるな。キル、バビロンでは協会との仲介を頼む。学ぶことは多そうだ」
「お任せあれ。出世払いもいいとこだぜ? キチンと探索者になったら料金を取るからな! あー、忙しくなるな! って、あれ、情報屋のくせにバビロンのこと全くしらねぇや……!」
語らいながら、二人は街道から少し外れた岩陰に小さな篝火を起こす。
薪を焚べ、火を眺めながら、静かな時間が流れていった。
しばしの沈黙のあと、キルが問いかけた。
「なあ、リュカの兄貴。……バビロンって、どんな街なんだろうな?」
リュカは、手元の火をじっと見つめたまま、低く口を開く。
「……情報屋なんじゃないのか?……知っているのは地図と噂だけだ。迷宮都市連盟の中枢。”バベルの迷宮”がある都市。探索者の墓場とも言われてる」
「やっぱ、それだけ危ないとこなんだな」
「ああ。だが、それ以上の“何か”もある。頂に届けば、何かが見えるかもしれない」
キルはしばらく火を見ていたが、ふと笑った。
「ま、兄貴がそう言うなら、俺はその“何か”を見届ける方に回るかな」
リュカはちらと横目で彼を見たが、何も言わずに火を見つめ直した。
空は澄み渡り、星が深く瞬いている。
遠くで梟の声が響き、風が草をなでていく音がした。
静かで、冷たい、けれど不思議と満たされた夜だった。