第五章:古代の封印
十月の始まり頃、
花音は重いスポーツ用具を物置の頑丈な鉄製ロッカーに押し込んでいた。少しでもきれいに整理しようと努力しながら息を切らし、トレーニングジャケットの袖で額の汗を拭った。やっと涼しくなり始めたというのに、今日はやけに暑かった。
ロッカーの扉を閉めようとしたその時、二つの非常に馴染みのある声が聞こえてきた。菫とヒロだ。二人がこちらに向かってきているのを察し、花音は反射的にロッカーの扉を閉めて身を隠した。鉄製ロッカーの隙間から、二人が物置に入ってくる様子を観察する。
菫「いつか、うまく受け入れてくれると思わない?」
ヒロ「無理だ。絶対にありえないぞ。」
菫「でも、隠し続けるなんて無理だよ。」
ヒロ「俺の唯一のお願いを、ちゃんと尊重してくれないのか?」
苛立ちを隠せない声でヒロが言う。菫はヒロの前に立ち、彼の顔をじっと見つめた。花音からは彼の背中しか見えなかったが、その姿勢から二人の間に漂う緊張感が伝わってきた。
菫「尊重してるよ。でもね、時々抑えるのが本当に難しいの。」
そう言いながら彼女は優しくヒロの腕を掴み、つま先立ちになって顔を近づけた。ヒロも少し前に屈み、二人は静かにキスを交わした。
花音は驚いて息を呑んだ。何が起きてもおかしくないと思っていたが、これだけは予想していなかった。なぜ彼が菫のような人を好きになるのか理解できなかった。
やがて菫は少しだけ身を引き、幸せそうに微笑んだ。ヒロの腕をそっと離し、ため息をつきながら振り返る。
菫「先に戻るね。誰にも見られないようにね。後で会おう。」
そう言って、ヒロを物置に一人残して去っていった。ヒロは手で髪をかき上げながら、菫が出ていくドアをじっと見つめていた。
その瞬間、花音の足がラケットに当たってしまった。ガシャッという音が響き、ヒロは驚いて振り返る。
ヒロ「誰だ?」
彼がこちらに向かって歩いてくるのを見て、花音の心臓は跳ね上がった。隠れていた鉄製ロッカーの扉が勢いよく開き、ヒロが信じられないような顔で彼女を見下ろした。
ヒロ「お前、ここで何してるんだ?」
言葉が出ない。今回はヒロの魅力的なオーラに圧倒されているわけではなく、この状況をどう説明すればいいのかが全く分からなかったのだ。ただ呆然と彼を見つめるしかできない。
しばらくの沈黙の後、どうしても聞きたくなかった質問が口をついて出た。
花音「白石さんと…付き合ってるの?」
ヒロの表情は読めなかった。返事もないまま、彼は花音がいるロッカーの中に入り、扉を閉めた。二人は密着するように立ち、間にはほとんど隙間がなかった。ヒロの顔が花音の耳のすぐ横にあり、吐息が肌に触れるたびに背筋が震えた。瞬く間に、花音の心拍数が速くなった。
ヒロ「関係ないだろ。」
花音「でも…」
ヒロ「スーが付き合ってるって思ってる限り、姉やお前にいじめない。これでいいだろ?」
花音「私たちのために…そんなことしてるの?」
ヒロ「当然だ。スーのためにやるわけないだろ。」
突然、物置の扉が開く音がして、二人は再び驚いた。
雅恵と美月の声が中から響く。
雅恵「のんちゃん?ここにいるの?」
ヒロは素早く花音の口を手で押さえ、人差し指を自分の唇に当てて無言で「黙れ」と合図を送った。花音はその視線に釘付けになり、ただ従うしかなかった。この状況を雅恵たちに見られるわけにはいかない。ましてや、ヒロと菫の関係がバレるなんて絶対にダメだった。
しかし――ヒロが近すぎる!顔が熱くなっていくのを感じ、花音はどうしようもない羞恥心に襲われた。
美月「次、体育館の裏とか行ってみる?」
二人の声が遠ざかり、物置の中には再び静寂が訪れた。
ヒロは花音の口から手を離し、薄く笑いながら言った。
ヒロ「顔、真っ赤だぞ。もしかして、俺と二人きりが気に入ったのか?」
花音は一瞬で反応する。
花音「い、いや、全然!暑いだけよ。そ、その……天気のせい!」
ヒロ「本当に?俺のせいじゃないのか?」
そうからかうように言いながら、ヒロの手がふいに花音の腰に触れた。
その瞬間、花音は震える指でロッカーの扉を探り当て、勢いよくそれを押し開けた。そして外に飛び出しながら、背後に声を残す。
花音「ごめんね、友達が探してるの、聞こえたでしょ。」
彼女は心の中で叫んだ。
花音(この男、本当にどうかしてる!)
足早に物置から離れる花音は、彼と距離を取る必要があると強く感じた。さもなければ、彼の自信満々の表情を見て腹が立つどころか、つい手を出してしまいそうだったのだ。
花音(まったく、なんてバカなのよ!)
頭の中ではぐるぐると思考が巡り、物置での出来事に心が打ちのめされていた。だが、意外なことに彼女は別の考えも頭から離れずにいた。
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学校が終わる頃、まだ気になっていた。
花音(あの時、本当に西村家の屋根で橘くんを見たのか?)
その疑問がずっと胸の奥に引っかかっていた花音は、意を決して後ろの席に振り返った。そして、とうとうその質問を投げかける覚悟を固めた。
彼はすぐ後ろの席に座り、教科書をリュックにしまっている最中だった。
花音「橘くん、ちょっと話があるんだけど、今時間ある?」
明は顔を上げ、リュックを肩にかけながら言った。
明「今すぐ行かなきゃいけないんだ。話って何?」
花音「その……いくつか聞きたいことがあってね。例えば、私が屋上に閉じ込められたときのこととか……あと、それ以外にも不思議なことがいろいろあったの。特に知りたいのは、妖怪ってそんなに危険なの?橘くんが対処しなきゃいけないくらいに?」
明は少し考え込むような表情を浮かべた。
明「うーん……」
この話がどこに向かうのか察したようだった。
明「正直に言うと……」
しかし、明が言い終わる前に雅恵の声が割り込んできた。
雅恵「のんちゃん、行こう。」
教室のドアのところで美月と一緒に待っている。
花音「ちょっと待って!」
不安げに雅恵の方を振り返りながらも、再び明に向き直る。だが、その瞬間、明が話を切り上げた。
明「ごめん、本当に行かなきゃいけないんだ。でも、お願いだからお守りは必ず持っててね。絶対だよ。」
そう言い残し、明は急いで教室を出て行った。ドアのところにいた雅恵と美月にも短く挨拶をする。
雅恵「あっきぃって、いつも急いでるよね。」
美月「多分、お父さんが亡くなってから神社のことでいろいろ忙しいんじゃない?」
花音はリュックを肩にかけ、二人に近づきながら聞いた。
花音「橘くんのお父さんが亡くなったの?どうして亡くなったのか知ってる?」
雅恵「ううん、そこまでは知らないよ。」
美月「あんまり聞いたことないけど……たぶん、神社のこととかあって大変だったんじゃない?」
帰り道、花音はふと思い出したように言った。
花音「でも、屋上で閉じ出さられた日、橘くんって残ってたよね。」
雅恵「確かにそうじゃん。なんでだろうね?」
校庭を歩きながら、花音はため息をついて空を見上げた。秋の太陽が長い影を落とし、落ち葉が足元でカサカサと鳴る音が不安を増幅させる。屋上での出来事は、彼女の中に消えない疑問を残していた。
花音は眉をひそめた。あの日、明は何かを探しているように見えたし、その顔には明らかに心配の色が浮かんでいた。彼が言わなかった何かがあるのは間違いない。どうしても明と二人きりで話す機会を作らなければならないと、彼女は強く思った。
その日、屋上には間違いなく見えない何かがいた。
リュックの中にあるお守りを思い出す。明が「必ず持っててね」と言ったことが頭を離れない。
花音(彼は何を知っているのだろう?何を隠しているのだろう?)
花音「ねえ、まさちゃん、みっき。」
考え込んだ様子で二人に尋ねた。
花音「橘神社で、袴を着た美しい女性を見たことある?」
雅恵「うん、うちも何度か見たことあるよ。あっきぃのいとこか、おばさんじゃないかな。」
美月「すごく若く見えるけど、橘くんの親世代の人っぽいよね。前は神主さんのそばにいたけど、今は橘くんと一緒にいることが多いみたい。お父さんの仕事を手伝ってたんじゃない?」
花音「詳しく聞いたことはないの?」
雅恵「ないよ。橘家のことって、あんまり首突っ込まない方がいい気がするし。」
花音は神社がある山を見上げた。
花音(橘くんも、誰かに話したいと思ってるんじゃないかな。信じてくれる人に。)
明もまた、この奇妙な出来事に対する答えを求めているのかもしれない。
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その日の午後、秋の日差しがゆっくりと沈む中、明は神社の一つの建物の中で壁にもたれ、開かれた障子越しに景色を眺めていた。やがて紅葉が鮮やかに色づき、神社全体を一層美しく彩ることだろう。
ふと、その場の静寂を破るように、雷花が隣に腰を下ろした。彼女の気配は柔らかくも、どこか威厳に満ちている。
雷花「何やらお考えのようですね、神主様。」
明は少し肩を落とし、視線を障子越しの風景に戻した。
明「いろいろ考えることがあってさ。妖怪たちが力を増した前に、なんとか二人で押さえ込んでたけど……もう時間がない。封印がどれも反応しないんだよ。本来なら、神々が覚醒の準備が整った時、封印が輝きを放って教えてくれるはずなのに。」
彼の声は静かで、どこか弱々しかった。
明「同級生の宮島さんも妖怪の気配を感じ始めてるみたいでさ。いろいろ質問してくるけど、どう答えたらいいのかわからない。彼女を心配させたくないし……影に潜むものを感じるほうが、真実を知るよりはマシだと思うんだ。」
明の迷いを受け止めるように穏やかに言葉を紡いだ。
雷花「すべてをお話しなさればいかがですか?彼女はその目では見えませぬが、何かが迫っているのを感じておいでなのでしょう。その得体の知れぬ恐れこそ、真実を知らぬ者の苦しみでございますわ。」
その言葉を理解しながらも、視線を伏せた。
明「……でも、どう話したらいいんだ。父さんが残してくれた記録さえ見つけられないのに。こんな責任を背負う準備なんて、僕には全然できてないんだ……」
少し間を置き、確信に満ちた声で応じた。
雷花「しかし、それこそが貴方様の血に刻まれた役目でございます。このままでは結界が崩れ、影の世界への扉が開いてしまう。人の世は滅びへと向かいますわ。」
明は目を閉じ、拳を固く握りしめた。彼の中には焦燥と不安が渦巻いていた。
明「でも……父さんが見つけられなかったものを、僕が見つけられるのか?そもそも、本当にそんなものがこの世に存在してるのか?」
その声には絶望が滲んでいた。
雷花「ございますとも。封印は今も持ち主を呼び続けております。神主様、貴方様の血筋を信じなされ。」
彼女の声には、揺るぎない信念が宿っていた。明はその言葉に、かすかな希望の光を感じると同時に、その重みに押しつぶされそうにもなっていた。
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花音がコンビニから出ると、目の前にヒロが立っていた。
ヒロ「やあ。」
花音「こんにちは。」
短い挨拶を交わし、そのまま通り過ぎようとしたとき、ヒロが後ろを振り返って声をかけた。
ヒロ「花音ちゃん、ちょっと時間あるか?もし少し待てるなら、一緒に帰ろう。話したいことがあるんだ。」
少しして、二人は自転車を押しながら並んで歩いていた。曇り空から冷たい風が吹き抜け、街路樹の葉が揺れている。沈黙が続く中、ヒロがやっと口を開いた。
ヒロ「学校で見たことをマサに話したか?」
花音「ううん。」
首を横に振る花音。
花音「もし話したいなら、自分で言わないとね。でも……どうしてこんなことしてるのか、私にはわからないよ。」
ヒロ「マサには知られたくないんだよ。事情がちょっと複雑でさ。スーには本気で付き合ってると思わせる必要がある。でも、学校中に知られるわけにはいかない。秘密にしてくれるよな?」
花音「もちろん。」
ふと思い出したように話し出した。
花音「でも、まさちゃんはもう気づいてるんじゃないかな。白石さんがヒロを頼ってるの、すごく目立ってるし。」
ヒロ「そうなんだよ。俺に気持ちを抱いてるのも、ずっと前からだ。でも、マサはまだ気づいてないはずだ。もし知ったら……絶対に許してくれないだろうからな。」
空から最初の雨粒が降り始めた。二人が顔を上げた瞬間、ヒロが近くの廃れた建物を指差した。
ヒロ「あそこ、屋根があるぞ。避難しよう。」
二人は建物の下に自転車を置き、並んで立った。雨は勢いを増し、激しく道路を叩きつけている。ヒロはポケットに手を突っ込み、外を見つめながら黙り込んだ。
花音「ただ……好きでもない人とヒロが付き合ってるのは、ちょっと残念に思う。」
ヒロ「関係ないよ。」
肩をすくめるヒロ。
ヒロ「実利的に動いてるだけだ。お前たちを守るためなら、どんな手でも取るさ。」
花音「でも、もっとふさわしい人がたくさんいると思うよ。」
雨が降りしきる外を見つめながら、つぶやいた。
視線を外さずに、静かに答えた。
ヒロ「そんなにたくさんいらない。一人で十分だ。」
花音「いるの?本当に好きな人。」
一瞬黙り込み、そして低い声で答えた。
ヒロ「いたとしても……状況は変わらない。」
雨が不吉な響きを伴いながら降り続ける。二人はそれぞれの考えに沈みながら、しばらく言葉を交わさなかった。やがて、花音がため息混じりに口を開いた。
花音「こんな状況、乗り越えるのは大変だよね。」
ヒロ「慣れちまえば、どうってことないさ。」
雨を見つめながら答えた。
ヒロ「でも、たまに思うよ。もっと簡単な道があればいいのになって。」
花音「もしかしたら……簡単にできる方法があるかもしれない。」
その言葉は、雨音にかき消されそうなほど小さな声だった。
花音を見つめ、そしてかすかな笑みを浮かべた。
ヒロ「かもしれないな。」
二人は雨が止むのを待ちながら並んで立っていた。その時、不意に低いうなるような音が響き、花音の言葉は喉に詰まった。
花音「ヒロ、今の音……聞こえた?」
ヒロ「何のことだ?」
彼女の青ざめた表情を見て、ヒロの眉がひそかに動いた。
その瞬間、稲妻が空を裂き、大きな雷鳴が轟いた。花音は驚いてヒロの腕に飛び込む。
ヒロは彼女をしっかりと受け止めながら問いかけた。
ヒロ「雷が怖いのか?」
花音「聞き間違えたのかも……」
そう言いながらも、不安げに周囲を見回した。だが、薄汚れた窓ガラス越しに暗闇の中で赤く光る二つの目を見た瞬間、彼女は悲鳴を上げた。そして、またあの鼻をつくような嫌な臭いが漂ってきた。恐怖に駆られた花音は、本能的にその場から逃げ出した。
ヒロ「花音ちゃん!」
彼は叫び、彼女の後を追おうとした。
その時だった。規則的な「チクタク」という音が辺りに響き渡り、まるで世界そのものが静止したかのように、全ての音が止んだ。風に揺れる葉の音も、激しく降っていた雨音も、完全に消え去ったのだ。
花音は足を止め、振り返った。そこには動きを止めたヒロの姿があった。まるで時間に縛られてしまったかのように、微動だにしない。
花音「一体、何が起きてるの……?」
困惑しながら小さく呟いた。
その時、大きな爆音が響き渡り、矢が何か見えない存在に命中する音がした。同時に窓ガラスが割れ、その破片が飛び散る。次の瞬間、そこには神主の装束をまとった男子と、紫の袴を着た女性が立っていた。
花音は目を見開き、二人を凝視した。
花音「た、橘くん?!」
驚きの声が口をついて出る。
明「宮島さん!?どうして動けるんだ!?」
その言葉に、さらに困惑する。
花音「何が起きてるの……?」
女性が一歩前に進み出て、花音を静かに見つめた。彼女の雰囲気は威厳に満ちており、言葉にはどこか古風な響きがあった。
雷花「封印の持ち主である貴女が妖怪を視ることができると思っておりましたが、それは誤りであったようですね。時間が止まらぬということは、貴女がほぼ完全にこちらの世界に入り込んでいる証拠。神主様、あの子に全てを話してあげなさい。ここは私が対応します。」
そう言うと、長弓に矢をつがえ、周囲を鋭い目で見回した。
一方、明は花音の手首を掴むと、彼女を戦場から引き離し、安全な場所へと導こうとする。
明「ここにいたら危険だ。早く!」
花音「何が起きてるの……?」
彼の手は迷いなく自分を導いていた。狭い路地を進む中、雷花の矢の音が遠く背後で響いていた。
明「宮島さん……」
怯えた彼女の目をまっすぐ見つめながら、明は静かに言葉を続けた。
明「君に知ってもらわなければならないことがたくさんある。これまで説明できなかったことも、今なら話せる。でも、正直に言うと……君を危険に巻き込みたくなかったんだ。それでも、もう後戻りはできない。」
弱々しく頷きながらも、好奇心と恐怖が入り混じった感情が胸を満たしていく。
花音「妖怪のこと……だよね?どうして追いかけてるの?」
一度深いため息をつき、続けた。
明「倒さなきゃならないんだ。妖怪は影世界の存在で、こちらの世界に入る方法を探してる。父さんは封印の守護者で、転生した神々の力を守ってくれた。でも、その役目は今、僕に引き継がれたんだ。けど、妖怪たちはどんどん強くなっている。均衡が崩れつつある。」
花音「転生した神々……って何のこと?橘くん、神々と一緒に戦ってるの?」
明「……雷花様以外には誰もいない。封印の持ち主たちは、自分がその運命を背負っていることさえ知らずに生まれてきたんだ。父さんの残した記録があれば良かったけど、それもなくて、全員を見つけるのはほぼ不可能に近い。」
遠くからまた矢の音が響き、その後に轟音が続く。
明「どれだけ父さんが調べを進めていたのかも分からない。全ての記録を隠してしまって、雷花様にさえその場所を教えなかったんだ。」
その声にはどこか重苦しい響きがあった。
明「雷花様は、神々の中で唯一の生き残りだ。神社には七つの封印があって、その持ち主たちを急いで見つけないといけない。」
自動販売機の薄明かりに照らされた明の目は真剣そのものだった。
明「全ての神々を集めないと、勝ち目はない。」
花音はその言葉の重みを感じ、喉に詰まるような思いがした。しかし明の話はまだ終わらない。
明「ただ……最後の封印だけが見つからない。死神の封印だ。父さんがその場所を見つけたはずなのに、その知識を墓まで持って行ってしまった。」
言葉にはどこか皮肉めいたものが混じっていた。
明「まずは他の封印の持ち主たちを探さなければならない。」
額に深い皺を刻みながら、そう呟く明。
花音「どこから始めるか、何か考えはあるの?」
彼女の問いに答えるように、明は古びた巻物を斎服から取り出した。それには古代のシンボルとメモが描かれている。
明「これが手がかりだ。御神体にある封印を記録したものだ:水、土、火、嵐、光、闇、そして命。」
一瞬ためらいながらも続けた。
明「神社に来てくれないか?そして……宮島さんの封印がその一つであることを願おう。」
花音「私の……封印?」
濡れた髪を払いのけながら、花音はその言葉の意味を噛み締める。自分が神聖な力を持っているなど、到底信じられなかった。
明「そうだと思う。信じてくれ。妖怪が宮島さんの近くに引き寄せられるのを見て、それ以来ずっと調べていた。」
花音は背筋に冷たい震えを感じ、鳥肌が立った。妖怪が常に自分の周りをうろついているという考えだけで、恐怖が押し寄せてくるようだった。
花音「そういえば、西村家の屋根で橘くんを見かけたわ。あのとき、本当にびっくりしたんだから!」
明「ああ、それについては本当に申し訳ない。あのときは『時間のコンパス』をうっかり忘れてしまったんだ。」
花音「時間のコンパス?」
若い神主は手で「こっちに来て」と示し、花音を導いた。二人は雷花が妖怪と戦う様子を遠くから見ていたが、明はふいに空を指差した。そこには浮かぶ物体があった。
明「あれだよ。」
それは砂時計のような形をしており、時計盤のリングに組み込まれてゆっくりと自転していた。
明「時間のコンパスっていうんだ。これを使うと、妖怪と戦うときに周りの時間を止めることができる。誰にも見られないようにね。でも……あの日はこれを持ってなかったから、いろいろ大変なことになってしまったんだ。」
その不思議な道具に目を奪われた。
花音「すごい!……これ、どうやって動いてるの?」
明「僕の家系に代々伝わる遺物なんだよ。昔、時間の守護者から授けられたものらしい。初代橘家の神主がこの道具を使って九柱の神々と共に妖怪と戦ったって聞いてる。でも、それ以上のことはよく分からない。」
驚きながらも、その話に聞き入っていた。そして、これと同じような出来事を思い出した。
花音「ねえ、もしかして…文化祭のお化け屋敷でも妖怪を追いかけてたの?」
明「……ああ。また『時間のコンパス』を忘れちまってね……僕、あんまりこういうの得意じゃないんだ。やりたくてやってるわけじゃないし……」
少し気まずそうに目をそらしたが、すぐに顔を上げると強く言い放った。
明「でもね!ほとんどの場面ではちゃんと持ってたんだよ! ただ、宮島さんも時間が止まってたから気づかなかっただけだ!」
花音「そっか……でも、あの日、深野くんと私の命を助けてくれたんだよね。本当にありがとう。」
明「そんなの、当然のことだよ。」
花音「それじゃあ、私が封印の一つを持ってるかもしれないってこと?」
明「そうだと思う。おそらく、妖怪が見える日も近いだろう。でも、その日を早める方法もあるかもしれない。」
花音「私にできることがあるなら、やってみたい。でも、妖怪のこと、全然知らないの。」
明「僕もまだ学んでいる途中だ。少しずつでいいから、分かっていけばいいさ。……さて、ここを出よう。雷花様がもう退治してくれた。」
遠くでは雷花が放った矢が光を放ちながら消え、戦いの終わりを告げていた。明は空に向けて腕を伸ばし、落ちてきた時間のコンパスを滑らかな動きで受け取った。その仕草には慣れた様子があり、まるで体に染みついているかのようだった。
花音「ヒロのことはどうするの?」
ふと、道路に時間が止まったままのヒロの姿を思い出し、花音は尋ねた。
花音「それに、自転車は?」
明「西村に見られないようにする。それに、自転車は置いていくしかない。」
明の言葉に従い、二人は狭い路地を駆け抜け、誰の目にも映らなくなるまで走り続けた。
明の手の中にあった時間のコンパスは、手のひらサイズにまで縮んでおり、その刻む音も静かに止んでいた。同時に、世界の時間が再び動き出し、冷たい雨の音が戻ってきた。明は時間のコンパスを首から吊るし、ネックレスのようにしてしっかりと胸元に収めた。
そのとき、
ヒロは混乱した様子で周囲を見回していた。雨に打たれてびしょ濡れになり、道路の真ん中に一人取り残されている。
ヒロ「花音ちゃん?」
壊れた窓ガラスに目を向けると、彼女の自転車がまだ錆びたトタン屋根の下に置かれたままだった。買い物袋もカゴの中に忘れられている。嫌な予感がヒロを襲った。
ヒロ「カノン?!」
さっきまで目の前にいた彼女が、一瞬で姿を消してしまった。
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その頃、花音たちは竹藪に囲まれた細い小道を走っていた。雨が石畳を激しく打ちつけ、次々と水たまりを作り出していく。
明「ここなら誰にも見られない。雷花様、花音を託します。」
その言葉に驚いた花音が何か言おうとした瞬間、雷花の肩甲骨から巨大な翼が現れた。
雷花「動かないでくださいませ。」
そう微笑みながら言うと、驚いて声を上げた花音をしっかりと抱き上げ、空へと舞い上がった。
明もまた全力を発揮する。翼はないものの、普通の人間を遥かに超えた速さで動き、高く跳ぶことができた。だから彼はいつも屋根の上にいたのだ。
雷花は花音を神社の正門前にそっと降ろし、翼は光と共に消えた。明も滑らかに着地すると、花音に後をついてくるよう促した。
鳥居をくぐった瞬間、花音は空気が一変したのを感じた。
少し進むと、二人の前には橘神社の中心にそびえる大きな灰色の岩があった。
明「これは御神体だよ。神聖な力が宿っている。この岩に触れれば、宮島さんが転生した神かどうか分かるはずだ。」
明の説明を聞き、花音は慎重に冷たい岩に手を当てた。そして、目を閉じた。
その瞬間、まぶたの裏が白い光に包まれ、視界がぼんやりとぼやけた。思考が光に溶け込んでいき、一瞬、重力から解き放たれたように感じた。
数秒後、光は次第に消えていき、驚いて目を開けた花音の目の前に、封印が浮かび上がっていた。
その意味が分からず戸惑う花音に対し、明はすぐにそれを認識した。
明「光の女神の封印だ……。」
畏敬の念を込めてそうささやく明の目には驚きが浮かんでいる。彼自身も、ここまでたどり着いたことが信じられない様子だった。
明は封印を慎重に手に取ると、素早く解き始めた。ほどなくして、花音の体に巨大な力が湧き上がるのを感じた。それは、体の内側で日の出が爆発し、その光が全身に広がっていくような感覚だった。
明「ついに……!なんて安心したことだ!」
歓喜の声を上げる明。
花音はその変化を感じ取りながらも、何が起きたのか理解できない様子だった。
花音「まだ何がどう変わったのか、よく分からない……。」
そうつぶやきながら自分の手を見つめると、その手はうっすらと光を放っていた。
雷花「転生者にございます。これからは変身のための訓練が必要でございます。ただ、この天候は不向きですゆえ、改めて別の日にお戻りくださいませ。」
優しくも力強い声でそう告げた。
花音は静かに頷いた。明にも、ようやく封印の持ち主を全員集める希望が見えてきたのかもしれない。
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雨は絶え間なく神社の古い石畳を濡らしていた。花音は慎重に急な階段を下りながら、先ほどの出来事を振り返っていた。新しい力の覚醒と、それに伴う責任――それらはまだ現実感を伴っていなかった。
その時、ポケットの中でスマホが振動し、思考を遮った。花音は足を止め、スマホを取り出す。ディスプレイには見覚えのない番号が表示されていた。少し迷った末、通話を取った。
花音「もしもし?」
『花音?花音か?』と、電話の向こうから聞き覚えのある声がした。
ヒロだった。
花音(あれ?“ちゃん”はどうしちゃったのかな…)
花音「ヒロ?」
ヒロ『マサから連絡先を聞いたんだ。どこにいるんだ?心配してるぞ!』
花音「私…今、神社にいるの。」
ヒロ『神社だと?なんでそんなところにいるんだ?それに大雨の中、突然いなくなるなんて…。自転車はまだここにある。大丈夫なのか?』
花音「うん、大丈夫。すぐに戻るから、待ってて!」
花音は足元の濡れた石に注意しながらも、急いで降りていった。雨は顔に叩きつけるように降り、服をびしょ濡れにしたが、それを気にする余裕はなかった。唯一の目的は、できるだけ早くヒロのもとに戻ることだった。
やがて、錆びたトタン屋根が見えてきた。その下に立っているヒロの姿が目に入る。彼は寒そうに腕を組み、服もまたずぶ濡れだった。花音の足音に気付くと、彼はすぐに駆け寄ってきた。
ヒロ「花音!本当に無事でよかったぜ。どんだけ心配したと思ってんだ!」
花音「心配させてごめんね。」
小さな声でそう言いながらヒロを見上げた。
花音「雷が怖くて…気づいたら神社まで走っちゃってたの。」
少しの間黙って彼女を見つめると、口を開いた。
ヒロ「お前、全身ずぶ濡れじゃないか。神社で何してたんだ?」
少しの間ためらった。どこまで話すべきか迷う。
花音「それは…ちょっと複雑なの。でもね、今度から逃げたりしないって、約束する。」
眉をひそめたが、花音の答えを受け入れたようだった。
ヒロ「わかった。でも、ここにずっといたら風邪ひくぞ。さあ、早く行こうか。」
花音は静かに頷き、二人で歩き出した。雨は依然として降り続いていたが、花音の心には封印の光が静かに灯っていた――その温もりは、どこか安心感を与えるものだった。