第四章:見えない何か
月曜日の朝。週末の恐怖は、まるで何事もなかったかのように、静かに日常に溶け込んでいた。
昼休み、花音は友達と一緒に校庭で過ごしていた。黄金色に色づいた葉が風に舞い、木の下の芝生にひらひらと落ちていく。その心地よい風景の中で、雅恵のくだらないジョークに笑いながら、花音はリュックからスマホを取り出した。そのとき、ふとスマホケースに引っかかった小さなお守りがニコールの目に入った。
ニコール「そのお守り、とても素敵です!どこで手に入れましたか?」
花音「橘神社よ。悪霊とか妖怪から悪いことが起こらないように守ってくれるお守りなの。」
ニコール「悪霊と妖怪は、どう違いますか?」
花音「うーん……悪霊は、人間の魂が変わったものだけど、妖怪はたぶん、人間じゃない存在なんだと思う。でも、確かじゃないな…」
「それはちょっと違うよ」と、頭上から声が降ってきた。
驚いて見上げると、太い枝の上に座っていたのは明だった。
雅恵「あっきぃ!うちらの話、盗み聞きしてたの?!」
明は枝の上でのんびりとくつろぎながら、周囲の視線を避けていたようだった。
明「わざとじゃないよ。それに、雅恵さんたちより先に僕がここにいたんだ。」
そう言うと、軽やかに枝から飛び降りた。
美月「じゃあ、橘くん。教えてよ、悪霊と妖怪の違いって何なの?」
明「もちろん。」
肩をすくめて、木の幹に背を預けながら語り出す。
明「悪霊はね、もともと人間の魂が影の力で歪められて生まれるものもあるんだ。でも、影そのものから直接生まれる悪霊もいる。どっちにしても、人間性を失い、獣みたいになるんだよ。悪霊も妖怪の一種だけど、まだはっきりとした姿を持つ力がないんだ。でも、どれも危険だ。父さんが言ってたんだ。『妖怪は、時々人を魅了して惑わせるから、絶対に信じてはいけない』ってね。」
花音たちは、明の話に思わず引き込まれていた。彼の真剣な表情が、徐々に柔らかい笑みに変わる。
明「ま、話せる妖怪に会ったことはないから、話を全部信じすぎないでね。」
冗談めかしてそう言い、場の空気を和ませようとした。
ニコール「でも、あなた、本当に妖怪を見たことがありますか?」
明「うん、よく見かけるよ。」
そう言って、茂みの方を指差す。
明「例えば、あそこに。」
全員がその方向を目で追ったが、何も変わった様子はなかった。
雅恵「ちょっと!あっきぃ、やめてよ!そんなので怖がらせないで!」
明はおもしろそうに笑った。
明「大丈夫だよ。昼間は襲ってこないから。でもね、夜になると影から出てくるんだ。」
そう言い残して、その場を去っていく。残された女子たちは不安そうに顔を見合わせた。ほとんどは冗談だと思っていたが、花音だけは違った。明の言葉には、どこか真実味があったからだ。きっと彼は、何か大きな秘密を抱えている——そう感じた。
ニコール「優しい妖怪もいますか?」
まるで全く別の話を知っているかのように、彼女は問いかけた。
花音「私もそう思ってた。そういう話も聞いたことあるし。」
美月「どっちにしろ、妖怪なんていないでしょ。優しいのも悪いのもさ。」
雅恵「あっきぃってば、いつも怖い話ばっかしてさ…」
そのとき、近くにいたヒロとその友達の姿が花音の目に入った。うっとりとした表情でヒロを見つめる。
あまり知らなかったのに、なぜか彼を見ると胸が高鳴る。自分でも理由はわからない。でも一つだけ確かなのは——菫がだれも彼に近づくことを絶対に許さないということ。
花音(……なんなんだろう、あの二人。気になる……)
花音「ねぇ、まさちゃん、ヒロと白石さんって、付き合ってるの?」
彼から目を逸らさずに訊ねた。
雅恵「はぁ?まさか!ありえないでしょ。」
軽蔑するように鼻を鳴らし、雅恵は続ける。
雅恵「あの女はそう願ってるみたいだけど、ヒロはまったく興味ないよ。もし変なことしたら、私が黙ってないってこと、ヒロもわかってる。あの女、やっとおとなしくしてたのに…...」
「でもね」と美月がため息まじりに言う。「のんちゃんが引っ越してきてから、また妙に爪を立て始めたよね。」
雅恵「あの女はヒロに話しかける女の子全員をライバル視してるんだって。ほんと迷惑。ヒロの方がはっきり拒絶すればいいのに。」
花音(白石さんって、本当にそんなに危険な子なの? まさちゃんが少し言い過ぎてるだけじゃ……?)
でも、花音は、菫の本当の姿をまだ知らなかった。
‐‐‐‐‐
チャイムが鳴り、昼休みが終わった。
花音が靴箱に靴をしまおうとしたとき、ふと視線の端に折りたたまれた紙片が映った。驚きつつ、片足を上履きに滑り込ませながら、それを拾い上げる。広げて読んだ瞬間、息を呑んだ。
もう一度、最初から読み返す。手が小さく震え、周囲を慌てて見渡すが、誰もこちらを見ていない。花音は急いでその紙をリュックに押し込んだ。
――『宮島さんへ。転校した日から、ずっと見てました。そして、ずっと話したいと思っていました。放課後に屋上で会って、僕の気持ちを伝えたいです。』
その文面を心の中で何度も繰り返しながら、花音はもう片方の上履きに足をねじ込んだ。
ちょうどそのとき、雅恵たちが隣に現れ、一緒に教室へと向かう。
……この手紙のこと、話すべき?でも、誰が書いたかもわからないのに、騒ぎたくはない。
それでも、初めてのラブレターに心は小さく跳ねた。
しばらくは秘密にしておくことに決めたものの、その日一日中、花音の頭の中は手紙の差出人のことでいっぱいだった。
誰なの?同じクラスの人?それとも、もう話したことがある人?
どうすればいい?丁寧に断る?それとも……一度くらいデートしてみるべき?
ぐるぐると思考が巡り、気づけば頭痛までしてきていた。
午後の授業が終わる頃になっても、心は落ち着かなかった。
屋上への道を頭に思い浮かべるだけで、胸がざわついた。
「トイレ行ってくるね」と友達に声をかけ、帰り道の約束を先延ばしにする。
その間も、脳内では無数の会話パターンが繰り返されていた。
教室を出ると、手のひらにじんわり汗が滲んでいるのを感じた。
階段を一段登るごとに、心臓の鼓動は速まる。
ほんの一瞬だけためらい、意を決して重い扉を押し開ける――。
風が髪を撫で、スカートを揺らした。
だが、そこには誰もいなかった。
時間だけが過ぎていくなかで、花音の胸に苛立ちと不安がじわじわと広がっていった。
花音(――まさか、悪ふざけ?)
そんな考えが頭をよぎり、花音は目を閉じて深呼吸する。自己嫌悪に飲み込まれそうになるのを、なんとかこらえた。
花音「……何のために、こんなところに呼び出しておいて……来ないなんて……」
まるで独り言のように呟いたそのとき、不意に何かが脳裏で繋がる。
花音「――ああ、まさか……」
小さく漏れたその声と同時に、花音は扉の方へ駆け出した。
ドアノブを掴み、力いっぱい引っ張る。……しかし、開かない。
何度も試すが、ドアはしっかりと内側から施錠されていた。
絶望とパニックが一気に押し寄せ、涙が頬を伝った。
花音「……嘘でしょ……どうして……こんな馬鹿みたいな罠に……」
声が震えた。
花音「助けて……!助けて!!助けてぇっ!!!」
必死に叫び続けたが、屋上では彼女の声を誰も聞くことができなかった。
スマホも持っていなかった花音は、反対側の高い安全柵まで走り、下を覗き込んだ。
下では、生徒たちが行き交い、クラブ活動をしていない生徒たちは帰宅の途についていた。
花音「助けてぇっ!誰か……聞こえる!?屋上にいるの!お願い、助けてぇ!!」
だが、その声も、下の喧騒にかき消されていく。
背を壁に預けて滑り落ちる。
コンクリートの壁に頭をもたせ、花音は制御できない涙を流し続けた。
今回の出来事――これは、明らかに菫からの警告だった。証拠がなくても、花音は直感で理解していた。
彼女がここに誘い出し、その後ドアを施錠したのだ。
きっと今頃、ファンクラブの連中と一緒に、笑いながら見下しているに違いない。
時間が経つごとに、絶望は濃くなっていった。
誰かが自分の不在に気づき、助けに来てくれるまで……ただ、待つしかない。
まさか手紙が罠だなんて、考えもしなかった。
すべてがうまくいくと信じていた、自分の甘さが恨めしかった。
そのとき、全身に冷たい戦慄が走り、鳥肌が立った。風が髪を撫でる感覚が、まるで氷のように冷たい。そしてその風は、すぐに消え去った。
花音「……何?」
肩を震わせ、涙を拭いながら周囲を見回した。硫黄と焦げたような匂いが鼻を突き、鳥肌がさらに広がる。
花音(……もしかして、ここに一人じゃない?)
慌ててあたりを見渡し、不安げに周囲を探す。足は震え、立ち上がるのもやっとだった。どの方向に逃げればいいのか分からず、ただ怯えるばかり。
突然、何か重いものが安全柵にぶつかり、上から花音に迫ってくる。
パニックに陥り、息が詰まる。
花音「嘘…でしょ…」
何をすればいいのか、わからない。この見えない存在に対して、何もできない彼女がただ無力だった。
捕らえられ、思考は恐怖と絶望の渦に巻き込まれていく――。
花音は知らなかった。
その頃、すでに友達が彼女の不在に気づき、探し始めていたことを。
助けが向かっていることを。
‐‐‐‐‐
雅恵が心配そうに眉をひそめながら言った。
雅恵「もうかなり時間たってるけど……のんちゃん、どこ行っちゃったのかな?」
美月「探してみようよ。」
花音の机に目をやると、リュックがぽつんと置かれていた。
顔を見合わせると、足早に教室を出て、校内を探し始めた。
同じ階の女子トイレを見て回ったけれど、花音の姿はどこにもなかった。何度呼びかけても返事はなく、他のクラスメイトに尋ねても、誰も彼女を見た人はいなかった。
雅恵「もしかして、剣道部の練習見てるとか?」
二人は急いで体育館に向かった。でも、そこにも花音の姿はなかった。
結局、雅恵は優夜に助けを求めることにした。事情を話すと、優夜は迷わず捜索に加わった。クラブ活動を途中で切り上げ、指揮を親友の牧野原亮に任せて駆けつけてくれた。
優夜と合流した三人は校庭を見回しながら歩いた。ニコールたちがちょうど校門付近を歩いているところだった。
雅恵「みんな!」
雅恵の声に気づいて振り返った三人だったが、そこで微妙な空気が漂った。
優夜「…西村。」
ヒロ「おう、ちびっ子。」
二人の男子の視線が交差し、火花が散るような緊張感が広がる。雅恵は慌てて二人の間に入り、雰囲気を和らげようとした。
雅恵「今はそんな場合じゃないってば!のんちゃんが消えたんだよ!」
彼女は事情を説明し、ヒロやニコールは心配そうな顔を見せたが、菫だけは興味なさそうに腕を組んでいた。
美月「白石さん、どうするの?」
菫「あたし、別に。ヒロに家まで送ってほしいだけだし。」
しかし、ヒロは「悪いけど、今はそれどころじゃない」と言って、雅恵たちと一緒に花音を探す方を優先した。
それを聞いた菫は顔をしかめ、不満そうに舌打ちをしてから背を向けた。
菫「もういい!あたし一人で帰るから!」
そう吐き捨てると、彼女は校門の外へ出て行った。最後に一度だけ屋上の方をちらっと見たものの、花音の行方について話す気は全くなさそうだった。
一方、残ったメンバーは2階の教室に戻ることにした。
美月「もしかしたら、もう教室に戻ってるかもしれない。」
教室の扉を勢いよく開けると、明が黒板の前で友達とふざけ合っていた。
でも、教室の中にも、花音の姿はなかった。
雅恵「あっきぃさ、のんちゃん、うちらを探してた?」
その問いかけに、彼は怪訝な顔でこちらを見た。
明「いや、ここにはいなかったよ。」
美月「でも、荷物はまだここにあるよ?」
彼女が指さした。
明は少し興味を持ったように首を傾げ、「何の話?」と尋ねてきた。やがて輪から抜けて、私たちのもとにやってきた。
雅恵「のんちゃんはね、トイレに行ったっきり戻ってこないんだ。どこを探しても見つからなくてさ。」
雅恵が真剣な顔で説明する。そのとき──。
ニコール「スマホ、持っていないみたいです。」
机に立ち、花音のリュックを持ち上げながら言った。
だが、それを明が取り上げ、中を漁り始めた。
雅恵「こらあっきぃっ、勝手に漁っちゃだめじゃん!」
彼女が声を上げたときには、もうリュックの中身が机の上に散乱していた。
明「悪い。でも、何か手がかりがないと……しまった……早く見つけないといけない。」
ポツリと呟きながら、中から出てきたお守りを見つめていた。
優夜「昼間に悪霊なんて出るわけないだろ。」
軽口を叩きながらも、優夜は机の上にメモを見つけ、それを手に取った。メモを広げて読んでいくうちに、その内容に驚いた様子を見せる。
優夜「…屋上にいるかもしれない。」
雅恵「なんで屋上?ユウ、何のこと言ってるの?」
優夜はメモを裏返し、みんなに読めるようにした。雅恵は目を通して驚き、紙をヒロに突きつける。
雅恵「なんでこれを許してるの?!ヒロ、なんでいつもこうなるの?!うち、もうホントにウンザリだよ!ちゃんと叱り飛ばしてよ、ねえ!」
ヒロは手紙を見つめ、文字の書き方から菫のものだと気づいた。
全員で急いで屋上に向かうと、ドアが鍵で閉められていることに驚く。
明「誰かが宮島さんを閉め出したのかもしれない。」
優夜が鍵を開け、扉を押し開けると、全員が花音の名前を呼びながら中へ入った。
「宮島さん!」「のんちゃん!」
花音は床にうずくまり、腕で顔を隠していた。壁に寄りかかりながらも、名前を呼ばれると顔を上げ、信じられない表情で友達を見つめる。瞳に、涙がふたたび溢れた。
花音「橘くん……なにか……」
言いかけたその瞬間──
雅恵「めちゃくちゃ探したんだから!」
立ち上がった花音が不安そうに周囲を見回しながら口を開こうとした瞬間、雅恵が真っ先に駆け寄り、強く抱きしめた。
その言葉に、美月とニコールも加わり、三人で花音を抱きしめた。男子たちは少し距離を取っていたが、それでも花音が無事であることに安堵していた。
明は屋上を見回し、ヒロはそっと壁際に寄って、下をのぞき込んだ。
ヒロ「スー……って、やっぱり待たなかったな。」
雅恵「ヒロ、それじゃダメだよ。ちゃんと叱って。」
雅恵がきつく言い、彼もようやく事態の重さを理解したようだった。