第11話 帝国流アヴァンチュール 中
2000pv超えました。こんな駄文を読んでくださる読者諸氏には感謝しかありません、ありがとう。
金雀枝アンリの決然として言い切ったその言葉は、峻厳として鈍く重く僕の中に深く突き刺さる感触がした。僕は視線を彼女から外し、そのまま黙して一口アイスコーヒーを飲み、カウンターの向こう側、フライパンからパスタを皿に盛りつけているマスターの後ろ姿に目を向ける。パスタからは匂い華やかな湯気が軽やかに立ち昇っていた。
彼女は僕の反応、振る舞い、一挙手一投足をじっと窺っているようだった。僕は彼女を一瞥した。僕の挙動を洞察している彼女のその瞳には、先程まで灯っていた思慕の温もりもひとりの人間としての親しみさも全く消え失せ、僕に興ざめされることへの怯えもなく、あるのはただ冷徹で明確な意思、その手に権力を持つ者の主張だけだった。その凍てついた眼差しは僕を見ていながらも、その実僕自身を見てはいなかった。
彼女は、僕が学園で所持している公的位階と封建的特権の表象として、いま彼女の目の前に居る僕を、それらと等しく不可分に結びつけていた。そして同時に、その「僕」の背後に見出される、警戒すべきいずれは打ち倒すべき存在に仮想と仮定の中で対峙していた。そのような彼女の姿は、まるで必然の悲哀と不条理に打ちのめされながらも、避けられえぬその悲嘆すべき理不尽に、己の宿命と心得て敢然と立ち向かう実存そのものだった。
ちょっとした無言のやりとりをおいて、金雀枝アンリの方には一切向かずに、僕は心外であるとため息に似た、呆れを孕んだような息を一息吐いて、独り言にしては大仰な様子で、誰に向けるのでもないように、ただ面前の事実に憮然と愚痴をこぼすように、彼女に言い返した。
「それはどういうことだ?理解しがたい。僕たち生徒会は誠実に学園を統治しているだけであって、なにか大勢を揺るがすようなことをした覚えはない。それに僕たちは分をよくわきまえているつもりだ」
「それはどうだか」彼女は肩をすくめて、感情の抜け落ちた酷薄な声音で僕に問いかける。政敵を論駁するのに似た様子である。
「この学舎にてまさに王に等しき権能を持つ者として、まつろわぬものたちをまつろわせるのはさぞかし気持ちが良いことなのでしょう。しかしそれが真に学園のためになるのでしょうか?」
「学園のために……」僕はそう言葉を溢して口をつぐんだ。先の戦いを思い出す。生徒会が仲裁や取次をする正当な理由があったとはいえ、それは結局のところもっともらしい理屈で以って体裁を繕ったに過ぎず、事実としては生徒会の利益のための日本舞踊研究会の跡目争いへの介入であった。そのように考えると、僕たち生徒会の行いは"学園のため"、分かりやすく言えば、"公共の利益のため"ではなく、あれは確かに本質的には私闘であった。
また彼女の言葉を聞いて想起されたのは、勝者として講和条約を締結したときの敗者を前にした優越感、版図が拡がったときの世界の拡大に夢と冒険の予感を包含した昂揚感、今まで僕たち生徒会に見向きもしなかった諸侯たちの態度の明らかな変わりようを目にしたときの見返してやったぞ、という達成感と満足感、それらはすなわち権力者として最上至高の悦楽を誘因する動機であり、野心家や成り上がり者が浸る愉悦であり、探検家や博物学者の飽くなき好奇心の発露と同じようなものである。そして、そのように思い起こされた時、実感として僕たちにもたらされた感情を捉え直すなら、こうした内から湧き上がる衝動に似た情動は、「我ら生徒会此処に在り!」と校舎を胸を張って闊歩できるだけの自信の根源、他に誇れるだけの自意識、ありていに言えば矜持を生じさせていた。しかし、そのような自己肯定の背景には戦時に占領地に翻る自国の国旗を見たり、スポーツであれ何であれ自分が贔屓にしているチームが勝利したことをリアルタイムでその瞬間を目撃したときに爆発的に生じる、或いはその一報が新聞やニュースで大々的に報じられたときにしみじみと感じる、胸のすくような爽快感と抑えきれない熱狂、ハリボテのような誇らしさ、根拠のない万能感、肥大化した自尊心、隠しきれない”敵”への侮蔑、抑圧に対する無遠慮さによく似た驕慢さが潜んでいた。
このように思い至りながらも、何よりもここで言明したいのは、生徒会に課せられ且つ誠実に務めることを期待された責務——学園生徒の厳正なる信託によって学園運営の大権を委任されて施行する、学園自治の理念に基づく学園統治の権限——を果たすためには致し方なかったということである。将来の脅威は早めに対処するに越したことはない。これは後年知ったことであるが、先の継承問題への介入を契機として、学園内の政治情勢は夏休み明けまで相対的安定が確保されていたのだ。だがそれでもなお、なんと言い訳がましく聞こえる事だろう!
結局のところ、僕は金雀枝アンリの問いに否定も肯定もできずにいた。彼女の発問をきっかけとして、僕のなかに様々に思い巡らされる分析、それによって導き出される煩悶と葛藤が僕の思考の総合を攪乱し、遅々として進ませなかった。それ故に、答えること自体に躊躇いを覚えた。それでもなお、語ろうとして唇をひくつかせて、せいぜいできた事と言えば、さてどうだろうと(本心としてはどちらともいえないが、)どちらとも取れそうな極めてあいまいな含み——いかにも智謀を巡らせていると思われるような素振り——を持たせた、そうした笑みを努めて作ることぐらいだった。
金雀枝アンリは、僕の無味乾燥で曖昧な微笑み、そこから僕の心の機微や真意を読み取ろうとしているようだった。やがて残念そうな様子でしんみりと呟いた。
「そうですか……否定しないんですね」
彼女はそうした僕の沈黙、逡巡を”否”、つまり"学園のためではない"と受け取ったようだった。
「だが、学園は……僕たちは———」僕は咄嗟に虚を突かれたように狼狽えながら、そうではないと否定しようとした。そうではないのだ、と。
僕がまだ言い終わらないうちに金雀枝アンリは僕の発言を実力で遮った。彼女は、自らの人差し指を僕の唇にそっと押し当てたのである。思いがけずに言葉を遮られた驚愕と動揺は、彼女の指の腹の感触——年若き女の柔肌の滑らかさとほのかな潤いと美白の肌つや、性差を感じる華奢さ——の言いようもえない瞬間的にたちあがる背徳的な官能に、たちまちのうちに覆いつくされる。僕はドギマギして、理性が麻痺し身体が変に強張った。「(ごめんなさい)もう少し話させて」、彼女は艶やかに確信的に微笑した。そしてゆっくりと指が離された。僅かに僕の唾液で濡れた彼女の指に、ともすると僕の意識と視線は思わず引きつけられそうになり、「情欲に呑まれてたまるか!冷静沈着たれ!」と僕は精神の昂揚を自制する。
いやはや何ということだ!自身の色香を自覚的に使うその姿はまさに魔性の女であり、狡猾な為政者であった。我が主君、襲ユリの言葉がふと思い出された。もしかしたら、(考えたくはないが、)彼女の言うとおりなのかもしれない。僕は、女というものが用意周到に常に感情のなかに隠して持ち合わせている二面性——いつでも任意に切り分けられる情動と人格の複合体——に空恐ろしさを感じた。
僕が狼狽する心持ちと感性の幻惑への焦慮に気を揉んでいるなか、ようやっと気が静まろうとしたそのタイミングを見計らっていたかのように、金雀枝アンリは言い継いだ。
「わたしが思うに……生徒会長それ自身が学園を体現していない。彼女が目指しているのは生徒会長である彼女自身が学園の体制を体現すること。それにどうして諸侯は従いましょう?それははたして学園のためになるのでしょうか?」
「彼女……生徒会長は学園生徒の代表者にして代弁者だ。会長の意思はもはや学園生徒の総意と不可分じゃないのか?法典に照らし合わせても……いや、解釈しても、そうじゃないのか?」
最高法規である「学園自治の宣言及び権利の章典」で謳われている理念と実体法たる「学園基本法」に記された条文からみても、生徒会長の政治的意思決定は、学園としての意志以前に学園生徒の意見の総意であり、等しく学園生徒の政治的意思の表象であるといっても過言ではないだろう。
僕は思うのである。この学園で公共の意思を語るとき、”我々”を主語に使うことが許されたただ一人の存在こそが生徒会長である、と。それは独裁者が常々実感する自らの威厳と栄光、知らず知らずのうちに胸中から漏れ出て態度や言葉遣いに表れる驕慢さ故のものではない。そのように生徒会長が発言する際には、その人称”我々”は、”(選挙)王”の人格だけではなく”大統領”の性格も帯びて発現しているのである。
「問題なのは、」と彼女は明確に言葉を切った。僕たちはこの瞬間なってようやく、互いの顔をはっきりと見合った。視線が交錯した。
「ひとつの意志のもとに全てが決されることは、必ずしも素晴らしき善きことには至りませんわ。彼女の……生徒会長の目指す学園自治は、パクス・ロマーナのようだとわたしたちは見ています。代表者による専制、鉄と錆の時代の前の黄金の時、力による泰平……終末を予感させる学園中興の刻と」
金雀枝アンリは静かに、おもむろに右手を左胸に添える。
「わたしたちは明確に理解しています。この手に持つ権能が何のためにあって、誰のための権力なのかを、何を為すべきなのかを。それはすなわち、わたしたちは信頼されて預かっている権限をいついかなるときもただ学園のためだけに行使しているということ、いついかなるときも学園のことを考えているということ……」
まるで社団や公的な場で宣誓した誓言を嘘偽りなく誠実に履行していることを再確認しているかのようである。
「だとしても、それは君たちが割拠するのを肯定する理由にはならないだろう?あくまでも君たち諸侯に約諾されたのは、”学園(自治)のための”行政権限の代行だけだ」
僕がそのように言うと、金雀枝アンリもまた「学園のために……」と呟いた。しかし、僕とは違って彼女は彼女なりの考えを持っているようだった。そういう自信のようなものが表情に表れていた。それはまるで、数学や物理の試験で記述式の証明問題を解いているとき、試験勉強で対策し頭に叩き込んだ公式や定理が適用できるあるいは応用できる解法がふと閃いてすらすらと問題が解き終わり、そのあまりにも出来過ぎた、必然のような今のこの状況や報われた過去の努力を振り返って口角をニヤリと上げた表情と同じである。
「”学園のため”、その言葉は標語であることは違いない。それこそがこの学園の政治哲学の根幹のところですもの。けど、だからといって、その標語が謳う価値は全き一なる意志や理念に収斂するものではありませんわ。でも、推し量った時、学園生徒が共感して持つその価値観が、等しく同じであるという、そうであるという信頼は捨てきれないものよ」
「それを君がいうのか?君は間違いなく国家内国家の王だ。とてもじゃないが、僕と君が語る”学園のため”は同じものだとは思えない。君たち諸侯が言うその言葉は信じがたいものだ……」
僕には諸侯が自身の行為や権利を正当化するための都合の良い題目として使っているだけとしか思えなかった。勿論、それは僕たち生徒会にもいえることではあるが、生徒会が言うほうがまだ理にかなっていたし、筋が通っていた。
「違うわ」彼女はきっぱりと否定した。
「わたしの下に集う、全ての諸身分からなるわたしの権力母体は、史部様たちが呼ぶような"帝国"ではありませんわ。いうなれば……そうね、並べて自由なる諸身分たちの協調と連帯による、画一的な規範に従属する"(同君)連合体 "かしら。とはいっても、『学園自治の理念への翼賛同盟』であることに変わりはないけれどね。わたしだけじゃないわ。他の貴族だって扶翼に資する存在なのよ。生徒会のなそうとしていることは、彼らを委縮させ、彼らの重責や勤労の対価として営々と彼らが積み上げてきた財産を奪うことなのよ。そうしてしまえばどうなるか……わかりきっているわ。責任の放棄と学園の終焉よ。ともかく、アトラスに肩をすくめさせてはならないのよ」
彼女は明白に説き明かす。瞳は爛々としていた。そこには責務あるものの高潔さがあった。
「だからといって富める者たちや権力ある者たちに阿ろというのか?」
「生徒会が我々に阿ったことなんて未だかつてございまして?生徒会は見果てぬ夢を健気に追い求めていらっしゃる。それが蜃気楼だとも知らずに。ゲバルト棒を振るい、血と思想で学園世界を赤くすることが、学園自治の理念の追求であると思っていらっしゃる。ひとつの真実を定め、それをひとつの全き存在に体現させようと思っていらっしゃる。そのような不可分にして一なる絶対のものが学園をまとめ上げ、導けると思うなんて、なんて傲岸不遜なのでしょう。思い上がりも甚だしいわ」
ここで、金雀枝アンリは息を継いだ。彼女の息遣いには、前のめりな気勢に意識が集中し、思わず呼吸を打ち止めてしまった後咄嗟に、息苦しさから呼吸を渇望する様に似た、懸命さを感じた。そうして発される彼女の言葉のひとつひとつ、その音節と音韻と音素が、語彙や語義に、本来込められているはずのない別な形象からの信念を恣意的に付加させて、語気が感情と同期して震え上擦ったようになりながらも、さらにそれが全く関係のない語音の振動を加速度的に高め、語る口調が太陽フレアのような爆発的な灼熱の奔流——まるで語句と感性を磁束して言霊を生み出す励磁のよう——になりつつあるようだった。そして、彼女の沈黙を厭うその姿、そこに隠されていた必死さの理由というものが、ただひたすらに自分の思っていること、考えていることを僕に伝えたいという切実さと純真さ——それらはすなわち恋事への真剣さ——であると気づけたのは大分後のことであった。このときの僕は彼女の発言には公的位階に就いた公人としての人格や性格しかないと思い込んでいたのだ。
僕たちは傲慢であると指摘されたとき、僕は苛立ちからなかばムキになって彼女の発言に割り込んででも反論しようとした。しかし、より一層感じる、掌に食い込むステンレス製コーヒーグラスの硬質的な冷たさが伝える刺激の強まりと結露のひんやりとした感触、それらが僕の気を心に生じた不機嫌さからそらさせ、またさまされたことでふと脳裏によぎった先ほどの一連の思考が僕をすんでのところで思いとどまらせた。
金雀枝アンリは再び語り出した。彼女の双眸の輝きはいやまして煌めくばかりであるが、同時にその眩さは、波静かな水面に映る陽光が小風によって揺らぐとき細波として惑いながらも光の持つ本質や色彩を失わないのと同じように、僕を前にしてゆすぶられる彼女の情感の渦中にありながらも、彼女の明白なる意思を確固として内包し、維持し続けていた。
「史部様たちは……生徒会は自らを学園生徒を導く使命を与えられた有徳者で選ばれた存在、この手に持つ権益は正統主権によるものと信じて疑わない祝福された貴顕であると自認しているのではなくて?意識的にしろ、無意識的にしろ。史部様たちのその姿は、かつての偉大な諸先輩方が提唱し、希求し、理論化した学園自治の理念とその崇高なる精神のもとで、学園生徒の手により為される新たなる倫理秩序確立の理想に共感し、自治自決の思想を正しく承継し普及させる高踏なる同志——相応に尊大にして意志低き者に恩恵を施し智を啓蒙する学園エリート——たらんとしているようにしか見えませんわ。もはや、革命闘士でもなんでもない。共産貴族よ、まさに。剣をもって戦うのは、己の利益のためだけ。ただ、奪われた(とする)権力を取り戻したいだけ。生徒会が浴したかつての栄華を再びこの学園に現出させたいだけ。それを"学園のため"と喧伝する……公共のためと言いながら、諸身分が持つ自治の特権を制限することは、自由の侵害よ」
段々と内からの或いは自らの言葉が自ずと呼び起こす情熱や覚悟、信念に「かくあるべし」「かくあれかし」と要請されていることに、過剰なほどのめり込む風であるといった感じで、捲し立てるように、やや興奮気味に彼女は熱弁を振るう。
僕は春入学式のことを思い返す。すべての始まりであったあのときに、襲ユリはこう言った。「王が一国を統べる唯一の存在なら生徒会長は学園を統べてしかるべきただ一人の存在よ。諸侯なんてものいらないわ」、と。彼女の語る野望に感銘を受け、ちょうど良い渡世の余暇を見つけたと得心して、僕は彼女のその覇道に付き合うと決めた。だから、僕は生徒会にいるし、彼女の忠勇なる一騎士献身する一封臣として臣従している。彼女の、生徒会の負う命題(或いは大義名分)は間違っているとは思えない。
しかしどうだ?この先撃ち倒し併呑することになるだろう諸侯は、目の前の彼女は、金雀枝アンリは、本当に倒すべき敵であるというのか?戦うべき相手であるというのか?公益や己の野心のために虐げても構わない存在であるというのか?僕らと何ら変わりやしない同質の、対等な存在なのではないか?
僕は自分がいま持つ身上というものが二律背反そのものであることに気付く。僕は息をのみ、思わず天井を仰ぎ見る。神や運命は賽を振り、チェスのような遊戯感覚で被造物を手駒の如く配置し、世界の盤面を気ままに決めていく。しかし、この学園の局面はまさにステイルメイト。チェックメイトも能わず、もはやどんな意思でも動かせまい!どうしろというのか!その歪みは誰が引き受けるというのか!
そして彼女は、矛盾律を見出して困惑狼狽し、沈黙するしかない僕にある問いを投げかける。
その問いは、こののちの自分が学園生徒であると自称自覚するいかなるときも僕の脳裏によぎって僕を立ち止まらせて、自分はこの学園にとり何者かという思索の深淵へと誘うものであり、僕を捉えて離さない、僕のこの学園生活の意義や方向性を決定づけたある論題——それはすなわち学園生徒としての矜持や受容の認識と態度、学園への向き合い方という、僕が学生身分である以上、問われるべき探求すべき普遍的かつ道徳的な真理への試問——に繋がるものであった。そして、当時の僕にとっては自分の人生の意味の根源それ自体に迫るような緊迫感と僕自身の実存を抉り出すような衝撃を持っていて、言うなれば、生徒会長に侍する一学生の分限の根底を揺るがすような、決定的な一撃でもあった。
——畢竟、果たして史部様は学園を信じていらっしゃいますか?
「もちろんだ」僕は答える。そこに疑いはなかったはずだった。そう思っていた。問われれば、そのように答えるのが自然だった。
「本当に?」金雀枝アンリはなおも問い掛ける。
二人の間に静寂が満ちる。辺りの音が耳鳴りのような響きを遺したあとすっかり消え去ってしまったようである。
彼女は僕の反応をじっと窺っていた。応えなくては。しかし、声が詰まる。声が出ない。真空中に声帯が震えているみたいだ。無音を強いられるなか、それでもなお力の限りすべて絞り出すかのように喋ろうとするが、話せない。なんと返せばよいのか、僕は戸惑った。息が詰まる感覚がした。早まる動悸につられるように僕は焦燥に駆られる。そうして生まれる心の隙間、確として定まらずにもつれだす思惟に、いままでの彼女の言葉に内包されたイデオロギーが、その空隙を急速に、矛盾なく、真正性を帯びて補完されていく。脳内に繰り返される彼女の言葉が僕を躊躇わせる。語り得ぬ心痛が僕を苛む。
目が合った。黒の奥深い輝きを秘めた彼女の瞳に僕が映る。僕はそれに慄く。何を焦っている?何に惑っている?彼女は待っている。気まずい沈黙が羞恥とともに僕に纏わりつく。僕は堪らず目を逸らしてしまう。手元を見ると、アイスコーヒーのグラスの氷が溶けていて、ちょうどカランという音を侘しく立てた。僕はいきなり無音を切り裂いて耳に飛び込んできたその音にびくりとした。
「どうやら史部様は学園を信じていらっしゃらないようですね。それとも信じきれていないのね」
彼女が口を開いた。あっけらかんとした口調だった。しびれを切らしたのだろうか?呆れてしまったのだろうか?浅はかなやつだと思ったのだろうか?もしそうなのだとしたら、僕は自らの恥辱のあまりに悶えてしまうだろう。なんて情けないことか!なんて軽薄なことか!入学して早三ヶ月、色々な出来事と出会いから少しずつ自得してきた仏曉学園生徒であるという矜持は、今ここでいとも簡単に打ちのめされたのである。
僕はみたび金雀枝アンリへ視線を戻す。彼女は僕に愛しむように微笑む。その微笑は古拙な仏像が浮かべるそれとそっくりで、衆生済度の祈念に満ちた、ささやかで、穏やかで、惜しみない共感があった。人間の理性や善性が咎人に与える最大の赦しそのものだった。
そのように寛大に斟酌されても、ある種の自己同一性の危機と拡散を同時に受け、精神が震盪し荒んでいた僕には彼女に憐れまれたようにしか思えず、言いようもえない屈辱感と悔恨とが胸中にわだかまる。だが、心深くでは、浅薄な僕の罪悪感が彼女の態度によって贖われたことへの法悦もあった。それらアンビバレントな感情がないまぜになっていて、僕は今の自分の表情が笑っているのか、怒っているのか、それとも悔しんでいるのかわからなかった。
「信じきれない理由は、史部様が"学園"というものをよく分かっていらっしゃらないからでしょうね。それとも読み違いや見間違いをしているからかしら?」
「なにを……僕は学園のことをよく分かっているさ。なぜ今のような体制になったのかも、どうして僕らのような存在がいるのかも、すべて……。読み違えてるなんて……」
僕はかろうじて受け答えることができた。しかし、その言葉はひどく歯切れの悪いものだった。
「読み違えているのよ」金雀枝アンリは断言した。「でも間違ってはいない。」なおも語る。
「きっと史部様は生徒会長からこの学園の事を聞いたのでしょう?でもそれは真実であっても、限りなく生徒会の叙事詩、生徒会によって物語られたものに過ぎないわ。なれば、学園の真実なんてもの、いくらだって存在する。『真実はいつもひとつ』であることなんて、ミステリーのなかでしか起き得ないことなのよ」
彼女のその言葉を聞いてはたと気付いたことがある。仏曉この学園のあらましについて、僕は襲ユリや生徒会メンバーの先輩達に語って聞かされたこと以外は何も知らないのだ。否、調べようと思い検索しても"確かな"話が何一つ出てこなかったのである。つまり、僕がいままで知っていたり、信じてきたりしていた学園の「過去」や「歴史」なるものは語られたもの、伝聞でしかないのだ。言うなれば、この学園には「史実」がないのだ。あるのは「史観」だけなのだ。
僕は考える。生徒自治が達成されたこの学園にあって、"現実的に「学園」を規定するもの"は常に学園生活の後景にあるか存在無きものとして扱われる。学内統治を学園生徒に全般的に委ねた結果として、学校"法人"も学園"理事会"もはたまた教職員ですら自発的に学園について何も語らないし、語れないのであろう。なぜなら、過去の事績を記録し、保持し、物語るのは体制側のする特権であって、大人たちがその大権を放棄すること、また学園生徒にその権利が与えられること、それらが学園生徒による生徒自治の達成あるいは(制度としての)確立であると象徴づけられ、そうして学園自治そのものを表象しているからだ。
学園がパンフレットやホームページで記していたり、Wikipediaに掲載されている事柄、あるいは行政の帳簿に登記されていることがあるにしても、ただ出来事が時系列順に羅列してあるだけか既成事実の無分別な記載に過ぎなく、それ以上の意味は持っていないし、持ち得ないし、持ちようがない。その行間に因果律があると見做せないのである。
そうした推察にいたって、僕があの入学式前のことを再び思い返したとき、ふと勘付いたことは、きっと襲ユリも僕と同じような学園物語(だけ)を先代先々代の生徒会(長)から聞かされていたのだろうということ。そして、その物語を真実なものであると受容し、心から確信しているのだということである。生徒会メンバーの先輩たちもまた襲ユリと同じ性なのだろう。
しかし、そうだからといって、襲ユリや先輩たちが無知蒙昧で愚かなのではない。思想操作されて踊らされているのではない。ましてや思考を放棄したのではない。彼女たちの今の立ち位置は、語り明かされた過去を踏まえたうえで、何を見出し、何を正義と見なし、何を真実とし、何を信念としてきたのかのその一個人の自律的且つ主体的な選択の結果でしかないのだ。ひとつ絶対の事実があって、そこに見出される真実が如何様にも語られたとき、どのように受容したのか、あるいはされたのか。それに尽きるということだ。
「だとしたらなぜ歴史がないのか……なぜだれも書き残そうとしないのか……。何もないのだとしたら、この手に持つ権能はどこから……。正当性はどこから……」
僕の中で巡っている思索の過程が支離滅裂に中途半端に言語化されて漏出していた。ひとりごちるように呟いていた。その言葉の連なりは、まるで外国語学習初学者が陥りがちな、外国語を和訳しているとき逐語訳や自身の翻訳感覚を過大に意識しすぎるあまり、和訳された文章が文章としてまったく意味の取れない、ただ文法事項や語意に則っただけの、単語や慣用表現の音韻記号的な羅列に過ぎなくなっているのと同じであり、ほとんど会話としての体をなしていなかった。
「史部様たちは、権力の根源を歴史や伝統、慣習に依拠している。でも、授け与えられたこの権能も……封もそう。起源や正当性を求めることに、どれだけの意味があるのかしら?"はじまり"が重要な意味を持つのなんて、ほんとにその物事が始まったときだけなのよ。あとは、物事の起こりや理由にまったく皆んな関心なんて持たないもの。そうでしょう?例えば、お気に入りのYouTuberを見始めた理由なんて思い返しても何も思い浮かばないでしょう?いつも思うわ『そういえば、どうしてみていたんだっけ?』ってね。それと同じよ。始まって仕舞えば、あとはそれを続けていくこと、それをすることに理屈なんていらないわ。いまこの瞬間に立ち現れている関係性、それだけで十分よ。もちろんわたしたちだって封建的な領有統治の正当性を糺されたとき、”代々の諸先輩伝来の”とか”この生徒会証書から”とか”生徒議会決議法案の第何条から”云々言うときだってあるわ。でも、それは今、この場での関係性の説明に終始しているわ。ただの権威付けのためよ。それら自身が権力を持つことなんてないわ、ありえないわ。だって何度も言っておりますように、学園は”関係”によって成り立つものですから」
「学園はここに厳然と存在しているだろう?学園はそんなにも曖昧なものではないはずだ。観念論の俎上にあるものではなくて、法体系も統治機構もある……実体として機能しているではないか?」
「学園は自明のものではありませんわ。学園は生徒がいるからこそ学園たりえるのです。"在ること"は、絶対のものではないのよ。だって学園は人ありてはじまったのだから……。ですから私たちは学園を学園たらしめるために、学園自治への参画することが当然として求められているのよ」
「つまり……君はこう言いたいのだな。学園生徒間の人間関係模様とそこから現出する"学園なるもの"を不断に信じ続け、維持し続けていくことが学園自治である、と……」
「……そういうことになるわね」
金雀枝アンリはジャスミンティーを一口飲む。顔を綻ばせ「いつもさすがねマスター、良い香り」とランチを出すベストなタイミングをはかっていたカウンター越しの彼を褒めた。いえいえ、まだまだですよ、謙遜恐縮しながら彼はさりげなく、「金雀枝様方お待たせしました。こちらがランチです。」
パスタを僕たちの前に置いた。つくってしばらく経っているというのに、パスタにはまだ湯気が立ち上っており、いかにも出来たての雰囲気である。微かなニンニクとオイルの匂いが鼻腔をくすぐり、問答に意識が向かれすっかり忘れさられていた空腹が途端に呼び起こされる。僕はマスターの施した不思議な技術がつい気になってしまう。
「マスター、これはいったいどういう手品だい?」
マスターは僕にそう訊かれると、武骨な顔をほんの少しだけ柔らかくしながら「残念ながら、お教えできません。なにせ企業秘密ですから。」
「こういうことは聞いてはいけないものよ」
金雀枝アンリがすこしくだけた表情と食通ぶった顔で僕を窘める。「シェフのワザを褒めるだけで良いの」
「なるほど、たしかに。隠されていた方が良いと……早計に明らかにしてはならぬと」「そうよ」ここで金雀枝アンリはもう一口ジャスミンティーを飲んだ。今度はじっくりと味わうように。
「答えを安易に求めてはいけないものよ、どんなことであれ、ね。学園のことだってそう。学園に向き合い続けるのよ。史部様、あなた様自身が、常に、切に、ひたむきに」
「だが……人間のひとりひとりがめいめいに相対しやがては止揚や和合に至るなんて……そんな夢見がちなこと……」
「史部様がそのようにお思いになられるのでしたら、きっとこの学園の生徒の皆様方は学園を信じていない。だからこそ史部様方のおっしゃるような群雄割拠になっているのではなくて?わたしにはそう思いますわ」
金雀枝アンリはまた右手を左胸に添える。僕は刹那彼女が制服を着ていると錯覚した。本当に制服を着ていたならば、そこには校章と部活動・同好会正会員を証明する徽章があるはずだった。
「わたしは思いますの。むしろこの学園は群雄割拠であるからこそ学園たりえているのではなくて?、と。諸侯たちが各々の持つ性格によって形成される"関係"によって諸侯たちの充足理由が満たされ得る。そして、諸侯たちの領域支配の内側に属される地下の生徒たち、被支配者でありながらも誰かと友となり、パートナーとなり、そして敵ともなる。彼らも"関係"によって学園にて個を確立する。群像劇があるからこそ学園は華やかになるのですわ。それに、各階級同士が闘争それだけの生活を送らないからこそ学園は学園としてひとつに纏まっているのよ」
ここで、彼女は脈絡のないことを、しかし彼女にとっては唐突に気付いて筋が通ったことを僕に訊ねる。
「ところで何故史部様は仏曉学園に進学したのでして?」
「?」
何故?理由なんて無かった。仏曉学園に進学することは僕にとっては既定路線であり、我が家では当然のことだった。逆にそれ以外の選択肢は僕には与えられていなかった。次善すらなく、仏曉学園に進学することが絶対だった。そこに疑問を挟む余地すらなかったのだ。
「つまるところそういうことなのかもしれませんね……」
「何がだ?」
「史部様にはこの学園でなければならないなによりの理由がございませんもの。大学への進学実績や交通の便が良いからとか、自分の学力や経済事情、家の慣習からだとか……そういうことではありませんの」
金雀枝アンリは今度は右手で握り拳を作り、トンと左胸——そこは心臓のちょうど真上——に据える。それは学園生徒である己の意思が貫徹すべしと期待している強き信念への信頼である。
「わたしはわたしの意志で仏曉に来ましたわ。だからこそ、わたしは信じていますよ。仏曉学園のことを。そしてもちろん英明学院のことも。けれども、それは確信では決してないわ。試され続けている信頼よ。そうであることを信じようとすることよ」
「史部様もいずれはわかると思いますわ。きっと、だって……」
金雀枝アンリの手が僕の腕にそっと添えられた。彼女ははにかんだ。その仕草にドキリとはしたが、不思議とふしだらな情感は湧き起こらなかった。その所作は正に使命と情熱を持つ親愛なる隣人の善なる心配りであった。彼女のまなじりには知的で怜悧な鋭さが抜け落ちていき、いま再び光の温もりが宿りつつあった。
突然扉の開く音がした。誰か新しい客が来たようだ。




