リリィ・キングロードは祈り続ける
悪女矯正計画本編に番外編として載せていましたが、考えた末、分けました。
リリィ・キングロード視点の話です。
時点は「第35部分 湖畔の休日」辺り、「◇◆◇」以降は最終章の頃になります。
本編未読の方は何が何やらわからないと思いますが、一応ネタバレになってしまうのでご注意ください。
崩壊は、どこから始まったのだろう。そんなことを、ぼんやり考えていた。
日中のカフェで、わたしの婚約者、アーヴェル・フェニクスが頭を下げている。
「戦争に行くから、婚約を解消したいんだ」
彼は、まさかわたしに言っているのかな。
わたしはキングロード家の長女、リリィ・キングロードとして、世間に恥じぬ人生を歩んできたつもりだった。
品行方正、誰に対しても公平で、清く正しく美しく、そういう風に、生きてきた。婚約者もそうだ。学園を、試験のひとつで卒業してしまった天才、アーヴェル・フェニクスと、婚約を結ぶことができた。彼からの強い要望があったにせよ、わたしもまんざらではなかった。彼は誰もが納得する相手だったから。
だけど、実際、本当に恋人だったかは怪しい。彼と交際している間、わたしたちはキス程度しか、していなかったのだから。
いつから彼は、わたしと別れることを考えていたんだろう。
思考が急速に過去へと遡る。耳に、甘ったるいあの子の声が聞こえる。
――アーヴェルとの婚約、おめでとう。すごく、嬉しい。
そう言ってくれたあの子の、少し寂しげな表情を思い出す。もしかすると、と思ったことは確かだ。だけどあの子はアーヴェルの兄の婚約者だ。まさか、と思ってその予感を打ち消した。
考えるに、もうあの頃にはその兆しは見えていたんだ。いいえ、もしかするともっと以前からかもしれない。
あの子の持つ、膨大な魔力が暴走したときのことだ。
あの子に招かれて、北部の屋敷に行ったとき。わたしを口説くアーヴェルに乗っかって、キスをしたとき。
あの子は激しく混乱して、その場から逃げし出してしまった。幸いすぐに見つかったけれど、直後にあの子は、暴走した自身の魔法に包まれて、姿を消してしまった。
そのときのアーヴェルの様子を、今も覚えている。彼の従兄弟から、あの子が帝都にいると手紙が届くまで、彼は眠らずに探し続けていた。彼の兄に休めと言われても、わたしが眠ってと言っても、一心不乱に探し続けたのだ。
もしいなくなったのがわたしだったら、彼は同じように探してくれただろうか。
アーヴェルとあの子の間には、他人が容易く介入できない絆がある。もうずっと、遥か昔から。
なんてことはない。邪魔者はわたしだったんだ。
回想の旅から帰ったわたしは、頭を下げ続けるアーヴェルに言った。
「いつか、こんな日が来るんじゃないかって思っていたわ」
不思議と驚きはなかった。腑に落ちた、と言うべきだろうか。頭のどこかでは、ずっと知っていたことのように思えた。
「最後に本当のことを聞かせて。戦場に行くからなんて、言い訳なんでしょう? あなたは、初めからわたしを愛してはいなかったもの。あなたは一体、誰を愛していたの?」
頭を上げたアーヴェルは言う。
「愛する資格のない人を」
愛する人を語るには、あまりに重苦しい声だった。怒ろうとしていたわたしは、悲痛な声に、むしろ胸を締め付けられた。
崩壊は、いつからか始まったものではない。初めからしていたのだ。
ぐらついた土台の上の虚城は、風が吹けば崩れ去る。わたしと彼の愛のない婚約は、たった今終わってしまった。すでに終わっていたことに、ようやく今気がついたと言った方が正しかった。
アーヴェル・フェニクスのまなざしの先には、いつだって彼女がいた。
慈しむように、見つめていたのは彼女だった。わたしの入り込む場所なんて、彼の心になかったんだ。
「わたし、あなたと婚約しなければよかった?」
「違う。全部、俺のせいだ」
苦々しげな声だった。
「殴っていい?」
問うと、彼は答えた。
「いいよ」
「馬鹿ねアーヴェル! あなたって、本当に最低で最悪のくそ野郎だわ! 大嫌いよ!」
そう言って手を振り上げ、勢いよく振り下ろす。けれど彼の頭に辿り着く直前で手は失速し、結局は、その髪にやわりと触れただけだった。
殴れはしない。その資格なんてなかった。愛がないと予感しつつ、彼の名声に惹かれて側にいたのはわたしだった。
「……幸せになって。幸せになるのよ。そんな顔してるの、嫌よ。あなたらしくないわ」
彼をよく知っている。だって婚約者だったんだもの。
アーヴェルという人は、他人を自分の欲望のために利用する人ではないということを知っている。曲がりなりにも婚約者だったから、それくらい分かるのだ。
彼は何かを守っている。そうして彼が守りたいその何かの中に、わたしという存在はいないというだけの話だった。
「いいわ、許してあげる。だってわたし、あなたといて楽しかったから」
アーヴェルは唖然とわたしを見ていた。怒った方が良かったかしら? だけどできなかった。
「行って、アーヴェル。そうしてもう二度と会わないで」
アーヴェルは頷き、席を立った。
引き止めることは出来なかった。もしわたしが何かと天秤にかけられていたのだとしたら、負けたというだけのことだ。
いいえ、何かじゃない。
正体は分かっていた。
わたしは何もかも敵わなかった。彼を想う気持ちも、彼から想われる気持ちも、あの子に敵わなかったのだ。
一人になって、涙が溢れた。人目も憚らず、わたしは泣いた。
わたし、頑張ったわ。だって彼の前では我慢できたんだもの。
彼に恋をしていた? 憧れが最初だった。だけど時間の経過とともに本当に大切になった。彼と二人で、人生を歩んでいくという、明るい希望を胸に抱いていた。
願わくば、彼があの子を見つめるようなあの瞳で、わたしを見つめてくれる人がいることを。あの瞳で、わたしが見つめ続ける人がいることを。
そんな人が、そんな時が、そんな運命が、わたしに訪れる日があることを、わたしは祈った。
願わくば、わたしという存在が、誰かにとっての特別になれたならば、リリィ・キングロードという人間は、生きた意味があるのだろう。
婚約の破棄から数ヶ月後、北部のフェニクス家が反逆罪で捕えられたと聞いた。死罪は免れない。
もしかしたら、と思った。
もしかしたらアーヴェルは、わたしをも守ろうとしてくれていたのかもしれない。こんな展開を予期していて、だけど避けられなくて、だからわたしとの婚約をあのとき破棄したのかもしれなかった。彼と会うことは、本当に二度となくなってしまった。だから真実は分からない。
願わくば、とわたしは祈った。
願わくばどうか、冷たく悲しく辛い死が、彼らになるべく優しく訪れますように。
願わくばどうか、彼らの死が、あの子に暗い影を落としませんように。
わたしは祈り続けた。
◇◆◇
ふいに、目が覚めた。
まだ夜で、青白い月明かりがカーテンの隙間から朧げに入ってきていた。
ベッドの隣で、ショウさんがわたしを見つめていることに気がついた。
「なにをしてるの?」
「君を見てた」
「どうして見るの?」
「綺麗だなと思って」
平然と答える彼に、顔が赤くなる。
綺麗だと言うなら、ショウさんの瞳こそ綺麗だ。まるで夜空の星を全て詰め込んだみたいに輝いていた。
彼はわたしを抱きしめた。その腕の中でわたしは言う。
「怖い夢を見た気がするの。悲しい夢だった気もするわ」
切ない夢だったような、幸福な夢だったような気もした。けれどどんな夢だったのか、まるで思い出せなかった。
そうか、と答える彼の、胸の響きを感じていた。やがて彼のキスが髪に、額に、頬に、落ちた。
「くすぐったいわ」
「君が隣にいるという奇跡を感じていたいんだ」
いつかアーヴェルは自身の兄を堅物だと表現していたけど、きっと嘘だ。
またわたしは彼を見る。彼もわたしを見ていた。その瞳に、吸い込まれてしまいそうだった。心臓がどきどきするのが心地よかった。
「……不思議。わたし、こうやって誰かに見つめてもらえることを、ずっと願い続けていたように思うの。誰かにとっての特別になることを、祈っていたように感じるの」
ショウさんは、微かに笑った。
「君は多くの人にとっての特別だ。だけど私にとってはさらに特別だ。願いは叶ったかい」
「叶ったわ」
また彼は笑い、わたしにキスをくれた。
――願わくば、とわたしは祈った。
願わくばどうか、この人の上に、幸福がいつまでも降り注ぎ続けることを。
願わくばどうか、報われなかった誰かの想いが、いつかどこかで、救いへと変わることを。
わたしは祈り続けた。
〈おしまい〉
最後までお読みいただきありがとうございました!