黒の動き
走る。
足を踏み込む度に、地面が大きく抉れた。
一歩で、長大な距離を進む。
音が耳の後ろから聞こえてくるようだった。
ついてくる姿はない。
神々でも、俺には追い付けまい。
けれど……問題は、アスタルテ。
彼女なら、きっと俺に追いついてしまう。
それが分かっていて、だからこそ、もっと逃げたくなる。
もうこれ以上、彼女の言葉なんて聞きたくはない。
聞けば聞くだけ……後戻りが出来なくなる。
いや――。
今更後戻りだとか、そんなことを考えるなんて、おかしな話かもしれない。
自分の手を見る。
ぼんやりと、俺の輪郭を黒い何かが覆っていた。
常闇だ。
原初の力が……零れ出ている。
それは徐々に勢いを増して……収まる気配がない。
逃げだしたのは、アスタルテの言葉を聞きたくなかったから。
そして、もう一つ。
離れなければならなかったから。とにかく、出来るだけ遠くへ。
揺れた俺の心の空隙から込み上げてきた常闇。
もしそれが完全に俺の中から溢れだしたら、どうなるのか。まったく想像が出来ない。
だから、離れる。
決して……皆を、巻き込まないように。
――どれほど走ったろう。
常闇は、帯状に俺の後ろに尾を引いている。
もうそろそろ、限界だった。
内側からの圧力に、苦しくなる。
呼吸がまともに出来ない。
俺は足を止めた。
そこは、夜の荒野。
辺りには、何もない。
……いや。
あった。
右と左、それぞれ遥か彼方に、長い灯があった。
それが何か、なんとなく分かった。
大量の命の気配がする。
俺の眼は、遥か彼方でもその灯の下にいる兵士の姿を捕らえていた。
大量の兵士。
……ここは、神聖領と帝国の国境だ。
そしてあれは、それぞれ神聖領と帝国の軍隊。
最近、二国間の状況が悪化して、軍隊が展開されているという話を聞いたのを、思いだした。
まずい……ここも、駄目だ。
そう思って、地面を蹴ろうとして――脇腹に、激痛。
「っ……!?」
なん、だ……?
その脇腹は、先程、アスタルテの常闇で削られた場所だった。
しかし傷はない。一瞬で再生してしまったから。
ただし、俺の内側の渦がほんの僅か、本当に感じ取れるか取れないかというくらいに、小さくなった気がする。
多分、アスタルテに俺の内側の渦を少し喰われたのだろう。
そこで、はっとした。
まさか……。
痛む脇腹を押える。
渦が、加速しているかのようだった。
常闇が、その奥にあるものが、俺に言う。
丁度いい餌がある、と。
喰われた分を、また食おうと。
常闇が、溢れる。
俺の身体から常闇が零れ、地面を侵していく。
やめろ……。
言葉には出来なかった。
口が、開かない。
全身に力をこめるが、常闇はそんな俺の抵抗など知ったことかと暴れ始める。
駄目だ。
やめてくれ……。
嫌なんだ。命を、喰らいたくない。
けれど、常闇は情けなどかけてくれなかった。
常闇が、俺の中の、門のようなものをこじ開けた。
次の瞬間――。
半径数キロメートルにもわたる空間を、常闇が覆い尽した。
†
「――さて」
彼が去った方向を一瞥して、溜息を吐きだす。
逃げた……か。
まあいいか。
とりあえず、去り際に見えた、彼の身体から漏れ出した僅かな常闇。
どうやら、覚醒したらしい。それは、喜ばしいことだ。
それほどまでに、あの神が最初から裏切っていたという事実が重かったのだろうか。
分からないわね。
そもそも神となんて、分かり合えるわけがないのに。こんな汚らしい世界の奴隷となんて……。
「もうここに用はないわね」
呟く。
残されたのは、私と、神々と、彼が仲間と呼ぶ人間達。
彼がいないのならば、もうここにいる意味もない。
別にここにいる者全てを喰らってしまってもいいけれど、どうせなら終わりの絶望を、直接その目に焼き付けさせたい。
それに、神を不用意に削っては、この世界が傾くかもしれない。
この世界を滅ぼすのは原初だ。それは、もうずっと昔から決めていたこと。
だから……もう行こう。
彼の後を追うのはそれほど難しいことではない。
追いついて、そして手を差し伸べよう。
そして――。
「待ちなさい」
神――ウィヌスが、声をかけてきた。
「このまま行かせると思っているの?」
その言葉で、神々が今にも私に跳びかかって来る気配を見せる。
「……」
呆れる。
いい加減、自分達と私との力の差を弁えて欲しい。
「無駄よ」
「分からないわよ。そんなのは」
面倒ね……。
仕方ない。適当に潰してから、彼の後を追おう。
そう思った……刹那。
――空から、何かが落ちて来た。
それが何なのかは、すぐに分かった。
ヘス……ヘスティア。
その小さな身体が、私の目の前にあった。その顔は俯いてしまっている。
周りは、いきなり現れた彼女に、警戒心を一層高めている。
そんなのはどうでもいい。
……これは、どういうことだろう。
何故ここにヘスがいる?
いや、ヘスがいるのは構わない。
問題は……、
「ヘス。シアスとバアルはどこ?」
尋ねる。
そして、その私の言葉にあげられたヘスの表情は……。
「――ねえ、アスタルテ」
虚ろ、だった。
「……どうかしたの?」
「原初の中では、全てが一緒になれるんだよね」
私の言葉は無視される。
……まったく、どうしたというのか。
とりあえず、頷いておく。
「そうよ。原初は全てを一つにする」
「そうだよね? そうすれば、私も、お母さんや、お父さんや、お友達とまた会えるんだよね?」
「ええ……全て溶けて、渦になるのだもの」
「――溶ける?」
「そうよ。全て溶けて、個を失って、融解する。一つにね」
何をいまさら、と思う。
しかし……ヘスの変貌は、劇的だった。
その表情が、歪む。
今にも泣き出しそうに。
それとも、癇癪を起した子供のようにだろうか。
「ティレシアスの、言った通りだ……」
「なんですって?」
シアスが、ヘスになにかを吹きこんだのだろうか。
一体なにを……。
「私は、一つになれるから……そこでまた皆に会えると思ったから……なのに、それは違う。それじゃあ、会えないよ」
「そんなことはないわ。だって、一つになるのよ?」
「違うっ!」
「っ――!」
ヘスが、常闇を私に放った。
咄嗟にこちらも常闇を放ち、それを相殺する。
「ヘス、なにを――!」
「私は! また一緒に暮らしたかったの! 遊びたかったの! 頭を撫でてもらったり、友達と笑ったり……なのに……そんなのは、違う!」
そしてヘスが身を翻して走り出した。
「ヘス!」
っ、一体、どうしたというのだ……。
どうしてこんな時に、こんなことに。
シアス……!
唇を噛みながら、私はヘスの後を追うべく地面を蹴った。
「待ちなさい!」
神の言葉なんて聞こえなかった。
†
「ヘスティア」
「なに? ティレシアス」
ヘスティアが顔をあげる。
この後、アスタルテの予定通りにことが進むとすれば、彼がアスタルテの手を取り、そして終わりが始まる。
ヘスティアも、それを楽しみにしているのだろう。どこか声が弾んでいる。
……そろそろ、私も動くとしよう。
アスタルテと合流されては、もう次の機会など来ないかもしれない。
だから、言葉を紡ぐ。
「君の願いは叶わない」
「――え?」
ヘスティアが、首を傾げた。
「君は、原初により全てが一つになったとき、喪った人々と再会できると、そう思っているのだろう?」
「うん、もちろんだよ。ティレシアスだってそうでしょ?」
「いいや」
首を横に振るう。
「私は……それにアスタルテやバアルも、ただ、この世界に復讐出来ればいい。もっとも、私は既にその願いを捨てたわけだが……ともかく、その後に、何一つとして期待はしていないよ」
「どうして?」
どうして、か。
簡単なことだ。
「原初の渦の中では、全てが溶けて一つになる。それは融解であり……再会ではないからだよ」
「……どういう、こと?」
ヘスティアの表情が曇る。
「つまり、簡潔に言えば、だ」
バアルが、警告のように一鳴き。
しかしその鳴き声に、私もヘスティアも耳を貸しはしない。
「原初の内で一つになったところで、君は誰の温もりも取り戻せない。あるのは、溶けて個を失う。ただ、それだけだ」
途端。
ヘスティアの態度が一変した。
先程まで、終わりを待ち遠しそうにしていたその顔に浮かぶのは、焦燥じみた困惑。
「……嘘だよ」
「嘘ではない」
「嘘だ……」
「本当に嘘だと思うかね?」
もともと、ヘスティアの精神は不安定。
簡単に揺さぶることはできる。
「なんなら、アスタルテに確認でもしてみたらどうだい? 彼女も、きっと私と同じことを言う」
「……」
一瞬の逡巡。
私の監視と、真実を確かめること。
その二つのどちらをとるか。
ヘスティアは――後者を選んだ。
彼女が、駆けだす。
その姿を見送り、私もまた、動き出した。
向かうのは、彼の元へ。
後ろにバアルの気配。
こちらを攻撃しようと常闇を纏っている。
「止めておきたまえ。君一人では私には勝てない」
その言葉で、バアルの常闇が治まる。
賢いな。
戦って負けるより、私の後を追って監視を続けることを選んだか。
まあ、私としても、いくら勝てるとはいえバアルと戦っている暇などないから、ありがたいがね。
さて。では行こうか。
彼ならばアスタルテの思い通りに動きはしないだろう。
しかし、それだけではだめだ。
彼には……圧倒的に力が足りていない。
帝国と神聖領の仲が悪かったのはこのためだったり……。
べ、別に、行き当たりばったりってわけではないのだからね!