黒の真実
「この世界が……俺達に、したこと?」
「ええ」
にぃ、と。
アスタルテの口元が三日月の形に歪む。
それがなんだか……気持ちが悪い。
「ねえ、貴方は気にならなかった?」
「なにが……」
その口から、まるで甘い毒がこぼれ出すかのように、言葉が紡がれる。
彼女の目が細まり、そして、周りの神々を見回した。
そして最後に、その黒い瞳が俺に戻る。
「私達のこの力は、どこからきたのか」
「――!」
どくん、と。
なにかが脈打った。
それは、まるで胸の奥にある、錆びついた扉を力づくでこじ開けられるかのような、そんな感覚。
この力が、どこから……。
考えたこともなかった。
いや。
考えつきすらしなかったのだ。
俺にその力があるというその事実だけで手いっぱいで、それ以上のことまで頭を回せなかった。
だが、そうだ。
今にして思えば、おかしいじゃないか。
普通の人間に……世界など喰らえるか?
否、だ。
そもそも俺のこの力は、なんだ?
喰らう力。
それは分かる。
けれど……どうしてそれが俺に備わっていたのか。
それが、分からない。
生まれつき、と言うのなら簡単だ。
でも……。
俺の他に、この力を持っている連中がいる。
そいつらも、世界を喰らってこの世界にやってきた。
そして、俺を同胞と呼ぶ。
それだけの要素があって……それでもまだ、生まれつきと思えるかと問われれば、やはり否だ。
偶然なんかじゃない。
ここまでくれば、流石の俺だって、これが必然であると分かる。
そして、始めの疑問。
この力はどこからきたのか。
分かるわけがなかった。
「分からないわよね?」
くすり、と。
どこか妖艶にアスタルテは笑む。
「いいわ、教えてあげる――けど、その前に一つ、昔話よ」
「……昔話?」
「そう。この世界の、神が生まれる前の、原初の話」
彼女のその言葉に過剰に反応したのは、神々だった。
「神が生まれる前の、やと?」
「それは、どういうことですか?」
ツィルフと、ヘイとの戦闘を一時中断したナワエが、尋ねる。
「そのままの意味よ。どうやら、本人達すら世界にその知識は与えられていないようね」
また、アスタルテが笑む。
ただし今度は、蔑みの笑み。
「流石、この世界は、どこまでも汚い」
言葉は軽いが、そこにははっきりとした嫌悪感がにじみ出ていた。
そして、彼女は再び話を再開させる。
「――この世界では、神が生まれる前に、一つの存在が世界を支えていた。巨大な一柱の存在……原初」
原初……。
その単語に、何故だか、身体の内側の渦が、一際強く蠢いた気がした。
「世界は、原初に世界を支える使命と、そして一つの感情を与えた。それは――」
アスタルテが、自分の胸に手を当てる。
「――愛するということ。この世界に生きる全てを、愛し、護り、育み、そうしていつまでも愛し続けるということ」
「……愛?」
「ええ、そうよ……そして、その愛が、最悪の事態を招いた」
彼女は、小さく肩を震わせる。
愛が……最悪の事態を?
その二つがどう繋がるのかが、理解できない。
「確かに、原初はこの世界を愛した。すべてを平等に、最大に、どこまでも……だからこそ、嘆いた。生けとし生ける者達が、等しく互いを理解できないことに」
独り語り、アスタルテは大仰な仕草で右腕を掲げた。
「そして――だからこそ、こう思った」
その右腕から、黒い闇が滲みだす。
周囲の神々が一気に警戒を強めた。
俺はと言えば……何故だか、身体が震えていた。
怖かった。
その先の言葉を聞くのが。
決定的な、その言葉を。
けれど、アスタルテは止まらない。
どこか愉快そうに、口を開く。
「――これならばいっそ、全てを一つに。我が内にて一つに」
それは、動揺だった。
その場に、動揺の波が広がる。
全てを自らの内に一つにする……。
それに、思い当たるものがあったから。
「それから原初は、世界の蹂躙を初めた。この世界に闇をばらまき、その闇に――自らの臓腑の常闇に、世界を沈め、そこで全てを一つの渦に。そうして一つのものに作り替えようとした」
それでは、まるで……。
「つまりしの原初の臓腑の常闇こそが、これ」
――……。
原初は、神が生まれる前にこの世界を支えていた。
そしてその原初は、全てを一つにしようとした。
その力が、俺の力?
……どういうことだ。
まだ繋がらなかった。
アスタルテの言うことが正しいとしよう。
だが、だとしたら、どうしてその力が俺に? アスタルテにある?
そもそも、この世界は現存しているじゃないか。
それは、どういうことなんだ?
「しかし世界は、そんな原初を許しはしなかった。世界は、一度その全て――大地を、空を、生命を犠牲に、原初の身を五つに引き裂いた。そしてその後、全てをまた最初から造り直し、そこに原初に代わる、神が生み出された。神が複数いるのは、一個体の力で世界が脅かされるような過ちが繰り返されないように。他にも、無意識への干渉や、神の得た情報を常に世界が受け取るという仕組みを用意した。これによって、世界は平和に――とはいかないわ」
そうだ。
五つに引き裂かれた、原初。
それは……。
ここまでくれば、もう、大体の事は、なんとなく分かっていた。
「引き裂いた原初をそのまま残しておくのが、世界にとっては何にも代えがたい不安だった。かといって、それを完全に消滅させることは出来なかった。もともと原初は、この世界を支えるもの――世界と同質のものだったから。世界がそれに干渉してどうこうするのは、難しかったのよ。だったらどうすればいいのか。世界は、最低の手を取った」
アスタルテの瞳に、怒りの炎がちらついた。
「この世界は、原初の五つの欠片を、それぞれ別の世界に放棄したのよ」
「――っ!」
誰かが、あるいはその場にいた全員が、息を呑む。
「欠片は、世界の間を、また時間を越えて、それぞれの世界に落ちた。そこまでは、この世界の思い通り。ただ、その先がマズかった……」
欠片は……まさか……。
「落ちた欠片は――その世界の生き物に、宿った」
…………。
「欠片はそのまま、宿主の内側でひっそりと力を蓄え……宿主の意識が弱まった時を狙って、その力を一気に使って、世界を喰らった……それによって、欠片は圧倒的な進化を遂げる。そしてその後、宿主をこの世界に導く……いずれこの世界に全ての欠片がそろい、そして一つに戻る為に」
つまり、こういうことか?
俺は、この世界にこの力を……押し付けられた?
「分かったでしょう? この世界がどれほど汚らわしいか、そして、私達がどれほど虐げられてきたか! 現に今もこうして、貴方はこの世界に命を狙われている。その力が、原初のものとバレてしまったから。欠片の力は変質し、この世界とは別物になった今こそ、欠片を滅ぼす好機がと判断したらか! それは、あまりにも理不尽でしょう!?」
アスタルテが叫ぶ。
「どうして!? 私達はこんな力なんて欲しくはなかったのに! こんな力のせいで父も、母も、友人も恋人もそれ以外の人々もそれどころか世界すらも喪ったというのに! その上この世界は、私達に罪を押し付けたまま、何食わない顔でいる! そんなの、ふざけているじゃない!」
両手を広げて、アスタルテは咆哮する。
この世界に対して。
「だったら私達は、それ相応になってみせる! こんな世界は許せないから、復讐しなければ気が済まないから! だから、本当に原初として、全てを喰らう!」
今のアスタルテは……まるで、泣きわめく子供のようにすら見えた。
それくらいに、そのままの感情の吐露だった。
「ねえ、貴方だって同じ気持ちでしょう!?」
その白い手が、俺に伸ばされた。
……。
「こんな世界のせいで私達は苦しんだ! だったら、復讐くらい許されるでしょう!?」
動けなかった。
俺も……他の神々や、ヘイや、メルや、イリアも。
――いいや。違った。
一人だけ、動く姿があった。
それは……ウィヌス。
ウィヌスの爪翼が、アスタルテに振り下ろされる。
それと、指先一つだけでアスタルテは受け止める。
「……流石は世界の奴隷ね。今の話を聞いて、まだこんな世界に従えるなんて」
「別に、世界が汚いだとか、そんなのはどうでもいいのよ。ただ私には、今のこの世界を守るという使命がある。私は、その使命を果たすだけよ。貴方達の下らない復讐に付き合うつもりは、ない……!」
「ふん……もう終わりだし、神を残しておく理由もないわね……」
アスタルテの足元から、黒い闇……原初の常闇が溢れだす。
――やばい!
気付けば、飛び出していた。
体当たりして、ウィヌスを吹き飛ばす。
「っ……!」
アスタルテの常闇は、既に打ち出されている。
彼女が慌てて常闇を納めようとするが、間に合わない。
脇腹が、抉れた。
内の渦から、少し、なにかが抉られたかのような感触。
吐き気がした。
痛みは、不自然なくらいにない。
脇腹は一瞬で再生していた。
「……神を庇うなんて、貴方、正気?」
地面を転がった俺に、アスタルテが言う。
「……気持ちは、分かるさ」
復讐。
したいさ。
したいよ。
でも……駄目だろ。
だって、この世界にはさ……。
「復讐よりも大事なものが、あるから」
「――……それは、仲間?」
頷く。
復讐なんていいよ。
正直、憎いけどさ。
ブチ殺してやりたい。この世界ってやつを。
こんな力がなければ……今まで、何度もそう思ってきた。
その元凶が、この世界なのだから。
それでも……俺は、俺の中では、仲間ってのが……大きくなってしまったんだから。
「……っ、ははははははははははははっ!」
アスタルテが、笑う。
思わず目を丸めた。
なんだ……?
どうしてそんな、笑うんだ。
「貴方、まだ気づいていないの!?」
腹を抱えて、アスタルテは笑う。
「この世界は、神の無意識に干渉する。そしてこの世界は、あのウィヌスとかいう神が貴方と初めて出会った時点で、確証はなくとも、うっすらと貴方が原初の欠片なのではないかという疑いを持っていたのでしょうね」
「……なにが、言いたい?」
「つまり――」
哄笑。
「あの神が貴方を一緒に来たのは、全て、この世界に干渉されたからなのよ! でなければ、神があっさりついてくるわけがないでしょう!? 貴方の旅はね、最初から今まで、全て嘘の上に成り立ってるのよ!」
……。
……。
……。
……え?
思考が、うまく働かなかった。
嘘……?
え、だって……ここまで俺達は……。
それが、最初から、嘘?
世界の干渉?
…………。
……あ。
砕けた。
今、何かが。
その音が、脳裏で響く。
あ、あああ……っ!
「っ……ぁ」
音が、消えた。
目の前が真っ暗になる。
なにもかもが、分からなくなる。
――その隙間から。
どろり、と。
込み上げてきた。
その感覚を、俺は知っている。
喰らうという力、そのもの。
常闇。
原初の欠片。
それが、溢れ出て来て。
気付けば俺は。
その場から、逃げだしていた。
んー?
もっと他にやりようがあったかなあ。