侯爵が雇った料理人
何もすることがなさすぎて暇だ。
ヨゼフに仕事を手伝わせて欲しいと言うと、私は病み上がりで安静にしなければならないと怒られた。
──私のせいで仕事が滞ってしまったのだから、手伝いたかったのに。
説教が長くなりそうだったから逃げた。
睡眠不足によるクマ。食事も摂らないから体重も落ちた。もっと安全な場所、領地で療養するのが一番だけどアカデミーもあるし対処方法も見つかった。
頭の片隅に夢は夢だと、頼もしく心強い味方がいるのに悪夢が起こるわけがないと留めておく。そうすれば怖いものにも立ち向かえる。
恐怖のあまりあの男に屈しようとした自分が情けない。シャロンはどんな汚名を着せられそうになっても真っ直ぐと背筋を伸ばしたまま、前を向いている。そんな姿に憧れていたはずなのに。
悪夢は私が最も恐れていることを的確に突いてくる。私のせいで彼らが死ぬことが一番怖い。
だってみんな、私のせいで死んでも責めないのだから。恨み言の一つも残すこともない。
屋敷の案内が終わればラジットは楽しそうだった。何がそんなに楽しいか聞いてみると、屋敷の至る所で自分の悪口を言いふらす使用人達が、と答えた。
ラジットは一人一人の声を聞きたかったから案内をお願いした。そんな面倒なことをしたのは屋敷の中にいる声を把握しておきたかった。
魔法使いの考えは私には理解出来ないものがある。
ディーに貰った物を整理しようかな。贈り物は数が多すぎて私の部屋には入り切らず三階の空き部屋に置いてある。
本は本棚と栞とセットで贈られた。それは部屋に置くスペースがあった。
カーテンを開けると薄暗い部屋に光が差す。昼間なら電気を点けなくてもこれで充分。
「ねぇソール卿?貴方は前の二人に何と言われてここに来たのですか?」
「アリアナ様にローズ家の人間を近付けないように、ですが。それが何か?」
「ちょっと気になったから。それは私だけなのか、それとも私の物も守る対象なのか」
「はい……?」
ラジットはわからないと言うように首を傾げた。
いつもはシャロンが率先して悪役になってくれている。そろそろ私も本格的に行動に移すときね。
調子に乗りすぎたあの子には大人しくしてもらわないと。
「アリアナ様。発言してもよろしいですか?」
「どうしたの?」
「厨房が面倒なことになっているようです」
ラジットの言葉を聞いて厨房に駆け付けた。
そこでは料理長達と見たことのない男性が数人、言い争っていた。
「何をしているの」
「お嬢様!それが……。侯爵様が新しく料理人を雇ったようでして」
「それで?」
「我々にここを出て行けと」
「当然でしょう?あんたらの雇い主がおーぞく様でも、料理を提供する相手がそこのおじょー様だとしても、ここはローズ家の厨房。侯爵様に雇われた我々が使うべきでは?そう思いませんか。おじょー様?」
私への嫌がらせのためにここまでやるなんて。
いいわ。そっちがその気なら受けて立つ。
「確かにその通りね」
「おお!流石はおじょー様!わかってらっしゃる」
小馬鹿にしたように小さな拍手を送る。
気のせいでなければ今、後ろから「殺してやる」と低くドスの効いた声が聞こえた。
後ろにいるのはラジット。不自然にならないよう、彼らを見渡そうと体の向きを変えた。
視界の端に捉えたラジットは瞬きもせず乾いた目で馴れ馴れしい口調の男性を見据えている。
貴方の手を煩わせなくてもこの場は収められるわ。これでも私、王妃教育を受けていたのよ。
この程度の輩に好き勝手やらせてあげるほど私は甘くない。
あの子の前にお父……侯爵が雇った彼らで、本番に備えて調子を整えておこう。
「ここよりは小さいけど確かもう一つ厨房があったわよね?そこに移動しましょ」
「お嬢様が仰るなら」
料理長達は誰も納得していない。
突然現れた訳のわからない人達に慣れ親しんだ場所を奪われるのは悔しいわよね。
「あら?何をしているの。貴方達」
「何って……見てわかるでしょう。ヘレンお嬢様に食事を作るんですよ」
「そうじゃないわ。なぜ調理器具を使おうとしているのか聞いているの」
「なぜって。使わなきゃ作れないだろうが!」
「貴方達の理屈を通すなら、ここにある調理器具を使うことは許されないはずよ。だってここにある物は全て、料理長達の私物なのだから」
料理に真剣に向き合う料理長達は自分の目で見た器具を買い、その手に馴染む包丁をゼロから作ってもらった。
そのせいあって借金したものの、料理を食べるのが私達であったから負債は私が肩代わりした。
さっきまでの軽口を叩く余裕がなくなってきたのか、奥歯を噛み締め睨んでくる。
その反応は何。まさか反論されるなんて夢にも思ってなかった?
それは残念ね。私の噂を宛にして余裕をひけらかしていたようだけど、礼儀も弁えない無礼者に優しくしても私に得はない。
──恨むなら侯爵を恨みなさい。
全ての調理器具と私達の食器だけを持って移動した。
彼らも料理人なら自前の道具はあるはず。なければ買ってもらえばいい。
どこで見つけたか知らないけど、こんな人達を雇うんだもん。渋るわけがない。
でもそっか。彼らへの支払いはうちじゃないから、明日には高価な物ばかり並んでいそう。
「うわぁー。これは……」
誰もが思ったことをラジットが声に出した。
見事に埃だらけ。
体に障るかもしれないからと、今日のところは様子を見るだけにした。
使わない場所を掃除する優秀で気の利いたメイドがローズ家なんかで働くわけがない。
ここを使うにはまず掃除からね。少人数だと何日かかることやら。