侯爵令嬢が厨房に?
「幸せな未来はなかったのね」
神様ではなくディーが結末に終止符を打ってくれた。
一歩間違えたら大量虐殺の罪にだって問われたかもしれないのに。
勝算はそんなに高くなかっただろうに、それでも戦うことを選んだ。
──そんなにも私のことを好いて……。
私を呼ぶ声も、見つめる眼差しも、微かな熱を帯びていたことにようやく気付いた。
私はずっと愛されていたのだ。
いつの間にかドラゴンの気配が感じられない。
正真正銘、最後の贈り物を授けてくれたのね。
「ありがとう」
私の感謝が届いたかどうかはわからない。それでも言葉にして伝えたかった。
貴方のおかけで私は生きている。やり直すチャンスをもらえた。
ここではないどこは遠くの別の世界。人間である私からしたら途方もない時間だけど、ドラゴンからしたら瞬き程度の短い時間。
人種を超えた友情を育んだ彼らが、すぐに会えるようにと願う。
私がドラゴンにしてあげられる恩返しは祈ることだけだから。
それにしても密告者って誰かしら。
彼らの内情を知っていて、且つ確固たる証拠を手にした人物。
普通に考えたらボニート家の暗部。
仕えてきた主君の突然の死。もしその裏事情を調べ上げた誰かがいたとしても不思議ではない。
私も陛下も暗部の存在は知っていても、正式な人数は把握しきれていない。
と言うよりは聞けない、が本音である。
会話の流れから暗部の話題になることは早々ないし、わざわざ聞く必要がないというのも理由の一つ。
シャロンが話してくれるなら、私は聞きたい。
でも、本人が望まぬことを無理に聞きたくはない。
これは私の勝手な予想だけど各家に一人は配属されていそう。
だってやたら詳しいんだもん。お家事情に。
交流があるにしても、絶対に他人に話せないような裏事情まで把握しているのだから。
密告者の正体を暴くことができれば今現在で強力な味方となる。
密告者が暗部である確証はないし、私が動いているとバレたらシャロンは是が非でも私の力になろうとしてくれるだろう。
それこそ暗部の正体を明かしてくれる。
シャロンとは対等な友人関係でいたいと言えば、どう思うだろうか。
聞きたいような、聞きたくないような。
「密告者、か……」
ドラゴンが密告者の姿を出さなかったのは、もう既に私が出会っているから?
それらしい人物に心当たりはない。
男性か女性かもわからないのに考えたところで時間の無駄ね。情報を集めるにしても私だけでは限界がある。
下町の情報屋を雇うにしても暗部のことを明かすわけにはいかない。
八方塞がりだ。
一度考えることをやめて気分転換でもしよう。
「アリアナ様。どちらに?」
部屋を出るとウォン卿と目が合った。
行き先を女性に尋ねるのは無礼だと承知の上で聞いてくる。
男性が立ち入れない場所があるため、確認しておかないといけないのだろう。
「厨房よ」
ウォン卿は聞き間違いかと混乱していた。
後ろのラード卿も目が点になってる。
そうよね。彼らの知ってる私は、貴族令嬢のお手本になれるよう生きてきた。
厨房に立ち入るなんて天地がひっくり返ってもありえない。
何も言わずに微笑んでいると聞き間違いではないとわかり、無礼な態度を取ってしまったことへの大袈裟な謝罪をされた。
そんな気にしなくていいのに。生き返る前の私は近寄りもしない場所だから。
ラード卿にニコラをお願いして、私は厨房へと向かう。あまり人に会いたくないから遠回りして。
厨房の雰囲気は最悪だった。
朝の仕込みもせずに全員が座り込んで動かない。
上の小窓は開いていて換気はされているのに、どんよりとした空気が充満している。
独り言を呟くシェフの言葉から、こんな空気になった理由がわかった。
明日から毎日、ヘレンがお弁当を作って欲しいと頼んだ。
家の中ならまだしも、外で料理が不味いなんて言われたら料理長達の評判はガタ落ち。
作らなければお父様の怒りを買う。
どっちにしろ待つのは破滅。より傷の浅いほうを選ぼうにも、どちらもダメージの大きさは同じ。
貴族の屋敷で働く料理人の姿ではないと、ウォン卿は目を見開いていた。
爵位に関わらず、貴族の下で働けるのは名誉なこと。それなのに絶望の淵に立たされているかの如く、頭を抱えるなんて常識では考えられない。
ローズ家の異常さをより理解してくれた。
「お嬢様!?いらしていたのですか!気付かずに申し訳ありません!!」
顔を上げた料理長と目が合った。
他の料理人も一斉に立ち上がり横に並んだ。
人の目から一切の光りが消える瞬間を初めて見た。
「本日はどのようなご要件で?」
「クッキーを作りたいの。また教えてくれる?」
「それはいいのですが……。私が目を離したスキに勝手に!オーブンの温度を上げないと約束してくれますか?」
「え、ええ。あのときは本当にごめんなさい」
ダークマター誕生の秘話は難しいことじゃない。料理が下手とかじゃなくて単純に私の行いによるもの。
火が強ければ調理時間が短縮されると思い火力を最大まで上げたのだ。
するとどうだろう。確かに時間は短くなった。
人が口にしてはいけないレベルのものが完成して。
作り直しの余裕がないからあのまま詰めて持って行ったけど、今回は前日から作るから失敗しても大丈夫。
やり直しの機会はある。何度でも挑戦しよう。
今度こそ美味しいクッキーを作るために。
私に教えてる間はヘレンのことを忘れられて活き活きしている。
「ウォン卿。味見をお願いします」
見た目は及第点。
味も悪くない。
自分で作った物は美味しく感じるもの。正直な感想が聞きたくて、ウォン卿に味見をお願いした。
ディーはすごく優しい。あんな見た目から最悪な料理を嫌な顔せず完食してくれた。
だからきっとクッキーも、美味しくなくても美味しいと笑顔で言ってくれる。私に気を遣ったのではなく、ディーの本心から聞きたい。
今日は料理長達が全員で、私が余計なことをしないか見張ってくれていたから失敗作にはなってないはず。
クッキーの形が動物形をしていて可愛い。
──これでは可愛い女の子が作るクッキーみたいじゃないの。
だって料理長が型はそれしかないって言ったから、うん。決して私が選んだわけではない。
過去、私が食べていたクッキーの形が王道の丸や星型があったと記憶していても、厨房のプロがないと言えばないのだ。
「殿下のためにお作りになられたものを私が先に口にするわけにはいきません」
むしろ、殿下にあげるために味見をして欲しいのだけれど。
料理長達も同じ理由で断った。
お弁当のときは味見をするまでもなかったけど、クッキーはものすごく上手に焼けた。
失敗から人は成長する。火加減の大切さを学び、同じ過ちを繰り返さないようにレシピを忠実に再現。
私にしては上出来。
これならディーにあげられる。
本当は食べて評価して欲しかったけど、理由が理由なだけに無理に食べさせるわけにもいかない。
ニコラにお願いするにしても、悪いことは言わないからあまり参考にはならないのよね。
「アリアナ様が殿下のために一生懸命作られたのですから、自信を持っていいと思いますよ」
褒められ慣れていない私にはお世辞でも嬉しい。
ウォン卿はレディーの扱いも心得ているのね。
どこかの騎士団の団長も見習って欲しいものだわ。
可愛いラッピングなんて私の柄じゃなく、青いリボンで結んだ。
底知れぬ達成感に、ついつい頬が緩む。
終わるのが早すぎたせいで料理長達が現実に引き戻され胃痛に悩まされた。
このままでは彼らの胃に穴が開いてしまう。
解決策を練らないと。
他の貴族の屋敷で雇ってもらえれば一番いいんだけど、ここを辞めたら料理長達の悪評や低評を広める拡声器が何人もいる。
火のないところに煙は立たない。
どれだけ腕が良くても小さな粗を探しては、蔑む発言をする者は後を絶たなくなる。
料理長達の実力は申し分ないのに。
栄養が偏らない献立。偏食にならないよう嫌いな食材も細かく切ったり味付けを変えたり、あの手この手で工夫を凝らしてくれる。
いつだって私達の健康を第一に考えてくれる料理長達を、貴族という立場だけで陥れようとするヘレン達に怒りを覚えた。
「みんな。私から一つ提案があるんだけど」