王宮第一騎士団長
いつもより目覚めが早い。太陽はまだ昇っていなかった。
外は薄暗く、窓を開ければ風が吹き込む。
朝とはいえ夏の風は生温い。
新学期になってから休校が目立つ。
私は二回目だからいいとしても、他の生徒は違う。
習わなくてはならないことが多いのだ。
部屋の外に出るとセシオン団長は姿勢を崩すことなく、周囲を警戒している。
「おはようございます。セシオン団長」
「おはようございます。アリアナ様。お早いですね」
「ソール卿のことが気がかりで、よく眠れませんでした」
セシオン団長は小さく息をつき頬を掻いた。
昨夜、尋問の結果が届いたらしい。
まるで私に伝えることを忌避するかのように、視線が下げられる。
まさか無実が証明されなかった?
そんなはずはない。あんな杜撰な計画で王宮騎士団長を陥れるなんて。
「エドガー殿下が介入したことにより、メイド一人の犯行で片をつけるそうです」
そうなるだろうとは思っていたけど。
あの子を無理に拘束すれば調査は難航。取り調べの度にあの男が同席する。
頭が痛い。
──そんなに大切ならいっそ、どこか二人きりで静かに暮らしてくれないかしら。
「騎士団のほとんどの者はエドガー殿下を支持しないそうです」
横暴が過ぎるどころか、ラジットの左目に関する虚偽の情報をあの子に流したことにより、背を向ける者は多い。
形だけの謝罪をしようものなら、心は完全に離れていく。
これ見よがしにディーを支持する。
──その形だけの謝罪でさえ、するつもりはなかったでしょうね。
王族が国民に、しかも平民に頭を下げるなんてプライドが許さない。
あの男からしたら、ラジットが頭を下げて許しを乞うべきだと思う。
平民でありながら王族の手を煩わせたことに対して。
今回のことであの子は要注意人物として警戒される。
そのことを理解せずに、ラジットを屋敷から追い出すためにまた杜撰な計画でも立てるのかしら。
次は長兄が一緒になって考えるだろうし、少しはマシなものになるかも。
「メイドはどんな罰を受けるのか、聞いても構いませんか?」
「処刑とまではいきませんが、王家からの信頼と実績で選ばれた王宮騎士団長を故意に陥れようとしていましたからね。舌を切るだけです」
それでもかなり慈悲深い。本来なら処刑を言い渡されてもおかしくのに。
黒幕が別にいることを素直に白状したことが、減罰になった。
密告も虚しく一人だけ罰を受けることになってしまったけど。
舌を切られたせいで喋ることの出来なくなったメイドは、家族と共にどこか田舎で静かに暮らすしかない。
──それをどこか、羨ましいと思う私は変なのだろうか?
犯罪者となった娘を突き放すことなく、一緒にいてくれる家族。
私には得られなかったもの。
暗い影が記憶を覆う。
私を見捨てて殺した家族のことを考えると、世界が色褪せる。
「大丈夫ですか?アリアナ様」
虚ろに俯いてしまった私を心配するように、膝を付いて下から覗き込む。
「大丈夫です」
影が引くと色が戻る。
この世界は暗闇ではないのだ。
「ソールは今日にでも帰ってくると言っていましたので、そこで私と交代致します」
「私が言うのも何ですけど。本当に良かったのですか?第一騎士団長であらせられるセシオン団長が私の護衛なんかに……」
「問題はありません。アリアナ様はディルク殿下が愛して、大切にしている女性ですから」
私にディーを愛する気持ちがあれば、罪悪感を抱き心を締め付けることはなかった。
心の苦しさは裏切られたときよりも大きい。
気持ちが見透かされてしまわないように、笑顔を作った。
淑女として完璧に身に付けた笑顔。
壊れることなく私を偽ってくれる。
陽が昇り始めると、ようやく使用人も目覚める。
私専属の優秀な使用人はとっくに起きて、やるべき仕事に取り掛かっていた。
朝食を食べ終えて今日は何をしようか考えていると、屋敷内が騒々しい。
帰ってきたラジットを出迎えるため玄関に行くと、侯爵が喚き散らしていた。
「ヘレンを傷つけようとした貴様がなぜここにいる!!」
我関せず。
全く聞く耳を持たないラジットは私の前に跪く。
「ご心配をお掛けして申し訳ございません。私の容疑は晴れましたので、こうして再び、アリアナ様の護衛に付かせて頂きます」
「ソール団長の名誉が守られて安心しました」
「卑しい平民め!聞いているのか!!?」
聞いていないから無視しているんだと思う。
特に引き継ぎ事項がないため、セシオン団長が本来の持ち場に戻ろうと扉を開けた瞬間。
運悪くあの子も帰ってきた。
一泊したなら、そのままデートでもしてくればいいのに。
頭痛が起きそうな予感。先に薬を飲んでおけば良かった。
「どうしてその平民がここにいるのよ!!?」
「アリアナ様の護衛のためですが?」
「侯爵様!その平民!酷いのよ!!他の男と一緒になって私を密室に閉じ込めたの!いやらしい目で舐め回すように体を凝視してきて……。怖かったわ」
「な……何だと!!?貴様!!よくもヘレンを穢らわしい目で見たな!!」
言うが遅いか、セシオン団長が剣を抜いた。
瞬間移動でもしたかのようなスピードで、あっという間に間合いを詰める。
勢いよく剣を振り下ろすと侯爵の腕は落ち、血が吹き出す。
…………そう思わせるほどの恐怖。
実際にそんなことにはなっていないし、剣も抜いていない。
「ソールへの侮辱は我々、他の騎士への侮辱。そのことを理解した上での発言か?」
屋敷全体が揺れたような錯覚。
上からのしかかる重圧は呼吸を乱し、体をも震わせる。
直に受ける侯爵もか弱いあの子も、耐えられるはずもなく。
涙を浮かべて尻もちをついた。
かくいう私も立っていることが辛い。
ヨゼフでさえあまりの緊張感に冷や汗をかいている。
巨大な、超えることの出来ない高い壁がそびえ立つような……。
これが第一騎士団長の実力。
「た、たか……たかが騎士の分際で、侯爵に楯突くつもりか!!」
部が悪くなると爵位で相手を黙らせようとするのが、下品な行いだと認識していない。
自慢するものが身分しかないと言いふらすのは、上級貴族としてあるまじき行為。
愚かで滑稽。
「そうよ!王宮勤めだろうと、平民と比べたら貴族のほうが賢いのよ!!」
「平民?私は伯爵家出身ですが?」
誰のことを言っているのかわかった上で、更なる圧をかけた。
素人が正面から受け続けるには酷。
酸素がないのか顔面真っ青。
「団長!おやめ下さい!!」
「それ以上の圧はアリアナ様に負担です!!」
ウォン卿とラード卿が必死になって宥める。
その理由は私。
知らぬ間にヨゼフが肩を支えてくれていた。支えがなければ私も二人同様に立っていない。
普段見ているのは普段の姿で、騎士団長ではなかった。
肌に突き刺さる空気は痛い。
喉の乾きは尋常ではなく、これまでに過ごした真夏日の不快さを優に超える。
「申し訳ございません。アリアナ様」
慌てて謝罪をしてくれるセシオン団長はもう圧をかけていないのに、目の当たりにしてしまった恐怖は簡単に拭えなかった。
「少し驚いただけので、どうか謝らないで下さい」
今の敵意が私に向くことはないと、信じるしかないのだ。
ホッと胸を撫で下ろすセシオン団長に対して、安心しているのはウォン卿とラード卿。
あの重圧に耐えられるのは今のとこ、バルト卿だけ。
同じ団に所属している二人でさえ、まともに向き合えば剣を落としてしまう。
「では、私は持ち場に戻りますので、これで失礼致します」
「今回はありがとうございました」
「ソールの頼みです。断れるはずがありません」
背中を預けられる相手を信頼している。深く深く。
今度こそ、セシオン団長は帰って行った。
「きゃあぁぁぁ!!!!」
直後。悲鳴が響いた。
今のは夫人の声。侯爵はすぐに立ち上がり駆け付ける。
あの子は腰が抜けたようで立てない。
「ア、アリ……」
縋るように手を伸ばす。
──まだ私が貴女を助けると思っているの?
「いつもみたいに小侯爵様に助けを求めたらどう?」
「どうしてそんな意地悪言うの?もしかして……私だけが王妃様からお茶会の招待状を貰ったことを怒ってる?」
お茶会。
その単語にまたも空気がピリつく。さっきと違って和らいでいるため、あの子は何も感じることなく得意げに招待状を取り出し見せびらかす。
バカね。招待状を私以外に見せたら。
貴女は王妃のお茶会に呼ばれるほどの作法を身に付けていない。
私の悔しがる顔を拝むつもりだったのかは知らないけど。
無知をひけらかしているようなものよ。
「あ……ごめんね?アリアナ。第一王子の婚約者なのに、招待状を貰ってないんでしょ?自慢しちゃったみたいで」
私よりも先に後ろにいる数人が、静かな怒りに燃えているので冷静でいられる。
さっきまで泣いていたせいで、潤んだ瞳。
可憐さと儚さを思わせる。
お茶会は招待状を貰ったら必ず出席する必要はない。仮に私に届いたとしても、行くつもりはなかった。
真の王族に自分だけが選ばれたと優越感に浸りたいようだけど、あの子の貴族としての立ち振る舞いを見てきた彼らからしたら、選ばれることが不思議でならない。
それと同時に、とある可能性を浮かばせた。
息子である第二王子と特別な仲なのでは?と。
なんて面白いのかしら。あの男の知らぬ所で、評価が下がっていくのは。
相手にするのも時間の無駄で部屋に戻ろうとすると、次兄が血相を変えて飛び出して行く。すぐに戻ってきたけど。長兄を連れて。
──朝から訓練に励んでいたようね。
失いつつある信頼を繋ぎ止めるには、騎士団長としての姿を見せるしかない。
何があったのか興味はあるけど、今じゃなくていい。知るのは。
後でラジットに教えてもらおう。
遅れて数人の騎士も駆け込む。
「見てきます」
流石に雲行きが怪しくなってくると、ウォン卿が確認のため傍を離れた。
あの子を呼びに来たメイドはしゃがみ込んだままの姿を見て、嘆き悲しむ。
可憐なお嬢様に手を差し伸べない私に、わざとらしく視線を向けながら。
「ウォン卿。どうでしたか」
「どうも夫人の部屋で火事があったようで、ドレスが燃えたようです」
「火の不始末ってことね」
「だと思うのですが……」
ザッとではあるものの、部屋を見渡した限りでは出火原因となる物は何もない。
まるで突然、火が付いたかのような。
さて。ラジットの口元が僅かに綻んでいるのは、レイウィスの仕業と考えていいのよね?
人に危害を加えるつもりがないからこそ、無人の部屋でドレスを燃やした。
私に好意的な使用人は少ない。元から侯爵家で働いていた人に関しては、魅了香にやられている。
もしも、使用人の誰かだった場合。その演技は一流。敵の懐に上手く入り込んでいるのだから。
「そんなはずないわね」
「アリアナ様?」
「何でもないわ」
彼女達の態度や言葉、思考に至るまで演技ではない。
今回の休暇は死んだ教師の調査のため。
不用意に出歩くのは避けないと。
そうだ。要点をまとめた勉強ノートを作ろう。喜んでもらえるかはわからないけど、私を慕ってくれる彼女達の役に立てたなら。
あの子を置いて部屋に戻る。
呆然と立ち尽くしていたメイドはハッとして、あの子のドレスが全部、燃えたことを伝えた。
他に被害はなく、まるで誰かの悪意によって火が付けらたかのような……と。私を見ながら言うものだから、騎士団に睨まれる。