アップルパイの価値
あの子がいなくなっても殺気が消えることなく、空気はピリついたまま。
恐る恐るディーに声をかけると、吹き出し笑い出した。それにつられて他の人も小さく笑ったり、ニコラに至ってはシャロンの手を両手で握って「痛快でした!」なんて言った。
──あぁ……みんなシャロンの行動に笑っているのか。
シャロンは自分が汚した床を拭いて、これで掃除は完了した。
「もう終わったのか?」
「何しに来たんだクラウス」
「そんな邪険にしなかてもいいだろ。友人の恋人が人手を求めているのに来ないわけにはいかない」
「っ、だ、だから……!!アリーは恋人じゃなくて婚約者だ。僕と恋人なんて……アリーが困るだろ」
「そうなのか?」
「私は……」
言葉が変わるだけで関係は変わらない。
それでもディーがこんなに焦るのは婚約者と恋人には、決定的な違いがあるから。
それは私がこの世で最も嫌いなもの。
それはディーが最も私に求めるもの。
愛。
婚約に愛はいらない。あるのが理想なんだろうけど、実際は互いの利益で紡がれた利害関係。
恋人とは両想いの男女が将来を見据えて一緒にいること。
私達は婚約者であり、恋人ではないのだ。
いや……婚約者と呼ぶことさえ、おこがましい。私は復讐のためにディーを利用している。利害の一致なんて存在しない。
「クラウス!もういいだろ!それより何しに来たんだ。君の魔法は力が強すぎるから掃除には不向きなんじゃなかったのか」
まさかクラウス様まで掃除を手伝ってくれようとしていたとは。
気持ちだけは受け取っておこう。
「だが、魔法はかけられる」
指を鳴らすと光の粒子が厨房に降り注ぐ。
魔法の効果を見せるために火力の弱い炎で壁を焼いた。焦げた壁は一瞬にして元に戻る。
綺麗にする魔法ではなく、汚さない魔法。他にも調理器具にも魔法をかけてくれた。
切れ味が良くなったり、力を入れなくても混ぜれたり。焼きや煮込みの時間を短縮出来るらしい。
それらは高位魔法ではなく生活魔法の一つで、魔法の適性があれば誰でも簡単に使える下位魔法。
ラジットの様子を伺った。顔色はいつもと同じ。
ラジットは下位魔法でさえ使えなかった可能性が高い。
適性が遅くても当たり前の魔法は使えたりするのかしら。素性を知っているのが私とシャロンだけとはいえ、クラウス様に魔法を使ってもらうのは無神経すぎた。
あとでラジットに謝らなきゃ。
「よし。じゃあさっそく、アリアナ嬢お気に入りのアップルパイでも食べようか」
「それが目当てか」
「お前があんなに絶賛していたからな」
料理長の顔が引きつり青ざめてる。
作るだけでなく、作ったあと食べる面々が豪華すぎて意識せずにはいられない。
初対面のクラウス様にどんな印象を抱いたかは定かではないけど、目の前で魔法を見せられると、口に合わなければ……。
消されるなんて物騒なことを考えてしまう光景を目の当たりにしてしまった。
「お、お嬢様。ここで召し上がるのですか?」
料理長の声は震えている。
いつの間にかクラウス様が出したテーブルと椅子。私以外は座っていた。
ここは非公式の場だから身分関係なく、それぞれが目の前の椅子に腰を降ろす。
「そうね。今日だけはそうしようかしら。邪魔なら出て行くけど」
我ながら意地の悪い言い方。
「そんな……!!見られながら作るのが初めてでして。緊張しているだけです」
料理長は慌てて首を横に振る。
「大丈夫よ。貴方達の腕は信じてるから」
「アリアナ嬢がそこまて言うほどの腕前か。私の期待値はかなり上がったがいいのか?」
「自慢のシェフですから」
お世辞ではなく本心。ニコラもすかさず援護してくれる。
それほどまでに絶賛する料理長達をこんなとこに追いやる侯爵が批判される。新たに雇った彼らのことをテオは知っていて、かなり有名レストランで働いていたけど態度の悪さにクビになった問題児集団。
好みの女性には仕事をサボってまでしつこく声をかけ、店の雰囲気に合わない客層には聞こえるように悪口を言ったり。
その業界で彼らを知らない人はいないとか。
私を見下したようなあの態度も、私が女で、侯爵に嫌われていて、媚びを売る必要がないと思ったから。
そんなふざけた真似をさせたのは、彼らに私の悪評を流した使用人がいる。探して罰を与えなければ。
主を陥れる発言するなんて言語道断。近いうちに辞めさせるとはいえ、追い出すだけでは腹の虫は収まらない。
そうこうしてるうちにアップルパイは出来上がって、それぞれの前に置かれた。
全員が私を見る。
私から食べろってこと。
一口食べると、続いてディーとクラウス様が、その次にテオとシャロンが食べた。
カルがニコラに「お先に」と勧めるとニコラは激しく首を横に振った。
侍女と騎士なら騎士のほうが位は高いからと。
常識がありレディーファーストを優先させる騎士はニコラからと、遠慮する。
お互いに譲り合う。
このままでは埒が明かない。
せっかくの出来たてが目の前にあるのに冷めてしまう。
最終手段としてディーと二人で命令すると、同時に食べた。
優秀すぎる人間が下に就くと融通が効かないのが厄介。それも含めて私はニコラが好きなんだけど。
「クラウス様?どうかされましたか?」
「作り方は私の知っているものと変わらないのに、これはものすごく美味いな」
言って、一万リンを料理長達に渡した。流れるように自然な行動に渡し終えた後、おかしなことをしていると気付いた。
「お金は受け取れません」
「このアップルパイにはこれだけの価値がある」
断るなと言わんばかりのキツい目付きに困りはしたものの料理長は
「いかなる理由があろうとお受け取りすることは出来ません。私達はアリアナお嬢様のご友人をおもてなしするために精一杯やったまで。お金のためではありません」
「なるほど。そうか。それが味の決め手か」
アップルパイを平らげたクラウス様は自身の考えを説明してくれた。
料理長達の、私に美味しく食べてもらいたいと思う想いが最高の隠し味となっている。
確実にそうだと言い切れる根拠や確証はなく、でも、そうでないと説明がつかない。
クラウス様の言葉に心当たりがあった料理長はポツリと語った。
仕事だから料理を作る。それが昔の料理長だった。
機械のように命じられたものだけを作り、いつしか作る楽しさも食べさせてもらう喜びも忘れていった。
ある日のこと。厳密に言えば私の七歳の誕生日。あの子が来た日。
主役を奪われ、侯爵は歓迎会をやろうと予約していたレストランに出掛けた。私を置いて。
予約していたということは最初から祝うつもりはなかった。家族水入らずのパーティーの準備だけさせて、私の心を引き裂き、料理長達のプライドまでも軽んじた。
残された私は、私のために作られた料理を全部食べた。
「食い意地が張ってる」「惨めで可哀想」なんて使用人の陰口は聞こえないふりをして。
私は蚊帳の外だと追い出されたことより、私より他人の子供を優先させたことより、私宛のプレゼントを勝手にあげたことより、料理が捨てられることのほうがよっぽど悲しかった。
お腹いっぱいで苦しくて、ニコラとヨゼフも一緒に食べてくれて。
食べることは苦ではなかった。むしろ、こんなに美味しい料理を食べた上にデザートのケーキまであるなんて最高だった。
食器を下げに来た料理長は目を丸くして驚いていたのをよく覚えている。
誰も招待はしていなかったから品数は少なかったとはいえ、三人で食べるにはかなりの量。
唖然とする料理長に私は「いつも美味しい料理を作ってくれてありがとう」そう言った。
それがキッカケだった。
良くも悪くもあの日は多くの人間の人生を変えた運命の日。
辞める決心をつけていたのに、辞めてはいけないと強く思ったとか。
忘れていた心を取り戻し、私の笑顔を守りたくて、私が笑顔になる料理を作り続けると誓ってくれた。
期待なんてされていないのに頑張って、自分を追い詰めて、見てて痛々しかったのかもしれない。
どれだけ忙しくても食事だけはちゃんと摂り、その度にいつもホッとしたような笑みを浮かべていたらしい。
私のことを気にかけて心配してくれる人がいた。
知らず知らずのうちに支えられていた。
人の優しさに気付こうともしないで、まやかしの愛情を必死になって追いかけていたのが恥でしかない。