その男、サイーバ・イマン
J市のとあるコンビニエンスストアでは、一人の外国人が働いていた。彼の名前はサイーバ。
父祖から受け継いだファミリーネームはイマンといい、母国語で「自由の闘士」とても言うべきだろうか。
彼の母国には、イマンという名の奴隷が所有者への叛逆を先導するという内容の、古い英雄譚があった。
そんな名前を持って生まれたからだろうか。彼、サイーバ・イマンは常に笑みを絶やさず、優しい人格者で、誰からも好かれ、慕われる存在だった。
そして現代日本において、サイーバは古代のイマンのように、奴隷同然の苦役を強いられていた。
「おいサイーバ!!昨日来たバイトな、あいつガキの癖に生意気だったから一日で追い出したから」
店長が突然言い出した言葉に、サイーバは面食らった。
「えっ、じゃあ、あしたから、シフトはどう、する?
一週間で、二人も辞めた。」
サイーバは猛勉強の末に身に着けた、慣れない言葉で問いかける。
「あ?そんなの決まってるだろ。
お前が穴埋めするんだよ。
今日の夜勤終わったら、続けて早番だからな。」
店長はさも当然といったように、眉ひとつ動かさず告げる。
彼はサイーバのことを同じ人間として見ていないような態度をしていた。
「そんなこと気にしてるより、いい加減敬語くらい使えるようになれ土人」
「そんな。ただでさえ、もう一ヶ月、休んでない、デス。
きょうも夜勤明けなのに、朝から出てゴザイマス。
やっと休めると、思った、でも」
「でももクソもねえだろ、誰のおかげで働けると思ってんだよ、お前みてえな不法移民がよ!!」
そう、サイーバは不法就労者であった。
そのため真っ当な職に就くことはできず、雇ってくれる経営者がいれば、どんな悪条件でも仕事も場所も選ばず働くしかなかった。
だが、いくら貧しい母国から来て、忍耐強いサイーバでも、今回ばかりは我慢の限界が来た。
温厚なサイーバは拳をわなわなと握りしめ、静かに漏らす。
「……ないで…ざる」
「ああ!?いまなんつった!?」
「働きたくないでゴザル!!!」
その瞬間、景色が暗転した。
サイーバは店長に裏拳をくらい、鼻血を流しながら地に倒れ伏していた。
「もういっぺん言ってみろ!!
お前のボロアパートに、明日にでも入管の職員が押しかけて、めでたく強制送還だ!!」
サイーバの思考が固まる。
「それは…それだけは…」
「嫌だろ?じゃあ俺に感謝して働け。
あ、床を汚したからきれいにしとけ。それと、明日の早番の給料はナシだ。それで許してやる。
じゃ、俺はそろそろ上がるから。
レジが帳簿と1円でも合わなかったら〆るから、覚悟しとけよ。」
「…はい」
店長が帰ったあと、コンビニ内に流れる陽気なCMソングをバックに、サイーバはひとりモップで血を拭いていた。
滲んだ視界が晴れてくると、モップに自分の歯が絡まっているのに気付いた。
ふと、故郷の母親を思い出した。サイーバの母国では、子供の歯が抜けると、それを川に流して成長を願う風習があった。
歯を流した後はいつものように、子供たちで川遊びをする。サイーバの故郷の川は泥に濁り、ボウフラやヒルなどが棲む、お世辞にも綺麗とは呼べない小川だ。
だが、J市の川より、藻や虫が湧かないようコンクリートで流れが整えられ、ビルの光が水面に映える綺麗な川より、思い出の中の故郷の川のほうがずっと美しく思えた。
気付くとサイーバは泣いていた。声も上げずに、静かに。
「おや、どうしました?」
いつの間にか店内に客が入っていたようだ。
サイーバは勤務中であったことを思い出し、即座にいつもの笑顔を作る。
「イ、いらっしゃいマセ」
だが、くしゃくしゃになったサイーバの顔で笑みを浮かべようとしても、酷く歪んだ恐ろしい顔にしかならなかった。
客は穏やかな笑みを浮かべ、優しい口調をしていた。
「いえ、私は客ではありません」
「え?」
「あなたを救いに来たんです。
あなたは優れた資質を持っている。
不法移民だろうと、不法就労者だろうと、関係ない。
ここで燻っているべきじゃない。」
サイーバには訳が分からなかった。まだ勉強していない日本語の言い回しか何かなのだろうか。
「あなたは、こんな仕事をしているべきじゃない。
今すぐ資金を作って、独立したいのでしょう?」
確かに、サイーバには、自分のコンビニを作るという夢があった。
しかし、今のサイーバの状況では、夢物語でしかない。
「金さえあれば、ブローカーを辿って永住ビザだろうと国籍だろうと手に入ります。
あなたに必要なのは纏まった金と、変化です。
我々なら両方提供できる。」
「あなた、ナニ言ってるのでゴザル?」
「サイーバ・イマンさん。
あなたを《健康優良児》と見込んで、ひとつ仕事を頼みたい。
報酬は破格。この仕事であなたの人生は変わる。
なに、簡単です。このエリアに住む病弱な劣等遺伝子を淘汰する、
ただそれだけのことです。」
この日、《健康優良児》サイーバ・イマンが誕生した。




