螺旋の理
「お坊様、狂気とは、どのようなことでしょうか」
玉砂利の石庭を眺めつつ、若い男は問うた。
「狂気とは、周りの者たちと相容れない心のはたらきである」
僧侶は、隣に座した若者に、ゆるりとした声で応える。彼の頭には、白布一面に経文を書き詰めた目隠しが巻かれ、禍々しい雰囲気を醸し出していた。鼻筋や口元は若々しく見えるが、発する声には、歳に似合わぬ落ち着きがあった。
「喩え話をしよう。そなたは祭を訪れている。誰しも楽しげに、そのにぎわいを楽しんでいる。するとにわかに、男たちが、引き回している山車で周りの者を轢き潰しはじめる。だがそれを目にした誰もが、怯える様子もなく、血のたぎるような歓びの声をあげているとしたら、そなたはどうするか」
「驚き、止めようとすると思います」
「これが、昔より連綿と続く祭のならわしであり、誰しもがそうすることが正しいと信じているとするならば」
「ならわしとはいえ、まさにそれが狂気でしょう」
僧侶は深く息をつく。
「否」
若者は僧侶に向き直る。
「何事をも、狂気として断ずることなどできぬ。狂気とは、世につれ、時につれ流転する、相対的なものよ。一時の正気は、また別の時の狂気であろう」
「お坊様、それでは世の流れがすべてということになりましょう。世が人を殺めることを是とし、無辜の民を苦しめることを是とするなかで、拠って立つ正しきことなどないと、そうなのですか」
若い男の拳は、握り締められ小さく震えている。
「何かに拠って立つことはできよう。だがそれを正しいと決められる者などおらぬ。たとえ、如来だとしてもな」
石庭に描かれた模様は、獣の爪痕のように荒々しく、波濤のように渦を巻いている。だがそこには、踏み荒らされた跡が残されていた。
緑鮮やかな笹の葉が一枚、風に吹かれ、玉砂利の上に舞い落ちた。
「私がこの都に参じたのは、狂った今の世を正すためだと信じているのです。男どもが弓射の的代わりとされ、女どもはかどわかされ慰み者とされる、それを狂気と呼ばずして何と」
若者は腰を浮かせ、臓腑から鋳鉄を絞り出すように声を上げた。
「私には正せます。天より授かった、この力があれば――」
「うぬぼれるでない」
静かだが、息を押し止めるかのような一喝。
「心せよ。この世は全て、螺旋が描く対で成り立っておる。天と地、光と闇、生と死。天は雨により地と渾然一体となり、光は日暮れて闇となり、生を授かりし者はいつしか死して無に帰る。正気と狂気も相巡る。同じようなものだ」
僧は、手に握った数珠の珠を、一つひとつ繰っていく。
「沙璃丸」
名を呼ばれ、若者ははっとした。まだ僧侶に名乗りもしていなかった。話すことだけに気を注いでしまっていた。
「はい」
「そなたの授かりし力も、巡る理の中で、必ずや対となる力が現れる。それなる対の力により、力はふたたび環へと還っていくものだ」
「対となる力、ですか」
沙璃丸は、目を細める。
「世界は均衡を尊ぶ。だが流転もまた世界の真理である。それゆえ、双極が螺旋を描くかのごとく、強き力には、それを乗り越える力がもたらされる」
「すなわち、私の力で敵わぬものが現れると、そうおっしゃるのですか」
「敵う敵わぬというものではない。行き過ぎた力を示さば、いつしかそなたは、対の力により止められる道理、それだけのことだ」
「忠言、ありがたく頂戴いたします。だがそうだとしても、私はそれでもやらなくてはならないのです」
沙璃丸は、脇に置いた杖を手に立ち上がり、風変わりな真白の装束の裾を整えた。
「お坊様、私はこれにてお暇いたします。お目にかかれて幸いでした」
「……沙璃丸、拙僧の下で経を紐解く気はないか。さすればそなたは、静かに生を全うできる」
僧侶は、辞去する沙璃丸の背中に言葉をかけた。沙璃丸の口元には、小さな笑みが浮かんだ。
「ありがたきお言葉です。だがそれは、私のなすべきことではないように思うのです」
僧侶に背を向けたまま、彼は頭を垂れるような仕草をする。
傾く日に、鳴り響く鐘の音。沙璃丸は、静かに寺を去った。
沙璃丸は、夕闇迫る大路を歩いていた。
彼の目に映るのは、剥がれ崩れ落ちた屋敷の屋根や壁、餓鬼のごとく痩せこけた人々、そして頭や腕、ときには半身が欠け穿げた死体ばかりだった。
都を焼き尽くした軍勢はとうの昔に立ち去った。しかしその後に残されたのは、およそ人の生きるべき場所ではない、地獄のような景色だった。
「大乱から四季が二度巡ったというのに、この有様か」
沙璃丸が都にたどり着いたのは、昨日の夜だった。だが今に至るまでの間、およそ悲しみや苦しみと無縁のものを目にすることはなかった。
彼は急ぎ足で、仮のねぐらとしている廃屋を目指した。薄暗い三日月の夜、不案内な都をふらふらと歩くのは、あまり賢いこととはいえない。
辻を曲がり、もうしばらく歩けばねぐらに着くというところで、沙璃丸ははたと立ち止まった。
鬼火のごとき明かりが、彼の行く手に浮かんだのだった。
「松明……見回りか?」
ひとつ、ふたつ、そしてみっつと明かりは増えていく。松明を持つ者の姿が、おぼろげに現れていった。百鬼夜行というには到底数が及ばないが、禍々しさはそれに劣らぬものだった。
不揃いな身なり、肩で風を切るような歩き方。都の衛士の見回りなどではない。
賊だ。
沙璃丸は息を呑む。
「そこの白いの、止まれ!!」
夕闇に浮かび上がるような沙璃丸の白装束を見てとり、賊が叫ぶ。薙刀をかついだ大柄な男が、首飾りを揺らしながら、沙璃丸に走り寄ってくる。沙璃丸は、紐に通された見慣れぬ形の珠に目を凝らした。
それは、人の耳を数珠のようにつないだものだった。思わず、吐き気を催す。
とともに、彼の心に、決然たる怒りが湧き起こった。
「白いの、てめぇ、都のもんじゃねぇな。どこから来た」
背の高い賊は、五、六歩ほどの間合いを置いて、沙璃丸を睨みつけた。
「おい見てみろよ、妙なかっこうしやがって。みょうおんじか何かなのかこいつ、えぇ?」
後から続いた小柄な賊が、怪訝そうな顔をした。その賊の頭を、弓矢を携えた男がはたく。筋骨隆々として風格のある、頭目とおぼしき男だった。
「陰陽師だろ馬鹿が。おい白装束、逢魔が時にこの路地をふらついているなんて、飛んで火に入るなんとやら、だ。都のこともなんも知らねぇんだろうが、まぁどうでもいい」
先頭に立つ薙刀の男は、沙璃丸に刃先を向けた。沙璃丸は臆せず、賊を見ている。
「身ぐるみさっぱり置いてきな。それなら、片耳だけで許してやらぁ」
「片耳とはいかなることか」
沙璃丸は問う。
「てめぇの耳を切り落として、俺のこの首飾りに加えてやろうってんだよ」
男は誇らしげに、首に提げた耳の数珠を見る。
「お前は、罪なき人々にそのような仕打ちをしてきたのか」
「あぁそうさ、耳を切り落とすときの、怯えた顔が何よりも好きなんでな」
下卑た笑いを浮かべた賊を、沙璃丸は冷たく見据えた。
沙璃丸は、心を決めた。
「お前たちは、狂っている」
薄紫色をした彼の瞳が、薙刀の賊を捉える。
「なればこそ、ここで、お前たちを誅するより他に道はない」
「っ、何をごちゃごちゃ言ってやがる!」
薙刀の賊が、手にした得物をかざし、振り下ろさんとする。
その刹那。
「消えよ」
沙璃丸が呟く。
彼に睨まれていた賊は、頭から足先まで、何百もの肉塊に分かれ。
次の瞬間には、煙のように消え失せた。
「――なっ……おい、儀助!?」
残された二人の賊は、あたりを見回した。だが、儀助と呼ばれた男は、影も形もない。
「こいつ……何しやがった!」
小柄な賊は腰の刀を抜き、沙璃丸に切りかかろうとした。が、男の運命は同じであった。ひと睨みで数百等分された男の体は、一瞬で無へと帰した。
沙璃丸は残された一人、頭目とおぼしき賊を見る。男はいつの間にか、沙璃丸から大きく間合いを取り、弓矢を構えていた。
「うらあぁぁぁぁぁ!!」
大熊のような唸り声を発し、賊は矢を放った。その狙いは澄まされていた。
しかし。
「消えよ」
矢を凝視した沙璃丸がそう呟くやいなや、彼の眉間めがけて飛び来る矢は、幾条もの絹糸のごとく分かれ、消失する。
続けざまに放たれた矢も、同じことだった。
「お前も、あのようになりたいか」
沙璃丸の睨みに、賊は構えていた弓を投げ捨て、一目散に逃げ去った。沙璃丸は、走り去る男の背に力を使うことは思いとどまった。武器を捨て逃げる者を、消し去る必要はない、と。
「狂気に侵された都、か……」
沙璃丸は、何かを払うように首を振ると、ふたたび、ねぐらへと歩き出した。
その夜、廃屋へと帰りついた沙璃丸のもとに、みすぼらしい姿の少年が現れた。年のころは十二か十三といったところだろうか。少年は沙璃丸の脇にしゃがみ、顔をのぞきこんだ。
「なああんた、さっき、賊に囲まれてたよな?」
「そうだが」
夕餉の用意をしていた沙璃丸は、干した米を煮立った鍋に放り込みながら、顔だけを少年に向けた。
「もしかして賊を消したの、あんたなのか?」
少年は、先ほどの顛末を隠れて見ていたのだろう。沙璃丸は口を閉ざしたまま、鍋をかき混ぜ続けている。自らの力を、あまり公に知られたくはなかったのだ。
「なぁ、聞いてんのかよぉ」
肩をゆさぶられた沙璃丸は、眉根を寄せて少年を見た。
ふと、彼は少年の面影に、懐かしいものを感じた。故郷に残してきた弟の顔が、思い出されたのだった。
「……賊を消したのは、私だ」
ため息混じりに、沙璃丸は答えた。
「やっぱりそうなのか! すごいなあんた!!」
少年は目を輝かせて、沙璃丸の顔を真正面から見た。よく懐いた子犬のようでもあった。
「君は先ほどの様を見ていたというのか。命があったからよいものの、あのような場に出くわしたら、気づかれぬうちに立ち去るべきだ」
「でも、あんたがあまりに堂々としてたからさ、思わず見とれちまったんだ」
「はぁ……重ねて言うぞ。金輪際、あのような場で様子を見るような真似はしてはならんぞ」
「わーったよ。ったく」
沙璃丸は、鍋の中身を椀によそい、膨れ面をした少年に差し出した。
「食べるか。都がこの様子では、君も満足に食べてはいまい」
「いいのか? でもあんたの分だろ、それ」
「分ければよい。私はさほど腹は減っておらぬ」
少しばかり強がってしまったと、沙璃丸は心の隅で悔いた。彼も、前の晩から何も口にしていなかった。
「じゃあ、ありがたくもらうとすっか」
椀が二つ。干し飯を湯で解き、塩を加えただけの粗末な食事。二人は椀をすすりながら、話をはじめた。
「君、名はなんと」
「弥七ってんだ。あんたは?」
「沙璃丸だ。故あって、幼名を用いている。もはやそのような歳でもないが」
沙璃丸は、少しばかり恥ずかしそうに頭を掻く。
「私はな、元々は士の家柄だった。なに、さほど身分が高いわけではない。だが、古くから続く自分の家には誇りがあった」
沙璃丸は、思い返すように、廃屋の天井を見上げた。天井は、朽ちた穴と雨漏りの染みで綻びきっていた。
「そう、およそ一年前だ。先ほど君も見たあの力を、突然授かったのだ。一族は皆、驚いた。だがそれを聞きつけた神職がな、沙璃丸には鬼が生じた、鬼は追われるべしと告げた」
「侍なら、あんたの力は戦に使えそうなもんだがなぁ」
「それはそうだが、怪力乱神の類であることに変わりはない。それに私の力は、私が狂気と判じたものにしか通じないのだ。互いの武を競い合う戦であれば、何の役にも立たない」
口元に、諦念めいた笑みが浮かぶ。
「何より、主君や家人を恐れさせることにもなる。私は八人兄弟の七番目、家に残る由もない。ゆえに素直に受け入れ、旅立ったのだ。西へ西へと長く旅をして、そして都へとたどりついた」
旅路を思い返すように、息を深くついた。沙璃丸は、弥七のほうに向き直る。
「弥七、よければ君のことも教えてくれ」
弥七は小さくうなずいた。
「俺は、生まれたときからずっと都だ。俺の家は、竹の篭とか、箒とか、そんなのを売ってる店だった。あんたも家族のことが好きみたいだけど、俺もそうだ。家族も仲良かったし、父ちゃんの商売もうまくいってた」
食べ終えた椀を傍らに置き、弥七は遠い目をした。
「だけどな、大乱で何もかもなくなっちまった」
「……」
弥七の眉間には、およそ少年らしくない皺が寄せられていた。
「みんな死んじまったよ。父ちゃんも母ちゃんも、兄貴も妹も、みんなだ。殺されたんだ。俺こそが正義だって言いながら、人を殺していく武士どもに」
「――弥七、辛いことを話させてすまない」
「どうして謝んだよ。あんたは悪くないだろ」
繕われた笑顔。沙璃丸は、心に疼きを感じた。
「今はさ、親切な親方が、俺を働かせてくれてる。文を届けたり、使いを頼まれたりしてな。そのおかげで、賊や追いはぎに落ちぶれないで済んでるし、なにより親方のとこはみんな気のいい奴らだからな。みなしごの中じゃ恵まれたほうさ」
「そうか……」
沙璃丸は、弥七の声の端々が、涙声のように揺らいでいるのを感じていた。
「なぁ沙璃丸……あんたは、どうして都に来たんだ」
「旅の中でな、耳にしたのだ。大乱以後、都は荒れきって、この世の地獄のようだと。都に近づくほど、話は詳らかになり、より狂気に満ちた様が明らかになってきた。そして確信したのだ。私の授かったこの力は、狂気を滅し、世を正すために与えられたのだ、と。だから都を目指した」
「あんたは、都を救いに来てくれたのか」
「そうだ。せめて私の目に留まる狂気は、いや、目に留まらぬ狂気ですらも掃き清めたいのだ」
沙璃丸の真摯な眼差しを、弥七は心強く感じた。その瞬間、少年の目からは涙が溢れた。
「沙璃丸……俺……」
少年にはそれ以上、言葉が紡げなかった。
沙璃丸は、ゆっくりとうなずき、まだ幼さを残す少年の頭に手を置いた。
「弥七、約束しよう。遠からず、都をかつての平和な姿に戻すと」
立ち上がり、虚空を見つめる沙璃丸。その手は強く握られていた。
「私が、この世の狂気をすべて絶ってみせる。いかなる狂気も、私は逃さぬ」
涙目をした弥七は、鼻をすすりながら、沙璃丸を仰ぎ見る。
仁王のごとく、凛と立つ沙璃丸。彼ならば、本当に都を穏やかな場所に戻してくれるかもしれない、そう思えた。だが弥七には、燃え立つような光を宿した沙璃丸の瞳は、直視するに耐えぬ、恐ろしいものにも感じられた。
都は変わらず、末法の世のごとき様相を呈していた。そうした中、半年ほど前には聞かれなかった噂が、人々の間で囁かれていた。
跋扈する賊や人攫い、辻斬りの類を、文字通り「消して」回る者がいる。無辜の民にとっては、その所業は一筋の光明であった。しかし返り血ひとつ浴びぬ白装束と、何者も抗えない絶対的な力から、それは慕われるよりも畏れられていた。
「都に、白い鬼が出る」と。
それはまさしく、沙璃丸であった。
沙璃丸はいまや、千にも及ぼうかという狼藉者を消し去っていた。元より都を救う一心であったが、弥七との出会いは、彼にいっそうの決意を奮わせた。
半年が経つ中で、沙璃丸の行動にも変化が生じていた。
都を訪ねてすぐの頃は、武器を捨て、抵抗の意思をなくした者には情けをかけ、立ち去ることを許していた。だが今の沙璃丸には、一片の容赦すらなかった。彼に牙剥く者、彼が狂気と断じた者は、自らの行いを悔いる暇さえ与えられず、無に帰していった。
彼の苛烈な振る舞いは、まさに「鬼」と噂されるに相応しいものだった。
満月の夜、煌々と浮かぶ月を灼くように、何十という松明を掲げる者たち。もう片方の手には、漏れなく刀剣が握られていた。彼らは一様に、迫り来る何かを恐れていた。
「出会え、出会え!」
「鬼を通すな! 門を固め――ぐっ」
刀を構えた男は、何百もの肉片に分解され、消失した。
都の東北、かつて衛士の詰所が置かれていた一角に、沙璃丸は乗り込んでいた。荒廃した都の影の元締め、「野分」とあだ名される者が、そこに根城を構えているとの噂を聞きつけてのことだった。
「確かに、この守りの堅さは、噂を裏づけるようであるな」
背後から突き出された槍を、槍手ごと、一瞥もせずに消し去る。あらゆる方向、あらゆる手段での攻めも、沙璃丸にはどれ一つとして届くことはなかった。何ら妨げなどないような静かな足取りで、彼は詰所の建物に踏み込んでいく。
足軽鎧に身を固めた男たちが、湧いて出たかのように現れ、沙璃丸の前に立ちはだかる。その槍衾はさながら針の山、棘の壁であった。
「お前ら、親方のところに行かせるな! 扉は死守しろ!」
「応!」
沙璃丸はそれを聞いて、口元を小さく歪ませた。
「そうか。この扉の向こうに、お前たちの主がいるということか」
沙璃丸は、自らに向け放たれた数条の矢を事も無げに消し去ると、開いた右手を体の前に構えた。
「隠れても無駄だ。闇ゆえに見えずとも、千里の遠くに離れようとも、我が力からは逃れられん」
沙璃丸は静かに目を閉じ、念じた。
「失せよ、野分」
時の流れが凍て付いたかのような静寂が訪れ。
扉を隔てて、声音の異なるいくつもの悲鳴が上がった。
「ひっ……!」「お、親方が!」「野分さまが――殺られた!」
扉の向こうの喚び声に、守りの陣を組んでいた者たちは色を失った。彼らにはもはや、戦意は欠片すら残されていなかった。沙璃丸は、武器を取り落としくずおれる彼らを、冷たい眼で射抜く。
「消えよ、お前も、お前も、お前も、お前も、お前も、そしてお前も」
男たちを片端から消滅させていく。慈悲など微塵もない。そもそも慈悲の概念など及びようもない塵芥であるように、「掃く」ように消し去っていく。かつて弥七に語った、都を掃き清めたいとの言葉を、彼は現実のものとしていた。
すると、堅く閉ざされていた扉が開いた。沙璃丸は、出で来るものをじっと見据える。
刹那、彼は冷水に打たれたかのように、身を硬くした。
沙璃丸の視線の先には。
「君は」
弥七がいた。
虚ろな目は沙璃丸を、いや、沙璃丸の瞳の奥を見通しているようであった。
「……やっぱり、あんたか」
「弥七、なぜここに」
「……親方を」
「――?」
「親方を殺したのは……あんたか!!」
萎れた草のような弥七の様子からは、想像しがたい、強い叫びだった。
「沙璃丸、あんたが何を聞いてここに来たかは知らねぇ。けどな、親方はあんたに殺されるようなことをしている人じゃなかった」
「弥七、野分は都の悪の源と聞いた。現にこれだけの私兵を集めていた」
「……違う。親方は、みんなを守るために、腕に覚えのある奴らを集めてただけだ」
「だが、賊や人斬りとして、狼藉を働いた者がほとんどだと聞く。まさに野分自身が、賊の頭領だったのであろう。狂った者は何をしようと、そうであった事実に変わりはない」
弥七は座り込み、沙璃丸を見上げつつ睨む。
「みんな、こんな都で生きるために、そうしなきゃならなかったんだ」
「だが、それが罪を許される理由にはならない」
「……沙璃丸、あんたは都を平和にしてくれてるかもしれねぇ。だけど」
うなだれる弥七。
「これまでのことを捨てて、新しく生きていこうとする奴らを、どうして殺しちまうんだよ」
「過去に宿した罪と狂気ゆえ、だ。それは拭い去れるものではない」
「そんなの……誰が決められるんだよ」
「――私が、決める。決めなくてはならない」
そう言い放つ沙璃丸を、弥七は憎悪に満ちた貌で見上げる。彼は立ち上がった。
「そうかよ……あんた、都を焼いた奴らと、なにも変わらねぇんだな」
ゆらりと、沙璃丸に向かって歩く弥七。沙璃丸は微動だにせず、彼を見つめている。
弥七が沙璃丸にぶつかった瞬間。
白い装束が、初めて赤く染まった。
「っく――」
沙璃丸は、痛みの中で弥七を見据えた。彼の瞳は、怒りと悲しみと、そして怯えに彩られていた。思えば、消し去る相手の瞳の色を見ることなど、ついぞなかった。沙璃丸は、はじめて自らの力への畏怖と、悔悟の念を抱いた。
「私こそが……狂気を……」
弥七は、この世から消えた。
血に染まった腹を押さえ、沙璃丸は詰所跡を後にした。赤い染みは、ゆっくりとその版図を広げていた。彼の顔を歪ませるのは、苦痛か、それとも悲嘆ゆえか。
一刻も早く手当てを。だが満月は天頂にあり、時は既に真夜中にあることを示していた。傷を縫おうにも、手を貸してくれる者など見当たらない。
深手を負った苦しみから、彼は気づいた。
この力は、自分の傷を治すことすらできない。自らが狂ったと判じたものを消すことはできる。相手が何であろうと、どこにいようと。しかしいかに力が凄まじいものであっても、それは決して、何かを癒すことはできないのだ、と。
力を行使すれば、世を正せる。狂気を廃し、都をかつての姿に戻せる。そう信じていた。だが、沙璃丸の力は、奪うことしかできなかった。その末路は、自分を慕ってくれた少年を、消し去ってしまうことだった。彼の心は、虚無に飲まれつつあった。
沙璃丸は、大路の向こうに立つ人影を見て、足を止めた。手から漏れた血が、ひびわれた地面に吸い込まれる。
「沙璃丸よ」
「あなたは……」
経文を書き連ねた目隠しをした僧侶の姿。沙璃丸が都に来て間もない頃、訪ねた僧だった。
「久しいな」
「……」
白衣の沙璃丸を、煌々と灯る月明かりが照らす。その血の跡すらも、鮮やかに。
黒衣の僧侶は、月光の下に映された影のようであった。
「そなたは力を強め、鬼とすら呼ばれるようになった。そなたが思う狂気を、都から廃し続けてな」
「それが……私の使命と」
「そしてそなたは、自身のみを、正気と狂気を判じ分ける者とした。もはやこの世に、そなたの分別から逃れうる者などいなくなった」
僧侶は、人差し指を突き出し、沙璃丸を指す。
「だが、そなたは悟ったはず。自らの力の帰結を」
「……弥七」
傷の痛みゆえに、沙璃丸の息は絶え絶えになっていた。
「私こそが……この世の正気であらねばならないと……思っていたのに……」
「言ったはずだ。正気も狂気も、流転するものであると」
口から苦しみの吐息を漏らす沙璃丸。
「……私のしたことは、なんだったのでしょう」
僧侶を見据え、呟く。
そのとき僧侶は、経文の記された目隠しを外した。
沙璃丸の目が、大きく見開かれる。
顔。
自分と同じ顔。
双子のそれよりも似た、寸分違わぬ顔が、自分を見つめている。
「あなた……は……」
驚愕に、彼の身は震えた。
「沙璃丸、螺旋を歩め」
僧侶は言い放った。
「繰り返せ。繰り返さぬために」
大路には、滴った血の跡のみが、残されていた。
沙璃丸は目を覚ました。
畳の香りと、傾き差す日の光。彼は、凝り固まった体の痛みを感じながら起き上がる。
周りを見わたす。そこは、都に来て間もない頃、訪れた寺だった。
私は眠っていたのか? 旅路の疲れからか、僧を訪ねて、待つ間に寝込んでしまったのだろうか。
まさに、一炊の夢とでもいうべきものだったのか。
思えば、刺し傷の痛みもない。傷跡を確かめようと目線を下に落とした。
沙璃丸は息を呑んだ。自らが纏う衣は、黒の僧衣だった。身に付けていたはずの真白の装束は、いずこにも見当たらなかった。
彼は傍らを見て、驚きに身を硬くする。
そこにあるのは、経文を書き詰めた白い布だった。
と、足早に誰かが近づいてくる。
「和尚さま」
見上げると、小間使いのようなかっこうをした少年がいた。陽光を背にしていて、彼の顔は判然としない。
「お客さまがいらしています」
客?
「客人……私にか?」
「えぇ、和尚さまにお会いしたいと」
「どのような者か」
「真白の衣を着た、若い男の方でした。それも……」
少年は、気味悪げに顔を伏せたように見えた。
「和尚さまと、同じ顔をしているのです」
沙璃丸は、総身を氷の雷電が貫いたような怖気を感じた。
「そうか……」
「いかがしますか、和尚さま」
「構わぬ、通せ」
少年は小さく一礼すると、駆け出していった。
沙璃丸は、傍らの白布を面に巻いた。
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かつて仲間うちで短編の書き合いをしていたときの小説を、蔵出しする形で掲載いたしました。
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