8話『満月の夜。高貴なあなたのベッドは玉座で良くて?』
☆
湖のど真ん中に建てられた吸血鬼レイラ・ティアーズの館。
その敷地は正面から一本だけ伸びた橋――と言っていいのかも分からない、水面とほぼ同じ高さの石畳によって陸と繋がっている。
雨の日に少し増水するだけで、あっという間に水中に沈んでしまいそうなその道を使い、オレはようやく建物を囲う鉄柵の前に到着した。
やっと、やっとだ。ここまで長かった。町を出てから草原をふらつき、せり上がった丘からこの場所を見つけ、道中の森で迷い、一体どれだけ歩いたことか。
体力的には吸血鬼の身体能力ってのが効いてるのか全然疲れちゃいないが、時間は等しく流れるもんだからな。
空に浮かんでいた眩しい太陽は、青白くて冷たい満月と交代しちまった。
「ここがレイラの家かぁ」
白いレンガでできた外壁に空色の柱、灰色の屋根。
二階建てで庭園付きの建物は、それだけだと案外小さくまとまった印象なのだが、しかし月の光を吸って輝いているような神秘さが、その存在感を格段に強く見せていた。
子供の姿をしているのに威厳や年季を感じさせるレイラと重なる。主が主なら館も館ってことか。
正面に立つと門扉はぎいぎいと勝手に動き始めた。どういう仕組みなのかは分からないが、入っていいらしい。
門を抜け、手入れされてるのにどこか物悲しい庭園を通ると、次は建物の正面玄関。
焦げ茶色の分厚い扉は、当然のように開いていた。
オレは遠慮なく踏み入る。
館内に入り目の前に広がったのは、赤い絨毯が一面に敷かれたロビーだ。温かいオレンジ色の光が天井から降り注いで眩しい。
正面にそびえるのは二階へ続く大きな階段。その先にある照明のひとつが、ここまで進めと言うように緑色に点滅している。
「うっ……?」
その光を見た一瞬、眩暈に襲われた。オレは軽く頭を振って身体が何ともないことを確かめてから、二階へ歩き出した。
なんだ、この感じは。
まるで夢でも見てるみたいだ。
どんどん自分の視点が、身体を離れていく。
「――――」
二階の通路に出たところで、点滅する照明を目印に、足を動かす。
通り過ぎていく針の止まった古時計。枯れた花を挿した花瓶。絵を入れないまま飾られた額縁。外が見えないほど汚れて曇りきった窓。
別の階段を上がり、三階へ。点滅する照明を目印に、足を動かす。
通り過ぎていく血塗れの心臓。顔の見えない生首。蓋を失くした古い棺桶。天井に穴の開いたスノードーム。
別の階段を上がり、四階へ。点滅する照明を目印に、足を動かす。
通り過ぎていく円の欠けたドーナツ、頭をかじられたたい焼き、器からこぼれたシチュー。ふたつに割れた携帯電話。赤いコートと白いワンピースを着たマネキン。黒髪のかつら。
別の階段を上がり、五階へ。点滅する照明を目印に、最後の部屋に辿り着いた。
『麗しき夜の涙』と書かれた大きなプレートが飾られた小綺麗な扉。
それはページを捲るようにゆったりと開いて、オレを中へ誘う。
「――――」
赤い絨毯が塗り替えられて黒色に変わった。それはただの黒じゃない。星空を宿しているような、触れたら飲み込まれてしまいそうな、さながら投影された宇宙。
宇宙は床から壁に零れて時にアーチを、時にリボンを結び、やがて垂れ幕のように天井から吊り下げられては、複雑なあやとりの技のごとく部屋中を廻っている。
オレは夢中で輪舞の行き先を追いかけて、置いていかれて、飛び跳ねて、裸足で踊り出して、唄をうたって、疲れきって、その果てに――玉座を見つけた。
部屋の最奥。息を呑むほど美しい景色の中心には、一人の女がいた。
ああ、そうか。理解した。
オレの瞳に映っているこの宇宙は彼女の――玉座で眠る女王の黒髪なのだと。
黒いヴェールの向こう側に見える、あまりにも無垢なその寝顔。
長い睫毛。細い眉。小さな鼻。艶やかな唇。すっきりとした頬から顎にかけては白くしなやか指が添えられており、玉座の肘掛けについた頬杖が、その芸術的な頭部を最小限の力で支えている。
身を包むドレスは純白に虹を内包し、気高いヒールは生命の根源である鮮赤。そのふたつの装いは、ただでさえ余分が削ぎ落された女王の美を、さらに極限まで高めることに成功していた。
目が離せない。
こんなオレにですら分かるほどの――絶世。
瞬きすることは許されない。許さない。呼吸をすることも。心音を響かせることも。
脳が勝手に電気信号を送るんだ。
この存在を絶対に穢してはならない、と。
しかし同時に一秒でも長くこの光景を見ていなければならない、と。
「ん」
ぴくりと、女王の目蓋が動く。
刹那、身体の内側から焼かれるような感覚に支配され、とっさに胸に抑えた。
熱い。足先から少しずつ海に浸かっていくように湧き上がる焦燥。
心の準備が整うのを待ってくれるはずもなく、物憂げに開かれた女王の眼はオレを静かに見下ろした。
「其方は――――誰だ」
その虹彩は蒼穹、あるいは大海。天地人。その身ひとつでこの世界を表す絶対的な奇跡。現の中の夢。夢の中の現。言葉で形容することですら禁断の過ちであるような、存在としての格が違いすぎるナニカ。
しかしそれでも、オレは……オレは知っている。
記憶には無いけれど身体が覚えている。
オレはこの鮮烈なる出会いを、いつか、どこかで一度経験した。
ずっと、ずっと、遥か遠い昔に――。
「ッ……」
胸を押さえていた指先が、鋭い何かに撫でられた。
指の皮が切れたのか。だとすれば原因はなんだ。出血はどのくらいだろうか。違和感は一瞬にしてオレの思考と視線を、胸元に誘導した。
そこでオレはようやく捉えたのだ。あまりにも堂々と胸に突き刺さっていた――その剣の姿を。
「なッ、――――⁉」
肉体を刃物で貫かれた。その事実を認識した瞬間、直感したのは死。フィクションのような出来事がこの身に降りかかったのだという現実。
血の気は波のようにさぁっと引いた。がくんと力が抜ける。あっさりと膝から崩れ落ちる。
もう、どうしようもない。これは手の尽くせない致命傷で、助かる見込みは一ミリも存在しなくて。
そんなことはとっくに理解していた。
だけど、これで終わりだなんて信じたくない。そう思って赤涙を流す指を、これまで何も掴めずにいた空の右手を、必死に手を伸ばした。
最後くらいは、誰かの手を握ることができたらと――。
一秒後。結局オレは何にも触れることができず、意識は身体と共に堕ちていった。
☆
「……えい」
「いてあッ⁉ な、なんだァ……⁉」
「む、起きたか」
あまりの衝撃と少し遅れてやってきた痛みに飛び起きると、目の前にレイラが立っていた。
初めて会った時と同じ姿で、同じように二個の赤い目がオレを見下している。
「ったく、いきなり人の顔ひっぱたきやがって……いって~」
頬をさする。血は出てないな……外側は。反対に内側は、牙が食い込んだみたいで血の海になってる。こういう時はつい傷口をべろで確かめたくなるんだが、今回ばかりはグロテスクな感触を想像して、意地でも触らないようにしようと思った。
「何度呼びかけても全然起きぬからのう、其方。すまんが手荒な真似をさせてもらった」
「奥歯砕けてんじゃん……」
「じき治る」
治るったって、痛いモンは痛いんだけどな……。まあ、そこまでしないと起きなかったってんなら、オレにも悪い部分はあるか。
つーか、そもそもここはどこだ。
窓のない部屋。子供っぽい柄付きの黄色い壁。どことなくレイラと同じ甘い香りが漂っていて、それで奥には王様なんかが座る椅子がある。確かそう、玉座って言ったっけ。
あれには見覚えがあるような。
「それで其方、なぜここにおる。騎士団はどうした」
「ん、ああ……ツバサってヤツからここのことを聞いて……、まあ流れで。聖戦のことも聞こうかなって」
それでオレは散々歩いてここに辿り着いたんだ。で館の中に入って、緑色の点滅に案内されて二階へ。それから、別の階段を上った気がする。
でもおかしいな。外から見たここは確か二階建てで、だったら三階やその上があるはずがねえ。
まったく、どうもはっきり思い出せないぞ。こう、バラバラな記憶はあるにはあるが、どれも他人の頭を覗いてる感じでくらくらする。
「なーんか悪い方向に変な気分だぜ……夢でも見てたのか、オレ……?」
「ここは剣の力で作ったワシの心の中のようなものじゃからな。……あてられたのじゃろう」
オレに対する説明ってよりは、むしろ自分で再確認するようにレイラがぼそっと言った。
「まあよい。来た以上は歓迎するぞ。ワシはこれから朝食、もとい夕食の時間じゃ。其方も何か食べるか?」
「え、いいの? じゃあシチュー! 今度は冷めてないやつで!」
「よかろう」
微笑むレイラ。しかしオレにはその表情がどこか悲しそうに見えた。
多分、目が笑ってなかったからだ。
部屋を出たあと、オレは扉を閉めようと振り返った。しかし扉は入った時と同じくひとりでに閉じていく。
その光景はまるで風に流されて表紙を浮かせた絵本のようで……レイラに影響されたのかな。
オレはせっかく見ていた夢が終わっちまったような寂しさを覚えた。
胸に当てた手。
その指に切り傷や血の痕などは――これっぽっちも見当たらなかった。