3話『ヒコウカイ/水槽の魚』
☆
「君は何を感じ、思い、獲得した? リタウテットの――海を目の前にして」
「……ッ、………………」
「答えられないか? あるいは沈黙が答えか?」
オレは否定と肯定が入り混じった思いで、何度か小さく首を振った。
「……確かにオレは、《列車》に乗って海に行きました。でも何も、何も無かったんですよ……本当にこれでいいのかって思うぐらい、あそこは静かで……」
フラッシュバックする光景。それが嫌な汗を滲ませ、身も心も重くしていく。
……そうだ。
何日か前、オレはお姫様の手紙に従う形で、リタウテットの海と向かい合った。
そこにレイラを目覚めさせるための手がかり、真実への道標があるはずだと希望を抱いてな。
だけど、目の前に広がっていたのは、どこをどう見てもただの海だったんだよ。
もちろん、オレなりに色々考えてはみたさ。
時間帯とか魔術的な仕掛けがあるとか水質とか周囲の環境とか、思いつく限りの可能性を精査して、日の入りから日の出までを砂浜で過ごした。
なのに、それらしい手がかりは何も見つからず……あったのはただ何か大切なことを見落としているはずだという焦燥だけで。
結局のところオレは何も得られないまま、欲しいモノを何一つ掴むことができないまま、ノコノコと戻ってきて今、ここに居る。
「コウカイをしたか」
後悔、航海――二つの単語が浮かんで判断がつかなかったけれど、どちらにしても同じだ。
今は確実に、最良な状態ではないだろう。だけど後悔をできるほど、あのときああしておけばなんて分岐点は思い浮かばないし。
それに取るべき進路や乗りこなす船があるのかさえ見失っているこの現状で、航海を――新たな船出を切れてるかどうかなんて当然あやふやで。
「……分からないです。何を、どうしたら、いいのかも……」
「それが後ろめたい。隠すべき弱点で直ちに正すべき修正点のように思っている。だからせめて、課された役目ぐらいは覚悟を持って全うしなければ――と、内心はそんなところか」
頷く。レイヴンの指摘は的確だった。
言葉にされて初めて、オレ自身そう思っていると気付かされるほどに。
背負った責任で身体を動かすことはできる。覚悟だってあるつもりだ。けれどそれは、受け身な姿勢の中に中途半端に主体性が混じっているだけで、上手くは言えないけど厳密にはまだ、自分の意思で行動しているのとは違うんじゃないか。
今のツキヨミクレハは真実を掴めなかった現実の中で、まだ自分のモノにできていない使命感に溺れているだけじゃないのか?
誰かにそう突きつけられた気がして視線を落とすと、レイヴンはさらに言葉を続けた。
「その思考は、間違いではない。実社会において個人の感情が後回しにされることは常であり、内面にしか目を向けない者は、外面を見ないだけの余裕のある未熟者と、レッテルを張られる」
「…………」
「そして子供たちはやがて、それがあながち的外れでもないと気付くのだ。過ちを犯す者がいなければ法は破綻する。消費する者がいなければ食料、娯楽、歴史を生み出す者も現れない。病にかかる者がいなければ、買い取る者がいなければ、雇われる者がいなければ、みな等しく職を失う。そのように社会とは、好悪にかかわらず、歯車がなければ回らない。ゆえにどんな子供にも歯車になる順番は訪れる。世の中の仕組みを悟り、その大いなる流れの中で何かを成そうと、清濁を併せ持つようになる」
「………………」
「だが反対に、思考を停止し、弱者の意地さえも自らドブに捨てた存在などはその輪の中に入れない。他者に迷惑をかけていることを自覚しないまま、自分は上手くやれていると勘違いしたまま、いつか自業自得の言葉と共に、すべてから見限られるだろうな」
だから、そうはなりたくなかった。
かつての自分がそうだったから。溺れているだけだとしても何もしないままでいるのは、ダメだと思ったから。
真理亜の手を取らなかった夜。現状維持を選んだ自分。結果離れられないまま、借金だけを残して一人去った母。クソみたいな大人にペットのように扱われ、こき使われた日々。
あの頃に戻らないために。繰り返さないために。
そのためにオレは、目の前に差し出されたモノをほいほい掴んで、背負って、彷徨いながらも、行けるところまで行こうとしていて。
「しかし君はまだ子供だ。――アリステラが君を、子供に戻してやる」
「…………え?」
思いもよらぬ言葉に声が漏れた。
落とした視線を上げると、レイヴンは変わらず毅然とした態度で、これが当然の道理だと言うように続けるのだ。
「学び舎とは成長をするための場所だ。ゆえに私は一教師として、指針を失い流れに身を任せているだけの今の君の在り方を許そう」
「…………」
「しかしそれは、現状維持を認めるという意味ではない。先の問いでは前提を打ち砕く奇跡を求めたな? ならばそれを現実に落とし込めるよう、しかと励むといい」
レイヴンは組んでいた手を解いた。
そして音がする。ソファーの軋む小さな音。
同時に目の前で、大きな影が立ち上がった。
「アリステラもまた、海だ。風に吹かれ、波に乗り、流され沈み、けれど絶えずもがき、泳ぎ、乗りこなすことができたのならば、経験という深みや厚みを君の人生に与えてくれるだろう。それを次に繋げてみせなさい」
「…………はい」
逆光の中、手が差し出されることはない。
なぜならオレも、何かに背中を押されるように立ち上がっていたから。
「ツキヨミクレハ――ようこそ、アリステラへ。君を歓迎する」
そうしてレイヴンは書類に印を押した。
合格の、証明印を。
☆
いくつかの細かな手続きを終えて、オレは応接室を出た。
レイヴンは特に何も言わず部屋に残ったが、扉を閉める際、懐から革製のケースを取り出しているのがちらっと見えた。
煙草か、イメージ的に葉巻でも吸うのかもしれないな。
一仕事終わりの一服ってやつだろう。
そんなことを想像しつつ、階下や校舎の外から聞こえてくる、話し声や足音に抱く期待と不安を紛らわせていると――階段の前に、悠然と佇んでいる黒い少女の姿が見えた。
黒い、というのは恰好から抱く印象だ。
喪服を思わせる黒無地の着物。花の柄が入っているが帯も黒色で、首元から覗く肌着も黒。袖を抑えている手にも黒い手袋を着用し、草履に合わせた足袋もまた黒という徹底ぶり。
黒ではない部分といえば、病的なまでに白い肌か、青白い唇に上塗りされた薄紅の化粧ぐらいで。
総じてミステリアスとか、死神に魅入られているとか、美人薄命とか――そんな言葉が浮かぶ立ち姿。
「……カグヤ」
まだ呼び慣れないその名前を、そっと呟く。
何となく彼女は誰かを――多分オレが来るのを待っていたのだと、思ったから。
「――――」
黒い瞳と視線が重なる。
カグヤはその長く艶やかな黒髪を控えめに揺らして、お辞儀をした。
オレも釣られて同じようにする。
そうして改めて向き合ったカグヤは微笑を浮かべていて、おもむろにその小さな口が開かれた。
「どうでしたか? 初めての面接は」
「あー、んー……なんか言わなくていいことまで言った気がするっていうか、良くも悪くも全部を測られたっていうか。けど……合格、できたぜ」
「それはそれは、ふふ。おめでとうございます、クレハくん」
「おう、サンキュー。これで次の聖戦も始められるな」
「……ですね、ええ」
カグヤは微笑みを崩さないまま、でも少し困ったように、複雑そうに視線を逸らした。
「…………」
「…………」
会話はそれ以上続かない。
生徒たちの活気に置き去りにされたような静かな廊下で、何か言葉を間違えただろうかと若干の気まずさを覚えたオレは、天井を見上げながら適当な話題を探してみる。
「――あ。あのさ、寮での生活ってどんな感じなんだ?」
「え?」
「ん?」
「寮での生活をしてみたいんですか?」
「えー……と……」
なんか微妙に噛み合ってないような違和感を覚えるが……会話には乗ってくれたし、とりあえずこのままいこう。
「そういうわけでもねえんだけど。集団生活とかしたことねえし、ベル先の家も居心地いいし。でも、オレには無理なことでも、興味がないわけじゃねえっていうか……実際どんなことがあんのかなーって」
「そうですか。知識を増やそうとする姿勢は、とても素敵だと思います。ですけどごめんなさい、私は寮生ではありませんので具体的なことはちょっと……」
微笑みは絶やさず、しかし再び困ったように眉根を寄せるカグヤ。
その様子を見て、何より寮で暮らしているわけではないという言葉を聞いて、オレはそもそも最初の質問が間違っていたことに気付いた。
「あー……そっか……。いや、その、この前ベル先が『カグヤは学院で暮らしている』っつってたから、てっきりそうなのかと。わりー、勘違いした」
「なるほど、そういうことでしたか」
カグヤは納得がいったように、胸の前で両手を合わせる。
「ふふ、誤解を生む言い方をされちゃいましたね。彼のことですからあえて濁したのかもしれませんが。でも、間違いではないんですよ。私が住まわせてもらっているお部屋は確かに学院内に、この校舎の中にありますので」
「へー、そうなんだ」
「はい。だからもし、クレハくんがその部屋を見つけて、訪ねてくれたときは、お茶やお菓子などをご馳走しますよ」
言いながら、ほんの少しだけ悪戯っぽく笑うカグヤ。
さっきまでとは違う、ほんの少しだけ距離が縮まったような気安い表情に、オレも、鋭く尖った八重歯が見えるような、多少ぎこちない笑みがこぼれる。
「そりゃあ心躍る話だな、覚えとく。つってもここ結構広い建物だし、ちょい自信ねえけど」
「ふふっ」
軽口を叩くオレに、カグヤがまた控えめに表情を崩す。
なんとなく察したのだろう。部屋を見つけるためのヒントが欲しいと、オレが冗談交じりに言っていることに。
その遠回しな言い方が自分でも不思議で、バカみたいで、心が跳ねる。
いつもより表情豊かに。
「そうですねぇ……」
ふと、カグヤが一歩踏み出した。
そしてさらに一歩、オレに近付いてくる。
何をするんだろう。何を言うんだろう。それとも、オレがまだ何かを言うべきなのだろうかと、迷いながら刹那の静寂を見送り続けた、束の間。
カグヤはオレとすれ違い、廊下の窓辺に立った。
オレはすぐにカグヤを振り返り、カグヤもまた一拍置いてからオレを振り返る。
そして彼女は言うのだ。
「きっと大丈夫ですよ。水槽は入ってしまえばあとは行き止まり――探し続けていれば、いつかは必ず行き着くと、私は思います」
――アリステラもまた、海だ。
ついさっきそう語っていた、副学院長の声が脳裏をよぎった。
海。それはどこか遠くを目指して船を出す、旅路のための場所。
けれどカグヤは今、きっと真逆のことを言った。
水槽。それは入ってしまえば行き止まりの、どこにもいけない場所と。
それはただ単に、教師と生徒で景色の見え方が違うだけだと片付けていいものだろうか。
あるいは、カグヤ自身が特別な理由を持って、学院に閉塞感を見出しているのだろうか。
今のオレにその答えを出すことはできないし、それを知りたいと、理解したいと思っても、ここでそれ以上の会話を続けることはできなかった。
なぜなら、
「ッ――――」
突如、ぱらぱらと紙を捲る音が響いて――視界一面に半透明の図形が広がった。
「クレハくん? それは……」
カグヤがその光景に首を傾げる。
これは、地図だ。
オレが首から提げた、手のひらサイズの魔導書から投影された、中央都市全体の地図。
そこにマッピングされた場所を確認したオレは、ほぼ反射的に階段のほうへと駆け出す。
「わりーカグヤ、ちょい行くところができた! それじゃあ明日からよろしくな――!」
返事は聞かない。いや、聞く暇もなく一階に下りて、ロビーに預けていたトランクを受け取り、校舎の外へと飛び出る。
行き先は北区南部の大通り。急いで行かないと。
そこで今、事件が発生している――。




