31話『Red sealing wax of the phoenix』
☆六月二日午後六時四十八分
まだ妖刀災害の傷跡が色濃く残っている東区の中心部。
町の真ん中にぽっかりと穴が空いたような、人の明かりを失っているこの区画に入ったところで、地面に降り立つ。
ここへはできる限り建物の屋根を伝う形で来た。
夜になる前に空を飛ぶと悪目立ちしちまう。けど人を待たせてるから急いでいた。そのための苦肉の策ってやつだ。
それでも色々あって、すっかり日が沈んじまったがな……。
ポケットから封筒を取り出す。
オレを《カランコエ》に――あの店の跡地に呼び出したソフィアってヤツ、まだ居るといいんだけど。
砂と瓦礫が積み上がっていたり、反対に沈下したりしている凹凸の激しい大通りを進む。
全然人の歩くような道じゃあないが、しかしこれが一番の近道だと、復興作業の手伝いのために訪れるうちに憶えてしまった。
今ではもう、この廃墟化した町並みのほうが見ている時間が長い。
複雑な気分だ。マリアと一緒になって、ツバサに案内してもらったあの日は、あまりにも遠くて――なんて、寂れた夜の雰囲気に流されかけていたそのとき、《カランコエ》が建っていた通りに出た。
「…………」
先客がいると、一目で分かった。
店の前にぽつんと、かつて存在していた暖簾を照らす提灯のような、小さな明かりが浮かんでいたから。
月明かりより眩しく、しかし周囲を照らすには弱々しい光の下――そこには店の中から引っ張り出してきたのであろう椅子に座り、退屈そうに爪やすりで爪を整えている女がいた。
到着を知らせるようにざざっと、わざとらしく足音を立てる。
するとすぐに、紫色の瞳が伏し目がちにこちらを覗いた。
銀髪紫眼。黒色のローブ。同じ色のシャツに動きやすそうな短パン。攻撃力の高そうなブーツ……間違いない。ほんの一瞬、同じ色の眼を持つあいつを思い浮かべてしまったが、やっぱりいつかの事務員だ。
――ソフィア・ヴィレ・エルネスト。
「あら、やーっとご到着ね。日が沈んでから現れるなんて、教会で寝泊まりしてたわりにはだいぶ“らしい”じゃない、吸血鬼さん」
整えた爪にふっ、と息を吹きかけたソフィアは、凝り固まった身体をほぐすように腕を伸ばしたり、足を組み替えながら、そう言った。
「………」
なんか、確かにこんな感じのノリだったなー。コイツ。どことなく自信ありげで、気がつくと不敵な笑みでも浮かべてそうな雰囲気でさ。
まあでも、勝手に取り付けられた約束とはいえ、待たせたことに対して一応の申し訳なさはある。ので、謝罪はしておく。
「悪かったな。そんなに待たせちまって」
メッセージを受け取るまでの時間を仕方ないと割り切ったとしても、西区にある八重城とこの東区にある《カランコエ》跡地が都市の真反対であることを差し引いても、到着に二時間近くかかっちまったのはオレが寄り道をしていたからだし。
と、謝意が伝わったからか、あるいは近づいてきたオレの恰好を見て何かを察したのか、ソフィアはため息にも満たない小さな吐息を漏らし、背もたれにぐっと寄りかかった。
軽く仰け反った上半身。絶妙な曲線を描く線の細い胴体。長くしなやかな脚。夜風に吹かれながらも形を崩さない前髪の奥の、意思の強そうな目と不意に視線が重なって、思った。
これはまた、高飛車な態度で何か言ってくるぞって。
「ま、いいわ。普段の私ならノブレス・オブリージュの精神に則って、より知的でリッチな嫌味をご馳走してあげるところだけど、ここで半日近く過ごした待ちぼうけソフィアは、あなたが来てくれたことに感謝すら覚えているの。だから今回は特別に許してあげる。さあ、私のこの寛大で気丈な心延えを享受しなさい」
「……そりゃどうも。けど、なんでそこまで? 来ておいて言うのもなんだがよ。フツー乗ってこないと思うだろ、こんな誘い」
封筒を見せながら言う。カードはいつか使った招待状の使い回しだし、メッセージは端的すぎるし、こんなの悪戯だと思うほうが自然だ。
けどその一方で、ソフィアは半日もここでオレが来るのを待っていた。
そこに妙なちぐはぐさを感じるのは、ちょっと気にしすぎだろうか。
「来ない可能性なんて考えられるわけないじゃない。私は常に他人には説明できない自信を持っているし、それにそうなってくれないと困るもの」
「はぁ……?」
「無駄話はおーしまい。さっさと行きましょ。ここは単なる集合場所。目的地に近くて、あなたが行ったことのある場所だって聞いたから、ランドマークにしただけなの」
言いながら立ち上がったソフィアは、手際よく荷物をまとめ始めた。
別の椅子の上に置いたハードカバーの本を手に取り、その下敷きになっていた横長の背負い鞄を肩に掛けて、ぱちんと指を鳴らし明かりを消す。
どうやらさっきまで付いていた光は、ソフィアによる魔術だったらしい。
「聞いたって、誰に?」
「…………」
光が消えた暗闇の中。
オレに背を向けたソフィアは、少しだけ動きを止めてから、
「……からかい甲斐のあったお馬鹿な男よ」
重すぎない口調で、軽すぎない声音で、どこにも響かないようにそう呟いた。
それから何かを振り切るように、さっとローブを翻すソフィア。
「あ~やだ、おしり冷えちゃった。ねえ、この辺りにふらっと立ち寄れてホットチョコでも飲めるお店ってないの? マシュマロが入ってる甘ったるいやつ」
「……ねえな。残念ながら」
「はい。六十ページの三行目」
すれ違いざまに、手に持った本を渡される。
言われた通りに六十ページを開いて三行目を見てみると、こう書かれていた。
――乙女には、相手がどう答えるか分かっていても、別の言葉を期待したくなるときがあるのよ。
「……洒落れたコトしてくれんねぇ」
ま、待ってる間に温めてたネタってことで、茶々は入れないでおこう。
ぱたんと本を閉じて顔を上げる。案内人は既に歩き出していた。
念のため《カランコエ》に保険を残してから、夜闇の中に揺れる銀色に早足で追い付く。
「それにしても……まさか妖精さんが一晩で~とか考えるほどお花畑じゃあないけれど、復興って私の想像の七倍ぐらい進んでないのねぇ」
「一晩じゃなくとも一週間ぐらいでは考えてるだろ、それ」
「誰かが悲観的に考えるから、私が楽観的に考えてあげてるのよ」
「へいへい。……でも確かに、人、減ってったからな。騎士団やボランティアはともかく、元々ここに住んでた人たちは新しい家に住むようになって、そっちでの生活に手一杯っつーか……。それもあって復興のペースは落ちてるよ」
別にそれを非難するつもりはないけどな。むしろ、新しい生活を始めることはすごく前向きなことだと思ってる。
何も弱ったままの状態で、傷と向き合う必要なんかないんだ。
新しい環境で気持ちを入れ替えて、元の強さ、元気とか力とかを取り戻してから、いつか置き去りにしたものを拾いに行く。
時間はかかるかもしれないけど、そっちのほうがずっといいはずだ。
上手なやり方だから、全員ができるわけじゃないだけでさ。
ただ、手一杯になっているうちに変化するのは人だけじゃない。
放っておかれた傷は風化して忘れ去られることもあれば、逆に悪化してしまうこともある。
路地を曲がり、噴水広場だった場所に出た。
開けた視界。遠くに八重城が見える西の空。その手前にあった騎士団本部は、ここと同じで、今は消えていた。
その光景を横目に歩くソフィアは言うのだ。
明日は雨が降りそう、なんてぼやくみたいに、ごく自然な声色で。
「なら今後は、もっと遅れるでしょうね。もしくは今よりも――」
――踏み荒らされて、酷くなるかもしれない。
オレは心の中で、そう付け足した。
傷付いた服、破れた生地の隙間から入りこんでくる風に、肌寒さを覚えながら。
☆六月二日午後七時十五分
東区の復興区域を抜け、都市の外周付近まで移動した。
この辺りは妖刀災害がある前から人が少なく、空き家も多い。
東区の町中が都会の人が想像するあまり不便過ぎない田舎だとするなら、この辺りは田舎の人が思い浮かべる田舎――良く言って静かに暮らすにはもってこいの場所、悪く言って過疎地帯だ。
その中でも建てるだけ建てて結局誰も住みつかず放置されたような、同じ外観の一軒家が建ち並ぶ通り。その一角が、ソフィアの目的地のようだった。
建物の裏に回り込み、長らく整備されていない庭を通って、裏口の軒先に立つ。
ソフィアは鍵を取り出す素振りも見せない。しばらく誰も来てないみたいだし、施錠なんかされてないのだろうか。それとも中で誰かが待っていたりして――と、そんなことを考えた次の瞬間、ソフィアは軒を支える柱の根本を蹴飛ばした。
ほぼ同時に、近くの壁にこつんと木片の当たる音が響く。
「…………」
まさか今の一撃で柱を破壊したってのか。できそうなブーツではあったが……。
なんて後ろのほうで困惑していると、すぐにソフィアは背を屈めて、自らが蹴った部分を覗き込んだ。
「よ、っと。ふん……さっすが私。一発ビンゴ~♪」
ご機嫌な声と共に、柱からは一本の鍵が取り出された。
なるほどな。珍しい仕掛けだが、要は鉢植えの下とかポストの中に鍵を置いているのと同じ感じだったらしい。
早速鍵を開けて、オレたちは家の中へと入った。
「なあ、そろそろ目的を話してくれてもいいんじゃねえか?」
暗い台所から廊下に抜けて廊下を歩きながら、ふと聞いてみる。
ノコノコとここまで付いてきたが、ソフィアの狙いは未だ不明だ。
密会がしたいならわざわざこんな僻地にまで来る必要があるとも思えないし、人の痕跡が無いところを見ると会わせたい人がいるってパターンでもなさそうだし。
「目的ね~。ここに来ることなのは、まず間違いないわよね?」
「だからその理由だっての。何するつもりなんだよ、こんな人気のない場所で」
「あーら、やらしい言い方。心配しなくてもすぐにわかるって」
リビングを通り過ぎた一階廊下の付き当たりの部屋。その扉を開けながら、ソフィアは言葉を続けた。壁際に置かれた、空の本棚を手で指し示して。
「これをどかした先にある螺旋階段を下りていけばね」
それは暗にオレにどかせと言ってるのだろうか。
試しに数秒ほど無言で立ち尽くしていると、ソフィアがエスコートさせてあげるわよ、って感じに口角を上げたので、溜め息を吐いて従うことにする。
こうしないと話が進まないなら仕方ない。
でも、本棚の後ろに螺旋階段――隠し通路ってことだよな。しかも地下か?
いよいよ何が待ってることやら……。
悲しい発想だが、経験から言って、もういつ後ろから襲われてもおかしくない。
一応、保険はいつでも使える状態にある。警戒を解かないようにしないと。
用心しながら本棚を移動させると、確かに地下へと繋がっていそうな階段が出てきた。
でも。
「おいこれ、普通の階段っぽいぞ。さっき螺旋階段って言わなかったか?」
「ええ言ったわよ。そうだったら理想的だなーと思って」
「…………」
「無言で呆れなくたっていいじゃない」
「オレ、なんか悪い夢でも見てんのかな」
ソフィアが指を鳴らすと、階段を照らすように光が現れた。
「お先にどうぞ」
……もうどうにでもなれだ。少し覗いてみた感じ、後ろから突き落とされてもギリギリ受け身の取れそうな深さだし、行ってみよう。
覚悟を決めて石造りの段差を下っていく。緩やかとも急勾配とも言えない十三の階段。緊張で額には汗が滲み、狭い通路に響く二人分の足音が神経をすり減らす。
「――――」
だけど、妙だな。どうしてだろう。
気のせいかもしれないけど、既視感、だろうか。
なんでかオレの中には、ここに来るのが初めてではないという感覚があった。
そしてそれが勘違いでないと、階段を下りきった先に広がった光景を見て、確信する。
「わお、いかにもな雰囲気じゃない」
後ろから付いてきたソフィアが地下室を見渡して言う。
ああ。多少埃は積もっているが、それでも廃墟じみた上とは大違いだ。
窓のない地下なのに窮屈さを感じない広い部屋。一通り揃えられた家具。ヴィンテージ物で統一された内装。ここを一言で言い表すとするなら、きっと大人の秘密基地という表現が相応しいだろう。
オレはソファーの隣に置かれた小さな丸テーブルまで歩いて行き、その上に置かれた封筒を手に取った。
「不死鳥の封蝋……アヤメさんだ」
間違いない。だって、オレの中のアヤメさんの記憶がそう告げている。
あまりに量が膨大過ぎるがゆえに今でも鮮明なイメージは出てこないが、さっきの既視感はそれに起因するものだったんだな。
「せいか~い! イグザクトリー! そうよ、あなたをここに案内したのは団長様に言われたからなのでした~。ぴーすぴーす、ぱちぱちぱち~」
「……まじか……」
「あ、言われたってのはちょっぴり語弊があるかな。あれはちょっとばっか気分の悪い内偵仕事を終えた、追悼式の次の日だったかしら。団長様から急にその本を渡されちゃってね。中に暗号が仕込まれてたから暇つぶしに解読してみたの。で、明らかになったメッセージが、こぉんなにも壮大で遠大なシークレットミッションの指令だったってわけ」
暗号って、オレがさっきから持たされてたこの本に?
「そういうのはもっと早く言ってくれよ……無駄に警戒させやがって!」
「いいじゃない。なんだってサプライズのほうが、受け取ったときに心が動くでしょ?」
「……言っとくけどオレ、そろそろお前に襲われるんじゃないかと思って、いつでも戦う準備してたからな」
ちょっとばかしの注意のつもりで、聖剣を取り出して見せる。
「お~コワ。そっちのサプライズも中々素敵ね。でもやりすぎたのは謝るから、できればその可愛い剣は仕舞ってくれると嬉しいわ」
まったく。こっちはいつでもその場を離れられるよう《カランコエ》に、《ナイト・メア・アタラクト》だって置いてきたんだ。
全部が杞憂に終わって良かったが、無駄に気を張った分、どっと疲れたよ。
聖剣を仕舞ったオレは思わず革張りのソファーに座り込んだ。
快適な座り心地なのが身に染みるぜ。
「にしても、こんなとこにアヤメさんの家があるなんてな」
「それ同感。まー、いざってときの隠れ家みたいなもので、使う機会が無いならそれでよかったんじゃない? ここに作ったのだって北はアリステラ、西は八重城、南は……治安悪いからいつか面倒事に発展しそう、でもその点――東区は退屈な平凡と引き換えに静かで、穏やかで、使う必要がなければ、いつか忘れてしまう」
「アヤメさんはそうなることを望んでた?」
「でもそうはならなかった。それ、開けてみたら?」
ソフィアが近くの棚に置かれたペーパーナイフを取って、差し出す。
オレは頷いて、アヤメさんの用意した封筒を開封した。
中身は二枚。一枚はメッセージカードだ。
――この部屋のすべてをツキヨミクレハに譲る。君が何にも属さない力を振るう時、少しでも役に立つことを願う。
追伸。同封した物については、今は必要なくとも、いつか必要になる時まで持っておくといい。
そう、書かれていた。そしてもう一枚は文章の綴られた白無地の便箋。
それはオレ宛てでありながらも、ほかに渡すべき相手が存在する物だった。
いつか見かけた羽根ペンで書いたのだろう文章の一行目を、オレは確かめるように口にする。
「……アリステラ魔法魔術学院……編入、推薦状――」
そういえば、前にアヤメさんに聞かれたな……学校に通う気はないかって。
結局オレはあの話を断ったんだったか?
いや違う。迷うフリをして、後回しにして、ずっと棚上げにしていたんだ。
それでもアヤメさんは、こうして選択肢を残してくれた。
本当に、ありがたい話だ。
「へー、ウチへの推薦状じゃないの。今から私に敬語を使い始めたほうがいいんじゃない、後輩ちゃん」
だけど。
後ろから覗き込んできたソフィアに、オレは首を振る。
「……いいや、今のところ使う予定はねえな。敬語も、推薦状も」
「なんでぇ」
「今のオレにはやることがあんだよ。それにアヤメさんの願い――約束みたいなもんで、学校行くぐらいなら、その時間で街の問題をどうにかしてぇ」
そういえばと、ふと思い出す。
オレがソフィアの誘いに乗った理由の一つに、騎士団の現状を教えてくれるかもという期待があったことを。
でもここに来るまでの間、それらしい質問は一個も浮かんでこなかった。
それはなぜか。答えは単純だ。もう聞くまでもなかったんだ。
だってオレは《カランコエ》に来るまでの間に、その身を以て体感したから。
不死鳥の不在がもたらした、都市の混乱ってヤツを。
「ここに来るまでの間、派手な事件が何件もあった。そりゃ事件自体は毎日起きてるかもしれねえが、あれはちょっと、尋常じゃない。アヤメさんがいないから悪いヤツが増長し始めて、騎士団はそれに対して向かい風って感じでさ」
オレは俯いて、八重城で用意された服を見下ろした。
綺麗で、汚れ一つ付いてなかったはずのそれは、この二時間のうちにすっかりくたびれ、穴や破れた跡がいくつもできてしまった。
誰がどう見ても、ひと悶着あったあとだと思う格好だ。
……まあ、実際にはご悶着ぐらいあったんだけど。
「だから、誰かが止めねえと。止めきれないとしても」
「ふーん。じゃあ別にいいんじゃない、入学しちゃって。アリステラはいい後ろ盾になるわよ」
「……え?」
オレの決意を一蹴するようなあっけらかんな物言いに、変な声が出た。
対するソフィアは、真面目な表情でオレの対面のソファーに腰かけた。
さっきまでふざけ倒していたやつとは思えない、遠くを見据えている雰囲気が、そこにある。
「団長様が気に掛けてる子だし私はあんまり気にしないけど、でもやっぱりフラットな目で見たとき――あなたはあのサンモトマリアと幼馴染で、同時期にリタウテットにやってきた要注意人物よ。多くの人はそれを知らないけど、アンテナ張ってる人はちゃんと把握してる。調べようと思えば調べられるしね、私みたいに。つまりあなたは今、結構危うい立場にいるわけ。それを庇護できる主様のレイラ・ティアーズも、最近は姿を見せてないみたいだし?」
「それは……」
何も言い返せないオレを見て、ソフィアは続ける。
「だからアリステラに籍を置くのはアリな話なのよ。ウチって半ば独立国家みたいなもんだし。普段は中立気取ってるから、よっぽどのことじゃないと動かないけど――いざとなればあなたを殺せる人材だって在籍している。その首輪に収まることは、都市全体への安全保障にもなるわ」
「…………」
「なんにせよ、あなたが蝙蝠男としてヒーロー気取りをするつもりなら正体は隠すべきよ。個人が敗れた今、安全の象徴は記号のほうがいい。だったらそのための表の顔、必要だと思わない?」
「……思う。お前の言ってることは、全部正しいよ」
「ええ。もし私の正論に穴があるとするなら、それはあなたに正しさを強要してしまうことだけだわ」
「そう――、だな」
目を瞑って、天を仰ぐ。
真実を明らかにすると決めた。この道を進むと。
レイラを目覚めさせ、マリアと決着を付け、聖戦を、背負った願いを果たす。
そのためにアリステラへの入学が必要だというのなら、迷うことなんかない。
どこまで抱えられるかは分からない。けど――やれるだけやってみよう。
そうすればオレも、娘のために世界を敵に回したシンジョウのように、掴み損ねた愛に何度も手を伸ばしたミアのように、復讐にすべてを捧げたツユリのように、精一杯走り続ければいつか。
オレが出すべきもう一つの答え――残り少ない寿命を使い切った先に待つはずの、報いのようなモノにも辿り着けると、思うから。
それが罰なのか、幸福なのかはまだ、分からないけれど。
静かに、目蓋を開く。
「納得できた?」
「ああ――アリステラ、入学してみる」
「ふふ、そうこうなくちゃ。覚悟しておきなさいよ~。これからどんどん忙しくなって、きっと何かに悲しんで立ち止まってる暇もなくなるから」
右手の薬指に嵌めた指輪をさっと撫でて、ソフィアは言った。
「いいぜ、バチコーンとやってやんよ。でもまずは、海に行かねえと――」
「海!? ちょっとそれ、詳しく聞かせなさい……!」
「え、ええ……?」
――まだ始まったばかりの六月。
多くのことが変わり、そしてこれからも変わり続けるのだろうと思った。
予感は既に現実のものになり始めている。青い空、青い海、青い春に目を眩ませるような――そんなツキヨミクレハの新しい日々は、もう、すぐそこ。
『雌雄決別』了




