29話『斜陽』
☆
鐘を鳴らしたように、声がずっと響いていた。
――ごめんなさい。
『――――――。本当に、――――――』
白い夕方の頃。桜と雪が入り乱れて降り注ぐ幻想的な光景。
夢であることはすぐに分かった。幼馴染の血の中に見た記憶だと。
――ごめんなさい。
『今からあなたの記憶に、少しだけ封をさせてもらうわね』
影のかかった黒い顔。長い薄桃色の髪。雪に融けそうな白いワンピース。
何かとても大きなものに胸を貫かれたような、圧倒的な喪失感。諦念。
けれどその想いは、この記憶の持ち主である幼馴染のものだ。
――ごめんなさい。
『大丈夫。いずれまた巡り合えるから。そのときは、わたしを』
ならば、今この記憶を観測しているオレ自身の感情は。
ずっとずっと、思い出そうとしていた。必死に手を伸ばしていた。
記憶の再生の始まりを告げた、あの声。
どうしても思い出せないあの言葉を思い出すことに、全神経を集中していた。
――ごめんなさい。
『でも、これだけは忘れないで。あなたがあの子に手を差し伸べたことは、決して間違いなんかじゃない』
なのに別の声が邪魔をして、思考はすぐに空中分解。
意識は真っ逆さま。もう一度最初からやり直し。
走っているのに。上手に立てないから、獣のように四足歩行で走っているのに。
いくら頑張っても、いつまでもいつまでも、追い付くことができない。
――ごめんなさい。
『弟を一人にしないでくれて、ありがとうね。もう叶うことはないけれど、許されるのならわたしも、あなたと何でもないお話をしたかったわ』
ああ。とても懐かしくて落ち着くような、とても居心地が悪くて胸がざわつくような、そんな匂いがする。
時計の音がうるさい。床の軋む音がうるさい。
風の音がうるさい。足音がうるさい。誰かの話し声がうるさい。
すぐに収まるはずだと言い聞かせてもそれらは一向に鳴り止まない。
無限に繰り返されているのか。――――――。それともたった一瞬が永遠に引き延ばされているのか。――――――。鼓膜が痛い。――――――。いくら両手で耳を塞いでも頭の中で絶叫されているように音が突き刺さる。悪夢だ。――――――。目を瞑っているのに眩暈がする。――――――。心臓が内側から食い破られている。――――――。もう嫌だ。――――――。吐き気がする。――――――。もう限界だ。頼むから誰か音を止めてくれ。頭が――なさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――――――『ごめんなさい。それに答えることはできないの』。
「――――、―――――――― ぁ」
終わりの鐘が鳴った。これまでずっと頭の中に木霊していた音が、何にも重なることなく、最後まではっきりと聞こえた。
刹那。花が枯れる。氷河期が訪れる。世界はもう、瞬きする前には戻らない。
意識が浮上する。もうすぐに目が覚める。そう思った。
瞬間、自分が最初から、答えに辿り着いていたことを悟った。
おかしな話だ。なぜ、こんな簡単なことに気付かなかったのだろう。
いや、どうして今までそれを、答えだと認識できなかったのだろう。
『ごめんなさい。それに答えることはできないの』
それは優しさの理由を問うたツキヨミクレハに対する、お姫様の返事。
『ごめんなさい。本当に、ごめんなさい』
そしてそれこそが、抜け落ちていたピースを埋めた、あの記憶の最初の言葉。
うん。よかった。本当によかった。
すべてを思い出すことができて、すごくすっきりした。
でも、変だ。おかしいな。この違和感はなんだろう。
何かもっと、大事なことを見落としているような。
……ああ。そっか。そういうことか。
脳髄に突き刺さるふたつの音。
それが、嘘みたいに、同じ声に聞こえるんだね――。
☆六月二日午後四時半
「――ッ、――――!!!」
夢の終わりに背中を押されたように、飛び起きた。
うるさい心臓。荒れた呼吸。うっすらと汗ばんで熱いのに冷たい全身。
そんな悪夢の後味を噛み締めながら、少しだけしやすくなった息を繰り返す。
左右に小さく首を振って、周囲を見た。
するとここが見知らぬ和室で、そして部屋の中央に敷かれた布団の上に、自分が寝かされていることが分かった。
なるほどな。どうやらこれが夢の中で感じた、居心地が良いような、悪いような、そんな匂いの正体らしい。
「……畳と、陽射しの匂い……」
室内を茜色に染め上げる夕陽が、柄にもなく感傷を誘う。
これは、いつか欲しかったけど、もう今さらって感じのものだ。
憧れていたはずなのに、実際にこの手で触れてみると、どこにも心の拠り所がないような気がする……ここは、そんな息苦しさで満ちている。
「八重城、だよな。ここ……」
両腕を伸ばして、いつの間にか着せられていた白無地の和服を見て思う。
最後に覚えているのは馬車の中で二度寝に入るところまでだが、ベル先生は八重城に向かってたんだ。
なら見ての通りここはお城で、気絶同然の状態だったオレをお姫様が厚意で休ませてくれてる――って解釈で、多分間違いない。
ちょうどいい。今のオレにはどうしても、お姫様に訊きたいことがあるんだ。
――さっきの夢。悪夢。あるいは、天啓とでも言ってやろうか。
その中でオレは、マリアの血の中に見た記憶を再生していた。
最初の言葉が抜け落ちていたから、必死にその隙間を埋めるモノを探していた。
そして見つけたんだ。最初から鳴り響いていた、符合するピースを。
それは謝罪の言葉で。別々の人が発した言葉で。
けれどまったく同じように聞こえる、声。
そうだ。ぴたりと重なったんだよ。
お姫様の声と、マリアの記憶の中のあの声が。
重なり結び付いた声。薄桃色の髪。その身に纏う雰囲気……今なら断言できる。
オレがあの光景を覗いたときに覚えた既視感、それは間違いなくお姫様の――。
「………………」
束の間、突飛な発想が脳内を駆け抜けた。
それをありえないと否定するために、記憶をひっくり返して根拠を探る。
すると何となく、以前ミアに内側を覗かれたときのことが思い当たった。
どうしてこのタイミングでそんなことを?
決まってる。その情報が今、必要なものになったからだ。
「――――――」
記憶を掘り起こせ。あれはいつのことだった?
あの日。確か五月の上旬。オレはミアの放った魔弾に撃たれた。
そしてその後、アネモネに訊かれたな。この世界に家族はいるか、と。
オレがいないと答えるとアネモネは続けて、あの魔弾は被弾者本人ではなくその血縁者に効果が行く、みたいなことを言った。
きっとアネモネは疑問に思ったんだ。
なぜミアは用途の合わない、使う必要のない魔弾を使ったのか、と。
それについてオレは、あのときのミアはとても正気じゃなかったから、特に意味のないミスをしたんだろうとしか思っていなかった。
でも違う。今にして思えば、そうじゃなかったのかもしれない。
あの魔弾が使われたのは錯乱状態が招いたミスではなく、むしろ最後の理性で下した、正しい判断だったんじゃないのか?
ミアは見た。
オレがマリアの血の記憶から見たのと同じあの光景を、この身体の奥底に。
そしてそこには、ツキヨミクレハを指して弟と言ったあの人物が施した、部外者を拒むような何かがあった。
金庫に取り付けられた鍵みたいな。警報とか、防衛システムみたいなものが。
ミアはそれを拒絶するために、自分の身を守るために必要だと思ったからこそ、とっさに血縁者に影響を及ぼす力を行使したんじゃないのか。
それで、じゃあ……お姫様が話していた、呪いのようなモノで体調を崩したというのは、一体いつのことだった――?
政府が突如として、レイラから契約の解除を言い渡されたのが先月。
それにより中央都市の治安に対する保険が、アヤメさん一人になってしまうことをお偉方は危惧した。
お姫様が呪いを受けたのはその矢先のことだ。
運悪く、周囲の不安を煽る形になってしまったと話していたのを覚えている。
その事実も後押しして、急遽アヤメさんの負担を減らすために《支柱》が開発されたのだから、レイラが起きていた時期と重ねて辻褄が合うのは……やはり五月の上旬頃。
それはオレが魔弾を撃たれたタイミングと、合致するんじゃないのか――?
つまり――八重城のお姫様であるサキはツキヨミクレハと血縁関係にあり、さらには記憶の中のあの人と、同一人物なんじゃないか……?
「……ッ……」
ごくりと、唾を飲む。
すべては、ありもしない郷愁にあてられた夢が見せた、幻かもしれない。
ああ。実際のところ半分くらいは、ちゃんと与太話だと思っているよ。
だけど、それでも残りの半分は……バカな妄想と笑い飛ばせない自分がいる。
「――――失礼いたします」
不意の声がして、顔を上げる。
同じタイミングで、静かに障子が開かれた。
薄紙にぼんやり遮られていた夕陽が無遠慮に入ってきて、砂のように舞う埃が眩しく照らされる。
逆光の中に姿を現したのは、オレが集落の一件を報告したお手伝いさんだった。
足音がまったく聞こえなかったということは、近くで待機していたのだろうか。
正座のまま一礼してから、彼女は言葉を続けた。
「クレハ様。お身体の調子はいかかでしょうか?」
「……あ、と……特に……平気、です」
「それは何よりでございます。早速ではございますが、主より文を預かっております。クレハ様がお目覚めになられたら、お渡しするようにと」
「文? 手紙ってことか? ……その、悪いんだけど直接会えねえですか? どうしても訊かなきゃいけないことがあって」
「申し訳ございません。そのように仰られた場合でも、まずはこちらをお読みいただくようにと、申し使っております」
懐から、なぜか二種類の封筒を取り出すお手伝いさん。
片方は果たし状でも入っていそうな古風な物で、もう片方は普通の洋封筒だ。
雰囲気というかイメージ的に、最初の物がお姫様の用意した手紙っぽいが……。
「どうか、こちらを」
案の定、差し出されたのは古風なほうだった。
……仕方ない。ここでゴネたところで、この人を困らせるだけだ。
「そういうことなら……とりあえず、読ませてもらいますぜ」
封筒を手に取り、折りたたまれた手紙を取り出そうと広げた。
ふとその瞬間、中から古い鉄格子にでも使いそうな鍵が落ちてきた。
「…………?」
なんだろう。お姫様が仕込んだのだろうか。何のために。誰のために?
疑問に思いながら、膝元に落ちたそれをひとまず、枕の隣に置いておく。
それから改めて、手紙を見た。
ちらっと目に入ってしまったが、文章は至って普通のペンとインクで書かれた、綺麗で読みやすい日本語のようだ。
何となく、達筆過ぎるがゆえに解読不能な文字でも出てくるんじゃないかと思っていたけど、もしかしたら読みやすいようにと、お姫様が気を遣ってくれたのかもしれない。
あるいは――お姫様ではない別の立場で書いたから、とかな。
以前あの人に感じた、らしくない態度のことを思い出し、そんなことを考える。
「…………」
予感が確信に、疑惑が断定に変わりつつある、インクの溶け落ちそうな斜陽の中――オレは意を決して、手紙を読み始めた。
『クレハ。貴方がこの手紙を読んでいる頃、私は不死鳥の不在を発端とした都市の混乱に応対するべく、己が責務を果たしていることでしょう。
事態は切迫しているようで、とてもゆるやかに、けれど着実に、混迷の時が訪れようとしています。
それを回避せんとするために、そして再びクレハと逢うために、これから長い時間を必要としてしまうことを謝ります。
ごめんなさい。
この言葉を、せめて誰にも預けることなく伝えられたらと、筆を執りました。
そしてもうひとつ。私にしか伝えられないことを綴らせていただきます。
同封した鍵を、すでにお手に取っていると思います。
どうか無闇に手放さないように。それこそが、私が貴方へと送る此度の一件の報酬。レイラ・ティアーズを目覚めさせるための助言なのです。
その鍵は証。この世界で生きる誰もがその存在を知りながら、しかし見ることすら叶わない、あのアヤメですらも行ったことはない、この中央都市が立つ大地の端、リタウテットの海へと行くための許可証となります。
何故そのような代物が彼の麗人の覚醒に繋がるのか、疑問に思っていることでしょう。残念ながらその根拠を説明することは、私にはできません。しかしその許可証は、貴方が求める真実への道標に、必ずやなりましょう。
それと、もし、もしも貴方が私に対して何らかの疑念を、可能性を抱いているのでしたら、それを明らかにする鍵にもなるはずです。
ですからクレハ。どうか自分の眼で確かめて、そして答えを出してください。
私もまた、私の存在を返却する覚悟を持って、貴方の答えをお待ちしています。
最後になりますが、この手紙には、魔力を籠めると発火する特殊なインクを使用しました。
読み終えた後に必ず処分をお願いします。
それでは。クレハ、大変ご苦労様でした。
いつまで続くか、いつになれば取り戻せるか分からない、覚束ない安寧のなかですが、どうか、少しでも貴方の羽が休まることを祈ってます』




