28話『それはきっと、傷だらけの暁色だけど』
☆六月一日午後八時二十分
西の空。八重城へと飛び立ったクレハの後ろ姿を見届けてから少しして、こちらに近づいてくる足音があった。
「不死鳥の二人、どこにやったんです?」
瓦礫の山の隙間から姿を見せ、開口一番に言うユキノ。
クレハとの話が終わり、こちらの様子を見に来たのだろう彼女に、俺は目線で答える。
「……《ヴィクトリア・ローズ》が拓く次元の裂け目、ですか」
視線の先。そこでは先ほど合流した神澄が、これからこの騎士団本部跡地に呼び戻す騎士たちのためにと、最低限の瓦礫の撤去を行っていた。
「一番安全な場所だからな」
言いながら俺も、全身を使って、大きな残骸を横に押し倒す。
……よし。これで路が空中に拓かれても、騎士たちが着地の際に怪我をしなくて済むだろう。
次はユキノが居るあたりだな。と、顔を上げると。
「たまに――姉と同じように、あなたのことが嫌になる」
冷徹な眼差しが、じっとこちらに向けられていた。
「不死鳥を売りましたね。魂の凍結はあなたが用意したんでしょう。そしてその術式を複製させる形で、向こうに主導権を譲った。だから彼女は退いてくれた。目に付いたモノを、一応は排除することができたから」
「…………」
無言を以て、それを是とする。
今回の真理亜の目的は、不死鳥を排除し、その事実がもたらす状況を作ることだった。
それは今後の自分の動きを円滑にするためと、本来の目的を果たす上でのバランスを取ったがために生まれた出来事。
まさかそのために月の冥府が動くというのは予想外だったが、とにかくマリアは紅い月光を媒介にアヤメとツバサの魂を奪取するという方法で、その不死を終わらせるに至った。
見事な軌道修正、と言わざるを得ないだろう。
だが、いくら友達とはいえ、その行いを黙って見過ごすわけにはいかない。
ゆえに俺は模索した。未来への希望を。可能性を残しつつ、同時に真理亜を納得させられるだけの交渉材料を。
その結果が、こうして迎えられた現在だ。
騎士団員の命を存続させた。
東西南北に放たれた妖刀が即座に破壊されるよう人を動かした。
ツキヨミクレハをこの場に居合わせ、一瞬とはいえ過去に触れてもらった。
そしてその代価として俺は、騎士団本部の破壊を許し、アヤメとツバサの命の権利を、真理亜に明け渡した。
当人たちにはロクな説明もなく、勝手に――。
「あとで帳尻を合わせられるといいですね」
不機嫌そうな声。けれど目を見れば分かる。
それは嫌味ではない、心の底からの忠告だ。
だから。
「……うん。その言葉、絶対忘れない」
まだ帰れるか分からない、ここに来る前のことを思い出しながら……俺は。
そう、返事をした。
「…………」
ユキノはそれ以上何も言わず、さっと臙脂色のマフラーを翻す。
これから先、《傘》を維持していくのは彼女だ。
きっと、そのための準備が色々とあるのだろう。
「……じゃあな」
ひとり置き去りにされたようにも、ひとり孤独に戦っているようにも映るその後ろ姿を見送った俺は――おもむろに空を仰いだ。
六月一日。果てしないと思われた狂った夜は、やがて月を沈め、朝を迎える。
多くの変化を伴った、傷だらけの……そして、新たな聖戦を始めるための朝を。
クレハ。次の【物語】はきっと今以上の哀しみを、ともすれば一生消えない傷を、お前に残すことになるだろう。
だが今のお前なら、希望はあるはずだ。
いや、たとえ無かったとしても俺は……、俺が――。
☆六月一日午後十一時七分
――《42ontology》。この看板を初めて目にしたのはつい今朝のことなのに、なんだかもう、遠い昔の出来事のように感じられるのは、多くの記憶をこの身体の中に受け入れた影響だろうか。
エルフのシーペ、リオンとその母であるシンク、それからアヤメさんと、一瞬覗いて終わったとはいえマリアもか。
それらに流されない確固たる自我を、オレは既に獲得している。
とはいえ、量が量だ。頭は完全にパンクしていて、心は膨大な感情を処理しきれなくて、ユキノが掛けてくれた治癒魔術の効果も、三時間近く必死に飛び続けてたらほぼ消えちまった。
心身共に疲弊しきった満身創痍な状態に変わりはない。
でも、それでもどうにか。
「……戻って、これたな……」
非日常から非日常への帰還ではあるが、遠くにブルーベルの――ベル先生の灰銀の髪を見つけると、少しだけ肩の力が抜けたような安心感を覚えた。
「――――、クレハ!」
倒壊した建物から木材の破片を抱えて出てきたベル先生と、目が合う。
オレは軽く手を挙げて、約三時間ぶりの地面の感触を確かめながら、よろよろと歩き出した。
そんないかにも限界ギリギリな様子を見かねてか、すぐに駆け寄ってきてくれるベル先生。
「死線を、潜り抜けてきたようだな……」
「…………」
どう答えればいいか分からず、なんとなくピースサインで返す。
するとベル先生は寂しそうに笑ってから、
「バカ。戻ってこさせないために、心配するなと言ったんだ。けど……よく頑張った」
オレの背中を優しくさすって、慰めてくれた。
このピースが勝者の余裕ではなく、敗者の虚勢と分かってくれたみたいだ。
「……これ、土産です」
俺はここまで運んできた古めかしい革のトランクを、ベル先生の足元に置いた。
「なんだ?」
「八重城に寄ったら、なんかお手伝いさんが用意してくれて……急いでたんで中身はまだ見てねえんですけど、防災用の道具が入ってるとかなんとか」
「そうか。なら早速、中身を見せてもらうよ、。現状、物資はいくらあってもありがたい」
ベル先生は片膝を突いて、横に倒したトランクのベルトと金具のロックを外し、上蓋を持ち上げる。
「む、これは……空間の拡張がされているのか。……見た目以上に物が収納されているな。よっと――必要な物は、ああ、これはかなり助かるな。揃ってない物はなさそうだぞ」
全体の手触りや底面を確認し、最終的には上半身ごと中に突っ込んで一通り観察し終えたベル先生は、感心したように何度か頷いた。
「そいつぁ良かったです。相変わらず便利っすね、魔法って」
「便利だが、こいつはワンオフだな。量産するにはコストがかかりすぎるし、できたとしてもよくない使い方をされてしまう危険性が高い。思うにこれは、姫様の私物じゃあないか?」
「……さあ、そうなんすかね?」
適当に相槌を打つ。
トランクを渡してくれたのも、そして集落に関する報告を聞いてくれたのも、すべて城の門前で待機していたお手伝いさんだった。
つまりオレは、八重城でお姫様に会えなかったんだ。
だからベル先生の予想が当たりか外れか、見当もつかなかった。
ただ、お姫様は昨日、オレに《ナイト・メア・アタラクト》を置いていくよう言った。
オレが中央都市を離れた隙に何かが起こるって、予見していたのかもしれない。
となるとこのトランクも、それを見越した保険なのかもな。
オレが中央都市に舞い戻り、そしてまた集落に行くことを前提とした……まるで未来を知っていたかのような、保険。
「……ま、伝えなくちゃいけないことは伝えてきたんで、あとは帰るだけですぜ先生。オレは何を手伝えばいい?」
「僕の手伝いなら不要だ。それより君にはもっと重要な、無理を押してでも戻ってきた理由があるだろ?」
言いながら、ベル先生はトランクから一枚の毛布を取り出した。
「リオンは集会所で休んでいる。早く行ってやれ」
差し出されたそれを、両手でしかと受け取る。
「……うす」
子供を見守る親みたいなベル先生の笑みに背中を押され、オレは足を動かした。
後ろを振り返ることなく。
少しでも早く。
躓きそうになりながら急いで。
血の滲む地面を踏みしめ、戦いの痕が残る家を通り過ぎ、この集落で唯一まだ形を保っている集会所へと。
――そうして辿り着いた、扉の壊れた入り口。
静かに中を覗くと、室内からは複数の寝息が聞こえて。
多少汚れてしまっているがまだ使えるベッドの上に、息のある住民たちが寝かされていた。
その中にリオンも居るのだろうと思い、オレは吸血鬼の夜目で辺りを見渡してみる、が。
「……全部埋まってんな……」
少なくとも見える範囲には、あの鮮やかな朱髪は確認できなかった。
どこにいるんだろう。
できるだけ足音を立てないようにして集会所内を探索する。
他に休めるところがあるとするなら二階の屋根裏だろうか。
なんとなく望みは薄い気がするが、一応見るだけ見ておこう。そう思って壁際に設置された梯子に手を伸ばした、そのとき。
――麻薬の残り香に混じった微かな血の匂いが、鼻先を刺激した。
反射的に吸い寄せられる視線。捉えた先はベッドとベッドの間の小さな隙間。
そこに。
「――――あ」
幼い朱を、見つけた。
薄いシーツを巻いて、小さく体育座りをしながら微睡んでいる、リオンを。
「……なんで、こんなとこに……」
一瞬、ベル先生にしては配慮が足りてないんじゃないかと思った。
ベッドが足りなくたって、せめてもうちょっと安心して横になれるようなところがあるんじゃないかって。
「…………いや」
違う。多分、そうじゃないんだ。
ベッドを一つ挟んだ壁際に、即席の寝床らしきものがあった。
木の板の上に布を何枚も重ねたあれこそが、ベル先生が用意したものなんだと思う。
リオンはあそこで休んでいた。けど、自分の意思で場所を移動した。
その理由はおそらく、リオンの人差し指の、まだ乾ききっていない血液にある。
見ればそれは隣のベッドで寝ている住民、もっと言えば、魔族の住民の口元にも付着している。
察するにリオンは、自分の血をこいつに飲ませたんじゃないだろうか。
麻薬と紅い月の毒性に酷くうなされでもしていて、その様子を見かねたリオンは、魔族の身体を侵したのは確かに自分の血だが――しかしだからこそ、その逆のこともできるんじゃないかと考えた。
そうして皮膚を裂くほどに、指を噛んだ。
「……無茶、しやがって」
オレはシャツの袖を破いて、指の傷を覆うように巻き付けた。
まあ、絆創膏代わりになるはずだ。とはいえ変に悪化しても嫌だから、隙を見てベル先生のところに戻って、トランクの中に救急セットみたいなものが無いか聞いてみよう。
でもとりあえず今は、持ってきた毛布を掛けてやって……と、顔を上げた瞬間。
「…………」
前髪の奥でぼんやりと光る幼い瞳と、目が合った。
「――起こしちまったな、わりぃ」
「…………、ゆめ……?」
何度か重そうな瞬きをして、不思議そうに、寝言のように小さく呟くリオン。
それに対してオレは、逡巡の末にこう答えた。
「……かもな」
聡い子だから。
夢ということにしないと、また要らない気を遣わせてしまうと思ったから。
……とん、と。リオンの小さな頭が膝の上に落ちる。
やがて聞こえてきたのは、何も怖い思いをしていないような、穏やかな寝息。
夢と現の狭間から再び夢のほうに身を預けたリオンを、オレはできる限り優しく抱きかかえた。
それから即席の寝床へと運んで、寝かせて。
冷たい手足が温かくなるように毛布を掛け直そうとして、気付く。
「――、まじか……はは……」
リオンの指が、オレの服の裾を掴んでいた。
それは簡単に振り解けそうで。でも決して千切りたくない、か細く絡んだ糸。
……指の傷、手当てしようと思ったんだけどな。
苦笑を溢したオレは、リオンの指から何も離れないように、慎重に寝転んで、傍にいることにした。
「………………」
肘を立てて、胸元に咲いた幼気な寝顔を眺める。
するとどうしてだろう。
やっと、ようやく一息つけたからだろうか。
これまで考えないようにしていたことが途端に、胸の奥から湧いてきた。
……本当に、色々なことがあった。
聖戦で寿命のほとんどを失った。レイラが深い深い眠りについた。お姫様に言われて中央都市の外に出た。小さな箱庭、一つの世界の破滅を見届けた。吹雪の中に消えた炎があった。幼馴染との決別があった。不死鳥が目覚めないことを知った。
記憶も感情も氾濫して、心は今でもずっと、激しい濁流に流されている感じがしていて。
……疲れた。とにかくひたすらに、疲れ果てたな。
だけど、それでもオレは、大いなる流れの中で選択をしたんだ。
この小さな命を肯定すると。この小さな手を引っ張り上げると。
「……あったかい……」
リオンの寝言にゆっくりと頷く。
きっと、多くのモノを失った。
けれどたったひとつ――取りこぼさなかったモノが、確かにあった。
「……オレも……あったかいよ……」
不思議だよな。風に晒され続けたオレも、地面の上に座っていたリオンも、これ以上ないぐらい手足が冷え切っていたのにさ。
でも少し身体を動かすと、ちゃんと毛布の中が温まっているって分かるんだ。
束の間――ぽつんと、何かが落ちる音がした。
それは自分の涙だった。
オレはすぐに次の雫が頬を流れる前に、目元を指で拭った。
でも止められなかった。だからもっと拭った。何度も、何度でも。
それでも流し方を思い出してしまったから、涙は止まらなかった。
なんでだ……なんで、こんな……ダメだろ。止まれよ。オレが戻ってきたのは、楽になって泣くためじゃないだろ。
自分じゃなくて、リオンのためにここにいるんだろ――?
見返りなんか求めてないはずだった。だからこの熱に解きほぐされてしまうことが、リオンの存在を利用したズルいことのように思えた。
「……ぁ、……ぅ…………っ……」
嗚咽が漏れないように奥歯を強く噛み締める。
鼻水を啜らないように浅くゆっくり息をする。
何としても溢れてくるモノをせき止めるべく、強引に目蓋を閉じる。
これでいい。誰にも悟られるな。気付かれるな。
眠れ。このまま眠ってしまえ。そうしてやり過ごすんだ。
……大丈夫。
目が覚めたら全部収まってるから、無かったことになってるから。
「――――――――」
吐き出すように全身の力を抜くと、身体が地面をすり抜けるように沈み始めた。
落ちていく。緩慢に、温かい闇の中を。
最後の一線を超える。もうすぐに、意識は断線する。
だからこれは、その束の間の記憶。
夢を見た。
……いつか、オレがレイラにそうしたように。
リオンがオレの涙を拭ってくれる、そんな夢を――。
☆六月二日午前四時五十六分
目覚めると、馬車に揺られていた。
窓から差し込む白い朝日に、目を細める。
どうも眠ってる間にベル先生が運んでくれたらしい。
座席に横たわる身体。その上ではまだリオンが寝息を立てていた。
そして向かいの席にはベル先生――ではなく拘束されたツユリが寝かされている。
外科的な手術が必要なことから、飲み込んだ魔石はまだ体内に残されたままなのだが、今のところは問題なく生きているようだ。
「…………」
少しだけ身体を起こして前後を確認する。
前方の小窓からは、馬車を引く木馬にまたがっているベル先生の後ろ姿。
そして後方には、新たに連結された急造の荷台が見えた。
あれには全部で十人足らず。四十二人から随分減ってしまったけれど、それでもどうにか生き残った住民たちが乗せられている。
そのうちに陽射しに目が慣れ、窓の外のもっと遠くを望む。
八重城が見える。中央都市に到着するまで、もうあと数十分といったところか。
胸中に湧く、安心感と一仕事終えた達成感。
だがそれも一瞬のこと。すぐにオレの心は、漠然とした不安に覆われた。
まだ、ほんの数時間だ。そう大きな変化は起きていないと思う。
だがそれでも……中央都市は確かに失ったのだ。
魔族と人間のパワーバランスを整え、中央都市の治安をほぼ一人で維持していたと言っても過言ではない――騎士団長オオトリ・アヤメと、その側近のツバサを。
それが築いていた平等というモノを――あの集落と同じように。
頬を拭う。……よかった。もう何も、流れてない。
でもなんだろう。涙の痕だろうか。ほんの僅かに何か、ざらっとした妙な感触がしたので指先を確認する。
するとそこには、赤い砂のような細かな欠片が付いていた。
「…………」
直感する。
オレはゆっくりと俯いて、リオンを、そしてその人差し指を見た。
ベル先生によって手当てし直されているが、頬に付いていたこれは、リオンの指先の血が乾いたモノだ。
涙を拭われる夢を見た。見たはずだった。
でもあれは、夢じゃなかったのだろうか。
いや……分からない。
そうだという気持ちもあるし、ただ偶然触れてしまっただけじゃないかという気持ちもある。
仮にリオンがそうしていたとするなら、オレの頬に自分の血が付いてしまったのを見て、ちゃんとそれも拭き取るんじゃないか、って。
でも、悩むまでもないことか。だって答えを出すのは簡単だ。
この血の欠片を口の中に入れれば、それで。
「…………」
――なんて。そんなバカなこと、できるはずなかった。
オレがリオンの前で夢を演じたように、何もかもをはっきりさせないのが大切なこともあるんだ。
それが人の善意とか、光のほうにあるものなら……なおさら。
だから、指を擦って血の欠片を払う。
そうしてオレは、朝陽に溶けるように、再び目蓋を閉じた。




