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鏡面のクロノスタシス  作者: 悠葵のんの
三章【月下狂乱の物語】
72/81

26話『赤の決別』


 昔――近所の小さな公園に、女の子がいた。


 ジャングルジムのてっぺんに座っていたそいつは、いつものように家を追い出されたオレとは違って、自分から夜の海に繰り出したのだという。


 綺麗な純白の服。初めて見る白金色の髪。屈託のない笑顔。

 何より一緒に星を見ようと差し伸べられた手――それらが痛いほど眩しくて、目を背けたくなるほど別世界で。


 だけど、その温もりに抗う術を知らないオレは、気付いたらそいつの海に攫われていた。


 すべては一夜限りの航海。オレたちは滑り台の波に乗り、ブランコの嵐を超え、シーソーの揺れに気分を悪くし、砂場の岩礁に乗り上げ、ジャングルジムの甲板で星の浮かぶ空を見上げた。


 そいつは言った。一緒に帰ろうって。大人でもどうにもできないオレの母親を、自分の家ならどうにかできるかもって。

 オレは、首を横に振った。

 するとそいつは『親って大切だよね、私もそうだもん。分かるな』――と、納得したような、悲しそうな声で言った。


 でも違う。当時は別に否定しなかったが、オレがあの誘いを断ったのは、どんな親でも親だからとか、あの母親と骨を埋める覚悟を決めていたからとか、そんな大層な理由があったわけじゃない。


 むしろオレは、先のことなんて何も考えちゃいなかった。


 普通じゃない環境。不幸しかない未来。抜け出さなければならない泥沼。

 ちょっと考えれば誰だって、差し伸べられた手を握り返すことが正解だって分かる。でもオレにはそれができなかった。

 それは思考を放棄していた、いや考えること自体を知らなかったのもそうだし。

 それに――。


 既にオレの中には、読み聞かせてもらった《麗しき夜の涙(えほん)》が在ったから。


 だから明日が、今日と同じ日でも構わなかった。

 より強いその温もりに抗えなかっただけなんだ。


 ほどなくしてオレたちの航海は終わりを迎えた。

 陸に上がり、夜の海に背を向ける。

 その束の間。


『――また会えるかな』


 錨が、下ろされた。


『誰にも見られない場所で、世間話一つできないような短い間でもさ』


『なんで?』


『お父さんとお母さんが言ってたの。――孤独こそが、この世に存在するありとあらゆる不幸の原因だって。だからどんな縁でも大事にしたいじゃない? お互い、そうならないように』


 言い終えると、そいつはオレの返事を待たずに、いくつかの決まりを定めた。

 関わればお互いに厄介が生じる。

 だから人目のあるところでは挨拶も会話も目配せもしない。

 利益が生まれたらその分奪われる。

 だから持っているそいつは持ってないオレに何も分け与えない。

 限りなく無関心に近く、何の思い出も生まれないような、友達だなんて言えない距離感を――でも決して国交断絶はしないように、そんな感じの決まりごと。


 まるで大人たちに内緒で捨て猫の世話でもするような、何ならそれよりも希薄な関わり方だったが、オレは言われるままに頷いた。


 そうして平日の昼間。休日の早朝。祝日の深夜。雨の日。雪の日。星の綺麗な日。だらだらと果てしなく続く日常の隙間に。会える日、掛け違う日、顔を合わせても遠くのベンチに座るだけの日や、互いを無視する日が生まれるようになった。


 それが半年も続いた頃には、何となく波長が噛み合ってくるというか。

 約束はしない。メッセージも残さない。それでも、言葉なんか無くても巡り合える。相手を理解している。オレたちの関係はそんな繋がりに変わってきてさ……。


 そう。オレとそいつ。

 月夜見紅羽と弎本真理亜の間には、確かに存在したんだよ。

 ほんの短い間、友達未満のモノではあるけれど。

 一夜限りの航海、夏の夜の夢の名残りだけれど。


 絆とかって呼ばれるような、切れない縁がさ――。


☆六月一日午後七時三十二分


「――――」

「――――」


 視線が交錯する。


 かつて宿した光を失った瞳。外套の下に着付けた元の世界の学生服。吐く息よりも白く冷たい氷肌(ひょうき)

 草花ひとつ咲き得ない銀世界に棚引く白金色の髪(プラチナブロンド)は、儚く揺蕩う黄昏の華、春に置き去りにされた泡沫の夢の如く。


 リタウテット中央都市。どこかも知らない瓦礫の山。白雪散る、その地上で。



 ――――弎本(さんもと)真理亜(まりあ)が、俺を見下(みくだ)していた。



 そしてその傍には、血と雪に塗れて倒れたアヤメさんの姿。


「……ッ――――‼」


 きっと一秒もなかっただろう。

 考えるより先に、加減する暇さえなく。吹雪に押し流されないよう力強く広げた両翼に、ありったけの魔力が流出する。


 そうして――幼馴染として凶行を止められなかった己への憤怒か、あるいは彼女が、もう戻れないほど分かれ道の反対側を歩んでしまっていることへの無念からか――砕けそうなほど奥歯を噛み締めた、最後のその一瞬。

 言語を絶する激情が生み出した炸裂が。それがもたらした爆発的加速が。


 この身体を、交錯した視線から解き放った――。


「――、――……ッ‼」


 これは魔力を体外へと放出し、推進剤のように扱う技術とは違う。

 これは溢れ出した感情に抗えず、魔力の制御を失ったがゆえの現象。


 許容量を超えるほどの魔力を注ぎ込まれた両翼が水風船のように弾け、その拡散が爆発にも等しい威力を生み出し、音速を超えた衝撃波によって身体が吹き飛ばされたというだけの……移動方法とは決して呼べない、ただの暴発。


 だが、それは一度きりでは終わらなかった。

 頭や手足が引き千切れるんじゃないかと思える加速の最中、虫食い状態となった翼はすぐにも散らばった魔力をかき集めて再生を開始し、しかし輪郭を取り戻した途端、再び爆散する――その現象が絶えず繰り返された結果。


 小手先の意図など介在しない、恥も外聞もかなぐり捨てた決死の飛翔が成った。


「――! ――‼ ――――ッッッ‼‼」


 跳躍するより速く、落下するより疾く。

 残影で星座を描くかのようにその軌道は屈折し、湾曲し、けれど最終的には、今にも燃え尽きそうな流星の如く――剣を構えたマリアめがけ一直線に、誰も追いつけない速度で、この身は雪の嵐の中を翔け抜けてゆく。


 刹那。轟音――一秒弱の時を飛び越え、この身は雪上へと着弾した。

 大地は割れ、隆起し、沈降し、流れ星は世界の表面をかき混ぜる。

 巻き上がる細氷。白く埋め尽くされる視界。

 しかしそれでも、伝わってくる感覚(モノ)がある。


 右手には、着弾の直前で出現させた王冠の聖剣。

 それがマリアの振り下ろした刃を防御している。


 左手には、華奢な身体を包む見えない鎧の感触。

 オレはそいつを全体重を掛けて抑え込んでいる。


「…………ッ、マリア……!」


 《ナイト・メア・アタラクト》の使用からおよそ一秒後。

 瓦礫の山を崩壊させてできた小規模なクレーターの中心で。

 オレはマリアを押し倒すように、その身体に覆い被さっていた。


「――――」


 妖しく煌めく宝石のような紫色の瞳と、一秒越しに視線が重なる。

 しかしマリアの目は何も語らない。瞬き一つ、動揺一つ見せることなく、黙ってじっとオレを見返すのみだ。

 よってその心は見透かせない。《血識羽衣(アルカードレス)》を使って借り受けたままの悪魔の目がオレにはあるが、それも機能していない。

 おそらく以前レイラがそうしていたように魔力で魂を覆っているか、もしくはマリアの身体を覆っているこの透明な鎧が、外部からの干渉を防いでいるのだろう。


 マリアの考えていることが分からない。

 どうしてだろう。そんな当たり前のことが、今日はやけに胸に突き刺さる。

 オレは寒さに震えながら、言葉を手繰った。

 言葉が無くとも分かり合っていた頃には、もう戻れないと識ったから。

 

 向き合う時が来たんだ。厄介が生じようとも。利益が生まれようとも。無いはずの思い出が奪われようとも。あまりにもか細い絆が断たれようとも。

 手を繋げるほど間近だった平行線の向こう側に、踏み出す時が。


「――――」


 ……ああ、まただ。音が鳴っている。鏡を割るような、甲高い音。それが何度も何度も、頭の奥のほうで、杭を打ち込むみたいに鳴り響いている。

 四月十六日。あの日もオレは、大粒の雨が降り注ぐ中、《カランコエ》跡地の前でこの音を聞いた。

 すべてが台無しになってしまう予感を呼び込む、不吉な音色だ。

 それは今でも変わらない。


 でも、お前が別の道を進んだように。

 オレだってずっと、あの時のまま立ち往生してるわけじゃねえんだ。

 背負った願い。獲得した自我。命の肯定――そいつがオレの背中を押す。

 時と場合によっては眩しい輝きにも、生臭い足枷にもなるけれど、そいつは迫り来る終わりに立ち向かう力になる。

 終わらせない力。あるいは、自らの手で終わらせるための力に。


 合わせた視線を逸らさずに、浅く息を吸う。

 そしてオレは、鏡を割ろうと打たれる誰かの杭を奪い取り、自分の意思で、この手で金槌を振り下ろした。


「……四月十五日。オレは誰かを殺したよ」


「――――」


「妖刀との戦いで名前も知らない大勢を巻き込んだ。お前がそう仕向けたのか?」


 鼻先がぶつかりそうなほど近く、心が見えないほど遠い距離で投げた言葉。跳ね返って聞こえたオレの声は存外、奥底から絞り出したように必死で、情けなくて。

 だからそれを、バカね、って。

 私がそんなことするわけないじゃない、って笑い飛ばしてくれる声を切望した――けれど。


「――――」


 マリアは言わない。何も言ってはくれない。

 その表情に激しい憎悪や侮蔑などといった色は宿っていない。

 本当に、目を逸らさないよう意地を張っているわけでもなく。断固として口を結んでいるわけでもなく。

 ただ、舞台上で台詞をとちった役者に興ざめた視線を送るような……わざわざ言葉にするまでもない、些末な感情しかなくて……。


「……ッ、答えろよ! お前に何があった⁉ オレたちは何がどうなってこんな――こんなクソみてえなことになってんだ⁉」


 聖剣を握る右手に力を込めて、縋るように叫んだ。

 そうだ。剣はもう抜かれている。

 マリアがオレの動きを目で追って、迎え撃つように刃を振り下ろした。だからオレも、ギリギリまで迷ったけれど、《ディレット・クラウン》を抜いた。

 ならもう、やっぱり、こんな確認をするような段階じゃあないんだろうな……。


 だけどさ、お前だってやってただろうが、幼馴染ごっこ。

 表面上はまだ、こうして刃を向け合うような関係じゃなかっただろうが。


 チクショウ……胸にぽっかりと穴が空いたみたいだ。

 血液とは違う何かが、身体の熱を丸ごと攫って、物凄い勢いで流れ出ている。

 それは怒りとは少し違う。哀しみとも少し違う。

 ただどうしようもなく泣きたくて。意味もなく叫びたくて。胸が張り裂けそうなほど切ない――堪えきれず自分の身体を抱き締めたくなるような、そんな名前の無い感情。それが溢れて止まらない。


 ――教えてくれ、マリア。

 お前は元の世界じゃあ、凶器を振り下ろしたり、大勢の命を侵害しようとするようなヤツじゃなかったはずだ。少なくともオレの目にはそう映っていた。ならお前がそうなっちまったのはいつ、どこで、何が原因だっていうんだ?

 その顔はいつから笑みを忘れた?

 その瞳はいつから紫色に染まった?

 不死鳥の炎が消えた。ツバサの命が潰えた。だから《ナイト・メア・アタラクト》を使って中央都市に戻ってきた。そこで吹雪の中に倒れたアヤメさんと、その傍に立つお前を見たときの、オレの心臓を貫いたこの想いはなんだ?


「そもそも……オレたちはどうして、この世界に来ることになったんだ……?」


 辿れるものを辿った先が、すべてそこに行き着くような気がして。

 不意に零れた疑問は、魔力の熱で溶けた雪の雫と共に、オレの頬を伝ってマリアの目元に落ちては、星のように流れた。

 次の瞬間。それまで響いていた鏡を割るような音が、雪風の音が、何もかもが突如として消え失せて。

 時が止まったと錯覚するほどの静寂の中。

 その声だけが、ツキヨミクレハに届いた。




「―――――Fate。運命だよ」




 不意に動いた幼馴染の唇。紡がれた言葉はあまりにも短く。奏でられた声は“何も知らないお前の目が、一体私の何を映していたのか”と戒めるような色で。


 運命。

 その単語が、まるで下ろされた錨のように、オレの奥深くへと浸水していく。

 どこまでも、どこまでも。

 すると次第に鎖が張り詰めて、錨は飲み込むこともかみ砕くこともできない位置に到達し、そのひどい異物感に眩暈がした。

 いっそのこと吐き出してしまいたいけれど、どこかに引っかかってしまってもう揚げられない。


「……はっ……はは……」


 ……それが、答えなのだろうか。

 ようやく返ってきたそんなものが……この場に渦巻くありとあらゆる問いに向けられた解答だとでもいうのだろうか。

 納得も、理解も、何もないじゃないか。


「ああ、そうか……お前が、運命(そう)としか言い表せねえってんなら」


 ならばもう、こうなった以上、オレに残された手段は一つしかない。

 見て分からなかった。

 言っても、言われても通じ合えなかった。

 どうしようもないほどに、人として分かり合えなかった。

 だったら。


吸血鬼(こっち)のやり方で訊き出すしかねえな――ッ‼‼」


 この世界で獲得した己の構成材料、寂寞を否定するための牙を見せつけるように声を張り上げた。

 それを号砲とし、受け止めていたマリアの刃を斬り上げて撥ね退ける。

 そうして頭上に掲げるは、鍔に王冠をあしらった心象具現化の能力を持つ聖剣――《ディレット・クラウン》。

 思い描くはオレとマリアを世界から切り離す灰色の檻。

 フルスロットルで魔力を奔らせ、ありったけを聖剣に注ぎ込み、そのための呪文を唱える。


幽世(かくりよ)創世(そうせい)――!」


 《ディレット・クラウン》の刀身が纏う緑と桜、二色の淡いオーラが花開くように広がり、空想の箱庭を構築開始する。

 その間隙。マリアもまた、掲げた剣を握り直し、魔力を流し込んでいた。


 何か来る――――が、構うものか。

 幽世を展開すればそれだけでオレの勝ちだ。

 マリア。悪いがお前を、逃げ場なんて存在しないオレの心の中に閉じ込めて、ちょいと痛い目に合ってもらうぜ。

 オレは吸血鬼としての力で血に刻まれた記憶を視ることができる。

 だから一滴だ。たった一滴でいいからマリアの血を飲めさえすれば、マリアがこれまでしてきたこと、これからしようとしていること。思考も感情も何もかもがすべて明らかになる。


 さらに保険として幽世内の時間の流れを遅くしてしまえば、仮にオレがマリアを閉じ込めきれなくなったとしても、騎士団が体勢を立て直すだけの充分な時間稼ぎになるはず。

 だからこれでいい、このまま幽世の構築に専念しろ……ッ!


 と、全神経を《ディレット・クラウン》に集中したそのとき。


「な――⁉」


 収束していた魔力、動き出した魔的法則が、まるでエンストを起こしたかのように突如として霧散し沈黙した。


「幽世が……展開できねぇ⁉」


「ふん、ッ――――!」


 驚いている暇はないぞと言うように、間髪を入れず剣を振り下ろすマリア。

 その剣先が、容赦なき戦意が、オレの左肩から右腹までを斜めに斬り裂く直前。


「――ちぃ……ッ‼」


 空いている左手に《ナイト・メア・アタラクト》を顕現させ、受け流すようにして防御。同時に軸足を曲げて後方へと跳び上がる。

 内臓を押し上げる浮遊感。身体を煽る突風。一歩で二十メートル弱ほどの距離を稼いだオレは、着地時に《ディレット・クラウン》の刃に付着した血液を左の親指で拭い、素早く口に運んだ。


 これは先ほどマリアの剣を受け止めた際に付いたアヤメさんの血だ。

 あの人の膨大な記憶の中から、的確な記憶を拾い上げられるかは微妙なところだが……いや、さすがは騎士団長。


「……なるほどな。魔的法則の無効化――アヤメさんの炎もそれで封じられていたってわけか」


 血の記憶を視る場合、大抵はそいつの一番強い記憶から再生される。

 自らの死、大切な人との出会いと別れなど、熾烈な感情が焼き付いている部分からな。

 だからこうして、オレが真っ先に辿れるほどにマリアとの戦闘が強く記憶されていたのは、アヤメさんが意図してそうしてくれたのだろう。


 硝子の剣による無効化。遠隔操作されている見えない六本の剣。そして理由は不明だが、マリアを包む鎧の弱点――右腕部の装甲の薄さ。

 ありがたく使わせて貰いますぜ、その記憶。


「――、――」


 狙うなら右腕だ。装甲を貫通できる確証はないが、可能性があるとしたらそこだけ。全力を叩きこんで何とかマリアに血を流させてやる。

 最悪、薄皮一枚どころか骨ごと切断してしまうかもしれないが、まあそのときはそのときだ。

 記憶を視る限り、マリア自身何かしら治癒の力も持ってるみたいだしな。


 右手で構えた《ディレット・クラウン》に魔力を注ぎ込む。

 再び幽世を構築しようとすれば、マリアはまず間違いなくそれを無効化するだろう。だが逆に言えば、こうしていつでも発動できるよう待機状態にしておけば、向こうは嫌でもここを警戒せざるを得ない。


 つまりこれで、マリアは不用意に《ディレット・クラウン》以外の力を無効化できなくなった。


 ならば次に見定めるべきは――。

 右腕を狙う上での次なる障害物、浮遊する六本の剣か。

 あれは不可視の銃弾のようなもの。

 アヤメさんは長年の経験と勘で何とか対処していたようだが、そんな芸当、その記憶を持っていたところでオレには到底不可能だ。

 しかしあの不可視が剣ではなく、オレ自身に作用しているのならば、一転して対処は容易い。


 ――悪魔の瞳。生憎とマリアの内側には干渉できなかったが、この力を自分に使用し、歪められた認識、狂った歯車を再調整する。

 そうすれば……ああ、ラジオの周波数を合わせるみたいに、この通り。

 ばっちり見えたぜ。マリアの頭上をゆったりと、ベッドメリーみたいにくるくる回転している六本の剣が。

 どうも鎧のほうは別口の能力らしく見えないままだが、充分だ。

 遠慮なく行かせてもらうぜ。

 このままマリアの懐まで入り直し、右腕部の装甲をぶち抜く――!


「ふ――、――ッ‼」


 踏み込むと同時に、足元の瓦礫が爆ぜた。

 一陣の風が駆け抜ける。舞い荒れる吹雪が熱で溶け、横殴りの雨となる。

 加速する身体。網目状に広がる緋光の翼。疾駆とも滑翔とも言える移動。


 しかしこれは神速に非ず。激情に突き動かされた飛翔より遅く、もはや失われた最高速には程遠いコマ送り。

 ゆえに先んじて仕掛けるは、懐に入るまでもなく射程距離内にオレを捕捉している六つの刃。マリアの頭上から弾丸の如く射出されたそれが、吹雪を物ともせず一直線に迫り来る。


 一本目の剣先が眼球を貫く三秒前――。

 後ろに続く剣も含めて限界ギリギリまで引き付けてから、迎撃体勢に移行する。

 測られた目算。調整された呼吸。

 担い手の存在しない刃と切り結ぶ剣戟のイメージを構築し、左手に構えた稲妻型の刃――《ナイト・メア・アタラクト》を以て、その幕を斬って落とす。


「はッ――ふ、――ァ……‼」


 全力の逆袈裟で弾き飛ばした一本目、続けて右手、《ディレット・クラウン》での袈裟斬りで二本目を叩き落とし、返す刀で斬り上げる三本目、四本目は《ナイト・メア・アタラクト》で左袈裟、そして即座に両の聖剣を交差させ、身を捻って一回転、横に十字を斬るようにして五本目を瓦礫の中に打ち込み――ラスト六本目、勝負はここで迎撃から反撃へと転換する。


 減速は行わず。回転の勢いを付けたまま。

 向かい来る六本目、鍔に緑色の薔薇をあしらい、同じ色の光が刀身に一筋の光を引いているその剣を《ディレット・クラウン》のみで弾く――そのコンマ数秒前。

 浮遊する剣をマリアから引き剥がし、間合いに入るまでほんの僅かというこのタイミングでオレは――《ナイト・メア・アタラクト》を前方に投げ放った。


 オレが六本すべての剣の迎撃を終えるのと同時に、一転して今度は自身に剣が迫り来る中で、マリアは。


「ッ――――」


 それをただ、半身を反らすだけで回避した。

 マリアは多分、オレの狙いが装甲の薄い右腕部であることに気付いている。

 だから硝子の剣を動かして自ら隙を生み出すよりも、いっそのこと被弾を覚悟して迎撃しないことを選んだのだろう。


 実際その選択は正しい。

 おかげでオレがこのまま渾身の一刀を放ったとしても、あの半透明の刃に防がれて終わるだけだ。

 あくまでも、このまま正面から行った場合は、だが。


「――――、」


 加速した身体を思考が追い越す。

 一秒が引き延ばされ、映る景色がスローモーションになる。

 マリアとの距離、二メートル弱――剣技の間合いに突入した。


 マリアの紫色の瞳が、正面から来るであろう剣閃を捉えようとした、そのとき。

 オレはマリアの背後に落ちた《ナイト・メア・アタラクト》の能力を起動し、位置の入れ替えを実行する。

 目蓋を開いたまま瞬きをしたように視界が一変し、白金色棚引くマリアの後ろ姿を眼前に見据える。


 完全なる死角にて発射体制を整える聖剣。

 重い錨を引っ張り上げるように構えた刀身が、鎖を断ち切るための斬撃が、力強く射出される――その、間際。


「――――ッ」


 マリアは反応した。

 一秒もなく右腕を貫くであろう必中必斬の刃。

 その致命的軌道に対し、予測ならできていたとでも言うように、最小最速の動きで振り返ったマリアは、その流れのまま硝子の剣で横一閃。

 オレの首を刈るような正確無比な薙ぎ払いを繰り出した。


「――――」


 が、しかしその一方。

 オレは未だ《ディレット・クラウン》を構えたまま、その刃を動かさずにいた。

 そう、斬撃を射出するタイミングはまだここじゃない。

 この移動はブラフ。

 オレの瞳は今もなお、マリアの肩の向こうにある、火花放電を映している――。


「もう一度ッ――!」


 刹那、紫色の稲妻が再び雪上に迸る。マリアの一閃が空を切る。

 背後からの奇襲が看破されることを見越した、《ナイト・メア・アタラクト》の連続使用。

 これこそがオレの狙い。座標は再度マリアの背後へと移ろいだ。


 さあ、我が剣閃は依然として、お前の死角に潜んでいるぞ――!


 マリアは硝子の剣を振り切った。六本の剣は既に撃ち落としている。

 すべての障害を踏破し、往くべき道は見通しのいい下り坂のように、晴れやかに切り拓かれた。

 その上で、さらに。


「――《開錠承認(チェック)》ッッ!」


 聖剣――《オース・オブ・シルヴァライズ》を顕現。

 白銀の誇りを左手に構え、その固有能力を解き放つ。

 自棄になってアクセルを踏むわけじゃない。正気のままブレーキを手放すのだ。

 万が一なんて可能性を排除するために。出し惜しみナシの全力で。

 この場で、この一刀で、絶対に真実を手に入れる――そのために、残り一年という寿命をさらに焼却し、再び我が身を神速へと到達させる!


 《Count Start. existence compression is from 8741》――脳内に降り注いだ無機質な電子音声を合図に、生命の圧縮が開始された。

 この須臾の間のみ、ツキヨミクレハは時の流れにへつらうだけでは確実に至ることのない領域へと突入する。

 ――もはや、刃に魔力を注ぐまでもない。

 未来を代価とした命の輝きは刀身から零れ、その奔流は在るだけで極光。

 大気を震わせ、大地を溶かし、夜闇を斬り裂かんとして爛々と光を放つ。

 名も無き流星の今際にして熾盛(しじょう)の煌めき。破滅を契り体現する天体衝突。


 一柱に束ねられた二振りの聖剣はついに、待ち焦がれたその時を迎えた。



「――歯ァ食いしばれよ、マリア――ッッ‼」



 咆哮と共に今――、

 ツキヨミクレハの全身全霊、渾身の斬り上げを、神速にて解き放つ――ッ‼


 それは錨の沈む昏い海を割断せし、星の一太刀。

 刃に滲んだ極光はかつて夢見た黄金色に輝きを変え、一瞬の閃きは永遠を覗き。

 雪の天蓋へ、マリアの右腕へとその光芒を貫き通すため、逆向きに墜ちていく。


「                                  は」


 その――――途中で。声が、漏れた。

 否。困惑を音にする隙間などこの神速にはない、ゆえにそれは胸中の響き。

 本来は存在を許されない束の間。意図せずして凍り付いた時の中で。

 オレの網膜に、あまりにも強烈な違和感が突き刺さっている。

 なんだ。妙だ。おかしい。何かが異常だ。


 ――何故、マリアの右手に硝子の剣が握られていない?


 ――何故、マリアの右手がこちら側に向けられている?


 その変化をオレはいつ見逃したというのか。

 無音の問い。その答えはすぐに示された。

 時の隙間を縫うように突如、マリアの右手に剣が出現する。

 それも硝子の剣ではなく、先ほど弾き飛ばしたはず緑薔薇の剣が。


 予め遠隔操作で引き寄せていたとか、そんな速度じゃない。

 まるでこれは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、まさしく瞬間移動。

 オレがマリアの動きを見逃したのではない……。

 見逃したと錯覚するほどの瞬く間に、剣が再展開されたのだ。


「――――――――、」


 捻じ込まれた緑薔薇の(やいば)。脳裏をよぎるいくつかの懸念。

 だが、そのすべてを黙殺する。

 どれだけ逡巡したところで、今さら足を止めるという選択肢などあるはずもないのだから。

 責任が背中を押す。激情が心を突き動かす。この場、この瞬間に在るツキヨミクレハの成すべきことはただ一つだと、魂が訴えている。

 迷うな。止まるな。後ろを振り返らずに、悠か彼方の一歩先へと!



 往け、往け、往け――最後までこの神速を、極限の一閃を描き切れ――ッ‼



「ぉぉぉぉおおおおおおオオオォォォォ――ッッッ‼‼」


 名も無き一太刀が、緑薔薇の刃へと辿り着く。

 そのあまりにもか細い身代わりが流星を押し留めたのは、一瞬にも満たないほんの僅かな時。

 しかしその間にもマリアは。たった数センチ、数ミリでも右腕を引くようにして、一本、また一本と剣を出現させていく。

 右腕を庇うように逆手の向きで積み重なる刃。だが、その層が三重になったところで、オレの斬撃が剣の出現速度を上回った。


「――ッ、ぁあ――――ぐ‼‼」


 手首から先が千切れ飛んだような感触。両肩の骨が砕けたような衝撃。

 落雷に打たれ、光に融け出し、全細胞が焼き切れたような鮮烈の果て――やっとのことで意識が、既に聖剣を振り抜いているという事実を認識する。

 紅月に掲げられた剣先。余波だけで両断され消え行く雪の嵐。

 引き延ばされていた時が元に戻る。閃光に眩んだ視界がピントを再調整し、目標を見定める。


「……クソッ……!」


 狙い通り、聖剣は右腕部の装甲を破壊した。それは確かだ。

 マリアは右腕の骨を折り、内側から皮膚を突き破るようにして、空中へとその血液を飛び散らせた。

 けれど――奥歯を噛み、オレは即座に次なる魔力を奔らせる。

 《ディレット・クラウン》と《オース・オブ・シルヴァライズ》、その二振りの刃は、相手の防御を突破こそすれど、しかし直撃には届いていなかった。

 装甲を破壊したのも、マリアに血を流させたのも、すべて魔力の奔流による衝撃――即ち余波でしかないのだ。


 つまるところ、マリアの負傷は想定よりもずっと軽く、また出血も少ない。

 視界の端で翡翠の光が瞬く。緑薔薇の剣が早くもマリアの傷を治癒している。

 瞬く間の出現。全力を以てしても破れなかったあの刀身。マリアの有する剣は、この手に握る聖剣と全く同等の格を持つ神具としか思えない――いや、思考なんかあとでいい!


 マリアの傷はすぐにも塞がってしまうが、しかし己が身から零れた血液は別。

 勝負はまだ、決着していない――!


「……ッ……! ナイト、メア……ッ、アタラクトォ……‼」


 寿命と引き換えに充填された魔力を滾らせ、三度、紫色の稲妻が迸る。

 風が消え、はらはらと静かに舞い落ちる雪。

 その中を飛び散る血液に、少しでも近づく。

 入れ替わった位置。切り替わった景色。全力を出し尽くした身体はとっくに限界を超えていたが、普段は鳴りを潜めているもう一つの本能……吸血衝動に全感覚を委ねて、一心不乱に手を伸ばす。


 届け、届いてくれ、ここまでして届かないなんて嘘だ!

 そうだろう、なあ……‼



 《強制施錠(オートロック)》――《Count Lock. Leftover time is 7277》。



「ぁ――――――――――」


 無情なる声が脳内に降り注ぎ、がくんと足が折れる。

 ……もう、誤魔化しようがないほどのガタが来ていた。当然だ。だって寿命を残り一年にまで焼却したあの死闘から、まだ二十四時間も経っていないのだから。

 あれから紅い月の光を浴び、都市の外で悲劇を生み出していた麻薬に侵され、破滅と混沌の中から命を拾い上げて、そして今、また無茶をしたんだ。

 いくら吸血鬼の不死性と回復力があるとはいえ、甘えすぎたらしい。


 最後に何とか地面を蹴ろうとして、躓いて転んだ。

 からん、ころん、と聖剣が惨めな音を立ててこの手を離れる。

 すべての力が尽きて、喘ぐように舌を突き出して倒れたこの身は、もう二度と起き上がらない。

 それでも……無意味だと分かっていながらも、どうにか。

 どうにか意地と執念を振り絞って、僅かに身体を傾けた。


 その瞬間――――月から零れたような紅色の雫が、舌先に触れた。



「                                   」




 ――ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。


 雪が降っていた。どこか知らない山の奥。朝でも夜でもない、白い夕方の頃。


 ――今からあなたの記憶に、少しだけ封をさせてもらうわね。


 大樹が桜を咲かせていて。その周りを囲う透明な水面に、桜のはなびらと雪のひとひらが音もなく落ちては、ゆらゆらと揺蕩う。楽園の入り口のような光景。


 ――大丈夫。いずれまた巡り合えるから。そのときは、わたしを。


 どこか聞き覚えのある声。薄桃色の髪の少女。その顔は曇り硝子を通したように不鮮明。


 ――でも、これだけは忘れないで。あなたがあの子に手を差し伸べたことは、決して間違いなんかじゃない。


 遠く。()()の少年が倒れているのが見えた。少年は紅羽と呼ばれた。この記憶の持ち主が、涙を流しながらそう呟いた。

 

 ――()を一人にしないでくれて、ありがとうね。もう叶うことはないけれど、許されるのならわたしも、あなたと何でもないお話をしたかったわ――。



 記憶の投影はそこで終わった。

 否。正しくは中断させられた。


「ぁァアア――ッ、   ガ、ぁ――――ア……⁉⁉⁉」


 まともに呼吸ができなかった。喘ぐように突き出した舌。奇跡的にマリアの血液を受け止めたはずのそれが、無くなっていた。斬り取られていた。

 代替品として差し出されていたのは、吐き出した息で生温かくなった刃。


 察するにマリアは、飛び散った血にオレの舌先が触れた瞬間、すぐさまその箇所を切断するという手段で、記憶のすべてを読み取られるという最悪を回避したのだろう。

 やられた。おかげでオレはマリアの真意、その全貌を知ることはできなかった……。


「……ぁ、……はぁ、……は、あ……!」


 ――けど、それでも、無駄じゃなかった。

 一瞬の間だったが、それでもマリアが最も強い感情を刻んだ場面を、垣間見ることはできた。

 それは全然、満足に足るものではないけれど……得たモノはあった。一矢は報いたはずだ。


「……ッ、…………‼」


 残った絞りカスの魔力をさらにかき集めて、傷を再生する。

 そして手元に出現させた《ディレット・クラウン》を支えに膝を突いて。

 ……遠く。

 背を向けて瓦礫の山を登り、この場を去ろうとしているマリアへと叫ぶ。


「――マリアッ……‼ いいんだな? オレとお前は殺し合う相手ってことで、本当にいいんだな――⁉」


 魔力を帯びた歪な剣を回収しながら、ゆっくりと優雅に振り返るマリア。

 その表情は涼しげで、視線は冷ややかで、一分前までの死闘の面影はない。

 それはつまり戦意の喪失。勝負の決着を態度で表していた。

 勝敗は曖昧で、何とも判断しにくい複雑な結果だけれど、戦いは一応の終わりを迎えた。

 だがそれならば、今のマリアはどのような立場で、どのような想いで。


「四月十五日。あの日に何があったのか、今ここで思い出してみてよ」


 ……そんな言葉を、返してきたのだろう。


「何がって……それは、妖刀が……」


 困惑しながら答える。一体何の意図があって、そんな忘れもしないことを思い出せと言われなくちゃならないのだろうか、本当に訳が分からなかった。

 するとマリアは視線を逸らし、小さく呟いた。


「二か月前のとは言ってないわ」


 期待するだけ無駄だったと呆れるような、諦めたような声色だった。


「……は……?」


「あの日もこんなふうに雪が降っていた。季節外れの雪が、散ったはずの桜の花と一緒に。見分けがつかないほどに――」


 降り注ぐ雪を受け止めるように両手を広げるマリア。


「――ねえ。間違いから産まれた存在は、同じように誤った運命を辿る、価値のない命だと思う?」


「思わねえな、これっぽっちも」


 分からないことだらけの中、それだけはと、力強く否定する。

 すると、白金色の髪が揺れて、マリアは再び踵を返した。


「待てよ……! ……ッ、別れの挨拶とか、何も……何もないのかよ!」


「いらないでしょ。最初から、ずっと」


 そう言い捨てて、幼馴染は振り返ることなく、夜の中へと消えていく。

 眩しく揺れる白金が見えなくなるほど深く、遠くまで。  


 対するオレは、もう一歩も動くことができず。

 何もできない虚しさと、どうしようもない喪失感に圧し潰されそうになりながら。

 それらすべての重さに何とか耐えうる理由を、頭の中で繰り返していた。

 それは。その言葉は。


 ―――運命(フェイト)


 幼き日のマリアに刻まれた、綺麗で残酷な、涙の理由だ。


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