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鏡面のクロノスタシス  作者: 悠葵のんの
三章【月下狂乱の物語】
67/81

21話『不知火を駆け抜ける《壊れた右腕》』

☆四月十五日午前十一時五十分


「―――――」


 虹色の蝶が舞い、フィルムのコマが切り替わる。

 連続していた意識に未来の記憶が上書きされる。


 ……正面。眼前には、影が立体化したような漆黒の異形。

 すぐに過去であり現在の記憶を手繰り寄せたところ、今は……そうか。


 模造聖剣――妖刀から放たれた斬撃を分解した場面だな。

 ならば、と俺は隆起した大地を思いきり蹴飛ばした。


「ッ――――!」


 疾走する。行く先は、狙いは既に定まっている。

 同時に向かい来る妖刀。お互い譲ることはなく、回避不能の激突が果たされる。


 その結果、俺は妖刀の顔面を遠慮なく殴り飛ばした。

 瞬間。右手が触れた漆黒の鎧の顔部分が虹色の粒子――《エトランゼ粒子》へと分解され、右腕を通して俺の体内に吸収される。


 身体が、魂が()()()()に昇華していくのを感じる。

 変革しているという実感がある。

 前髪の端が白く染まり、きっとどっちかの目も、多少紫色に塗り替えられた。


 ――逆行限界、更新。

 ほぼロスタイム無しでピンを打てたのは上々だな。


 万が一にも魔的法則に触れないよう手袋を着け直して、俺は視界の端で捉えていた金髪の少年――ツキヨミクレハに告げた。


「勝てよ、クレハ」


「お前は……いや」


 クレハは俺の正体について尋ねようとしたが、すぐに今の自分がすべきことを思い出し、空想の檻の実現に取り掛かった。


 いいぞ……それでいい。

 根っこに真面目な紅羽(おまえ)が残っているのを感じられると、安心するよ。

 だからこそ悪い、クレハ。お前にとって必要な言葉を、ロクなコトを伝えてやれなくてさ。

 それでも、少しでもお前の背中を押すことができたなら、この場に現れた甲斐があったなら……それがせめてもの救いだ。


 ――さあ、行こう。俺には俺のやるべきことがある。


 漆黒の異形。妖刀を手にしたシンジョウってヤツが出した被災者を、ひとりでも多く減らすために。

 傲慢なのは重々承知。それでも最善を目指し続けると、走り続けると決めたのだから。

 俺はクレハと、そして聖剣を掲げたツバサに背を向けて、崩れた市街地と広がる火の海の中へ――全力で駆け出した。


☆四月十五日午後一時十二分


 できる限りの救助と避難誘導を終えた俺は、騎士の人数が増えてきた頃を見計らって撤退し、相棒の姿を探した。

 倒れた建物、積み上げられた瓦礫、降り続ける雨、雨ですら消しきれぬ火災。

 そんなどこかくすんだ世界の中を走っていると、まだ騎士の配備がされていない大通りに、鮮やかに濡れた亜麻色を見つけた。


「……居た居た」


 こういうとき、決まって俺のほうが先にあいつの姿を見つけてしまうことに、若干の不満を覚える。

 いやまあ、あいつ自身に悪気があるわけじゃないし、むしろ文句を言うべきは同年代のヤツらと比べて早めに成長が止まってしまった俺の身体のほうだろう。

 でも。


「お、遠見(とおみ)、いつの間に。瓦礫に隠れちまって、相変わらず分からなかった」


 こういう嫌味のない嫌味がコミュニケーションの一部になってしまってるのはどうかと思う。


神澄(かすみ)こそ、相変わらずデカい図体してるから見つけやすくて助かるぜ」


 ま、俺もこうして同じ土俵に乗ってしまうんだけどな。

 まあこの身長百七十未満の俺と百八十近い神澄との普段通りの挨拶は、それを忘れないうちはまだお互い余裕があるという、一種の確認でもある。

 他愛ないけど必要なことだ。


 さらに言えば向こうにはもうひとつ、俺について確認しなくちゃいけない要項が存在している。

 それは俺の髪と瞳の色だ。

 神澄は少し背を屈めて俺の顔を覗き込み、僅かに目を細めた。

 切れ長の目が凛々しく、そしてどこか蠱惑的に光る。


「戻ってきたんだな。ロスは?」


「数秒で済んだ。状況から見て、次もまだ大幅な消費には繋がらないだろうな」


「なるほど、了解」


 過去に戻ってきたのは俺の意識のみ。つまり神澄に未来の記憶はない。

 しかしこいつは、俺が右腕を使った場合容姿に変化が訪れることと、髪が白、瞳が紫に完全に染まりきったそのとき、()が開かれることを知っている。


 扉を通った俺の魂は、時間の檻の外側に置かれた世界に辿り着き。

 そしてタイムライン上で最初に右腕を使った場面(ピンを打った地点)を目印として、そこに意識を上書きできることを――。


「一応私の行動ルートを地図に書いとくよ」


「おう、助かる」


 ピンを打つ行為は速やかに実行されることが望ましい。

 なぜなら、例えば過去に戻ってからピンを打つまでに三十分かかったとしたら、その三十分間は以後改変が不可能な歴史として確定してしまうからだ。


 これが――逆行限界。

 その間にどれだけ回避したい悲劇が起きたとしても、俺はピンを打つより前の時間には戻れないし、手が出せない。


 まあ、本当ならそれが当たり前のことなんだけどな……。

 だが不可能を可能にできる力があるなら、誰かのために使ってやるのが義務だ。

 神澄もそれを理解して、俺が未来の時間軸から戻ってきたと把握したときには、ピンのことを優先して考えてくれる。


 要するに月夜野神澄(つきよのかすみ)は、遠見桐花(とおみとうか)というタイムトラベラーの助手役なのだ。


 おかげで最悪を回避するために過去に戻ったのに、その話を誰にも信じてもらえない、なんて状況になることもないし。

 右腕を使う(ピンを打つ)――この右腕で魔的法則を分解し吸収する――のにも、いつでも無条件で魔法が使える神澄とは相性がいいし。

 いざというときの安全装置として充分すぎる役目を発揮してくれる、聖戦のことを抜きにしても頼れる相棒だ。


 そんなわけで、合流し必要最低限の確認を済ませた俺たちは、ひとまず場所を移すことにした。

 周囲はまさに嵐の通り道。人は死に、建物は崩れ、道という道は割れた。

 ここにもう生者はいない。

 ゆえに会話を盗み聞かれる心配など万が一にもないとは思うが、それでも右腕の能力のことを考えれば、気を付けられるときには気を付けておかないとだ。


 少しして倒壊の心配がなさそうな店を見つけ、そこの地下倉庫にお邪魔した。

 神澄が上から椅子を持ってくる。俺は落ちたランタンに火を灯し直す。

 よし、これでいかにも密談って感じだ。


「クレハのほうはこれからどうなるんだ?」


「ツバサと一緒にまだ四、五時間は《幽世(かくりよ)》の中だな。何が起こってるのかは分からないが、二人は勝つ。吸血と《血識羽衣(アルカードレス)》もそこで果たされる」


「成長は順調ってわけね。んで、今回キミはどっから戻ってきたんだい」


「六月一日の夜。クレハが留守の間に真理亜(まりあ)が騎士団を強襲し、ツバサとアヤメが殺られた」


「……過去に戻ってきた時点である程度想定はするけどさ。一応、良いニュースと悪いニュースのどっちを先に聞くか決めさせてくれないもんかね?」


 神澄は苦笑して軽口を放ったが、目には微かな緊張が滲んだ。

 当然だ。もし立場が逆なら俺も同じ反応をする。

 だって、あの真理亜が、自ら表舞台に上がって事を成したというのだから。


「不死鳥の再誕は? 真理亜はこの世界の法則をそこまで無視っつーか、干渉できんの?」


 神澄は少し考えるようにしてから、とりあえず思いついたことを口にした。


「正確なところは分からないな。でもあいつはおそらく月の冥府と契約して、それで輪廻の輪が閉ざされている不死鳥を強引に連れていった。つまりあくまでも、この世界のルールに従ったってことだ」


「じゃあ、やっぱこれまでよりは好き勝手できないわけね。……それで? 今回の目標、目指すべきエンディングってのは何?」


「六月一日にアヤメとツバサが死なない未来、そしてあの場に欠けたピースが揃う未来――それを目指すよ。いつも通り、それ以外の改変はできるだけ避ける形でな」


 ……俺の力は、あまりにも愚かで罪深いものだ。

 たった一人の人間が、しかもまだまだ年端もいかないガキが。

 そいつの主観で、意思で、過去を捻じ曲げて多くの人の未来を決定してしまうというのだから。


 誰かの過去の痛みも、誰かの未来への覚悟も、問答無用で無かったことにしてしまう。

 それはきっと、行き着く先がハッピーエンドだとしても許されてはいけないことだろう。


 それでも俺は、それに背を向けてでも。

 我が儘に、傲慢に、矛盾を孕んででも。

 俺の思う最善をこの手で掴むと決めた。


 無知の人であることを辞め、零か百かなんて振り切らないで考えるだけ考えて。

 時に書き換え、時に書き換えず、そうやってできることをやると決めたのだ。


 この右腕を預かり、そして恥知らずにも壊してしまったあの日から――。


 ……なんて。久々の逆行だったからか、妙に熱くなってしまったな。

 俺は拳を握って、神澄に向き直った。


「なら、そのために必要な要素を考えますか。真理亜が直接出張ってくるってんなら、私が迎え撃つんじゃダメ?」


「いや、武装だけで言えば真理亜は今のお前と互角の力を持ってる。だからきっと、まだそのときじゃない」


「……確かに、片翼奪われちまったわけだかんね」


「それと真理亜は東西南北の騎士団支部に妖刀を放つんだ。神澄にはそのうちの東区防衛に行ってもらいたい」


「いいけど、ほかの三区はどうすんの? 相手は模造聖剣――対抗できるヤツの当ては? 私ひとりで四区回るには時間が足りないよ?」


「問題ない。こんなときのための仲間がいるだろ?」


「まあ、向こうがいいなら、いっか。次に考えるべきは紅い月光だね。防がなきゃそこらの一般市民も全滅しちゃう」


 頷く。神澄の質問は状況と思考の整理を助けてくれる。

 ガサツなようでいて意外と気が回るのだから、ありがたい。


「流れとしては、真理亜は騎士団本部を爆破することで《傘》の燃料となっていた炎を消失。その後は再誕したアヤメと直接対峙し、おそらく二番目の剣を使って新しく発生する炎を無効化。そうして《傘》に燃料が供給されないようにしながら、紅い月光で月の冥府と地上に繋がりを構築し、死神の鎌で不死鳥の魂を刈り取った」


「つーことは、その爆破を防いで《傘》の燃料が消えないようにするか、あるいは間髪入れずに復旧させることができれば、アヤメたちの死は回避できる?」


「そういうことだ。そして俺としては後者のほうがいい。真理亜の隙も突けるし今後に生きる要素が拾えると思う」


「一度目の死は見逃して油断させてからのカウンター。で、最終的には死なないようにする、か。悪くはないけど、いいわけ? すぐに《傘》を復旧できたとしても、一般市民には毒電波ってのが降り注ぐ――」


 神澄はそこで言葉を止めた。

 きっと俺の表情から、覚悟と葛藤を見極めてくれたのだろう。

 肩を竦めて神澄は、こう続けた。


「ま、一瞬だけなら、悪い二日酔い程度で済むよね。死ぬよりは全然マシだ」


「……ああ。でもそうじゃなかったら、別の方法を考えるさ」


 静かに、けれど力強く応える。

 大丈夫。決意が揺らぐことはない。

 ただ、これでいいのかという己への問いかけが、永遠に尽きないだけだ。

 そしてその度に、俺はそれでもと走り続ける。

 二度と走ることも、歩くこともできなくなる、その時まで。


 一度、深呼吸をする。

 やるべきことをリスト化し、それによって起こる影響を考え、望む未来との整合性を組み立てていく。

 暗闇に浮かぶランタンの明かり。

 その微かな灯火を胸の中に仕舞い込んで、俺は立ち上がった。


「よし。まずは明日の夜。騎士団だ」


 四月十六日の夜。日付が変わる直前。

 吸血鬼と不死鳥による聖戦が行われる中で、先んじて騎士団長の掛けた保険が騎士団本部に現れる――。


☆四月十六日午後十一時三十八分


 細心の注意を払いながら騎士団本部を訪れた俺は、地下に存在する《傘》が設置されている部屋の扉を叩いた。

 見張りはいない。普段ならきちんと配備されているのだろうが、今夜だけは下がらせたのだろう。

 ()()の力は抑えが効かないから、万が一にも被害が出ないようにというアヤメの配慮を感じる。


「…………返事はない、か。まあ朗らかにどうぞと言うタイプでもないしな……」


 悪いが長居はできないので、もう一度扉を叩いてから返事を待たずに中に入る。

 室内は騎士たちの訓練場のような無骨な空間だった。

 頑丈で窮屈、どこか圧迫感さえある部屋の中央に、見慣れぬ装置が設置されている。

 灯った不死鳥の炎を囲う円環が三つ存在し、中心部には魔法陣、そしてそこから上空へと伸びた光の線。


 三つの輪がアヤメの炎から魔力を抽出し、魔法陣を使って《傘》の構築と中央都市上空への投射を行っているってところか。


 ……間違っても右手で触れないようにしないとな。

 あれはこの都市に暮らす人々の命を守る技術であるのと同時に、芸術だ。

 大勢の人を危険に晒すよりも先に、あれを作り上げた術者の信念を殺してしまうかもしれない。


 《傘》本体から距離を取りつつ、周囲を見渡す。


「おかしいな。居ないのか?」


「……居ますよ、ここに」


「うぉッ⁉」


 背後から響いた気怠そうな声。不意を突かれた俺は驚きながら即座に振り返る。

 すると扉近くの壁に背を預け、極限まで存在感を消していた彼女の姿が目に入った。


「――ユキノ。居るなら声かけてくれよ……」


 半ば呆れるように、俺はマフラーをぐるぐる巻きにした暑苦しい格好のユキノに言う。

 一方で彼女は普段通りの冷ややかな目のまま、黒縁の眼鏡越しに睨んでいるような目で俺を見つめ返す。


「今かけたじゃないですか。というか、返事しなかったんですから入ってこないでください。死んでも知りませんよ、あなた」


「心配してくれてありがとな。でも大丈夫だから。それより邪魔して悪いんだが、ちょっとユキノに話があってさ」


「あなた莫迦ですか。何を根拠に大丈夫とか言えるんです? それに名前、呼び捨てにしないでくれませんかね。出会ったばかりで、そこまで親しくないでしょう、私たち」


 ……出会ったばかりね。

 今は否定できないのが残念だが、この分岐点があるいは、いずれ肯定できる未来に繋がるかもしれない。

 そうだな。そのためにも俺は、強引に本題を切り出すことにした。



「――六月一日の夜。ユキノが今からやるのと同じことを、同じくこの場所で頼みたい。絶対に必要になるから、お願いだ」



「…………」


 ユキノが眉をひそめたその一瞬――寒気が、した。

 四月の半ばだというのに、十二月の極寒の冷気が、壁も服も通り抜けて肌を刺したような鋭さがあった。

 俺が思わず肩を震わせると、ユキノは何かに気付いたように小さく口を開けて、すかさず首元のマフラーを握り締める。

 爪に塗られた銀朱が微かに光を放ち、寒冷に張り裂けようとしていた空気が、穏やかさを取り戻していく。


「…………」


 アサギリユキノ――いつも気怠そうで、他者を寄せ付けないモノを抱えながらも、その内には優しい温もりと情熱が同居している氷の剣士。


 そんなユキノの今の立場がどういったものかは、正直分からない。

 九十九パーセントはこうだという予感があっても、残りの一パーセント、確証が足りていない。

 だけど俺は、誰かを信じることができて、その責任を自分で負える人間で在りたいから。

 黙ったままのユキノを真っすぐに見つめた。

 すると彼女は鼻を鳴らし、目を逸らしながら言うのだ。


「トオミトウカ、私は約束はしません。なので誠心誠意頼みこめば……とか甘い期待はしないでください。私は、必要なら、誰だって裏切る人間ですよ」


「もしお前が裏切ったとしても、それはそうさせるしかなかった俺のせいだ。ユキノは自分の心に従って動けばいい」


「なんか……イライラするな、その言い方。上から言われるのは好きじゃないので、さっさと帰ってください」


 トン、とブーツの音を響かせて、背を預けていた壁から一歩踏み出すユキノ。

 どこか眠そうな視線の先は俺――ではなく、その後ろの《傘》だ。

 肩越しに振り返ると、中心部に灯った炎が、今まさに潰えるところだった。

 そうか、吸血鬼が不死鳥を下したんだな。


 再び前を向くと、ユキノが眼鏡を外していた。

 次に指先の銀朱が消え、途端に先ほど俺の全身を突き刺していた冷気が場に満ちていく。

 マフラーに手をかけ、ユキノは言う。


「そのうち全身が沸騰したように感じるか、たったの一瞬を境に、感覚そのものが消えますよ」


 だから、巻き込まれたくなければ急いで離れろ。

 言外にそう伝えるユキノに頷き、せめて最後にと俺は頭を下げた。


「話、聞いてくれただけでも感謝するよ。ありがとう」


「…………」


 返事はなかった。

 きっと、己が身に秘めた暴れ馬の手綱を握るので精一杯だったのだろう。

 これ以上無理させちゃ悪い、急いで離れよう。

 またな、と一言残して、俺は外へと走った。


 ああ……念のため、夜勤の騎士にそれとなく伝えておくか。

 今後数日の間、この場所は吐く息さえ凍り付くような絶対凍土になる。

 だからまあ、四月にマフラーを巻くのだって、ナシじゃないってな。


☆四月二十四日午後八時十二分


 数日が経ち、再び騎士団本部へと忍び込んだ俺は、今度は地下ではなく二階へ足を向けた。

 目的の場所は騎士団長が居る部屋。つまり団長室だ。


 今後のことを考えたとき、俺はどこかのタイミングで――できればあいつがクレハの前に再び姿を現す五月六日の前に――アヤメと接触する必要があった。

 その機会に、今日この時間は最適だ。


「よし」


 ほかと比べて、派手過ぎはしないがきちんと装飾の為された特別な部屋。

 その扉の前に到着し、早速中に入る。


「…………」


 室内は薄暗く、テーブルに山積みにされた書類の中にも、応対用のソファーにも、アヤメの姿は見当たらない。

 けど大丈夫。留守じゃない。

 ツバサは今頃、宿舎のほうで銀髪の女子と食事をしているが、あの人は確かにここに居る。

 赤いカーテンの隙間から差し込む微かな月明かりを頼りに、俺は併設されたシャワールームとは別の部屋に繋がる扉を開けた。


 ――その部屋は滅多に使用されることがないため、この団長室の主とその側近しか知らない、仮眠室。 

 そこにオオトリ・アヤメは居る。

 追悼式が行われた、この四月二十四日の夜には。


「ああ~――――ぁ?」


 目が合った。

 優しい暖色の照明。小さな部屋に置かれたテーブル。その上には酒の入ったグラスといくつかの食事が並べられていて。そのうちの一つであるところの安い早い美味いで有名なハンバーガーに、ちょうど大口を開けてかぶりつこうとしていたジャージ姿のアヤメと、目が、合った。


「悪い、ノックするの忘れた……」


 言いながら俺は視線を逸らす。

 なんとなく、仕事に疲れたOLのやけっぱちな食事風景を覗いてしまったような感じがしたのだ。

 こういうのって俺が良くても見られた側は気にするもんだからな……。

 神澄も、男っぽいというか砕けた態度を取るわりには、結構細かいところ気にするし。


 なんにせよ、覗き見のようなことをしたことと、そもそも部屋に入る前の確認を忘れたことへの反省をして、軽く頭を下げる。

 するとアヤメは持っていたハンバーガーを包み紙に戻し、小さく咳払いをした。


「まあ、なんだ。……君も何か食べるか?」


「う、うす」


 思いのほか平然と言われたので、促されるままソファーの隅に腰を下ろす。

 うーん。この反応は……どっちなんだろうな。

 気にしているけど平然を装っているのか、それとも案外気にしてないのか?


「ならば君にはこの焼き鳥と……あとポテトもくれてやろう。ああでも参ったな。味の濃いものしかないのだが、対する飲み物がこの鬼殺ししかない。食堂から何か取ってこようか」


「いや、いい。いいです。このあとアウフィエルのバーに行く予定だから、そこで何か飲むよ」


「ああ、そういえば私たちも招待されていたな。妙な気を回されてお流れになってしまったが。殊の外繊細だ、あの天使は」


「かもな」


 天使アウフィエル。バーの店主で、口が達者で、相手を見透かすような、誑かすような目をしていて。

 どこか身軽な遊び人の雰囲気を纏っている男だが、意外なところで素直さが出る。

 いや、飾らない自分を出したいんだろうな、と思わせる顔が出てくるんだ。


「おい、口角を上げているが君もだぞ、トオミトウカ。私は別に、私のどのような姿を見られたとしても恥を覚えることはない。これでも昔は常に命を狙い、狙われていたのだ。覚悟はしているし、感情もある程度切り離せる」


「だからツバサも苦労するんだな」


 苦笑気味に言うと、アヤメはむっと眉根を寄せた。

 怒っているというよりは、痛いところを突かれて困った様子だ。


「……まあ今の立場上、あまり示しのつかない姿を晒すのは良くないと私も思ってはいるが……。とにかくだ。次ノックすることを忘れなければ、今回のことは不問にする」


「分かったよ。改めて謝る……悪かった」


「いい。偉そうなことを言ったが、私自身、相手を尊重するつもりでいて自省のほうが強くなってしまうことはある。これはもしかすると、大いなる車輪に圧し潰されし者たちの性なのかもしれないな」


 みな誰しもが、いつかどこかで傷を負っている。

 だからこそ時に臆病で、時に不器用で、己の立っている場所があやふやになってしまうのだろう。

 それでも心のどこかでは、遠慮なく頼られたり、土足で踏み入れられたり、物を言われることが嬉しかったりするのだが……。

 

 と、アヤメはそんなことをぽつぽつ言いながら、グラスを煽った。


 今日は、東区で発生した妖刀災害における死者を悼む日だ。

 ある者は慰霊碑に祈りを捧げ、ある者は月の冥府を見上げ、ある者は遺品を抱きかかえる。


 そんな日の夜。この都市を守護する者たちの長として、守れなかった者たちの長として……アヤメも少し、感傷に浸っているのかもしれない。

 なんとなく俺は、ソファーの背もたれにその長髪をばら撒いている、どこか無造作な彼女の姿を見て思った。


「さて――?」


 本題に入ろうか、とアヤメが目で告げた。

 それは逆境を跳ね除ける覚悟とも、絶望に付き従う諦念とも違う。

 もっと脆くて、でも柔軟な、そんな眼差しだった。


 何かを傷付け、何かに傷付けられ、強い酒を煽ってでも、時にへつらってでも、受け止めなければならないことはある――だから話すといい。

 そう言われている、感じがした。


「…………」


 悔しいことに、アヤメは俺たちとは少し違う。

 出会ってまだ三か月で、これまでもこの先も、俺の右腕について知ることはないだろう。

 伝えられることは限られているし、アヤメはこの先、不確かな言葉で多くのモノを犠牲にしなくちゃならない。

 それでも、だからこそ。俺が迷うわけにはいかないな。


 浅く息を吸って、俺は正面を見据えた。


「近いうちに騎士団は大きな打撃を受ける。その上でオオトリ・アヤメ――アンタには信念を、意地を曲げてほしい」


「ほう。意地ときたか。要するにそれは、私に課せられた使命、義務、責任。それらを裏切れという意味かな?」


 アヤメが声色を変えずに言う。

 俺の言葉を戯言と否定するのではなく、もっと大きな視点でモノを見定めようとしているのだろう。

 個人ではなく、騎士団長として。


 その重圧に負けてはならないと、俺も俺の内にあるすべてを懸けて言葉にする。


「そうだ。多くの犠牲を払うことになる。アンタを嘲る人も出てくるだろう。境界を超えてしまえば未来はどうしようもなく不確定だ。けれど、それでも――希望は遺せる」


「ふむ」


 口元に手を当て、考えを巡らせるアヤメ。

 沈黙。永遠のような静寂が場に満ちる。

 俺はじっと、アヤメの声を待った。


「……なるほど。とりあえず話は理解した。君の断片的な情報を脳内(ここ)で勝手に肉付けしたので、それが正しい認識と呼べるかは不明だが」


「充分だ。伝えられることは伝えた。アンタがそれを在りのままの心で受け止めることが、俺にとっても正解だ。……それで、返事は」


「悪いがこの場で答えを出すことはできない。君は子供で、迷いや恐れを抱きながらでも懸命に訴えるのが仕事だが……一応大人である私は、不自由の中で、答えの存在しないモノに答えを与えるのが仕事でな。しかしそれには――どうしても時間がかかる。待ってくれないことも多いが」


「……そう、だな。避けられない分岐点は確実に訪れる。アンタの答えはそこで聞くよ」


 言い切って俺は立ち上がった。そろそろ時間だ。


「行くのか」


「おう。これ、ありがたく貰ってくな。なんとなくアンタが食べていいモンじゃない気がするし」


 俺は先ほど差し出された、焼き鳥が入った包みを手に取った。

 アヤメのことだから他意はないのだろうけど、でも消えない炎を纏う不死鳥がこれを食べるなんて、どうも皮肉めいている。


「ふっ、好きにしたまえ。ではな、トウカ」


「ああ、またな。必ずだ」


 軽く手を挙げて、俺は部屋を、そして騎士団本部をあとにした。

 さあ、南区のバーに行って、クレハと出会わないと――。


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