17話『緋色の夜/宇宙より来たる狂気の波』
☆六月一日午後七時三分
厭忌が、そこにあった。
自己を喪失した人間と魔族がお互いを――否、同族であっても見境なく殺し合うという地獄。
それはこれまでオレが見てきたものと比べても、明らかに一線を越えた光景だ。
子供が大人に搾取される地獄ではない。
生命が怪物に鏖殺される地獄ではない。
これは尊厳を失った生命同士が、何かに取り憑かれたように息の根を止め合うという、滑稽で。
道具も魔法も、才能も勢力も、正義も意思も、何もかもが介在しない、戦争未満のごっこ遊びで。
つまりは……ただひらすらに吐き気を催す、不快なのだ……。
声に出したわけでもないのに、絞り出すように生まれた感想。
しかし、すぐさまそれは激情へと上書きされる。
だって今、この騒乱に唯一背を向けている人間を、この眼で捉えてしまったから。
オレは怒りのままに、元凶の名を叫んだ。
「――ッ、ツユリィィィぃぃ‼‼‼」
最悪だ。信じられないことだが、ツユリは魔眼による思考誘導を自力で克服したんだ。そしてリオンから譲渡されていた権限を使って花の魔法を発動させた、ということなのだろう――この事態は。
ツユリの復讐対象には人間も含まれているから、花は前もって人間側にも浸透させられていた。おそらくは食事に仕込んだか、薬物への予防になるとでも嘯いて摂取させてな。
ゆえに人間も魔族も等しくその価値を貶められ、破滅の引き金は引かれるに至った。と、集落の入り口――オレたちが乗ってきた馬車へと乗り込もうとしているツユリの後ろ姿を見て、そう確信する。
「ざッけんじゃねぇ。逃がしてたまるかよ――!」
確かあの馬車もとい木馬には自動警備システムがあったはずだ。けれどオレには、それがどの程度までの脅威を退けてくれるのか判断できない。
何よりあのツユリなら、どんな手を使ってでも馬車の奪取を成功させる……そんな気がしてならないから。
「――ッ‼」
炎を纏った緋光の翼を広げ、鮮紅の瞳にありったけの魔力を注ぎ込む。
ヤツはまだ何か手を隠している。そんな直感に突き動かされたオレは空を蹴り上げ、急降下。
落ちるよりも速く墜ちていき、地面に激突する直前で身を翻す。
落下から低空飛行へと移行――そして、光芒一閃。
すれ違う暴徒たちを再び魔眼で支配下に置きながら集落を縦断。
一直線にツユリのもとへ翔け抜ける。
そうしてゼロ距離まであと三秒。聖剣を右手に出現。居合の構えで待機。二秒。抜刀する。問題ない。聖剣の刃は届かないが、それが巻き起こす風刃は、衝撃だけで人間を無力化できる。一秒。風に煽られて地面に倒れ込むであろうツユリを確保するために減速する、その直前――壁が出現した。
物陰から飛び込んでくるようにして現れたのは、二体のライカン。
その恵まれた体躯とリミッターの外れた強靭さが、風刃の、吸血鬼の前に立ちふさがる。
「――クソッ、⁉」
まずい。オレは即座に翼を広げて空気抵抗を大きくし、さらに両足を地面に接地、どうにか急減速を開始する。どうだ、間に合うか――?
万が一にも激突して不死鳥の炎が燃え移ってしまえば、オレが炎を消すまでの束の間、その一瞬の間にも死に至るだけの火傷を負わせてしまいかねない。
それだけは何としても避けなければ……!
「ぐ、ッ――うぅぅ――!」
その一方で、澄み切った思考が視界に入った情報を冷静に処理し始めた。
すぐにも接敵するそれぞれのライカン。その腕が、力強く振り上げられているではないか。
無論その手には武器。片方は石を加工した斧で、もう片方は鉄製の剣――最初に訪れた使者から奪ったモノだろう――このままでは減速が成功したとしても、振りかぶったばかりの右手では防御が間に合わない。
ならばとオレは左手に二本目の聖剣を出現させ、炎を纏っていないそれを、逆手に持って頭上へと構える。
一秒未満の判断――そして、一秒後の交錯は果たされた。
「――ッ、は――‼」
減速、防御、共に成功……!
ライカンの攻撃が期せずして、オレの勢いを完全に殺し切る形になり助かった。
風を受け、何倍にも大きくなった炎の翼から、バチバチと火花が散っている。
その様はまるで劫火が罪人を抱擁せんとしているようだが、生憎オレは罪を裁くほど偉くなったつもりはない。
受け止めた石斧と剣を強引に押し退け、炎が燃え移る前に素早く一歩後退。
そのまま魔眼でライカンを射抜く。
「どけ!」
花の命令に上書きされた思考誘導を、上書きし直す。
再度ツユリが命令を下した場合にどうなるかは不明だが、とりあえずはこれで、大人しくなるはずだ。
それぞれ道を開けたライカン。ならば次は。
瓦解した壁の向こう側――馬車に乗り込む直前のツユリに悪魔の視線を注いだ。
「――待ちな」
「……………………」
ツユリの動きが止まり、じろりと眼だけがこちらを向いた。
一途であるのと同時に混沌でもある、薄気味悪い眼差しだ。
改めて視てもやはり、この女に常識や理屈なんてものは通じないと分かる。
魔眼を通して覗いたツユリの内側には、何もかもが渦巻いている。
だからだ。だからこそ思考誘導は突破された。
端的に言えば、「身体を動かしてはいけない」という風に思考を誘導しても、それはそれとして「復讐を果たすためには身体を動かさなければ」と考える、真反対の思考が同居しているのがツユリという存在なのだ。
ゆえに、人格をふたつ以上有しているのとは似て非なるが、常に矛盾を抱え込んでいる状態だからこそ、魔眼による指向性の付与を相殺できてしまうのだろう。
まったく……つくづく人間って生き物は、時として悪魔すら超えてしまう。
しかしそんな混沌の嵐の中にも、決して潰えることのない光は存在している。
「待て、なんて言わずに魔族の力で殺せばいいでしょう。それができないなら、これ以上邪魔をする理由がどこにあるの? それとも聖人でも気取って私さえ救いたい? だったら、出逢うのが少し遅かったみたいだけど」
「――――」
ツユリは正しく理解している。
この計画が、もう完全に破綻していることを。
ああそうだ。今の中央都市では、アヤメさんが守っているあの町では、ツユリの描いた戦争など実現するはずがないんだ。
事件の情報は徹底的に精査される。でっちあげられた真実など簡単に崩れ去る。
百歩譲って仮にそれが通ったとしても、誰かに扇動されるほどの、魔族全体への一方的な差別や嫌悪を、オレがこれまで見てきた人たちは抱いていただろうか。
答えは――否だ。
時代は進み、価値観は進み、感情はもっと細分化されている。
ゆえに大規模な種族間戦争など、起こるはずもないだろう。
というか多分、そもそもツユリは、中央都市に辿り着くことすらできない。
今その手に持っている魔石はおそらく、オレたちが持ち込んだモノ。ならばこの集落に来るまでに使用し、そしてまだ充電されていないはずのその魔力量では、紅い月光を一晩凌ぎ切ることはできない。
道中で月明かりを浴びて狂い、自死衝動に駆られて……というオチは、目に見えている。
もう一方の目的についても同じくだ。
この集落の人間と魔族を滅ぼすということさえ、この時点で多数の死者は出てしまっているが、完璧に果たされるとまではいかないだろう。
生き残る見込みのある者は多く、時間をかけて治療をすれば、彼らは再び日常を取り戻すことだってできるはずだから。
しかし、それらを寸分違わず理解しながら、それでもツユリが止まらないのは――最後まで復讐に準じた自分のまま終わりたいと思っているからだ。
復讐に命を燃やし尽くすことで己の、何より夫の死が無意味ではなかったことを証明しようとしているからなのだ。
それこそがツユリの、決して潰えることのない光。
目的が達成されないとしても、世界を変えることができないとしても、そこがゴールだと受け入れられる。それだけで遺せるモノがある。
だからどんなに無駄だとしても、途中で投げ出すことはできない。
そしてその起源は――これ以上生きたくない。楽になりたい。消え去って解放されたいという、あまりにも残酷で純粋な願いで。
ということは、やはり死だけが救いになってしまうだろう。
ツユリはもう、妖刀という災禍に飲まれたシンジョウと、同じところまで行き着いてしまっている怪物だ。
そしてあのとき怪物と対峙したオレは、殺すか殺されるかでしか決着を付けられなかった。
だからオレはヤツを灰にした。が……今回は必ずしもそうしないといけないワケではない。
オレはツユリを殺してでも救いたいわけではないし。
救いたい気持ちはあるが、殺したいわけでもない。
ならば確かに、救うための手段はなく殺すだけの理由もないだろう。
なんだけどさ。それでもオレには、止めるだけの理由はあるんだよ。
それを確認するために、自分自身に突きつけるために、オレは揺るぎない視線を向ける。
「一応聞いとくが、やり直すつもりとか、ほんの少しもねえんだよな?」
「はぁ……いい加減、もう……逝かせてくれない?」
この耳で、この瞳で捉えたその言葉は。
復讐鬼の何も誤魔化さない本音のようだった。
「そうかよ」
――花のような笑みを浮かべた、女の子がいた。
彼女が叶えられなかった夢を叶え、やり直すことができたのは、幸せになることができたのは、決して譲れないモノを最後まで手放さずに戦ったからだ。
きっとツユリにとってはそれが復讐であり、破滅への欲求なのだろう。
だがもし、もしもその矛盾塗れの混沌の中に、生きたいと願う意思がほんのひと欠片でもあったのならば。
オレはその手を掴むだけの努力をしたんだろうが……。
まあ――無いなら、仕方がない。
「悪いが、やれるだけやってみるって言っちまったもんでな。オレはできる限り、オレの力になってくれたヤツの味方でいたい。アンタを見逃すと報われない命があるんだ。だから――いやまあ、それはそれとして、こっちも本音なんだけどよぉ」
どれだけ醜くても、自分勝手でも、踏みにじってでも。
「――アンタがこのまま死んだら、ちょっと綺麗すぎだ」
正義や大義ではない、オレ自身に宿った、自我として。
「なんかそれはムカつくから。やっぱり、オレはアンタを止めるよ」
「………………チッ」
吸血鬼による宣戦布告。それを、解脱に至るため克服しなければならない最後の試練だと理解したツユリは、舌打ちをして身体を動かした。
それはすぐ目の前、あと一歩で中に入れる馬車への駆け込み、ではなく。
むしろ真逆の、追跡者であるオレへの飛び込み。
「――――ッ」
当然、オレはそれを避けるために後退し、翼を使って空中へと移動する。
不死鳥の炎を纏った状態で誰かと接触するわけにはいかない。ツユリは先ほどの、オレのライカンへの対応を見ていたからこそ、そんな行動に打って出た。
その結果生み出された一瞬の隙、ツユリが求めたのはその刹那。
オレへの突撃が空ぶりに終わって勢いのまま前転したツユリは、着地の間際に水泳のターンみたいにして転身。動きを止めないまま馬車のほうへと向き直り、陸上のクラウチングスタートに近い体勢で駆け出す。
「動け!」
ツユリの叫びに応じて、木馬に絡みつくように荊が顕現する。
魔力の光に照らされて不意に、木馬の胴体に赤がこぼれているのが見えた。
なるほど。どうやらツユリがアレの自動警備システムを無効化できたのは、リオンから採取していたのであろう血液を媒介に、花の魔法を使ったかららしい。
集落の外へと動き出す馬車。
それに追いつくために力強く大地を蹴り上げるツユリ。
だが既にその思考は、意図は――悪魔の瞳が眼下に収めている。
「させっかよ!」
両手に聖剣――《オース・オブ・シルヴァライズ》と、《ナイト・メア・アタラクト》を顕現。
二振りの刃を吸血鬼の腕力で、車輪に向け投擲する。
短い風切り音を立て、馬車の後輪に突き刺さる刀身。
これで馬車の走行は不可能になった。が、まだだ。ツユリの逃走経路はまだ終わりじゃない。
馬車でもその両足でもこの集落から出ることが叶わないというのならば、復讐鬼に残された最後の手段は、最後まで抗ったのだと言える手段は。
「ぁぁ、あ――――」
隠し持った魔石を飲み込んで、体内に取り入れてしまうこと。
紅い月光を防ぐために必要なパーツを奪ってやることだ。
《支柱》が展開できなければ住民は死ぬ。もしそれで魔石が喉に詰まり窒息死することになっても、魔石に宿った魔力が体内に致命傷を与えても、復讐対象を道連れにできるのなら本望。というのがツユリの思考回路。
しかし同時進行する無数のラインからその考えを見切っていたオレは、三本目の聖剣――《ディレット・クラウン》を左手に、空想の具現化を実行していた。
「《幻想の魔弾》――架空属性を氷に設定」
右手に創り出した拳銃を構え、魔弾装填。
「そのままッ!」
引き金にかけた人差し指に力を入れる。
銃口から放たれた氷雪。それらは魔石を掴んでいるツユリの右手を起点に着弾し、氷柱を形成。その半身を飲み込むようにして拘束に成功する。
「ッ、く――――⁉」
《幻想の魔弾》は元の術者の記憶曰く、無いモノを有ると言い張り虚像を生み出す魔弾だ。
架空である以上、本物より強度は劣ってしまうが……加えて《血識羽衣》の詠唱を省略しての魔術行使であるため殺傷能力については期待できないが、実行そのものは見ての通り可能。
行動を阻害することだけが目的ならばむしろ、その威力の弱さはまさに最適。
「ふぅ……」
これにてツユリの目的は阻止され、ヤツにはこれから法の裁きとか諸々のツケが――、
「まだだ! ツユリはまだ魔石を隠し持っているぞ!」
「はぁッ⁉」
背後から聞こえたベル先生の声。それに反応したオレは一瞬、思わず振り返ってしまい。リオンと共に集落に到着し、洞窟で回収したのであろう魔石の入っていない《支柱》を携えたベル先生を目視する。
それからすぐにツユリへと視線を、そして銃口を戻したものの、時既に遅し。
ヤツは拘束の及んでいない左手を使い、手のひらで包めるサイズの魔石を苦しそうに、しかし不敵に、喉奥へと無理やり押し込んでいた。
「あ~もうッ、往生際が良いのか悪いのか――!」
ツユリのヤツ、魔石を飲み込むという大雑把な思考で、二つ目の魔石の存在を隠蔽してやがった!
またも一杯食わされた。そんな焦りを浮かべるオレを見て、正確には宙に浮いているオレではなく――そのさらに向こう側に浮かぶ月を見て、ツユリは恍惚とした表情を浮かべた。
それが時間切れの合図。
ツユリの瞳には――紅い月が反射していた。
「――まずい。来るぞクレハ! 宇宙から狂気の視線が!」
魔石を飲み込んだツユリがどのような変化を見せるか、呑気に見届けている暇はない。
体内から摘出している時間も、氷柱の中に閉じ込めた魔石に魔力を籠めてから、《支柱》にセットしている暇も。
だが焦るな。落ち着け。答えは既に、止水の境地にあるオレの思考が導き出している。あとはそれをなぞるだけ。
「《支柱》だ! それ投げろ先生!」
「ッ――ああ! 本家に倣って炎を燃料にだな!」
察しが良くて助かるぜ。ベル先生は瞬時に《支柱》の出力調整を済ませ、それを燃え移る人や家屋のない場所へと放り投げた。
それに対してオレが、聖剣を一振りして炎を飛ばす。
《傘》がアヤメさんの炎、ひいてはその魔力を燃料としているように、オレもまた魔石代わりの燃料として《支柱》に不死鳥の炎を与える。
そうしてランタンに火が灯った。というより炎がランタンを包み込んだ。
一瞬、《支柱》として作られた以上、耐火性能などで《傘》より劣るかもしれない可能性が脳裏をよぎったが、そこは杞憂で済んだようだ。
何事もなく術式は発動し、結界が展開。
集落を覆えるほどの範囲で、空に半透明の膜ができあがった。
「……魔力防壁、展開完了。ふん……紅い月がアンタの最後の凶器だったのかもしれねえが、それも終いだぜ」
オレの魔力量がアヤメさんと比べてどれぐらい劣ってるかは知らねえが、一晩……は無理でも感覚的には二、三時間は余裕そうだ。
まあその間、全身を包む炎は当然少しずつオレ自身をも燃やしているわけだが、ロケットの保護機能で服は守られてるし、傷も再生する。
魔石の準備さえ整っちまえば、すぐにも炎は消していいわけだしな。
とりあえずはこれで――と、場が落ち着いたところで、逸れた意識を戻す。
「……ツユリは……?」
目をやると、ツユリの側にはベル先生とリオンが居た。
どうやら魔石を飲み込んだ結果、意識を失ったらしいツユリの容体を確認しているようだ。
それなら拘束は邪魔だろうと、氷柱を自壊させる。
「様子はどうだ、ベル先生」
「そうだな……とりあえず生きてはいる。ツユリは魔的耐性が薄い一般人だが、残量が少なかったからだろう、魔石の魔力が一気に溶け出していわゆる過剰摂取の状態に陥る、なんてことにはなってない。今はある種のカルチャーショック中といったところか。呼吸困難にもなっていないから、外科的手術で魔石を取り出せば――」
ツユリは生き長らえ、法の裁きを受け、罪を償う機会を与えられるだろう。
と、そんなことを言おうとして顔を上げたベル先生と、目が合う。
視線が重なって、そして、心底驚いたように目を見開かれた。
「く、クレハ……キミは……炎はどうした?」
「――――――――は?」
何を言っているのか理解できなかった。
だがすぐに熱が消えたという感覚が、オレの胸を貫く。
それは身体を覆っていた炎が消えたという意味での、熱の消失ではない。
「――――あ、え?」
オレが纏う炎は体内にある不死鳥の血液を媒介にして借り受けたものだ。
そして不死鳥の炎には、使用者が死ぬことでしか消えることはないという制約がある。
そこに《血識羽衣》の法則を持ち込んだところ、使用者の定義はオレ自身と、さらに元々の炎の使い手に設定されていて。
だから、つまり、オレが生きているのに炎が消えたということは。
この炎を貸してくれていた不死鳥の眷属、アヤメさんの部下であるツバサが。
あの優男のほうが。
今この瞬間、何らかの要因で死んだということだ――。




