15話『間違いなら、レッドインクで塗り潰して』
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魔族の住民すべてに麻薬が浸透したタイミングで、反魔族派の人間があることをツユリに進言した。
それは私という魔法使い――人間社会における異分子を、用済みと判断して処分するべきだという意見だった。
あの人は多分、愚か者がまた馬鹿馬鹿しいことを考えて、なんて思ったのだろうけど。その辟易を顔に出さないまま冷静に、あの人は私の利用価値について説明をした。
というのも、私が生成する麻薬を魔族に投与することは、一度行えばそれで終わりではなく、今後も定期的に続ける必要があるのだ。
なぜなら一度の摂取で中毒状態に陥る麻薬とはいえ、いやだからこそ、時間が経ち代謝で成分が体外へと排出されたあとの摂取者には、酷い禁断症状が訪れる。
そして、薬によって自我が薄まっている摂取者では。
――どうあってもその禁断症状には抗えない。
問題はそこだ。
特別な麻薬がもたらす、絶対に抗えない離脱症状。
薬の切れた魔族を必ず支配する、第二の脳内麻薬。
それがもたらすのは厄介なことに。
紅い月光を浴びたときと同じ――自殺衝動なのだから。
禁断症状に陥った摂取者は、麻薬によって書き換えられた脳に幻覚を見せられ、最後の枷である魂を放逐、さらには過度の発汗や多臓器不全、全身の筋肉が崩壊していくような激痛が発生し――結果、それらすべての苦しみから一刻も早く楽になるためだけに、身体を動かすようになる。
生きているだけで、存在しているだけで、苦しいのなら。
楽になるための自殺は――きっと唯一で、確実なモノで。
ゆえにそれは周囲を巻き込んででも、何としてでも実行され遂行される。
少なくとも最初で最後の実験体であったリベリオからは、そういったデータが取れていた。
さらに種族によっては闘争本能が極限まで高まったり、狂暴性が付与されることも全然有り得るだろうという話。
つまりそれは――現時点では絶対に避けるべき事柄なのだ。
今魔族に死なれるのは、戦争の火種を作る前に盤面に必要な駒を失うことでもあるし、何より紅い月光を防ぐ手立てを失うことでもある。
どうしようもない外的要因に奪われるならまだしも、それを自らの手で捨てるのは愚の骨頂だ。自分で自分の身を守れない以上、目的を達成するまではプライドを捨てろ。
そうあの人は言っていた。
本当に譲れないモノさえ守り通せば、望む未来はいつかきっと掴める、と。
それを、私に対して情が湧いたのではないか、と指摘する声もあったが……そんな意地を張った、あるいは覚悟を示したあの人を見て私は、自分に対して情があるから生かされた、とは思わなかった。
ともかく、反魔族派を説き伏せたあの人はその後、勝手に暴走――独断で私を殺してしまうなど――する人が現れないよう、私をある種の信仰対象として扱うように指示した。
無論それは形だけで、単に魔族の殲滅が果たされるまでは機嫌を取ってやれ、みたいなニュアンスではあったが、結果として決まり事となった偽りの祈りは、皮肉にも私の魔法行使の助けになってくれた。
もしかしたらあの人はすべてを見抜いていて、そうしたのかもしれない。
最初に花畑を赤く染め上げたときのように。
後に行った使者の迎撃や、この場所への侵入者を拘束したときも同じく。
彼らが祈り、望んでくれたからこそ私は、魔法を使うことができたのだから。
けれど、そうなるとだ。
不意に――私の内にとある疑問が去来する。
私はこの頃になっても未だ、身体を自由に動かすことができなかったのだが。
今更ながらどうして私は、そんな状態で魔法の行使のみが可能なのだろうか、という疑問だ。
いや、正確にはそうじゃない。
先の答えを私は……自我の不足している私という器を他者の願いが満たして、ひとつの装置として利用しているからだと、自然とそういう風に理解している。
薬で自我を失った魔族を操っているのと仕組みは同じだ。
つまり身体を動かすにしても魔法を行使するにしても、願い、意思、自我といった要素は必要不可欠で。
それを他者に望まれたからこそ、自我の補強と指向性の付与を受けたからこそ、私は魔法の行使ができている。
ならば私の内に去来した、未だ解のない真の疑問とは。
自我を補助してもらわなければならない私はまだ、自己の定義が不充分なのではないだろうか、という問いかけ。
そしてそれが、身体を自由に動かせないことに関係しているのだとするなら。
私は――集落に訪れた破滅の化身。終わりの象徴。
それ以外の何者でもなく、それ以上は何も求めていない、はずだけど。
それで不充分だというなら、もっと完全な、納得できる答えがあると思った。
そうだ。
私は、あの人から与えられた存在理由に、疑問を覚え始めていたんだ。
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麻薬が浸透し魔族を支配下に置く――その直前。
中央都市から、一通の書状が届いた。
そこには紅月症候群の現状と《支柱》の設置について記されており、あの人はもうじき訪れる使者を、戦争の火種のひとつとして計画に組み込むことに決めた。
本来であれば中央都市の人間の殺害は、魔族に住民を殺させ、それをあの人自身が政府に報告し、世間への印象操作をした後に……という段取りだったが。使者の来訪は避けて通れない以上、計画を前倒しすることにしたのだ。
夫の殺害。人間の住民の殺害。使者の殺害。
まあ減った命が多ければ多いほど、世論は動かしやすくなるだろうと、あの人は考えた。
けれどそれは、ひとつの誤算を生んだ。
冷静に考えてみれば当たり前の話なのかもしれないけど。中央都市が寄こした使者はいわゆる魔術師で、都市の外に出られるほど戦闘経験を積んでいる手練れで。
食事に盛られた麻薬にも、魔族による奇襲にも、あの二人はそれなりに対処してみせたのだ。
そうはいっても、私の魔法を完全に無効化することはできず、最終的には魔族を使った物量作戦でその命を散らしたのだが……しかしこの花畑で二人目の殺害が果たされた時点で、使者到着から五日の時が経とうとしていた。
まさしく孤軍奮闘。
あの魔術師たちは、いつか救援が来ることを信じて最後まで戦い抜いた。
想定日数を過ぎても使者が帰還しないという事態に、お城のお姫様という人がその異常を察知し、何かしらの手を打ってくれるはずだ、と。
そして、使者の命を取りこぼしはしたが、しかし確かにお姫様は動いたのだろう。
五日目の夜、あの人は念入りに戦闘の痕跡を消していた。
万が一にも第二の使者が来訪して鉢合わせることのないように。
そんな名目で奪取した《支柱》と共に人間を山窟内に押し込み、魔族とあの人のみで作業は行われていた。
それが何とか終わった六日目の朝。
計画の次の段階――いつ人間を皆殺しにするべきかを考えていたあの人は、目撃したのだ。
新たに訪れた使者。灰銀の髪の子供と、金色の髪の少年の到着を。
あの人は逡巡したのだと思う。再び使者を殺すか、それとも目の前で魔族を暴走させて人間を襲わせるか。
どちらがより大きな破滅へと繋がるか考えて、そして。
やはり使者を殺すことを選んだ。
“魔族が急に人間を襲い始めた”のと、“魔族が使者共々人間を皆殺しにした”では、後者のほうがより嘘を真実にできると決断した。
その結果、花畑には侵入者がひとり、磔になって。
でもその子は怖いほど、あるいは安心するほどに死んでくれなくて。
君を笑顔にするためにやってきた。そんなことを子供の顔で、大人のような微笑みを浮かべて言ってみせた子供は。
囚われた荊の中で――唄を、歌う。
それは子守唄。新たな生命を、その誕生を祝福し、この世界に存在することを賛美する赦しの声。
笑顔のために、安らぎのために届けられた真心で。
私を母親から産まれた赤子として扱っている、奏でだ。
破滅を目前に控えたこの身に、それが最後の微睡みをもたらす。
夢見心地な意識の中。ふと、あの疑問が巡り巡ってきた。
この身は来たるべき破滅が形になった存在。
終わりを招き、届け、迎えるモノのはずなのに。
でもならば、こんなことをされて、心地良さを覚えてしまう私は何なのだろう。
やはりあの人がくれた存在理由が不完全だったとして。なら完全で正しい答えは? この身体を動かすのに必要な最後のピースはなに?
――――――分からない。
いや、予想自体はついてる。
だけどもし、本当に心の奥底ではそう思っていたとして。
そうする意味があるのだろうか? 権利があるのだろうか?
だって私は――母が私を産みたくて産んだのか、分からない。
あの日、あのとき、母が花を食い散らかして自死を選んだのは、自らを地獄から解放するためだったかもしれない。無論、私が生き残るという微かな希望に手を伸ばしたのかもしれない。あるいはほかの何かを守るためか、その身をもって復讐を終わらせるつもりだったか。
それらすべての感情はきっと共存可能で。どれかひとつだけしか抱けないなんてことはなくて。
でも、だけど。どの感情がその選択へと母を導いたのか、私の頭の中にはその情報が引き継がれていないから。
だから今ここに存在している命が望まれたモノなのか、望まれてないモノなのか。この心臓が動いているのは正しいことなのか、間違っていることなのか。
……その答えが、出せないんだ。
ああ、誰か教えて。
始まりからして間違いだったあの集落は。
そこで起きた悲劇が産み落とした、命は。
やっぱり――間違い、なのかな?
だとするなら、この命はここでこのまま。
子守唄が途切れた。足音と、花を一輪摘み取る音がした。
私が何を考えたところで、あの人はもう止まらない。
計画の歯車が狂い始めていることを理解してなお、それでも迷いなく往くのだ。
きっと、もうひとりの使者を殺すために――。




