12話『そのレッドデーモンは泣かない』
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かつて魔族は、人間を支配していた。
だがそんな混沌の時代は、騎士団長オオトリ・アヤメによって覆され。
その結果、人間による存在の認知が、魔族にとって必要不可欠であることが周知の事実となった。
それからとある事件をきっかけに、一度、魔族は人間に屈服した。
その力関係が、完全に逆転する事態が発生したのだ。
存在そのものを人質に取られ、反撃が許されない立場となった魔族。それを自業自得と嗤った人間は、魔法も魔術も使えなかったただの人間は、その辺に転がっていた石を拾い、武器とした。
報復。復讐。差別。加虐――それらに耐え切れず、中央都市を出奔する魔族はそれなりにいた。
お伽噺に出てくるような幻想的で空想的な存在は、道端の石ころという現実に嬲られ、打ち砕かれてしまったのだ。
あの頃の中央都市で上手くやっていけた魔族は、人間にとって有用となる存在、つまりは自分たちの代わりに働く奴隷や、娯楽を提供してくれる悪魔ぐらいなものだった。
中でもあのサキュバス……ネオスタァとか喧伝していたアネモネなんかはよくやっていた。
実力で己を認めさせるとは、まさにあのことを言うのだろう。
道化を道化と思わせない何かが、あの悪魔にはあった。
とはいえ私だって、一応は魔族の端くれだ。
魔法はそこそこ得意だし、精霊を視ることだってできる。
だからそれを利用して一芸開発してみるとか、あるいは学院の先生になってみるとか……失墜していく多くの魔族の中でも、私の歩める道は多いほうだったとは思う。
けれど残念。私はあの圧倒的な人の群れの中で、いち歯車になることも、マイノリティである自分を誇示し続ける精神力もなかった。
多分こういうのを、社会不適合者というのだろう。
……いや、あのときは社会のほうが狂っていたから一概には言えないか。
だけどともかくとして、激しい向かい風が吹きつける暗闇の荒野のような逆境の中に、私は希望を見出すことができなかった。
だったらいっそ魔族弾圧の風潮が弱まるまで、つまりは今の人間の世代が入れ替わり価値観が変動する五十年後か百年後あたりまで、野山の中で自然と一緒に暮らすほうが自分の肌に合っていると思った。
たとえこの世界での認知が弱まり、存在が消えることになったとしても、だ。
そうして私は都市を離れ、草原をひた歩き、その果て。
導かれるようにして、この場所へと辿り着いた。
最初に居たメンバーは三人。
力自慢で明るいお調子者ライカンのデヴァ。
頭は良いけどちょっと面倒な性格してるリザードマンのリベリオ。
いつも羽と爪の手入れを忘れない面倒見のいいお姉さんハーピーのピルコット。
私は彼らと話をして、すぐに意気投合。ぶりっ子系腹黒妹キャラのシーぺとして、メンバーの一員となった。
そんな風にして共同生活を送ることになった私たちは、慣れないながらに畑を耕したり、食料調達のために道具や罠を考えたり、種族の差を確かめ合いながら男女の仲を育んだりした。
先のことなど考えず気楽に……悪く言えばどこか投げやりに送るスローライフ。
そんな楽しくて空っぽな時間はあっという間に過ぎていき、数年が経った頃――シンクという新参者が現れた。
彼女は鮮やかな赤髪を持つ、女の私でも見惚れるほど綺麗な魔法使いだった。
草原を吹き抜ける爽やかな風に、ゆらりふわりと髪を靡かせながら佇んでいたその姿を、今でも忘れられずにいる。
彼女は魔法使いかつ人間でありながら、私たちと同じく都市を出奔した身だった。
本人曰く、どうやら魔族弾圧の風潮は、人間の魔法使い狩りへと発展することがままあったらしく。
私の場合は美人過ぎるのが仇になったんだ、と自身にまつわる美丈夫たちとの噂話を、シンクはお酒を片手に笑いながら話してくれた。
誑かされた恋人持ちの男と、誑かした魔性の女の話。
その中のひとつやふたつは噂じゃなかったかもね、とも。
そんな竹を割ったような性格の彼女が、私たちと打ち解けられないはずもなく。
滞在一日目の夜には全員がシンクを、新たに共に暮らす仲間の一員として受け入れていた。
ああ、魔族だけの小さな箱庭に人間が加わった瞬間だ。
ほんと。結果から言えば、それは間違いだった。
私と彼女はその後、それはもう仲を深めて、お互いを姉妹のように思うほど好き合ったから。
だから余計に思ってしまう。
もしもあのとき、風来坊だったシンクをこの地に引き留めてさえいなければ……たまに立ち寄ってくれたときは歓迎する程度の距離感に留めていたら……あんなことにはならなかったかもって。
どうして分からなかったんだろう。
親から愛を与えられなかった子供が、自分の子供の愛し方を理解できないように。
群れに馴染めなかった私たちが――魔族という括りの中だけでも埋まらない価値観があるというのに――異種族である人間と、さも仲良くできるかのように振舞うなんて。そんなの絶対、長続きするはずがないのにね。
けれど仕方ない。未来のことは考えないようにしていたし、過去のことだって変えられない。
命と命が触れ合う以上、どうしても抗えない流れとでもいうべきモノは生まれてしまうのだ。
それは運命とは別口の、引力のような、そういった命の奔流――。
同時にこの世には、誰が決めたわけでもないのに、これは確実に間違っていると心で感じてしまうモノがあって。
それはいつか、何らかの形で崩壊し、正される仕組みになっているのだ。
つまるところ、魔法使いとはいえ人間であった彼女をコミュニティの中に迎え入れてしまったことが、間違いの始まりで。
やがて来たる破滅のきっかけとなったのは――アレなのだろう。
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シンクを迎え入れてから十数年の歳月を経て、この地には集落が形成されるようになった。
住民の七割は人間。それも、魔法や魔術を使えない一般人だった。
どうしてそんなことになったのか。
原因は、かつてこの地に流れ着いたひとりの男にあった。
男は怪我をしていた。事情を尋ねたところ、男はいわゆる人権派として、人間を支配していた魔族を批難しつつも、魔族を徹底的なまでに屈服させようと息巻く世論を、是正するべきだと主張していたらしい。
するとどうだ。同類であったはずの人間は、彼を家畜以下の害虫のように見下しては、排斥の姿勢を取った。
男は怪我を負わされた。そして命からがら都市の外に脱出し、奇跡的にこの場所に辿り着いたというワケだ。
私たちはそんな男の境遇に同情し、男に危害を加えた者たちと同じ立場になってはいけないとした。
ゆえに傷を治療し、療養させ、男が元気に旅立っていく背中を笑顔で見送った。
その結果。中央都市に戻った男が、とある噂を広めたのだ。
中央都市の外には、魔族と人間が共存する小さな楽園がある――と。
楽園――そんなもの蓋を開けてみれば、群れからはじき出された落伍者たちの集まりでしかなかったが、その噂は男のような人権派が立ち上げた団体の中でお伽噺のように語られてしまった。
するとこの地には、世論に押し潰されて居場所を失ったただの人間たちが、少しずつ身を寄せるようになったのだ。
なんて、今となってはそれを後悔すべきことのように語ってはいるけれど。
当時の私たちは全然まったく、それを拒む気持ちはなかった。
人間の中にはシンクのような気の合うヤツもいると学んでいたし、魔族との共存を望んでいた人権派なら、対等な関係が築けるとも思っていたのだ。
それに何よりも――私たちはたった五人だけの生活に、僅かながらの寂しさを覚えることがあったから。
人間を受け入れたという前例は新たな人間を迎え、何年かに一度は魔族が流れ着くこともあり、少しずつ着実に、この集落は集落となっていった。
以前よりも騒がしくなっていく日々。
私はそれに対して、これが集団の中で生活する素晴らしさなのか――なんてどこか社会復帰を果たしたような清々しさを抱いていた。
けどやっぱり、根がそういう感じなのか。
私はいつからか、ある危機感を募らせるようになる。
というのも、集った住民は全部で――四十二人。
それはもう、四人とか五人で暮らしていたときよりもずっと多い数で、正直ふたりきりになると世間話すらまともにできないヤツも居て。
住民が増えるごとに書き直す看板。大きくなっていく数字を見るのは間違いなく心が躍った。踊っていた。
でもそれに比例して、分からない感情が増えていく。理解できない価値観が増えていく。面倒が積み重なっていく。
人間から哲学を説かれたリベリオが書き足した、オントロジーという言葉に従って、私は私なりに魔族と人間の在り方ついて、難しくも前向きに考察し続けたけれど。
魔族が好んで食べる山菜が人間には毒になったり。
死者を土葬するか火葬するか、獣に食わせてそれを己で喰らうかで口論になったり。
建物や家具の大きさ。ちょっとした習慣や習性。共同生活をする上で、ひとつずつ丁寧に擦り合わせて、妥協して、受容していくはずの価値観の差。
それを埋めることが、どんどん、どんどん追い付かなくなっていって。
生命と生命の間に発生してしまう見えない毒のようなモノが、私だけじゃなくほかの魔族や人間たちの間にも、漠然と浸透し始めた頃。
新たに迎え入れた住民たちが都市外での生活に慣れて、余裕が出てきた頃のこと。
その夜。見えない毒は、破滅の予感は、不可逆の亀裂へと変化した。
――それは、ただの余興だった。
日頃の鬱憤を晴らすべく計画した酒の席。
人間の男たちは力比べをしようと、腕相撲を始めた。
樽の上の小さな小さな戦争。
それが小一時間ほど続くと、集落の中で一番腕力のある男が決まった。
そして男は酒と勝利に酔ったまま、ライカンであるデヴァに挑戦状を叩きつけた。
当然、デヴァを始めとした魔族は苦い顔をした。
男は確かに集落の中で一番の腕力を持っていたが、それはあくまでも人間という枠の中でのこと。
文字通り格の違う、ライカンのデヴァとの力比べなど、結果は始まる前から目に見えていた。
ゆえに魔族は人間同士の勝負に直接関与せず、勝敗で賭けをするという楽しみ方をしていたのだが。
しかし男が煽るうち、周囲がその度胸を買い、デヴァは仲間内から背中を押される形で勝負に乗った。乗ってしまった。それを止める者はいなかったし、止められる者もいなかった。
全員が酔っていた。酒に、場に、熱気に。
共存が許される楽園に居るのだという安心に。
結果――デヴァは朗らかに笑いながら、男の腕を粉砕した。
肉が千切れた。骨が壊れた。血が弾けた。
それはもう、どうしてまだくっついているのか分からないほどの損壊ぶりだった。
すぐに正気を取り戻したデヴァは、己の行いを悔いながら誰か手当てをしてやってくれと必死に叫んだ。
けれど男は、魔法による傷の治療が間に合ったにもかかわらず死んだ。
シンクの見立てによれば、腕を破壊された時点でショック死していたらしい。
周りの人間は酔いを忘れ飲み直した。
故意ではない殺人が、自分の身に降りかかる可能性を片っ端から想像し尽くしていた。
一部の魔族はその光景を見て嗤った。
スポーツの試合で野次でも飛ばすように、あるいは殺人を誤魔化すように。
そうしてお互い、思い出したんだ。
たとえ自らが経験していなかったとしても、魔族は過去に人間を支配していたのだと。
それができるだけの、種族としての絶対的な性能差があるのだと。
平等は、静かに崩壊した。
人間は己の生殺与奪が魔族に握られていることを理解し。
魔族は人間の生殺与奪がこの手にあることを重く感じた。
恐怖心と庇護欲を向け合うようになって私たちは――お互いを平等で、対等な命だと思わなくなったのだ。
一度転がり始めた石は止まらない。
男の死をきっかけとして、次に起きた出来事。
それは――復讐だった。
誰もが寝静まった夜。死んだ男の妻がとあるライカンを襲った。
そのライカンとはデヴァの恋人で、要は自分と同じように大切な人を失って、仕方のないことだと慰められたらいいというのが動機だった。
だがデヴァの恋人は、その闇討ちをあっけなく返り討ちにした。
元からそういった予感や警戒を抱いていたのか、それともやはり生物としての性能差が油断をものともしなかったのか。
少なくとも妻は後者だと思った。
だからこそ、用意した果物ナイフを失うだけで済んだ妻は、それだけで済んでしまったあの女は、もっと強い武器が必要だと考えた。
そのためにまずは、デヴァとその恋人に和解を持ち掛けた。
復讐に失敗したから集落を出るとかそのような考えはなく、確実なる次を作り出すために妻は、仮面を被って偽りの平和を取り戻そうとしたのだ。
提案を受けたデヴァたちは、妻を不問とした。
無論、誰もがそれを心からの和解だとは思っていなかった。が、そのとき既に魔族全体には、“人間とは弱くて脆くて、ひどく気にかけて時として管理してあげなければならない存在なのだ”という考え方が広がっていたから、やり直しの機会が与えられた。
理解している。それは強者の傲慢だ。
再び何か問題が起きたとしても、どうせ力で捻じ伏せられるからと言っているようなものだ。
そんな態度が透けていた魔族側の姿勢。
妻は屈辱を覚えながらもそれを利用し、親しい人間たちを中心に、水面下で反魔族の価値観を広めていった。
最初は魔族に対する憎しみを乗り越えたいという相談話から始めて。
――魔族は人間をペットか何かだと見下している。シンボルのように扱い、対等に見てはいない。いつか自分たちもタガが外れた酒の席で、嘲笑の元に殺される。
と、こんな風に少しずつ、猜疑心を植え付けていくという手口。
それは皮肉なことに、種族間の差別など乗り越えられるはずだと、一度は信じていた人間たちだからこそ、効果的に作用してしまい。
かつて人権派団体に所属していた人間たちの想いは、同じ分だけ反転し、歪み、捻じれた。
さながら一枚のカードの表裏のように。
根底にあった思想の強さが悪いほうに働き、人間を人間ではないモノへと仕立て上げていったのだ。
と、あの女の痕跡には記録されていた。
そして――雌伏の時は五年。
怨嗟と慟哭によって生み出された復讐の刃が研がれていた、その五年の間で。
人間たちの中に、リタウテットから魔族を一掃するという、大きな大きな使命が開花した。
誰もが口には出さないものの、人間は魔族に嫌悪感を抱き、魔族はそんな人間に矮小さを感じるという、対立構造が静かに膨張していく日々。
もはや留まることを知らないとまで思われたそれを、ついに破裂させたのが。
まさしく破滅に相応しい――紅く狂ったお月様だった。




