3話『降り止まない紅月症候群』
☆六月一日午前零時五十分
「中央都市政府――つまりはわたくしや先ほど部屋の外に控えていた者たちは、吸血鬼であるレイラ・ティアーズに食料となる血液を提供するのと同時に、提供者の健康状態を検査していただく契約を結んでおりました。触診ならぬ食診、ということですね」
と、オレに膝枕をしたままのお姫様は、堅苦しくなりすぎない語り口で事情説明を始めた。
何がどういう経緯で、中央都市の外に視察に行くなんて依頼がオレの元に舞い込んだのか。
仕事はもう引き受けた形ではあるが、そこはきちんと聞かせてもらおう。
「ですがその契約は先月、レイラのほうから一方的に破棄される形となりまして。その事情についてはクレハ、きっと貴方のほうがお詳しいでしょう?」
「……まあ、な」
先月中でレイラが目を覚めていたのは、アネモネたち《悪魔》に聖戦開始の挨拶をしたときと、決戦が始まる直前の……大きく分けて二回のみ。
そのどちらかのタイミングで、レイラはお姫様に契約の解除を言い渡していたらしい。
おそらくあいつ自身、今後の自分が契約内容を果たすことは不可能だと予想していたんだろう。
実際今の起きる様子のないレイラは、検査どころか食事として血液を摂取することすら――できない状態だ。
「そうしましたら、わたくしの部下たちなどはもう大慌てです。なにせ人間側が持つ最高最大の戦力であり治安維持装置でもある騎士団を、たった一個人で圧倒できる御方との繋がりが切れてしまったのですから。無論、オオトリ・アヤメに反旗を翻せる者はそうそういないでしょうが、現在の中央都市の治安が彼女ひとりに依ってしまっていることも、また事実なのです」
もしもアヤメさんが倒れることになったら、それだけで騎士団や中央都市の治安は瓦解する。
そこで次なる後ろ盾として、政府と契約を交わしていたレイラの存在があったわけか。
「かつて人は、魔族に支配されていたという歴史があります。その崩れたパワーバランスの差を擦り合わせ、現在の姿となるよう平定したのが、かの騎士団長アヤメなのです。そのような経緯があれば、政府が現状に対して及び腰になるのは当然とも言えましょうな。わたくしもそれは否定しません」
「アヤメさんが倒されるなんて、あんま想像できねぇけどな~……」
「平時であればそうでしょう」
「ふむ」
小さく頷く。同意見だ。
確かに聖戦の一戦目においてレイラは、《死因概念》を装填したアヤメさんを討ってみせたが……今にして思えば、あのときのアヤメさんは本来の実力を発揮できていたのか、疑問に思わなくもない。
じゃあ聖剣の防衛機構の発動が、所有者の弱体化に繋がるのかなんて問われたら、それはそれで言葉を濁すしかないけども。
「しかし困ったことに、彼女は今この瞬間も、異常事態に身を置いているのです」
「え?」
「紅く変色した月から降り注ぐ、人を死に至らしめる有害魔力――市井の間では毒電波などと呼ばれているようですが――それを防ぐために開発された《傘》の燃料となる魔力はすべて、アヤメが不死鳥の消えない炎をもって賄っているのですよ」
「ええ……⁉ マジか……じゃあアヤメさんは紅い月が出てる間、たったひとりで、中央都市とその周りを覆っちまうぐらいの魔力を消費してるってのか……」
お姫様は頷いた。その顔には、否定できたらよいのですが、と言うような苦い笑いが浮かんでいた。
「魔力――生命力の消費が、他のどのような現象に置き換えられるのかは難しい話ですが、わたくしの感覚で例えるとするならそれは、常に流血しているようなものでしょうね。傷の深さに関わらず、血は少しずつ確実に流れ、やがて命は終わりを迎える。しかし不死鳥は復活し、初めから生きることをやり直します。……そのような不健全なサイクルは、いつか何らかの形で破綻するというのが政府の――わたくしの抱く懸念なのです」
「アヤメさんと魔族の間で釣り合ってたバランスが、お月様のせいで崩れちまうかもってことか……」
それに加えて今は、妖刀なんてモノがいつ現れてもおかしくないわけだし。
そう考えると今の中央都市の平和は、まるで薄氷の上に立っているかのような、突如として足元から崩れかねない――とても不確かなものに思えてきた。
「ええ。そしてその矢先に、わたくしが呪いを受け、病床に伏してしまったのもよくありませんでしたね。その……もらい事故のようなものだったのですが、通常わたくしが他者に害されるなんてことは一切ありませんから。八重城が中央都市の中で一番月に近いということもあって、影響を強めた紅月症候群が原因だろう、と周囲の不安を煽る形になってしまったのです」
「……呪い……?」
「切っても切れない縁があったのです」
そう言って微笑みながら、膝に乗せたオレの顔に目を留めるお姫様。
その深紅の瞳に視線を重ねると、お姫様は赤子にでも触れるような手つきで一度、オレの頭を撫でた。
……なんでオレは、こんなにも子供扱いされてんだろう。
やはり一向に発動する気配がない暗示のことも含めて、頭の中で疑問をぐるぐる回していると、お姫様の話が再開する。
「アヤメの負担。魔族とのパワーバランス。原因不明の紅い月。それらを解決、というより解消する手段が模索された結果――中央都市の外にある八か所の集落に、《支柱》を設置することが提案されました」
「シチュー?」
「魔石を組み込むことで開発が可能となった《傘》の補助装置です。端的に言えば、それを使用すると《傘》展開時の魔力効率が上昇し、アヤメの負担が軽減されます。《支柱》には《傘》と同様の機能がありますから、その分だけ効果範囲も拡大するでしょう」
「おぉ……!」
「《支柱》の試作、実験、実用化は迅速に行われ、そして政府は先日、対象となる集落に書状と使者を送りました。それが五日ほど前のこと。現在は無事、七か所の集落で《支柱》の設置が報告されており、最後の八か所目から報告を待っているという状況なのですが……」
なるほど。さすがにそんな言い方をされたら、オレでも分かっちまうね。
「なんかマズいことでも起きたってわけだ」
「……はい。他の集落では、《支柱》設置から使者の帰還までが三日以内に完了しています。物理的距離を鑑みても、八か所目でも同じ日程を想定していました。しかし実際には、予定より二日遅れても使者は帰還せず、《支柱》が設置された様子もない。これは何らかのトラブルが発生したと見て、まず間違いないでしょう」
「……ま、一気に上手くいくわけないか」
思い通りにならないってのが生きるってことなんだし。
むしろ、ほかの七か所がスムーズに済んでるのがすごいと考えるべきだろう。
「仕方のないことです。外の集落とは中央都市を出奔した者たちの流れ着く場所。馴染めなかった。見限った。迫害を受けた。そのような事情があれば衝突は避けられませんし、彼らを棄民のように扱う者がこの城に居ることは否定できません。かといって問題を放置しておくわけにはいきませんから。事態を把握するべく、視察を行う人員が必要となったのです。それこそが――」
「……オレ?」
「ええ。人並み以上の魔力と万が一の際に戦える力を有し、何より突如として断たれてしまったレイラ・ティアーズとの、新たな繋がりとなる存在……」
そこまで口にしたところで、お姫様は憂いを帯びた表情で前屈みになった。
上と下。顔を向かい合わせるオレと桜の姫。
着物の上からでも見て取れる、その華奢な肩を撫でるようにして、ひらりはらりと薄桃色の髪が細やかに広がる。
それらはカーテンのように世界とオレたちを仕切って。
ふたりだけの部屋の、さらにふたりだけの距離で――秘かが、行われる。
「クレハ、この恥知らずな依頼に、もはや拒否権はありません。しかし事が解決した暁には必ず返礼を……貴方が望むモノをひとつ与えると約束しましょう」
「何でもひとつ……?」
「何でもとは言っておりません」
「…………」
確かに言ってなかった。
「――けれどクレハが望むのでしたら、レイラ・ティアーズを再び目覚めさせる、助言を差し上げることは可能です」
「ッ――――」
予想外の言葉に、時が止まったような錯覚を覚えた。
レイラの現状について知られていたこともそうだが、それ以上にこの袋小路を打破できる方法まで見えているというのか、このお姫様には。
底知れない深紅の瞳は、嘘をついているとは思えない。
むしろ今のお姫様は、城主という立場でありながらも、一個人としてオレと対等に話してくれているようにも思える……が。
その態度は信じても、縋ってもいいのだろうか。
レイラのこと、聖剣のこと、知らないはずのことを知っているこの人のことを、オレはまだ何も知らなくて。
だからきっと、迷いが顔に出たのだろう。
お姫様は微笑みを浮かべながらもほんの少し困ったように、残念そうに眉を寄せて、顔を上げた。
これ以上は、全部が終わったあとで、ということらしい。
それに合わせて、オレも身体を起こした。
膝枕はもう堪能したし、お姫様もそれを止めはしなかった。
「話が逸れました。……以上が、本事案に至った経緯となります。ご質問があれば今の内に。出立の時間が近づいておりますゆえ」
「質問、かぁ……」
自分でも意外なことに、お姫様の話は驚くほどすんなり頭に入っている。
だから話の流れは充分に理解できたと言えるのだが、そうだな。これまでではなく、これからのことに対しての疑問はあった。
それも結構根本的なやつが。
「結局のところ、オレはその集落で何をすればいいんだ? 様子を見るだけだったらできるけど、その《支柱》? ってのを立てるのが目的なら、難しいことは分かんねぇよ?」
そもそも《支柱》がどういう物かすら想像できてないし。
「そこはご安心を。同行者が一名おりますので、技術的なことはそちらにお任せしてくれて構いません。貴方の役目は集落に入り、使者の行方の調査、とまではいかずとも、些細な違和感を見抜くだけでも充分と言えましょう」
「それならオレにもできそうだぜ」
しかしまあ、そうか。
お姫様――いや、政府のお偉方としちゃあ、オレがこの一件に関わること自体が重要なんだから、使者の行方についての優先順位は下がっちまうのか。
無論それは、オレが気負い過ぎないようにという、お姫様の気遣いなのかもしれないけど。
でも、だったらそこは、意地を見せるしかない。
レイラとの橋渡しに利用されるのは癪だが、人助けだと思えば話は別だ。
消えた使者を探す。もしもその集落で何らかの事件が起きていたとしても、相手の心を読める魔眼が使えるオレには、事態を解決まで持っていける自信がある。探偵役としては反則だけどな。
なんにしても方針は決まったぜ。
「つか、出立の時間が近づいてるって、もう行くんだ?」
「可及的速やかに解決されることが望ましいので。馬車を用意しております。きちんと紅い月への対策をしつつ夜の間に到着できたのなら、向こうでは月に怯えず作業がこなせましょう?」
「オレ飛んでいけるけど」
「人は抱えられて?」
「……あんまり遠いと面倒かも」
「ではやはり、力は温存しておくべきでしょうな。それと念のために《ナイト・メア・アタラクト》を――」
「ん?」
「いえ、いけませんね。それでは、甘えになってしまう。意地があると言うのなら見届けるべきがわたくしの……。今のはお忘れになって、クレハ」
「んん?」
聖剣がどうかしたのだろうか。
《ナイト・メア・アタラクト》といえば、出発前にまた中央都市のどこかにアレを置いていけば、帰りは一瞬で楽ではあるが。
まあ転移できるのは所有者だけだし、所有権がオレに残ったままでも、出現させた聖剣は誰でも持ち歩けるから、このお城に持ち込まれたみたいに知らない場所に転移しちまうこともある。
うーん……同行者もいるわけだし、今回はいいか。
と、考えが一区切りしたところで、ぐ~と情けない音がオレの腹から鳴った。
それに反応してお姫様が顔を上げ、オレは気まずさのあまり目を逸らす。
「……そういや結局、まだ何も食べれてないんだった……」
中央都市にはメシを食いに戻ってきたってのに、その転移先は八重城でって流れだったから。
しかもこのまま中央都市の外に出るなら、最悪その集落とやらに着くまでは何も食べられないのか。
その事実に気落ちしている自分が居て、少し驚く。
……空腹には慣れてるつもりだったけどな。オレも贅沢になったもんだ。
なんて食事に困らなくなった最近の生活に想いを馳せていると、お姫様が胸の前でぴたりと両手を重ねて言う。
「でしたら出発までにお弁当を用意しましょう」
「え! マジか! よっしゃ~!」
「うふふ、今日一番の笑顔をありがとう」
「当たり前だろ~? 人から貰えるメシはどんなモンでも大抵美味いんだぜ」
「そうなのですか? ならば、絶対に美味しいと言ってもらうために、クレハの好物などお聞きしたいですね?」
「え~? そう言われると結構迷うんだけど……ん~……」
美味いものなら何でも好きだし、好き嫌いとか贅沢なことは言ってられないこれまでだったし、いざ具体的に何かを挙げるとなると難しいな。
まあ用意しやすいものとか、味に自信のあるものが食べられたらそれで――と、向こうからしても困る返答をしようとしたところで、ふと。
小首を傾げてオレの返事を待っているお姫様と、目が合う。
「――――うん?」
そのお姫様の姿はやはり、城主という立場ではなく、ひとりの女の子として微笑んでくれている気がして。
……なんでだろうな。
突然、本当に予期せず、ダブって見えてしまった。
オレのことを相棒だと言ってくれるようになった、あの頃のレイラと。
未だ理解できていない気がする、あの不鮮明な感情の流れと。
……まあ要するに、不安になったんだろう。
オレみたいなヤツに膝枕や食事を用意してくれるというお姫様の、その優しさの理由が分からなくて。
分からない自分が、人として何か足りていない気がして。
そんなことを気にするのなんて、らしくないことだとは思う。
貰える物は貰う。そこに事情や都合なんか関係ないのが、これまでだった。
レイラのことだって、あの優しさは本来別の誰かが受け取るべきモノを、オレが横取りしちまってるだけだと理解していた。
けどあいつは――あの《麗しき夜の涙》はオレが昔読んだ絵本の登場人物で、それがどういうわけか現実に存在していて、オレの前にいたという眷属を救おうとしていた。
あの絵本にはレイラ以外の登場人物はいなかったはずだ。
なら、その眷属ってのは誰だ?
結局のところ、オレに対するレイラの、あの優しさの理由はなんだったんだ?
“同じ寂寞を抱えながらもがいていたから”――本当に、それだけだったのか?
その答えは、分からない。
聞きたくても聞けやしない。
だから、今度は。
「なあ。……なんでお姫様はこんな、オレに優しくしてくれるんだ?」
オレは意を決して、聞いてみることにした。
自分の声が頼りなさげに、震えているように聞こえて最悪だ。
でも、それでもお姫様の優しさは、ツキヨミクレハという客人を出迎えるためのものとは、何かが違うような気がしたから。
勘違いかもしれないけど、でもその微笑みは、その言葉や所作から伝わってくる温もりは――まるで。
「――ごめんなさい。それに答えることはできないの」
桜姫はそっと、宝物に触れるような手つきで、優しくオレの頬を撫でた。
その言葉には、その表情には、一体どれほどの意味と想いが込められているのだろうか。
考えずにはいられないほどの、哀愁。
「ですが納得に至るためのピースは、少なからず得ているはず……発想の飛躍は必要でしょうけれど……。現時点でわたくしが言えるのはこれだけなのです。それでもどうか、お許しになって……?」
「……あぁ……」
消え入るような返事をすると、お姫様はオレの耳元に顔を寄せて囁いた。
「安心なさって。わたくしが本当の意味で微笑むのは、貴方ひとりだけだから」
くすぐったかった。
耳にかかる吐息も、その言葉も。
それは開花を待ち侘びた蕾たちに告げられる、温かい春の風のようで。
目蓋の裏に投影される光景は、舞い散る雪を桜のはなびらと見間違えたあの――あれ?
オレが居て。近くに幼馴染が倒れていて。
その光景は確か――舞い散る桜を雪のひとひらと見間違えた《楽園》での、
瞬間。
頭の奥のほうで、鏡に亀裂が走る甲高い音が木霊した。
それはあるいは。
誰か、女の子の、悲鳴だったかもしれない――。




