1話『八重に招きし、紅色の着物』
☆六月一日 午前零時十分
聖戦。それは七つの種族が七つの聖剣を巡り争い、勝者は願いを叶える力を手にできるという――生命の輪廻から外れた者たちによる願いの殺し合い。
そんな眉唾な話に《吸血鬼》の眷属として参加したオレ――ツキヨミクレハは、先ほど行われた二戦目の相手である《悪魔》から譲り受けた聖剣、《ナイト・メア・アタラクト》を中央都市の端にある検問所の空き倉庫に設置し、そのまま都市の外へと両翼を広げた。
目的地はこの腕の中で静かに眠っている、いつ目覚めるかも分からないオレのご主人様であり相棒である少女、レイラ・ティアーズの館だ。
中央都市の外にあるその館はレイラ自身が構築した領域であり、現在どういうワケかその存在を維持するだけの力が希薄なレイラにとっては、この世界で唯一安らぎを得られる場所でもある。
もっとも、あの館の領域が今の弱っているレイラをどれだけ癒してくれるか、正確なところは不明だ。
ただ外界よりは肌に合うというだけで、落ちていく砂時計の砂を止めることはできないかもしれない。
でも、それだけが、今のオレがレイラにしてあげられることだった。
魔力で形成した緋光の翼をはためかせ、夜を駆ける。
以前は自らの足で一時間もかかったこの道のりも、翼での飛行に慣れた今では二十分ほどで館に辿り着くことが可能だ。
安全運転ならぬ安全飛行を心がけながら、だだっ広い草原とやたら迷いやすい森を眼下に、最短距離を往く。
「……さみぃ……」
悪魔との決戦で、原形をとどめないほどボロボロにされた衣服の隙間から入り込む夜風に身震いしていると、ものの数分で月明りを跳ね返す湖面と、その中心に建つ洋館が見えてきた。
洗練された白壁に湖とマッチした空色の柱、それらをまとめ上げる灰色の屋根。
正面の門扉に降り立つと、ぎぃぎぃと音を立てて館が主人を招き入れる。
庭園を抜けて館内へ。分厚い正面扉を開けるとそこはエントランスではなく、この数週間で幾度となく訪れた玉座の間だった。
この館はレイラの心象風景を具現化した空間だ。
そして今のオレは、それに干渉することができる。
おそらくはレイラ・ティアーズが、かつてオレが読んでいた絵本に出てきた存在であることと関係しているのだろうが、理屈は曖昧なまま直感だけが先行しているのが現状だ。
とにかくはっきりしているのは、内部が一種の異界のようになっているこの館を、オレも自由に利用できるということ。
こんな風に、本来エントランスがあるべき場所に別の部屋を繋げたりとかな。
オレは底が外れかかっている靴を脱いで、玉座に近づく。
そのまま抱いていたレイラを優しく座らせて、姿勢や服、髪を整えてあげる。
遊び疲れて眠ってしまった子供のようなその姿。あるいは精巧に作られたドールとジオラマが織りなす、ひとつの作品のようなその光景。
この数週間ですっかり見慣れてしまったそれに物悲しさを覚えつつ、玉座から一歩、身を引く。
「――おやすみ、レイラ」
思わず笑ってしまいそうなほど、ガラにもない穏やかな声を紡いで、背を向けた。
右手に聖剣――《ディレット・クラウン》を顕現させる。
さ、もう一仕事頑張るとしますか。
心象風景の具現化を可能とする剣を以て、オレはこの空間の再構成に臨んだ。
☆六月一日 午前零時四十分
「《幽世》、再構成――完了。……は~、めーちゃくちゃ疲れた……」
エントランスに敷かれた赤い絨毯に寝っ転がり、手足をだらんと伸ばして息を吐く。
……まあ、いわゆる最適化というやつだ。
この館は、レイラが世界そのものから課される枷に抵抗するための場所。
しかしこの空間が構築されたのは、レイラが今よりもずっと力を持っていた頃のことだ。
認めたくないが今のレイラには、仮の姿である幼き吸血鬼から本来の、あの麗人としての姿に戻る力すら残っていない。
一か月近くこの館で眠りについて、力を温存していたのにも関わらずだ。
つまり、現状の館ではもはや、レイラの消耗を緩和することはできないのだろう。
だからオレは、この空間そのものを一度手直しすることにした。
前回の《妖刀》との戦いで、聖剣が具現化する幽世には様々な法則があることを知ったオレには、その明確なイメージができていた。
空間の歪曲。時の流れの解離。現実を侵食するほどの空想が叶うのならば、《ディレット・クラウン》はそれを際限なく具現化してくれる。
まさか、クソみたいな現実から逃げるために培った妄想力がこうも役に立ってくれるとは。
人生ってのはほんと、何があるか分からないもんだぜ。
そうして一仕事終えたオレは、いい加減この衣服とも呼べない布切れをどうにかするために、手近なドアを開けた。
向かう先は外周に沿っていくつもの衣服が並べられた、衣装部屋のような円形の空間。
比率としてはレイラが着用する女性用の物が多いが、オレが何着か持ち込んだのがある。
以前世話になった東区のあの店で選んでもらった物で、センスに自信のないオレでも安心のコーデといったところだ。
次はもっと大事にしないとな、と新品に近い黒を基調とした服に着替え終えたオレは、スツールに腰を下ろして靴も履き替える。
そこでふと、傍に配置したローテーブルの上に、ある物を見つけた。
「あ、やーべぇ。渡せなかった……つか渡すの忘れてた……」
リボンでラッピングされた小さな箱。
中に入っているのは外観から予想できる通り、贈り物だ。
宛先は――ミア。
悪魔であるアネモネの眷属であり、このプレゼントを買った当時はオレに好意を寄せていた女の子。
およそ一か月前のことだ。あることが原因でオレは、彼女を傷つけてしまった。
このプレゼントはそのお詫びの意味を込めて用意した物なのだが、渡す機会を逃しに逃し、今となってはミアは、真の想い人であったアネモネと幸せな関係を築いている。
それこそ、今更オレがこれを渡すのは無粋だと思えるほどに。
せめてこのプレゼントを買った理由がもっと別の何か、単純なお祝いの品だったりすれば話はまた変わったのだろうが……はてさて、どうしたものか。
品定めを手伝ってもらった手前、ほかの誰かに譲るのも、金品に換えてしまうのもどうかと思うしなぁ。
「……使うかー。せっかくならさ」
それが、しばらく悩んだ末に出したオレの選択だった。
譲れない、使わないのが勿体無い、ならオレが使う。ツキヨミクレハってのはそういう人間なんだ。
中から取り出したアクセサリーを首から提げ、オレは部屋を出た。
それからエントランスを通じて、館の外へ向かう。
「…………」
再構成したこの領域内では、以前よりもずっと時間と空間が錯綜し、不安定な状態になった。
この世界がレイラを拒む以上、そうするほかに手はなかった。
存在そのものを曖昧にして、消失をやり過ごすしか……。
ゆえに、一度ここを出てしまえばオレは、もうこの場所に立ち入ることはできないだろう。
名残り惜しい気持ちはある。とはいえオレという確固たる存在との繋がりは、きっとこの不安定であるからこそ存在を許されているレイラにとって、毒になりかねない。
だから。ああ……本当の本当に、長いお別れなんだな。
どうしたって誤魔化せない寂しさを背負いながら、疲れきった身体を引きずるように、来た道を引き返す。
「聖戦を勝ち抜いて、マリアと妖刀のこともはっきりさせて、力を持つ者としての責任を果たす……レイラのことも調べてみねえと。相変わらずやることがクソ多いけど――ま、バチコーンとやってやるよ」
拳を強く握ると、ぐぅと間の抜けた音が響いた。
「……どんな時でも腹は減るなぁ。まずは中央都市に戻ってメシだぜ」
己を奮い立たせながら、オレは領域の境である門扉を超える。
その、刹那。温かい春の風が吹き抜けたような感覚に胸を撫でられた。
「ッ――――」
それは新たな旅立ちに背中を押す祝福のようにも、この身を包んでいたベールの如き庇護から別たれた冷たさを報せるようでもあって。
オレはかつて見た妖精の美しさ、暗闇の中で確かな標となる光を思い出すように、月を見上げた。
中空に浮かぶのは黄金色の満月――ではなく、まるで鮮血に染まったような紅い上弦の月。
どうやら世界は、思い出に浸ることすらも許してくれないらしい。
「紅い月。毒電波だったっけか。オレが来たときにはもう、ここらにも《傘》が張られてたって話だけど」
ため息を吐きながら、吸血によって得た血の記憶を手繰る。
現在リタウテットでは、紅月症候群という生命を死に至らしめる奇病が蔓延っている。その原因は、あの紅くなった月から放たれる毒電波――魔力由来のバリアで防げることから同じく放射性の魔力だというのが言説――であり、中央都市は夜間の間、それを防ぐための《傘》を展開していた。
月が紅くなる現象が初めて観測されたのは今年の二月。それから《傘》と呼ばれる一種の防壁が開発されたのは、記憶によると今年の三月あたりのこと。そこから改良を重ねた結果、ちょうどオレがこの世界に来た四月の中頃には、効果範囲が中央都市全域からさらに都市の外、ギリギリこのレイラの館まで入るようになったらしい。
月が紅くなる間隔はどんどん短くなってきているそうだが、対抗策も今のところは追い付いている。
だからオレはまだ、その毒電波とやらの影響を受けたことが一度もないのだが……それで娘を失ったヤツの記憶が頭の中にあるものだから、どこか忌避的になっている節はあった。
「……さっさと戻るか」
《傘》越しでもじっと見つめるものじゃない。
胸が騒めくような異常現象から目を離し、オレは中央都市に置いてきた聖剣の能力を発動させる。
「《ナイト・メア・アタラクト》――」
悪魔から譲り受けたその剣の固有能力は、所有者と聖剣の位置の入れ替え。
つまりオレは聖剣がある位置に、聖剣はオレが今立っている位置に、瞬間的に移動するというわけだ。
そして聖剣は所有権さえあればどこにあろうと、即座に魂に格納することができる。
中々どうして便利な移動手段だ。
実のところ、先ほどの聖戦で寿命が残り一年になるほど全身全霊を賭けた戦いをした今のオレには、行きは何とか乗り切れても、帰りも同じように空を飛んでいく余力はなかった。
中央都市を出る前に、検問所の空き倉庫にコソコソと《ナイト・メア・アタラクト》を設置してきたのも、これを見越してのことだ。
まあ聖剣は誰がどう見たって特別製の剣なのだから、当然何者かに盗まれるのではないかという懸念もあったが……所有権さえこちらにあれば、どこからでも魂に格納するという方法で回収は可能だ。
よって、ほんの小一時間くらいは放っておいても、大丈夫だろうと考えていたのだが――、
「――――は?」
《ナイト・メア・アタラクト》の能力で中央都市に帰ってきたはずのオレは、周囲を見回して困惑する。
「どこだよ……ここ……えぇ?」
検問所の空き倉庫に出るはずが、オレが実際に移動した先はまったく見知らぬ和室で――瞬間、息を呑んだ。
「――ッ、――――?」
理解したのだ。この場所が、何か普通ではないことを。
そう思わせるだけの、場の重圧感のようなものがあることを。
小さな暖色の明かりだけが照らす仄暗い室内。左右と背後には装飾の施された襖が構え、その一枚向こう側には複数の人の気配がある。が、そんな些細なことはどうでもいい。
オレが今最大限に心を砕くべきは、正面。一段上げられた敷居の向こう。
その姿を隠すためにおろされた御簾の、奥にいる人物だ。
上段の間。敷かれた座布団は玉座と同義。
吸血鬼としての人並外れた視力で微かに捉えた、紅色の着物を纏ったこの人は――、
「ツキヨミクレハ。此度は緊急の用件があり、貴方をこの場にお呼びしました。――わたくしはサキ。この八重城の主であります」




