番外編『地雷メイドの一日』
☆公演前
四月某日。今日もわたしはひとりで、ベッドの上からぼんやりと天井を見つめる。
目覚めとしては最悪。でも慣れたので普通のことだ。
カーテンの隙間から漏れる白い朝日が、仄かに照らし出す室内は、まるで遊び散らかしたまま片付けることを忘れてしまった子供部屋のよう。
要は、楽しい思い出を連想させるのにどこか暗くて、冷たくて、寂しさに包まれている。
……ま、この惨状は昨日、わたしがヒスって暴れただけなんだけどね。
「……ん、んん~……朝、ダル……」
シーツを被ってぼやく。
時計は午前六時を指し示している。夜更かししたくせにこれほど健康的な時間帯に目が覚めてしまうのは、まあ癖というやつだ。
前世のわたしは人生のほとんどを病院で過ごしていた。
朝の六時はいわゆる起床時間。ラッパは鳴らされないし、わたしは個室だったから、慌ただしい看護師と患者による喧騒からは一歩離れていたが、それでもずっと寝ていられる体力も無かったので、自然とこの時間には目を覚ましていた。
だからこの目覚めは、その頃の習慣。抜けきらない悪癖だ。
まったく。この世界に来て二年以上が経ち、お昼まで寝過ごすこともそこそこあるというのに、たまにこうして思い出したように身体が勝手に起きてしまうのだから困りもの。
早起きしてまでやりたいことなんて、ないのにね。
せめて誰かと一緒に暮らすことができたら、早起きして朝ごはんを作ってあげるとか、夢のようなことができるんだけど。
生憎、最近適当に見繕ったホスト風の彼も、手を出すどころか部屋に来る前に逃げ出してしまったし。
……もうこの際、食パンでもくわえて町中を駆けずり回ったら、曲がり角で運命の人にぶつかったりしないだろうかしら。
なんて馬鹿なことを考えながら、少しずつ身体を起こしていく。
まずはうつ伏せになって、次に全身を伸ばし、膝を立てて上半身を持ち上げる。それら所要時間はおよそ十分で、事の最中は自分で自分を宥めるように心と身体の気分を誘導しながら、花に触れるように丁寧に繊細に自分を覚醒させていく。
……よし。なんだかんだ、起きてもいいって気持ちになってきた。
エンジンがかかったら後の行動は早いよ、わたし。
適当に放っておいたタオルを取ってシャワーへゴー。出かける前と後には必ず汗を洗い流す綺麗好きですので。
服を脱ぎながら浴室に入る。一糸纏わぬがゆえの肌寒さに二の腕を擦りながら、蛇口を捻り、少ししてシャワーヘッドから流れてきたお湯で、身体と髪を濡らしていく。
「――――」
……うん。異世界でもこうして現代的な文明を享受できるというのは、やはり幸せなことなのだろう。
ここは素直に、あの悪魔に感謝しなければならない。
アイツは自分の資産を使って、喧嘩別れのような離れ方をしたわたしに、この建物を与えてくれた。
手切れ金か、それとも誠意か、繋ぎ止めるための鳥籠か。
そりゃあわたしにだって意地やプライドは存在するさ。
だからこうして、別れた恋人のような存在が用意した設備に甘えるというのはそれなりに病む行為だけど、自立できない子供のような惨めな気持ちになるけど――身分の高い人たちが集中して暮らしている八重城のお膝元や、騎士団、ある程度の資金力を持った公共の施設以外の、いわゆる一般家庭にはまだまだシャワーが普及していないという現実を知ってしまうと、手離すのを惜しいと思ってしまうのが器の小さなわたしなのだ。
技術があるなら全員に配ればいいのに。なんてお偉い方に対するちょっとした愚痴も浮かぶけど、そういうのは大抵政府と権力者のゴタゴタで話が付いてしまう。
所詮一市民がどれだけ考えたって意味はない、目に見える現実から離れた外の世界の出来事なんだ。異世界における近代文明の再現技術というのは。
「……あ、シャンプーそろそろ切れそう……」
空ぶるような押し心地のボトル。
「なんで一緒に買ったのに、コンディショナーは余るんだっての……おいこの」
わたしは人差し指で軽くボトルを小突き、磨り硝子を透過して差し込む朝日が照らす水滴を、何となく綺麗だなと鑑賞しながら、残りを済ませた。
浴室を出てバスタオルで一通り水滴を拭い、体内魔力を熱に変換し手のひらに集中、ドライヤー代わりとして丁寧に、流れに沿って髪を撫で乾かしていく。
朝からこの髪を乾かすのは中々手間な部分もあるが、人間たまには面倒事を敢えて噛み締めたいときもあるのだ。
まあ本当に面倒になったら、そのうちバッサリと切ってしまうかもだけど、今はまだこの生きているがゆえの手間が心地良くもあった。
「うん、いい感じ」
下着に大き目のシャツと最低限の衣服を着て、身体の火照りを覚ましながら玄関に向かい、ポストを確認。
「依頼ナシ。貯金的には……まだ大丈夫か」
とある契機があり、以前までの病弱な身体を克服したわたしは、定期的にある仕事を引き受けることがあった。
それは魔術という特別な技を使った、力仕事。
特にわたしの力は荒事に向いていたから、あの悪魔の仕事を手伝うのをやめて以降、とりあえず一件興味本位で引き受けてみたら、そこそこ良い評判が広がった。
そのおかげで、まあさすがに犯罪者を懲らしめる裏社会の掃除屋みたいな立ち位置まではいかなかったが、中央都市の外――とはいっても近辺――で暴れている魔獣を退治する駆除業者くらいにはなったのだ。
今の本業であるメイド喫茶が開店休業状態だからこそ、わたしは主にその仕事を引き受けて生計を立てているのだが……最近は紅月症候群の影響で狂暴化する魔獣が多く、騎士団が人員を割くようになったことで、逆にフリーのわたしまで仕事が回ってこなくなってきている。
ま、最近東区で大きな出来事があったみたいだから、そのうち人手が足りなくなって結局はわたしみたいなのにもお達しが下るんだろうけど。
……この不安定な生活は、不自由でありながらもある意味安定していたあの頃と比べてリスキーといえるだろう。
別に安定した職に就きたいという気持ちが強いわけではないが。
ただ、深い夜の中で、隣に居てくれる誰かがどうしようもなく欲しくなる瞬間がある。
その結果が、この荒れた部屋。
「……時間アリ。部屋片づけて、パックもしちゃお」
私生活も仕事も、何かひとつピースがハマるだけですべてが上手くいくような予感があるくせに、そのひとつがどうしても見つからない。
探し続ければ、いつかは本当に見つかるのだろうか。見つかったのだろうか。
誰かの気まぐれや、偉い人の都合に振り回せれない確かな地盤。誰にも奪われないわたしだけの、安心して傍に居られる居場所というものが。
「……」
幾度となく胸に抱いては、流れに身を任せるしかないと誤魔化し続けた感情を崩していくように、わたしはお片付けを済ませた。
それからパックと簡単なメイク、メイド服への着替えも済ませ、すべての準備が完了した。
さあ、時間だ。
自分の、自分だけの部屋を一度見回して。扉に手を掛ける。
「行ってきます♪ ――なんてね。誰に言ってんだか」
誰に聞かせるでもない、けど誰かに聞いてほしい独り言を投げて、わたしは部屋を出た。
出勤先はワンフロア下のメイド喫茶。
階段を下りてお店に入る。
来店を報せるベル。わたし以外が鳴らすところは、しばらく見ていない。
足りないのは店員の数と外観の可愛さ、立地の良さ、何より宣伝。
改善点は明確に浮かぶ。だけどそれを行動に移すだけの気力が、正直わたしにはない。
こればっかりはもう、停滞するしかないのだ。
進むことを諦めた。信念を捨てた。わたしは変化を起こすのではなく、変化が起きるのを待つ側になった。
だから、ダメだって分かってても。
ロクデナシの中途半端だって分かってても。
わたしは身動きが取れない。
「……お客ナシ。今日も暇なんだろうなぁ」
そうして本日も時間は無為に流れていく。
静かなお店の中でひとり、手近な席に着いて、開くはずのない扉を見つめながら――。
☆公演後
からんころん、と来店を報せるベルが鳴る。
「…………う」
いつの間にか机に突っ伏していた顔。光を遮るような腕の隙間から重い目蓋を開くと、今まさにお店の扉が開き切った場面が目に映った。
それからすぐに、こつんと小さな足音が響いて、花の匂いと共に舞い込んだアイツが、居眠りをしていたわたしを見て優しく微笑むのだ。
「起こしちゃったみたいだね。それとも寝ていたのかい、と言うべきかな」
パープルグレーの髪に、思わず美形~……と見惚れてしまうほど整った顔面。六月の上旬に相応しいシンプルなコーデに、温度調節しやすい薄手のロングカーディガンを合わせた服装。
そして右手に提げられているのは、いかにも仕事帰りに買ってきた様子の洒落たケーキ箱。
――ああ。なんて胸の躍る光景だろうか。日が暮れて照明の灯った店内がより一層煌めいて見える。
それはいつか、本当に昔のこと。幼いわたしが自分の家で暮らしていたときに、仕事から帰ってきた家族を出迎えた際に覚えた、何とも言えない安心感と同じ温かさ。
わたしは口の端から涎が垂れていないかをさっと確かめてから、突っ伏していた身体をほぐすようにして立ち上がる。
「アネモネ……お帰り。今日早かったね」
「ただいま、ミア。あれからずっと忙しかったからさ。ふたりの時間が欲しくて、色々済ませてきたんだ」
「ふーん。分かってんじゃん」
アネモネが観客を大事にしていることは理解している。
自身が両性であるカンビオンであり、そしてわたしというパートナーがいることを発表してもなお、ネオスタァとして活動活躍できているのは、これまでの実績に対するファンの温かい眼差しや熱い声援あってこそだし、そこはいくら相互理解を積み上げたわたしとはいえ、容易に踏み込んだり切り離してはいけない部分だと弁えているつもりだ。
でも、まあ……正直なところ、わたしと仕事のどっちが大事か――なんて訊いてしまえば当然、わたしを選んでほしい気持ちは確かにあって。
アネモネもそこを理解しているから、バランスを取るためにちょっとしたサプライズをしてくれたのだろう。
「そしてこれはお詫びと言ってはなんだけど、西区で評判のケーキでございます。メイドのお嬢さん」
紳士然と軽く頭を下げて、ケーキ箱を献上するアネモネ。
「美しい所作でどうも、アネモネさん」
わたしはそれを手に取り、丁重に冷蔵庫へ補完する。
今すぐにでも甘美なデザートを味わいたい気持ちはあるけど、まずは夕食から。
アネモネは仕事終わりでお腹も空いてるだろうし。
意外と大食いだからね、この悪魔ちゃんは。ケーキの一切れや二切れでは満足できないだろう。
「夕食は何がいい? って言っても下ごしらえとかしてないから、あんまり凝ったのはできないけど」
「それじゃあ根気がいるのはボクが担当するよ。ふたりなら楽できるだろ?」
「おっけー」
ということで調理開始。開店休業状態ではあるけど一応は喫茶店なんだ。キッチンは広い。ふたりで作業するのにお互いが邪魔になるということもないから、効率的に楽しく工程は進んでいく。
わたしは万が一のお客様用に準備してある食品を温めたり揚げたりして、一方でアネモネはレトルトのルーを使ってシチューを作っていた。
そうしてあっという間に、お互い料理の完成待ちになった頃。
ふと、アネモネが思い出したように口を開いた。
「そう言えばミア、お詫びでふと思い出したんだけどさ」
「……そんな単語でなに思い出したの?」
「いや、前に君のご機嫌を取るようクレハに言ったことがあるんだ。けど結局、彼からお詫びの品、貰ってないよね」
「ああ、うん」
いつかの夜。わたしはクレハの中の深淵を視て精神がぐちゃぐちゃになり、そして記憶を改竄するという手段によってアネモネに助けられた。
その出来事はクレハの記憶を通して覚えている。その際にアネモネが言った言葉も。
だからクレハが、その翌日に何か買い物をしたことは知っている。
ぶっちゃけ物でご機嫌を取られるわたしではないのだが、まあ彼にそんな他意はないからそこはいい。いいので、気持ちさえ籠っていれば、全然渡してくれたら受け取るつもりではあったんだけど……。
「色々間が悪かったっていうか? ヘラって妖刀に手を出しちゃったせいで有耶無耶になって、その後も長いこと牢屋生活があって。で、決戦のときもほかに話すことが多くて後回しになって……って感じ」
「ミアはそれでいいのかい。お詫び云々はともかく、用意してもらったからにはちゃんと受け取らないと彼にも悪くないかなと、ボクは思わなくもないんだ」
「うーん……それはそうなんだけどー、ねぇ……」
わざわざプレゼント寄こせよってぶんどりに行くのもアレだし、かといってわたしが気にしすぎるのもクレハのほうが逆に気を遣いそうだし。
この件に関しては、いっそのこと忘れてしまうのが丸く収まる気がする。
ほかの女にプレゼント……はさすがにどうかと思うけど、まあ適当に古物屋で売り払って、そのお金で美味しいものとか食べてくれるのが理想かもしれない。
「そのうちまた会いそうだし、そのときにさりげなく言ってみよっかなー」
とか言ってる間に揚げ物が見事な狐色になったので、掬い上げて火を止めるわたし。
アネモネのほうもそろそろ出来上がりそうだし、お皿に盛って食卓の準備準備と。
「再会の予感か。それはもしかして、例の司法取引に関係していること?」
「うん。これから中央都市の治安、どんどん悪くなっていきそうだからさぁ。多分クレハも駆り出されるんじゃないかなぁって。騎士団長様と仲良かったみたいだし、断る理由もないでしょ」
「……そうだね」
どこか不安そうなアネモネの声。
それもそうか。あれは確かに、前代未聞の事件だった。リタウテットの歴史の針は確実に大きく動き、そして歯車は止まらず未来へと動き続けている。
それはアネモネの仕事にも既に多少なりとも影響を与えており、そしてアネモネ自身が影響力を持つ存在だからこそ、今後の身の振り方にはこれまで以上の責任がのしかかることだろう。
でも、大丈夫だよ。
「アネモネ。わたしとアンタなら、きっと乗り越えられる。諦めなければ。進み続ければね」
一歩。アネモネのもとへ踏み出す。
もう一歩。不安そうにわたしたちの未来を憂うその瞳に、近づく。
さらに一歩。また、また、また。
わたしはアネモネのか細い手を優しく掴み取った。
「ミア……君は……」
アネモネの顔が赤い。様々な感情がその胸の中に駆け巡っているのだろう。
わたしと指を絡めた喜び。わたしに勇気づけられている嬉しさ。同時に弱みを見せた恥ずかしさ。
少ししてアネモネは手を握り返した。それからもう片方の手をわたしの腰に回し、そっと唇を近づけ――――しかしわたしは、コンロの火を止めるのでした。
「もうできたっぽいよ? シチュー」
視線の先は、鍋の中でぼこぼこと音を立てていたシチュー。
「…………」
再びアネモネに目をやると、その整いすぎた顔面は、不満そうに唇を尖らせていた。
その、舞台でも見せない表情に、思わず口角が上がる。多分愉悦とかそういった意味合いで。
……まずい。なんだろう。別に加虐の愉しみに目覚めたとかではないと思うけど、アネモネがわたしにだけ見せるこの表情が愛おしくてたまらない。
ああ、その期待しちゃったがゆえの羞恥。顔を赤らめて必死に目を逸らすいじらしさ。もう今すぐにでもぎゅっと抱き締めて、控えめに抱き締め返されたい。
「君はどうしてそう、悪魔寄りになってしまったんだい……」
伏し目がちに抗議してくるアネモネ。
「ごめん。よくないって自覚はある」
さすがにこれ以上は自嘲。アネモネが半泣きになったので茶番は終了だ。
気を取り直して夕食を並べ、ふたりで席に着く。
窓際の、月がよく見える場所。
「いただきます」
「いただきます」
ふたりで手を合わせて食事をする。
いつもと変わりない味を楽しみながら、何気ない雑談を楽しみながら。
この幸せを――噛み締めるのだ。
そうして時は過ぎていった。これまでの悲しい時間を急ぎ足で笑顔に塗り替えていくように、あっという間に。
わたしとしては、もう少しゆっくりのほうが実感しやすくていいんだけど。
この過ぎ去った過去を惜しむちょっとした感傷も、まあそう悪いものではない。
だってわたしとアネモネの思い出は、これからもずっと積み重なっていくのだから。
食事を終え、食器を片付け、店の戸締りをして、階段を上がり部屋に帰る。
扉を開けると、一足先に部屋に上がっていたアネモネが、わたしを出迎えて言うのだ。
「おかえり」
幸せに満ちた優しい笑顔が向けられる。
なら、わたしも。
この部屋を温もりで満たしてくれた最愛の存在に、いつか花のようだと褒められた笑顔で、精一杯応えよう。
「――ただいま、アネモネ」




