15話『“A”nemoneとm“I”a』
☆
舞台の背景に、エンドロールが流れていた。
オレは見終わったんだ。アネモネとミアの過去を。
ふたりがどのような道を歩み、どのように交差し、そしてどのようにすれ違ってしまったのかを。
悲しい。切ない。そんな感情が胸中に満ちている。
それがオレ自身にもとより備わっていた機能なのか、それともふたりの記憶の影響を受けてしまったせいなのかは、分からないけれど。
もしも今、この手を自由に動かせたのなら……きっと胸を掻きむしっていた。
皮膚を裂くほどに、直接心臓に触れて温めたいと思うほどに、内側が寂しく疼いていた。
一方、舞台の上――。
同じスクリーンを虚ろな目で眺めていたふたりの視線が、重なる。
「アネモネ、即興劇はまだ続いている。お前の台詞があるよね。すべてを観客に曝け出せ」
「――ボクは……ボクは、君を…………」
アネモネとミア。お互いの瞳の中にはお互いの姿があって、きっとそれ以外が映ることはない。
ということはやはり、オレはこの舞台においてどこまでも観客なのだろう。
ライトアップされる役者に手が届くことはなく。
ただひたすらに観測し、見届けることを使命とする役。
――それが今のツキヨミクレハだ。
曲がりなりにも舞台に立った経験がある。アネモネがくれた。
曲がりなりにも役者の内面を知っている。ミアが教えてくれた。
ゆえに敬意を持って。口を閉じて。目を見開いて。どきどきわくわく、もやもやしくしく心を揺り動かしながら、最後まで見ていよう。
孤独を、寂寞を抱えるふたりの――行く末を。
「『ボクは、君のことが好きだった』」
その台詞から、舞台は再開する。
主役は身体も心も裸のまま、降り注ぐスポットライトに身を焦がしながら独白を始める。
「『ボクは自分のことが嫌いで、カンビオンのアネモネを消し去りたくて、ネオスタァのアネモネを演じていた。けれど君はどれだけ傷ついても、諦めたくなっても、それでも自分を捨てたりはしなかった。ともすれば誰にも理解されない孤独な道のりを、必死に走り続けていたんだ。その在り方が、ボクにはどれだけ眩しく見えたことか――』」
アネモネは真上にある照明へ手を伸ばす。
指の隙間からこぼれるのは光。
確かに触れているはずなのに重さはなく、また掴もうと手を広げれば広げるほど、自身には影が落ちていく。
「『わたしも、お前を愛していた。わたしの中にある無条件の愛を、お前は積み重ねさせてくれた。だからそれはきっと、ほかのとは違う特別な愛だった。初めての景色を沢山見せてくれて、覚えた料理やお洒落を褒めてくれて。わたしは、お前と関わったことで生まれて初めて、孤独を忘れられた気がしたよ』」
「『ボクだってそうさ。だから君に秘密を打ち明けることにした。すごく怖くて、とてつもない覚悟が必要だったけど……君といるとボクは、ただのアネモネとして在れたから。それが永遠に続くことを望んで、眷属契約を持ち掛けた』」
「『迷い戸惑いなんてあるものか。わたしはお前と契約を結んで、悪魔の目を手に入れた。その瞬間わたしたちは身体でも言葉でもなく目で、心で繋がることができたんだ。なのに――なのにお前はわたしを拒絶した!』」
スポットライトの外側。暗闇の中からミアが声を張り上げる。
アネモネはその咆哮を受けて表情を苦しそうに歪ませながら、口を開く。
もう舞台は止まらない。もう脚本は変えられない。
あとは精一杯の感情を載せて放つしかないのだと、己に言い聞かせて台詞を紡ぐのだ。
「『ボクは……視たんだ。君が心の奥に仕舞い込んだ過去を。さらに奥底へと隠した想いを。君は前世で男に襲われた。自分より何歳も年上の男に性的興奮を抱かれ、その果てに暴力を受けて死に至った。その事実は、君の心に大きなトラウマを与えていた』」
「『でも、それでも足は止めなかったよ。次こそはって望んだ。自分の心の傷を抉るような行為だとしても、それがわたしに足りないものなら、愛の証明になるなら。あの時途中でやめたコトを、今度こそ誰かにって心の底で思ってた』」
「『そんな胸の痛くなる本心をこの目で視て……最低なことに、卑劣なことに、想像して、衝動を感じて、こう思ったんだ。ボクは――』」
アネモネは言う。
「――君を、愛したい」
それは嗚咽を漏らすようにか細く、けれども確かに解き放たれた、仮面の裏の真実。隠匿された本性。
流星のように、涙はアネモネの頬を伝う。
言った。言ってしまった。ネオスタァという仮面の奥深くに隠し込んだ、己の本能。男も女も選ばなかったはずの自分に残っていた、目も当てられない性質。
捨て去りたかった自分自身は今、白日の下に晒された。
その事実がミアを、静かに狂喜させる。
「やっと引きずり出した。醜いアンタを。私が好きになった――アンタを」
もう演技はない。あるのは剥き出しの自己。
それだけで舞台は成立する。それが成立する舞台がここだ。
「どこかに置いてきたはずの生物としての本能を、あの時ボクは抱いてしまったんだ。だから君を拒絶した。君を傷つけるのが怖くて、カンビオンのアネモネになりたくなくて……」
アネモネはミアをあいしたいと思った。
けれどそれはミアの望みを叶えるのと同時に、いつか捨てた本能を取り戻す行為だった。
ミアはアネモネをあいしたいと思った。
けれどそれはアネモネを幸せにするのと同時に、トラウマを抉らせる行為だった。
「――アンタは結局、自分の愛に耐えられなくて逃げたんだ」
何をどうしたって傷つけあうしかない、袋小路へと向かう線路上。
レールは不意に、途中で切り替えられた。
掛け替えのないものを失ったミアは、それでも諦めきれなくて、次を探して、愛のために恋をしてみて、探し続けて、オレという通過点を通り過ぎて。
そして、今に至る。
「ようやく欲しかったモノが手に入りそうだったのに、あんなにも大切に積み上げてきたのに、アンタはそれを自分から手放した。善悪よりも前に来るはずの、自分自身を裏切った。それが、何よりも許せなかった……そこにはわたしの入り込む余地が無かったから……」
ミアにとって、アネモネにとって愛は双方向なモノ。
けれどアネモネは一方的に、自分からそれを放棄した。
相談も、話し合いも、納得もなしに。過程をすっ飛ばして結果を選んだ。
それこそが、ミアの怒りの原因。
ミアは信じていたんだ。これまでみたいにきちんと手順を踏めば、乗り越えられない問題などないと。仮にあったとしてもふたりなら、そこに納得できる理由を見つけることができると。
ゆえに、諦めきれなかった。
やり残したことはあった。まだやれることはあった。
燃料は何だっていい。信念は何だっていい。とにかくまだ、手を伸ばす力が自分にはあるのだから。
――そうして今、ミアは再びアネモネの前に立っている。
「わたしはトラウマなんかどうだっていい。乗り越えられるならそうするし、そうじゃなくたって、傷ついたって、それが残るならいい。アンタの中にわたしが刻み込まれるならそれがよかった。だからどんなに傷付いたとしても、わたしは」
あの窓の向こう側に。
「アンタと一緒に、墜ちていきたかったんだ――」
それがミアの追い求めた、手が届くまでほんの少しだった、望み。
アネモネの瞳に確かに映っていたはずなのに、言葉にすることでようやく伝えられた、伝わった愛なのだ。
「君はどうしてそうも……悪魔より悪魔らしいことを言うんだい」
「だってわたしの相思相愛の相手は、悪魔だけだから」
暗転。ズレた歯車は今、正常な位置を取り戻した。
「……言葉にしてくれて、ありがとう」
これまでの遅れを取り戻すため、それは急速に回転を始める。
暗闇の中、ひとつの影が揺らめいた。
まだ、終わっていない。台詞も、舞台も、ふたりの間で結ばれた絆も。
ミアが必死に繋ぎ止めていてくれたから。忘れないでいてくれたから。
さあ、必要な物を揃えよう。これは即興劇。脚本など必要ない。演出は思い描けば出力される。場は整ってる。役者は揃ってる。小道具も長物が二本ずつ。あとはそう、衣装だ。夢は飾るもの。なら裸はちょっと、剥き出しすぎるから。
「――――」
望んだ瞬間――衣装は、主役の前に用意されていた。
サイズはばっちり。デザインも完璧。テーマも充分。
これは、どうしても裏切りたくないモノに手を伸ばそうとする覚悟の結晶。
アネモネの胸に、決意の炎が灯った証拠だ――。
「……ねえ。わたしのいない日々は幸せだった?」
共演者からの問いかけ。アネモネは即答する。
「いいや、全然」
星は、己が生まれ変わるほどの熱を持って煌めきを纏う。
星は、輝ける夜空があってこそその美しさを認識される。
「……ボクとなら、君は幸せになれるかな?」
共演者への問いかけ。彼女は即答する。
「わたしはアンタと、幸せになりたい」
断言はできない。気休めの約束は自信ではなく蛮勇だ。
理想は捨てきれない。だからこそ地に足をつけないと。
必ず手に入るとは誰も言ってくれない。一生見つからないかもしれない。
それでも手を伸ばすことを止めなければ、共に走り続けることはできるんだ。
だから、ミアは妖刀を舞台に突き立てる。
ふたりの旅立ちを邪魔するモノが、お姫様を囚われの身にするモノが、ここにあるのだと存在を示す。
「――なら、やることはひとつだ」
この物語を悲劇で終わらせないために。
王子様が今、迎えに行くよ。
☆
――《第四幕 走り続けた先で》。
その一文は、古風で荘厳な劇場に相応しくないほどポップな字体で、まるで電光掲示板のように劇場内を縦横無尽に駆け巡り、幕と共に燃え落ちていく。
いつの間にか通路に立っていたマネキンも、雑踏も、酒気も、毒薬も、音楽も、孤独も、秘密も、嘘も、刹那的なありとあらゆる欲望も、眠れやしないけばけばしい夜の終わりを迎えるために、燃えて、燃やして、焼き尽くして。
胸を刺す黎明の眩しさが――舞台上のふたりに収束する。
聖剣を構えた悪魔、アネモネが立つ。
整えられたメイク。パープルグレーの髪。主役の心構え。
その身に纏うのは白いタキシード。吹き荒れる向かい風に揺れる純白は、己の無垢に向き合った悪魔の心が硝子に反射した姿。
妖刀を構えた眷属、ミアが立つ。
整えられたメイク。黒色のツインテール。主演の心構え。
その身に纏うのは黒薔薇のドレス。吹き荒れる向かい風に揺れる漆黒は、どうしても裏切れない自分自身を形にした、いつかの憧れ。
――風が止む。それに伴って音が止む。
幽世とはそういうモノだ。この無機質な世界には自然は一切存在せず、舞台も演出もすべては誰かが欲して形にした結果。
この静寂すら両者が望んだもの。
永遠に思えたこの一秒。アネモネとミアは、紅い瞳でお互いを射抜いていた。
それは、お互いがお互いの呼吸に合わせるための――束の間。
「――――」
「――――」
一陣の風が吹き抜けて、ふたりは同じタイミングで駆け出す。
舞台の端と端。両者は全速力で一直線にお互いを目指し、中央で交差した。
視線と視線。心と心。刃と刃。
そして、言葉と言葉がぶつかり合う。
「最初から、もっとちゃんと話し合えばよかった!」
「ほんとそう。人の心が視えるからって、一番大切なことを見落とすな!」
「ボクは君を愛している。愛されたいと思っている――すべてを剥がされた今だからこそ、やっと覚悟ができた!」
風に乗って、劇場には花が舞う。
種類は薔薇、ハルジオン、ストック、桔梗、セントポーリア、向日葵、サザンカ、ヒヤシンス、フクシア、アザレア、ミソハギ、胡蝶蘭、ブーゲンビリア、チューリップ、アイビー、スイカズラ、ヘリオトロープ、コスモス、ナデシコ、蒲公英――そしてアネモネ。
大きな愛から小さな愛まで。
ありとあらゆる愛を内包した花たちが、これでもかというくらい綺麗に咲き乱れ、舞い散り、その中でアネモネとミアは刃を振り抜く。
そしてすぐさま、引力が働いているように再び刃を交えるふたり。
一歩踏み込む際に、花を踏みつけた。
それでもまだ、花は降り注ぐ。雨のように止めどなく。
「遅いんだよバカ! 見ろ! 愚かなわたしたちはもう、剣と刀を重ねることしかできない!」
「それでも愛の証明はできる――」
「してみせろ!」
「ボクをもう一度見てくれ――」
「ホントはずっと、アンタしか見えてない!」
瞬間、アネモネの瞳が燃えるように紅く輝いた。
同じだ。ミアがオレの内側に入り込んだ時と。
そこで唐突に、アネモネの考えを理解する。
アネモネは――ミアに取りついた妖刀を、内側から引き剥がす気だ。
そもそも妖刀と仮称されている呪具に関しては、実際に対峙し破壊するまでに至ったオレでさえ、不明瞭な部分が多い。
判明していることと言えば、あの漆黒の日本刀は、いわば寄生虫のようなもので。持ち主に狂気を、触れたものに慟哭を、存在する空間に災厄を撒き散らす物体だということ。
前回の担い手であるシンジョウは、身体が先に限界を迎え、死してなおゾンビのように操られ続けた。一生命個体ではなく、ただの現象に成り下がった。
妖刀を破壊するということは、不死を終わらせるようなものだ。
たとえば悪魔であるアネモネは、他者から生命エネルギーを吸い取ることで、本来失われていく命を補給し、不死を実現させている。
だから先ほどのように、一度殺されたところでアネモネは死なない。
けれど、蓄えた生命エネルギーをすべて使い切るほど殺され続けたら、きっと終わりは来る。
要領は同じで、おそらく妖刀も、元々それ一本に並外れた力が宿っており、担い手が死のうが一度発動したシステムは走り続ける仕組み。
一撃で圧し潰せないのならば、耐久して消耗させるという我慢比べをするしかない。
消えない炎に焼かれ続け、オレの命と妖刀の内包した狂気で勝負をしたように。
前回はオレが勝った。
だがそれはあくまでも、担い手の生死を無視した結果だ。
あの時、オレはシンジョウの命を諦めた。
あいつにとっては死こそが救いだったから、それを選べた。
けれど今回、同じ手は通用しない。
アネモネはミアの命を諦めないからだ。ミアもアネモネと生きたがっている。
となればやはり、安易に妖刀の破壊という手段はとれないだろう。
もし破壊すれば、その際に寄生先の生命エネルギーや魂まで道連れにするようなら、ミアは助からない。
愛する者を救うためには、破壊による分離ではなく、分離を経てからの破壊が必要なのだ。
ゆえにアネモネは魔眼を使い、ミアと妖刀の繋がりそのものに干渉する――。
ぎぃんと短く、けれどよく響く金属音。
刃が重なり合うたび、アネモネの瞳は強く輝き、その紅い煌めきはミアの瞳から妖刀に流れていく。
「やっぱり君には、剣より刀より銃が似合う……!」
「――じゃあ奪ってみせろ!」
「取り戻してみせるさ……!」
本来なら有り得ない行為だ。
実際に皮膚を裂いて、肉をかき分けて、目に見える腫瘍を切除するのではなく。
魂という物質ではないモノに触れて、不純物を引き剥がそうと言うのだから。
それも器の持ち主ではない、外部の存在が。
それは心因性の病気を、手作業で治療していくようなもの。
ひとつ間違えば人格は崩壊し、生命はブラックアウトする。
そこにはもうひとりの自分が、あるいは自分と同等か、それ以上に自分を理解してくれる相手が必要だ。
ただ視えるだけでは不足。
ただ知ってるだけでも不充分。
そこには双方向の理解。つまりは愛が必要とされる。
ああ、それならば、何も心配いらないじゃないか。
「アンタになら全部預けられる――アネモネ!」
「今度こそ君の全部を背負える――ミア!」
ミアは、これ以上何も奪われることなく妖刀から解放される。
妖刀を手にした瞬間に決めつけられたバッドエンドが、ハッピーエンドへと覆される――!
一度、二度、三度、四度、五度。
幾たび幾たびも剣と刀は重なり合った。
その軌道はまるで舞。見ていて飽きない花のような輪舞を、紫白の追跡者と純黒の逃亡者が繰り広げる。
いいぞ、アネモネの妖刀への干渉は成功している。
なぜならミアを包む純黒のオーラが、彼女の身体を勝手に動かし、舞台を降りて観客席に逃げ込ませたから。
どうやらあの呪具にも、自身の除去に対抗するプログラムが成されているらしい。
だが甘い。スポットライトは観客席にも降り注ぐ。
アネモネはこれさえも演出として組み込み、自身もまた舞台を降りて、逃げる花嫁を追いかけるのだ。
「――ッ、」
聖剣――《ナイト・メア・アタラクト》が、ミアの近くに投擲される。
アネモネは聖剣が宙を舞っている段階でその能力を発動。
自身との位置を入れ替え、さらには瞬時に聖剣を魂に格納し、手元に再出現。
この動作を素早く行うことによって、常に一歩先でミアに――妖刀に追い付く。
「ッ、……!」
妖刀の迎撃。着地後の、僅かなタイムラグを狙って振り下ろされる刃はアネモネの首を狙い、寸でのところで聖剣がそれを受け止めた。
しかしそれはブラフ。妖刀の柄を握るのはミアの手ではなく、滲み出る魔力の具現たるオーラ。
本命は妖刀を振り抜いて勢いをつけたミアの、回し蹴りだ。
「ぐァ、あッ――⁉」
腹部に一発食らったアネモネの顔が、苦痛に歪む。
妖刀との接触で侵食を受けたのだ。
災禍は考えたのだろう。自己防衛プログラムの一環として行動したのだろう。
悪魔が災禍を解析し引き剥がそうとするなら、それより先に狂気に堕としてしまえばよい――と。
体勢を崩したアネモネを、構え直された妖刀が追撃する。
放たれたのは黒の剣閃。リミッターの外れた人体が放つ居合は、技術も経験も無視して達人のそれに匹敵する。
「ぐぅぅ――ッ……!」
アネモネはその一閃を避けきれずに受けた。
衣装ごと腹から左肩に掛けてを浅く切り裂かれ、同時に反撃する。してしまう。
聖剣が、ミアの左足と右腕に切り傷を作る。
「ぁ、うぅ……!」
同時に流れる鮮血。ふたりの刃はなおも交差し、そのたびに少しずつアネモネがミアに、ミアがアネモネに傷を付けていく。
それでも両者は止まらない。
追撃、反撃、ブラフ、とっさの反射、好機を逃さない最善の攻め。
ふたりは知っている。
愛が、生易しいものではないことを。
時に、傷付け合う必要があることを。
愛ゆえに。愛あるからこそ。
傷付けるのが痛くても、お互いを視るのが辛くても、その先を考えるのが苦しくても。
それでも向き合い続ければ――進むことはできる。
舞台も観客席も関係なく、劇場内を縦横無尽に駆け巡るふたり。
衝突するたびに血は流れ、花は踏み潰される。
けれど、その美しい殺し合いは、間違いなく観客を魅了するほどの輝きに満ちていた。
「――――」
足を踏み外し、体勢を崩すミア。
それをすかさずアネモネが手を伸ばし、引っ張って支える。
――妖刀が侵食を開始し、アネモネも逆算する。
スポットライトから外れるアネモネ。
それをミアが劇場を作り変えることで、演出としてカバーする。
――アネモネが侵食を開始し、妖刀が刃を振り下ろす。
殺し合い。助け合い。愛し合い――この舞台には他者との間で構築される感情の、すべてが表現されていた。
脚本も、演出も、役者の表情も、すべてが初めて見る輝きだ。
胸を抉るほどの感動。脳細胞を焼き切るほどの衝撃。
この景色を必死に網膜に、記憶に、全身に刻み込む。
誤解もすれ違いも恐れずに、傷付け合いながら交わる両者。
それがとても大いなる愛を、根源的な愛を感じる行為に見えて仕方がない。
ツキヨミクレハは今――生命が生み出す美しくも尊い、醜くも切ない輝きを浴びせられている。
「――――」
きっと、本当はこの場に観客なんて必要ないはずだ。
それくらいアネモネとミアの世界は完成されていて、他者の入り込む余地なんかなくて。
だからこれは奇跡の光景。
見ることも魅せられることも、何かひとつ掛け違えたら実現できなかった舞台。
ああ。目が焼かれる。鼓膜が破れる。五感が奪われ、命が引っ張られる。
それでもどうか、どうか。
この世界の中にずっと浸っていられますように――夢を見ていられますように。
間違いだと分かっていながら、オレはそう願わずにはいられなかった。
だけど、分かってる。オレの中にはもうあるんだ。
儚くも譲れない夢が。
あの黄金色の満月が照らす、地上の星が。
大丈夫。準備は整っている。
終わりを見届ける覚悟は、現実に戻る覚悟はできている。
さあ。閉幕はもう、すぐ、そこ――。
鮮血を垂れ流しながら、衣装を切り刻まれながら、致命傷を負いながら。
今再び舞台上で、紅い熱視線が重なり合う。
「――――」
「――――」
アネモネが打ち込むたび、剣戟が発生するたび、ミアと妖刀の繋がりは薄くなっていた。
それは魔眼による逆算、干渉によってひとつひとつ、一本一本、一ミリ一ミリ引き剥がしていった結果。
残る繋がりは、妖刀の柄からミアの心臓へと伸びた、一筋の闇のみ。
それが最後。最後であるがゆえに容易く断ち切れない。
その根は、深部にまで届いてしまっていた。
「――――――」
これまでのように引き剥がせば、定着している魂にまで傷が及ぶ。
かといって根を途中で切ってしまえば、最悪ミアの命まで道連れにされるかも。
これじゃあただ破壊するのと同じ結果だ。
万が一そうならなくても、根本から切除できなかったがゆえに、汚染物質はミアの魂に残留してしまう。
それがどのような影響をもたらすのか、計り知れない。
……奥歯を噛む。
ここまでの一体化は、まるで聖剣を見ているようだ、とアネモネは思った。
けれど妖刀には、防衛機構を発動し所有権の譲渡を可能にするという機能は存在していない――が、いや待てよ。そうだ。システムは組み上がっている。既に手にしているんだ。ならばこちらの機能に合うよう、向こうの規格を調整すれば。
とっさの思い付きにアネモネは、悪魔らしい三日月の笑みを浮かべた。
「ミア――君を犯したい」
「わたしもアネモネに――ッ、――アネモネを!」
笑って応えたミア。
付近に倒れたマネキンを一瞥してから、アネモネが肉薄する。
交わる刃。斬り結び。捌き。押し退け。その果てに無防備となったミアへ、腕を伸ばすアネモネ。
それは、自分より少し小さなミアの身体を、優しく抱擁するため。
刹那――《ナイト・メア・アタラクト》の刀身が胴体を貫く。
ミアの身体を。何よりアネモネ自身を。
花は血に濡れ、鮮紅が闇を跳ね返す。
「《死因概念》……装填」
呪文を唱え、ミアに口づけをするアネモネ。
行われたのは熱の交換。そして魂の流転だ。
聖剣は元来、魂と一体化し、それを失うことが心の喪失と見なされていた。
心を無くしたモノは終末兵器となり、災禍を撒き散らす現象に成り下がる。
まるで妖刀と同じだ。
だがそれも、昔の話。
今の聖剣には《死因概念》を感知し、それを失うことが、担い手にとって生命の損失に等しいとされるモノだった場合、疑似伽藍への流転が開始されるという機能が搭載されている。
つまりは。
――聖剣を失う。魂を失う。終末兵器が生み出される。というシステムを。
――魂を凍結する。終末兵器に堕ちる。担い手に代わり外敵を殲滅する、あるいは討たれて聖剣が排出されることを条件に疑似伽藍を停止する。それに伴って魂を解凍する。というシステムに書き換えたのだ。
まあ討たれるとは殺される、生命活動を停止するという意味なので。
担い手が聖剣喪失後も生命を存続させるためには、不死の特性を持っている必要があるのだが。
しかしそれさえクリアしてしまえば、誰も犠牲にすることなく聖剣の受け渡しが可能となる。
アネモネはそのシステムを、自身とミアに適用した。
オレがレイラから《ディレット・クラウン》ともう一本を預かっているように、眷属間では聖剣の使用権の譲渡が可能だ。
アネモネはミアに《ナイト・メア・アタラクト》の使用権を譲渡し、それが完了するまでの一瞬――物理的にも概念的にも両者が繋がっている状態で、《死因概念》を装填したのだ。
ミアの死はミア本人の死であり、彼女を愛するアネモネにとっても死と同義。
システムの穴を突くような承認は、しかし完璧に受諾され、両者の魂が凍結。仮死状態へと移行する。
その時、寄生先が死と同じ状態になった妖刀はどう動く?
ここだ。ここがアネモネにとっての勝負だった。
妖刀がミアの仮死状態の身体を乗っ取るか。
あるいは悪魔の器を求めて、アネモネの身体に流れてくるか。
それともふたり同時に傀儡とするか。エトセトラエトセトラ――。
アネモネは、妖刀がどの手段を取るようプログラムされているか確認を試みたが、どれだけ干渉してもブラックボックスへの侵入は不可能だった。
どうやらあの日本刀を作り上げた職人は、腐っても職人のようで、一から十の間に割り込む隙は見当たらない。
プログラムの書き換えはできない――が、そこが終点であってたまるか。
不確定要素を徹底的に排除し、完璧にコントロールし尽くして、見せたいものを何一つ損なうことなく観客に届けるのが、アネモネの舞台でのポリシー。万が一にもミアを失いかねない賭けに出るなぞ、これまで演じ積み上げてきた己が到底許さない。
なのでアネモネは――ある命令を、妖刀に書き足すことにした。
そう。書き換えができないのなら、解釈を広げ、空白を作り、続きを書き足せばいい。
一から十の間に隙が無いのなら十一番目の法則を設定。元あるプログラムはそのままに、行き先を望む方向へと誘導する。
妖刀の首根っこを掴んでミアから引き剥がすことはできない――なら、妖刀のほうから出ていってもらうまでだ。
新たなルールはこう。
担い手が死と同義の状態になった場合、妖刀は宿主を放棄。新たな宿主を探して寄生すること。
宿主の条件は生きている魂を持つこと。
その定義は、炉心が一定以上の生命エネルギーを宿し、それを器へと供給していること。
つまるところ。ミアを放棄して別の、凍結されていない魂に突っ込めってことだ――。
さらに疑似伽藍が果たされる直前、アネモネはもうひとつの仕掛けを済ませていた。
舞台が生み、舞台が燃やしたマネキンへの、ある贈り物。
それは魂――の、贋作だ。
アネモネはこれまで観客から頂戴してきた生命エネルギーの一部を圧縮、分離し、これをマネキンに宿すことで妖刀の寄生対象としたのだ。
それは心を見て、なおかつ干渉することで手触りを把握しているアネモネだからできる芸当。
さすがに本物と比べれば数段格は落ちるが、それでも仮死状態の魂よりは、よっぽど価値があるように見えるだろう。
行き場がどこにもなくなった時、思わず食べ頃だと飛びついてしまうほどに。
ただ、意思のないマネキンには、圧縮したエネルギーを束ねておくだけの能力はない。
意思のあるマネキンに魂を植え付けるという順序ならまだ分からないが、今回は数秒も持たずに疑似炉心は霧散。妖刀はそこでも寄生先を失うことになる。
けれど一瞬。それだけあれば、アネモネはよかった。
妖刀が自分でもミアでもないマネキンに寄生してくれたら。
自分の生命エネルギーが口付けを交わしたミアに渡り、それが戻ってくるまでの間、肉体的な死という状態が存在すれば。
疑似伽藍は条件を満たして解除され、魂は解凍、循環した生命エネルギーが器を蘇生させる。
妖刀の寄生から逃れたまま、生きることができる――。
これこそがアネモネの計略。
傍から見れば、目覚めのキスで邪魔者を追い払ったようにも映るグッドな作戦。
さあ、その後はどうなるのか。
ミアの手を離れた妖刀は次にマネキンを切り捨て、草むらに潜む蛇のように次の獲物へ襲い掛かる機を探っている。
定められた標的、それは手近でもっとも食べ応えのある魂。
即ち蘇生したアネモネだ。
それを、ゆらりと立ち上がったアネモネは。
「――君の出番はもう終わったよ」
諭すように告げてから、事も無げに妖刀の本体を掴み、その刀身を真っ二つにへし折った。
「……は?」
思わず声が出た。
マナー違反を承知で、声を潜めてもう一度声を出す。
「ま、マジかよ……」
オレの疑問が届いたのかは分からないが、折れた部分から灰になっていく妖刀を放り捨てて、アネモネは説明を始める。
「本来ボクは絡め手専門というか、一点突破の火力は持っていないのだけどね。けれど、ボクがこれまで観客の皆様から頂戴してきたモノは――こんな刀一本簡単に圧し潰せるくらい、重いんだ」
「え……えー……」
「さらにボクは、ありがたいことに知名度も抜群。知る人が増えればその分、存在の力が増す。大勢の想いの力に立ち向かうには、あのナマクラは孤独すぎた。だから耐え切れずに折れてしまったのさ」
……衝撃というか、ショックというか、軽く引いていた。
聖剣でも折れなかった妖刀の刀身を、まさかエネルギーの総量と放出量で上回って圧し潰すとは。
なんかこう、ロードローラーに均されるモノを見たような感覚だ……。
いや、イメージ的にはウォーターカッターのが近いか。
普段飲み物や清潔を保つために使われている水でも、手の加え方次第ではどんなに堅牢なダイヤモンドだろうと切断する力を発揮する。
それと同じようにアネモネは、自身に分け与えてもらったエネルギーを極限まで圧縮し指向性を与えることで、妖刀という存在を真っ二つに折ったのだろう。
けれどそれは、剣を振り下ろすというより銃を撃つ行為。
放たれた弾丸は――水は、勝手に弾倉の中には戻らない。
アネモネが内側に蓄えていた生命エネルギーは、おそらくかなりの量が消費されたのではと推察してみる。
「……うん。ミアのためならともかく、知らない誰かのために同じことをやろうと思える消耗じゃないな、これは。悪いけど今回限りの芸当ってことで」
涼しげに笑ったアネモネは、おぼつかない足取りで舞台の中心へ。
そこには、仰向けで倒れているミアがいる。
床には大量の花びら。広がる赤い血液。
まるで殺人事件の現場のような光景だが、負った致命傷は既に治癒されている。
けれど、あくまでそれは肉体だけ。
アネモネがそうだったように、衣装にまで再生は及ばないから。
斬られ千切られたミアの黒薔薇は、もはやドレスにもタキシードにも見て取れた。あるいはどちらにも見えないほどボロボロだった。
そこに、純白のタキシードをドレスに見えるほどほつれさせたアネモネが、寝っ転がる。
「妖刀とは完全に縁を切ってから破壊した。後遺症のようなものは残らないよ。全部すっきり……終わった」
「…………」
返事はない。
心配になって視線を向けると、ミアはぼーっと自身の唇に人差し指を当てていた。
それは幸せを噛み締めているようにも、後悔しているようにも見える――余韻。
「心の準備、間に合わなかった?」
アネモネがそう問うと、ミアは目蓋を閉じてゆっくり首を振った。
「誓いの言葉を……ちゃんと口にしたかった」
心で通じ合っていたとしても、思い描いた声を、伝えていいと選んだ感情を、言葉にできる機能がある以上はそうしたかった。
ミアは微かな感傷を籠めて、そう答える。
「それは……ごめん。――――」
紅い瞳が重なり合う。
その時、ミアだけが、アネモネの心の内を覗いていた。
「あー……それずるい。声に出したのと別のこと、心で言った」
「口にした言葉は伝えたいと思ったこと。でも口にしなかった言葉も、同じく伝えたいことで……けどそれは、ボクと君だけの秘密だ」
「また観客には言わないんだ」
「そうだね、これは宝物だから。ボクを愛してくれる君と観客。どちらも胸を張って特別だと言えるけど、これは君とだけ持っていたい――」
白と黒。二色の衣装は決まった形を失い、等しく命の赤色に浸かる。
そこで語られたのは愛。
小瓶に分けてラベルを貼り付けるよりも前に来る、根源的な感情。
――生きてきた。
必死に、必死に走り続けてきた。
自分を貫くために。自分を守るために。
愛を確かめたくて。愛を大切にしたくて。
多分きっと、この先もずっとそうなのだろう。
一度満たされたとしても、すぐに新しい刺激を求めて、想いが風化しないように気をつけないといけない。
それは嵐の中で、蝋燭の火を守るようなもの。
繋ぐのは大変で、消えるのは一瞬で。
だけど、それでも――掴めたモノはあった。
どんなに辛くても、悲しくても、投げ出したくなっても。
諦めずに進み続けたから現在があるんだ。
アネモネとミアは指を絡め、その体温を感じるように手のひらを重ねる。
ああ。この熱があれば、また走り出せる。
ずっとどこまでも、やっていけるさ――。
スポットライトに照らされるふたりの心は、ふたりの努力によって確かに、幸福で満たされていた。
夢の終わりだ。
世界の端に亀裂が入り、少しずつ輪郭は揺らいで、幽世は崩れていく。
「――――」
……ようやく、オレの身体を固定していた観客席も元に戻った。
自由になった手足を使い、静かに席を立つ。
幽世が展開されてから今までで、体感で三、四時間は経っている。
なんだか久しぶりに地に足が付いた気分――なんて感じるのも当然だな。
空想の劇場は元のアネモネの劇場に戻りきった。
さて、これ以上オレがここに居るのは野暮ってやつだろう。
とりあえず外の空気でも吸いに行こう。と、劇場の入り口に目を向けた瞬間。
――重く分厚い扉が、ひとりでに開いた。
「……え?」
見間違い、じゃあないよな。
知らない間に自動開閉する機能が付け足されて、それが誤作動を起こしたってわけでもないだろう。
じゃあ今のはなんだ。
誰かが入ってきた様子はない……なら。
――今、何が外へ出ていったんだ?
「アネモネ……今度はわたしが謝る番。ごめん。妖刀はわたしの意識を乗っ取ることはできなかったけど、干渉そのものはずっとされてた。上書きはされなかったけど、あることを強要されていたんだ」
それは、アネモネが妖刀に施した仕掛けと同じ。
掌握は不可能。けれど行き先を望む方向に、誘導することはできた。
ゆえに語られることはなく、秘匿されていたのだ。
「観客は、クレハのほかにもうひとり居た。わたしに妖刀をくれたヤツにとって、それがどういう風に繋がるのかは分からないけど。でも多分明日には、アンタの秘密は劇場の外に漏れる」
「大丈夫。それも含めた覚悟だよ。ミアの言う通り、ボクはずっと大切なことを見落としていた。だから、潔く受け入れようと思う」
「…………」
なんて、アネモネは言うけれど。
オレは余計なお世話であることを承知で、劇場の外に出た。
誰が舞台を見ていたのかは分からない。
けれど役者が、舞台と観客に真摯に向き合ったのなら。
観客もまた、それを真摯に受け止めるべきなんだ。
舞台を盗み見ていたヤツが、秘密を漏らしていいはずがない。
あるなら教えてほしいぜ。
自分の正体を隠して、人が精一杯努力して装飾した夢を、ぶち壊す理由ってやつをな。
そのためにも、オレはあの場から去った何かを追いかけたのだが。
「……あいつは……」
舞台の入り口からエントランスを見下ろして見つけたのは、倒れている人影。
その正体は騎士だ。ミアが妖刀を持って現れる直前に、シャーロットさんの事件について聞き込みに来ていた男。
オレはすぐに、吸血鬼としての聴覚を最大限に研ぎ澄ます。
「――――」
ダメだ。……残念ながらあの騎士のほかに、足音や呼吸音といったものは感知できない。
となるとおそらくはもう、何者かは、建物の外に逃げてしまったんだろう。
歯を食いしばり、拳を握る。
悔しかった。だってアネモネとミアは、すれ違っていたお互いをあんなにも必死に繋ぎ止めて、相互理解を掴み取ったというのに。
すごく綺麗だった。あの景色はきっと、オレ自身にとっても理想だった。
それは舞台を盗み見ていた何者かにとっても、変わらない光景のはずなのに。
同じモノを見たはずなのに。
それでも誰かを傷つける行動ができてしまうというのが、悲しかった。
「……はぁ」
やるせない溜息を吐いて、顔を上げる。
とにかく今はあの騎士だな。
すぐに駆け寄って、うつ伏せの身体を起こしてやる。
……見た感じ怪我はしてない。心臓もちゃんと動いてる。
気絶してるだけだな。
「おい、大丈夫か?」
頬を軽く叩く。すると騎士は小さく呻いて、目を覚ました。
「……う、しまった……何が……ッ、私はどれくらい気を失っていた⁉ ミアさんは⁉ あの刀で暴れられたら南区が……!」
「落ち着けって。妖刀ならもう破壊した。つーかアンタ、ミアに気絶させられたのか?」
騎士は周りを見回しながら、全体を観察する。
気絶する前と後の違い。場の空気感。それを確かめて少しずつ、警戒を緩めていく。
東区にとんでもない災害をもたらしたのが妖刀であると、騎士ならば当然、他区の人員でも知らされているだろう。
ゆえに安直ではあるが、この場が無事であるというその一点だけで、騎士は妖刀が破壊されたという事実をひとまず受け入れてくれた。
「何があったんだよ。アンタ聞き込みをしたあと、ずっとここで?」
この様子じゃあ、さっき劇場の外へ逃げたヤツについては聞けなそうだが、一応聞いてみる。
「あ、あぁ……不甲斐ないことに……。まさか聞き込みの直後に出くわすとは……それも正面入り口から堂々と……」
「そりゃ予想できないな」
「自分が生きてるのが不思議で仕方ない……。気を失う直前、剣を抜こうとしたら視界が赤い光で満たされて……思い出せるのはそこまでです」
ミアは妖刀を持ちながらにして意識を保っていた。
無用な犠牲を避けたのか、それとも戦う前に勝ちを取ったのか。
どっちかは分からないけど、この人は悪魔の目で眠らされたってわけだ。
「ところで、妖刀は既に破壊されたと言っていましたが」
「ああ。上にはミアがいるけど……でも、できればもうちょっとだけ、アネモネと居させてやってくれ。逃げはしないと思うから」
「……あなたがそう言うのなら、分かりました。にしてもホント、騎士団にスカウトしたいくらいだ。再び現れた妖刀……それをまた見事、今度は十分足らずで破壊してくれたんだから」
「いやぁ今回アレを折ったのはアネモネだし、むしろオレは何も――――、今なんて言った?」
「はい?」
「なんで十分足らずって思ったんだ?」
騎士はミアに気絶させられていた。だから妖刀が現れた時間は分かっても、破壊された時間は分からないはずだ。仮にオレが起こした時間をそう解釈したのだとしても、いくらなんでも十分ってのは短すぎるだろ。
だって幽世が解けた時オレは、その倍じゃきかないほどの時間が経っていると感じたのだから。
「いえ、ほら……」
騎士は、きょとんとした顔でエントランスの壁を指さす。
そうだ。そこには幽世の中にもオレの中にも存在しない、正確に時を刻む円盤が置かれている。
オレも劇場に入る前に確認した。この時間ならアネモネは中だろうと確認した。
その、時計の秒針は。
「私が出てから、十分も経っていなかったので」
「――――え?」
疑惑は、確信に変わった。何かがおかしい。時間がズレている。
ミアが妖刀を持って現れて、幽世が展開されて、全四幕もの舞台が繰り広げられて――その時間は確実に十分じゃきかないはずだ。
ならば、その連続体はどこへ消えた?
不意に、とある可能性が脳裏をよぎった。
何かのパズルに必要なピースを見つけたように、それ以外のことが考えられなくなった。
まさか。オレに干渉し、ミアが作り上げた今回の幽世は――外部時間を止めていたのか?
否。それは結論を急ぎ過ぎだ。
まだ解けていない明鏡止水による冷静な思考が、先走りしてしまった。
オレが最初に、もっと直感的に抱いた、漠然としたイメージはこうだろう。
幽世には、その外部と内部で時間のズレが生まれる使い方が、存在しているのかもしれない。
ずきり。
思考を阻害する頭痛が、脳を貫く。
それがあまりにも痛くて、耐えられなくて、オレはそこで考えることを止めた。
☆
翌日。アネモネの秘密を書き連ねた暴露記事が、中央都市全域にばら撒かれた。




