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鏡面のクロノスタシス  作者: 悠葵のんの
二章【地雷乙女の物語】
40/81

14話『あの窓の向こう側へ、必要なのは』

 エンドロールが流れていたが、それは中盤で逆再生され、シアターは依然と暗いまま映写機はなおも回り続ける。


「『《第三幕 少女の追憶》――』」


 上映のアナウンス。

 オレは再び目蓋を閉じた。


 ――白い箱庭にいた。

 

 壁も、床も、天井も、シーツも、カーテンも、洗面台も全部が真っ白。

 それ以外のモノはわたしの腕にある黒く滲んだ注射痕と、時計の秒針代わりに音を鳴らす機械のモニターくらい。

 清潔という面では言うに及ばず、しかしその場所には人の温かみが一切ない。

 閉じられた世界。無機質な白箱。

 窓の向こうに見える空は抜けるような青空だけど、綺麗で憧れるけど、外に出ることは決して許されない。


 世間ではそんな鳥籠のことを、病室というらしい。


 生まれつき、わたしは病を患っていた。

 小学校の高学年になるまでは入退院の繰り返しで、以降はずっとここに閉じ込められている。

 屋外もそうだが病室の外に出ることも滅多になく、初めは何度かお見舞いに来てくれた家族も……疲れたのか飽きたのか、今では顔を見せに来ることもない。


 わたしは病を患っていた。

 でもそれ以上にひどく重い――孤独を抱えていたんだ。


 向けられる感情は愛でなく哀。

 わたしはそのうち、自分が愛情を向けられない存在だと思うようになって。

 それでも諦めきれなくて。ひとりが寂しくて。誰かと繋がっていたくて。

 いっそのこと、もう愛ではなくていいから。

 綺麗で温かいものじゃなくていいから。


 わたしを哀してほしかった。哀れんでくれたらそれでよかった。


 しかし人の抱く感情なんて、刺激がなければいずれ風化するもの。

 水面が風も波も忘れて凪の状態になると、誰も寄せ付けない静寂を纏うように。

 病院の片隅にただ居るだけのわたしはそのうち、おこぼれの哀れみさえも貰えなくなった。


 誰からも何も思われない日々は辛い。

 誰かに想われることもなければ、誰かを想うこともできない。

 いよいよ他人との関わりという関わりが断絶されて――結果わたしは、自分で自分を慰めるようになる。


 とはいえ、たとえ妄想でも自分を愛することなんてできやしない。

 これは他人に向けるものだから、自分に使ったところで虚しく思うだけ。

 よって、そこで使われたのも哀だ。


 普通に学校に行けない自分を哀れみ、悲しく思い、悲劇のヒロインのように酔いしれて。

 足りないものを埋めた気になって、ふとした瞬間に飢えを自覚して、また一段と盲目になる、その繰り返し。


 現状を維持することはない。

 時間が傷を癒すことはない。

 自分を誤魔化すたびに、少しずつ確実に傷は深くなっていく。

 でもそのうち、痛みそのものに慣れて、平気なフリができるようになる。


 ……生きてる実感が薄れていく。

 当然だ。傷は、痛みは生きてる証なのだから。それに向き合うことをせず無視していたら、傷口からぽろぽろと大事なモノを落としてしまうのが道理だ。

 そして当の本人は、自分が落とし物をしたことにも気付けない。


 わたしはいつの間にか、あの窓の向こう側に憧れることすら――できなくなっていた。


 そんな惨めな……ううん、空っぽなわたしの人生で語れることは本当に少ない。

 せいぜいこれまでの独白と、あるふたつの出会いについてだけ。

 ひとつは、定められていたわたしの運命というより、向こうの星回りに偶然巻き込まれたような奇跡の邂逅。


「――やあ、お嬢さん。この窓、閉めて欲しいんだ?」


 病院に似つかわしくない、まるで死神の制服のようなブラックスーツを着たそのお姉さんは、何の前触れもなくわたしの前に現れた。

 名前は今でも知らない。

 覚えているのはあの人が男勝りな口調をしていたことと、どこか達観したような、それでいて地に足のついた嫌味のない、独特の雰囲気を持っていたこと。あと背も高かった。


 お姉さんは窓枠に肘を突き、病室の外側から、内側に居るわたしを見つめる。

 風に揺れた白い幕の切れ間から覗く瞳は黒色で、中心に滲むのは深海のような濃い青色。

 わたしは、初めて見たあの吸い込まれるような瞳に、思わず声をかけていた。


「どうして分かったの」


 晴れの日は大抵、朝検温に来た看護師が窓を開けていく。

 わたしはそれが嫌で仕方がなかった。

 眩しいくらい鮮やかな緑色の芝生を走る子供。それを見守る両親の姿。

 そんなのが目に入るとまるで、欲しいのに絶対に手に入らないモノを、これでもかと自慢されているみたいで惨めな気持ちになる。

 どうせ外には出られない。

 ならいっそのこと、外の景色なんて見たくなかった。

 

 そんなわたしに、お姉さんは微笑んで答える。


「アタシも同じだったから」


「同じ、だった?」


 抱いた感想には、微かな落胆があった。

 お姉さんも窓の内側にいた。でも結局は向こう側に行ける人だったんだという落胆。


「……なんでそっち側に行ったの」


「外に出たくて、出る努力をしたから。待ってるだけじゃ世界は変わらない、ってやつだ」


「じゃあわたしには難しいな……」


 努力をしたくてもできない人だっている。

 病気はわたしが頑張ったところで治らない。

 家族はわたしが頑張ったところでもう愛してくれない。

 理想は綺麗だけど、その綺麗の中にわたしは入っていないんだ。


「うん、まあ、見た感じそうだと思う。そこを誤魔化すつもりはない。だが、それでも欲しいモノがあるなら、何かに酔いながらやっていくしかないと思うな」


「酔う?」


「そ、酔う。自分は一体何をやっているんだろうなって正気に戻らないよう、諦めてしまいたい自分を宥めながら、ネガポジを上手くやりくりするってこと。そうやってバカになったら、自分がゴールだと思える場所へ、走り続けることができるだろ?」


「頭おかしいじゃん……それ」


「ああ。周りには理解されないし、自分で自分が分かんなくなっちまうこともある。だからバカでも適度に賢くないといけない。難しいよな。でもまあ程度はどうあれ、愛とか夢とか自分が欲しくて仕方がないものに手を伸ばす行為は、そういうものなんだよ」


 それは聞くだけでも痛々しくて、見てられない生き方だ。

 でも、自分に酔って自分を誤魔化す行為は、既にわたしもやっていた。

 手段は合っていたんだ。そのうえで足りないものがあるとするなら、それは。


「……ゴール……」


 思えばわたしは、それを設定していなかった。

 設定したはずが忘れてしまっていた。


「お嬢さんのゴールは何かな? 他人との摩擦で妥協したものじゃない、自分でも絶対叶わないだろって笑っちゃうような、夢の景色は」


 そんなの、決まっている。

 届かないから諦めていた。感じたことがないから見限っていた。仕方がないから代替品で満足しようとした。今はその代わりさえ貰えなくなったから自分で補っている、つもりになっていた。

 そんなわたしの、どうしても捨てきれない、たったひとつの望み。


 わたしは――わたしが愛した分だけ愛を返してほしい人間だ。


 他者からの愛が貰えないから、わたしは満たされていない。

 他者からの愛が足りないから、わたしは幸せになれない。

 ほかに不足しているものなんか、本当は何もない。


 わたしが幸福じゃないのは、これまで愛を返してくれる人に巡り合えてなかったからだ。

 両親が会いに来なくなったのも、医者や看護師の態度が機械的なのも、哀すらくれないのも全部相手の都合で、決してわたしが鳥籠に囚われているからじゃない。

 それを証明したくて、わたしの向けた感情と同種同等のモノが返ってくることを……その正体が愛であることを望んでいる。


 この感情は異常じゃない。何もおかしくない。

 わたしの中に備わっているこの機能は鍵で、今は鍵穴の合う扉を探している途中なんだ。

 誰かを幸せにできて、誰かに幸せにされる未来がわたしにだってあると、思いたい。


 ――それを掴むことが、わたしのゴールだろう。


「お嬢さんはきっと、生きてるだけで全部が愛おしいんだ。けど世界には倫理とか道徳とか複雑なルールがあって、社会で生きるにはそれを適用しないといけない。すると愛したいのに愛させてくれないだとか、ややこしいパターンが沢山出てきちまう。愛したいのに拒絶される。愛されたいのに拒絶される。どっちかだけでも厄介なのに両方を持ってるのは、確かに生きづらいだろうな」


「わたしはどうすればいいの? ずっと、このままなの?」


「分からない。そのためには見えないものが視えるようになる必要があるから。ただひとつ言えるのは、誰にだって幸せを追い求める権利があるってこと」


「……誰に、だって?」


「ああ。必ず手に入るとは誰も言ってくれない。一生見つからないかもしれない。それでもこの世界に生きてるうちは、努力することも走り続けることも、していいんだ」


 そういうことなら無理だ。

 わたしは自分が生きてるのか、それすらも分からない。

 心臓が動いているという意味ではそうだけど、少なくとも日々を一生懸命に過ごしているというわけじゃない。

 だから今お姉さんが話していることも結局は、手に入らないモノを自慢されているみたいで、もやもやする。


「――チャンスが欲しいならやるよ」


「え?」


 白いカーテンの向こう側、お姉さんの輪郭がぼんやりとして次第に溶けていく。

 まるで夏の蜃気楼のように。あるいは水面に浮かぶ冬月のように。

 目を疑って何度か瞬きをした。

 でもその光景は見間違いなんかじゃなくて、それでも信じられなかったわたしは目を擦るために腕を上げて――――不意に、指先を握られた。


 窓とは反対方向のベッド脇に、お姉さんがいた。

 わたしの手を優しく掴んで得意げに笑っている。


「魔法みたい……」


「残念。似てるけど違うんだ。こいつが手品の正体」


 ずん、と肉のない細腕に重さが加わる。

 それは触れるどころか目にするのも初めての危険物。

 いわゆる、拳銃と呼ばれる代物だった。


(これ)はね、剣と違って手にした瞬間から誰もが等しく力を振るうことができる。命を傷つけることも守ることも、指先ひとつで決められちまう。アタシはその選択の自由と重さがあって、初めて生きてる実感を覚えた。アタシもちゃんとこの世界に生きてるんだ――ってな」


 選択の自由と重さ。生きてる実感。

 それらはいつからか、わたしの中から抜け落ちていたものだ。

 お姉さんも多分そうだった。同じだったとはそういうことか。

 そして、お姉さんはそれをもう一度手に入れることができた。


「銃は剣より強し――その信念が燃料となってアタシは走り出すことができた。お嬢さんもそうなるかもしれない」


「……それを、くれるの?」

 

「ああ。だって、欲しいモノがあるんだろ。手を伸ばすか諦めるか。生きるか死ぬか。自分のことは自分で決めていいんだ。じゃないと救いが無さすぎる。アタシはそんなの嫌だから、気まぐれで特別サービスしてやるよ」


「でも人の真似をするのって、悪いコトじゃない?」


「ずっとはよくないな。けど最初は、信念や価値観なんて借り物でも模倣でもいいんだ。この生き方が楽だなとか、この考え方は自分に合ってるなとか。服を着せ替えるみたいに色々試して似合うモンを探してるうちに、自然と自分だけのコーデは見つかる。逆に言えば、生まれた時から自分の好き嫌いを把握してるヤツなんていないよ」


 人間はひとりじゃ生きられない。

 何かとぶつかって、自分の形を把握していくしかないんだ。

 少なくとも自分はそうだった、とお姉さんは言う。


「大丈夫。これを自分以外に使わないなら、いつか捨てちまっていい。でもどんな理由であれ他人に使うなら、使っちまったら、向き合う責任ができる。そこ、いいな?」


「……うん……、――うん」


「よし。それじゃあ願わくは、こいつがお嬢さんの笑顔に繋がってくれることを祈って――」


 それなら、心配はいらない。

 知らない価値観に触れられて。初めての贈り物が嬉しくて。

 ほんの少し身体が軽くなった気がして、ほら、わたしはもう笑っている。


「それでいい。それがいい。波長の合わないヤツには弱々しく見えるかもしれないが、合うヤツにはとことん刺さる花のような微笑みだ」


「……ねえ。お姉さんのこと、好きになってもいい?」


「だーめ。お嬢さんは難しすぎるし、アタシは簡単すぎる。それに愛が欲しいなら、まずは恋との違いが分かるようになりな」

 

 お姉さんはそう言って、わたしの額を軽く小突いた。

 ちぇ……結構本気だったんだけどな。

 でも。うん。知れば知るほどやっぱり違うなってなるのが、お姉さんには見えているのだろう。

 だからこうすることでこの出会いを、良い思い出のままにしてくれたんだ。


「よし、早速授業開始だ。素養は充分にあるし、まずは魔力の扱い方から。最初は基礎にして幅広く使える幻想(ファントム)で、次に自爆技の熾条(インペリアル)を――」


 そうしてわたしは、あの人から貰い受けた。

 信念。特別な力。走り出すための燃料。何より置き土産という名の――拳銃を。


 不自由な鳥籠の中で、自由が生まれた瞬間だった。

 孤独に押し潰されそうになった時に提示される、自分で自分を終わらせられるという選択肢。

 それが命の重さを思い出させてくれて、わたしはこう思えた。

 死にたくない。ここで終わりたくない。まだ満足していない。

 大丈夫。まだ生きてる。これがあるうちは諦めずにいられる、と。


 燃料は手に入れた。わたしは欲しいモノのために走り始めた。

 具体的にどうするのかと言われると、まだちょっと困るけど。

 お姉さんが言うように、わたしは愛と恋の違いすらよく分かっていないけど。


 だからこそ、まずは自分の形を掴んでいこう。

 自分の中で、他人の中で、何をどうしたら愛と言えるのかを、少しずつ確かめていくんだ。

 燃料と同じくらい愛する努力を、愛される努力を忘れないようにして。

 自分も他人も傷付けていくのが必定な、わたしの旅路(じんせい)を歩んでいく。


 その、初めての成果が出たのは――四年後のことだった。


 さて、もうひとつの出会いを語る時です。

 ブラックスーツのお姉さんとの出会いから、四年後の冬のこと。

 何分、ただでさえ関われる人の総数が少ないから、時間がかかってしまったけれど。

 走り出したわたしは、確かに道を歩めていた。

 転機を前にしたからこそ、そう実感することができた。


 さて、少女らしい語り口をすると、これはわたしと王子様との出会いのお話。

 きっかけは本当にただの偶然だった。


 ――その日、わたしはシーツを汚した。

 声を押し殺して泣くくらいには辛いことだった。

 これまで正常でなかったがゆえに多くのものを取りこぼしてきたわたしの身体が、今更与えられた役割を果たそうとするのが気持ち悪かった。

 何よりそれが、わたしの選べた部分じゃなかったのが、余計に腹立たしかった。


 マラソンを周回遅れで走っているような、致命的なズレ。

 最初から周りと同じ速度で進むのは無理だと分かっているのに、それでも背伸びをして同じ土俵に立とうとしているこの身体。

 それがどうしようもなく惨めに思えて、やるせなくて。

 何の前触れもなく、自分の意志とは関係なしに広がる赤い染みを見ては。


 またひとつ、自分の内側で何かが削れていく音を聞いた。


 それはあるいは、ナースコールのボタンを押した音だったのかもしれない。

 うん……大丈夫。わたしはまだやれる。そのための信念がある。

 むしろこのフラストレーションをそのままモチベーションに繋げようと思った。


 だからかな。いつもより二割増しくらいで、期待してしまったのは。


「失礼します。どうなさいましたか?」


 来てくれたのはいつもの女の看護師ではなく、知らない男の看護師だった。

 彼はすぐに何があったのかを察して、それから申し訳なさそうに今自分以外は空いていなくて、と謝りながら必要な物を用意し、シーツを変えてくれた。


 親切にされた。嬉しかった。

 だからわたしも普段より二割増しくらい、彼を嬉しくさせたいと思った。

 燃料はまだある。気持ちは落ち込んでいたけど諦めるほどじゃない。

 愛されるためには愛される努力を、だ。

 わたしは、まずは何気ない世間話から、と声をかけようとした。


 ――その直前。なんと彼のほうから話を振ってきた。


 彼が臨時の雇われであること。

 ここの病院食がほかの病院に比べて美味しいこと。

 わたしがいつからこの病室にいるか。

 普段来る看護師がどのような人か。

 家族はお見舞いに来るか。

 若い子が早い消灯時間にちゃんと眠れているか。


 ざっとこんな感じの話をしただろうか。

 うん。平静を装っていたけど、明らかに前例にない手応えだったから、ちょっと舞い上がった。

 その勢いのまま、彼とは毎日少しだけ話をする友達になった。


 まともに人と関わることのない十四歳の女の子と、若くて優しい看護師のお兄さん。

 ふたりの関係は健全そのもので。

 傍から見れば少女漫画に憧れる年頃の女の子に、面倒見のいい年上のお兄さんが付き合ってあげている感じ。

 だから周りも、特に何か言うことはなかった。


 まあ結論を言っちゃうと、それは見事に間違いだったんだけどね。

 でも向こうは上手い具合に、鳥籠(びょうしつ)の中の少女(ことり)のために王子様を演じていたから。


 その時が来るまで、わたしは何も気付かなかった。


 それは、わたしが入院する病院のある地域では珍しい、冬の雷が走る夜のことだった。

 ごろごろごろ。ぴかっ。どっかーん。

 花火でも弾けたような、窓ガラスを割りかねない轟音。

 ただでさえ豪雨で、木々を叩く雨音がうるさいというのに困ったものだ。

 これじゃあどうしたって眠れるはずがない。


 時刻はもうとっくに消灯時間を過ぎていたけど、わたしは遮光カーテンを開けて窓の外を眺めていた。

 遠くにある街灯の明かりと、一瞬だけ明滅する雷鳴が夜を照らす。

 寒い。暖房をつけるか悩むけど、温くて濁った風は好きじゃない。

 それならまだ白い息を吐きながら、透明な冷たさに浸っていたかった。

 握った拳銃と合わせて。わたしの燃料になってくれるから。


 ――いたっ。


 しまった。また来るんだって忘れていた。

 えっと……どうすればいいんだっけ。

 まだ慣れてないから思考がおぼつかない。

 途端に身体が重くなって、引っ張られるように気持ちが不安定になる。

 そのうちぴかっと、雷が空へ落ちた。

 雨粒はわたしを急かすように音を立て続ける。おかげで気分は最悪。

 仕方ない。見られたらまずいから拳銃は一旦枕の下に。

 それから手近なところにあったタオルを手に取って、ナースコールを押す。


 今日の当直は誰だったかな。

 答えはすぐに、現れた。


「まだ起きているなんて悪い子だね、お姫様」


 普段の優しさに色気の混じった声。

 何か、いつもと様子が違うことはすぐに分かった。

 

「あの、その……また始まっちゃったみたいで」


 申し訳なさそうに言う。わざわざ呼び出して悪いけど、女の看護師を寄こしてくださいと含めたつもりだった。

 しかし彼は暗い病室の入り口でじっと見つめるばかり。タオルを服の下に突っ込もうとしているわたしの、生々しい姿を。


「あの……?」


 もしかして、雨の音がうるさくてよく聞こえなかったのだろうか。

 それとも遠回しに言い過ぎたか。

 視線と疑問が交錯する沈黙。やがて彼は、ゆっくりと扉を閉めた。

 無言のまま迫ってくる彼の影が、雷鳴によって映し出される。

 わたしにはそれが――獣の姿に見えた。

 

「ん――ッ」


 明滅の後、獲物を定めた獣は不意を突いて狩りを始める。

 初めは両肩を掴みベッドに身体を縫い付け、次にわたしが抵抗しないことを悟ると、タオルを辿って服の下に手を差し込む。


「驚かせてごめんね。でも安心して、危害を加えるつもりはないんだ。ただ僕は、君を愛したいだけなんだよ」


 愛――その単語を聞いて目を見開いた。

 今すぐにこの状況から逃げ出さなければという危険信号に、興味が勝った瞬間だった。


「……これが愛なの?」


「そんなに震えた声を出さないで。本当なんだ。ダメなことをしている自覚はあって、自分でも心底驚いてる。それでも理解してほしい……これを見た瞬間、君に度し難い感情を抱いてしまった……」


 彼は普段通りの人の良さそうな笑みを浮かべたまま、指先についた赤を見せびらかす。


「それ多分、そんなにすごいものじゃないよ」


「捉え方の違いだよ。僕はそれまで可憐だと思っていた蕾が、花を開かせる瞬間に立ち会った。君はもう子供じゃない」


「子供だって」


「でも大人と同じ部分を持ってる。そこがすごくいい。そのアンバランスさがすごく惹かれる……だから」


 彼はそっと、わたしの唇を奪った。

 わたしはそれを受け入れた。

 彼の言っていることは微塵も理解できなかったけど、愛される努力をしてきて、実際に愛を向けられたのは初めてだったから。

 ようやくゴールに辿り着いたのかと思った。

 自分の中の空洞が埋まって、満ち足りた気分になって、幸せを掴める時が来たんだと思いたかった。


 彼とは何度も唇を重ねた。

 雷鳴も雨音も場を盛り上げる演出に様変わりして、ベッドは軋みシーツは赤く染まっていく。


 いよいよ彼が、自分の衣服を脱ぎ始めた。

 鼓動が高鳴る。

 ああ、ついに、時が来たんだ。


 わたしはみんなと同じペースで歩くことはできないけど、同じ土俵には立っているから、そういった行為の存在は知っている。

 本や映画を見て、知って、想像もしてみた。

 愛の結晶。恋の成就。行為の解釈は様々で。


 四年前。わたしは愛と恋の違いが分かってなかった。

 今なら少しは分かる。

 恋は一方通行、愛は双方向。それが今のわたしの認識だ。

 どちらも想うのは勝手。だけどそれが成立する条件が、一方と双方だ。


 恋は恋とでも、恋と愛とでも成り立つ。

 愛は恋とでも、恋と恋とでも成り立たない。


 わたしが望むのはやはり、双方向の愛。

 恋をしてみるのもいいけど、それが愛し愛されることに繋がる通過点ならいいけれど。

 基本的にわたしは愛が欲しいから。


 ――が、それが分かったところで、結局その行為がどちらに振り分けられるのかは謎のままだ。

 だってそれは恋でも愛でも、両方が無かったとしても行われる。


 だとするなら、何を以て判定すればいい?

 今の行為は愛があったと。愛の証明だったと、どこで判断する?


 分からない。愛は視えないものだから、触れてみる以外に確かめる方法がない。

 だったらこれは手段のひとつだ。

 掴んだ結果ではなく、結果を掴むための方法として、わたしはその行為を受け入れよう。

 そう決めた。

 なのに。世界は残酷だ。

 いいや。わたしの生きる世界が特別、残酷なんだ。


 ――コンコン。

 扉をノックする音。雷鳴。扉が開く音。女の悲鳴。

 それらは流れるように、男と女だけが存在していたこの舞台をぶち壊した。


「――ひっ、……何、してるんですか……?」


 きっと女の看護師がこの場に現れたことは、彼にとっても誤算だった。

 彼はわたしの周期と自分の当直シフトを計算して、入念に準備を済ませていたことだろう。

 ついでにこの激しい雷雨、神様の後押しとまで思ったに違いない。少女の喘ぎ声など包み隠す天候。計画は完璧に、行為は秘密の花園で始終を果たすはずだった。


 それでも予測できなかったのは、同僚が思いのほか仕事熱心で、そして頃合いを見てわたしが使う用品を届けに来てくれたこと……。


「誤解を招いてすみません」


 彼は両手を挙げて、ベッドから離れた。


「必要な処置だったんです。でも言い訳より先に、この子を……僕は離れてますからどうかお願いします」


「嘘、ですよね……? もっと別のこと、しようとしてましたよね……?」


 暗闇の中で、彼女がわたしに目を向ける。

 助けが必要かどうか、視線で問いかけている。

 分かれ道だ。

 ここで頷けば彼は警察に突き出される。

 逆にそうしなければ、彼女はわたしの様子を確認しに来るだろう。


 雷鳴が走る。

 一瞬だけ照らし出された彼の表情は柔らかく、そして殺人鬼のように狡猾な笑みを浮かべていた。

 彼は脅しのつもりだったのだろう。

 本当のことを話せば君を殺す、とでも言うような月並みな意図があの表情には含まれていた。


 でもそんなことはどうだっていい。

 わたしはただ愛されたかった。満たされたかった。

 そのためのチャンスをくれたのは、彼だったんだ。


「……嘘じゃないよ」


 わたしは嘘を吐いた。

 そして彼女は事の真偽を置いて、まず真っ先に患者の状態を確認するという、医療に真面目に従事するがゆえの判断を下し。


「……分かった。疑ってごめんなさい。でも次からはちゃんとナー――ッ、ぁ」


 刹那。愚かなわたしの返事を聞いて、逃れられないところまで踏み込んだ彼女を、彼は容赦なく襲った。

 追い詰められた獣が、狩人に牙を立てるように。

 頭を掴んで、それを思いっきり壁に叩きつける。

 壁にはねっとりと血液が糸を引いて、また何度か叩きつけて。

 いつの間にかソレは人ではなく、肉の塊になっていた。

 たった、これだけで、おしまい。

 あまりにもあっけない幕引き。


 事が済んだ彼は少しだけ壁に背を預けて、両手で顔を覆った。


「……落ち着け。大丈夫。いつも通りに……僕はやれる。逃げ切ってみせるさ」


 彼は既に、次を見据えていた。

 この病院から脱出し、どういう経路で逃走し、誰の身分で今後を生きていくのか計画を立てていた。

 だからわたしは言うのだ。

 ひとつ忘れ物があるよ――と。


「続きは?」


「……は?」


「続きはしてくれないの?」


「バカ言うなって。もうそんな段階じゃないだろ。楽しめなかったのは残念だけど、ここで捕まったら次は来ない。次さえ来るなら僕はやっていけるんだ」


「愛って、その程度なの?」


「少なくとも僕の愛の対象は君だけじゃない。殺さないだけ感謝してくれよ。それじゃさようなら」


 ……なに、それ。

 彼が立ち去ろうとした瞬間、わたしの中にどす黒い感情が渦巻いた。

 ダメ。そんなのありえない。何のために嘘を吐いたと思っているの。

 逃がさない。まだ確かめてない。ここまで来たのは初めてなんだ。このチャンスを逃してたまるか。

 わたしは飢えている。乾いている。

 なのに、殺人者にまで見放されてしまったら。

 わたしはそれ以上に間違っていることになるじゃないか。

 そんなの、耐えられない――――。


「待って! 待ってよ!」


 とっさに手を伸ばす。服の裾を掴み、腕を掴み、必死にしがみついて彼を引き留める。

 それを鬱陶しそうに見下して、獣は言うのだ。


「……仕事を増やさないでくれよ」


 頬を叩かれた。それでも離すものか。

 頭を殴られた。それでも離すものか。

 指を、腕を、髪を、折られても曲げられても千切られても、それでもわたしは絶対に離さない。

 

「はあ? なんだよ、なんなんだよお前⁉」


 彼の余裕は次第に剥がれていき、それに伴って行動は激化する。

 

「離せ、離せよ……このぉ‼」


 必死。普段の穏やかさなど消え去り、獣は相手よりも勝る身体と力を有しているというのに、すっかり狩られる側の精神になっていた。

 怖い。逃げたい。生き延びなければならない。

 そのためにできることを躊躇なく、やるしかない。


 彼はベッドのサイドレールを引き抜いて、わたしをめがけて振り下ろした。


「鬱陶しいんだよ‼」


 鈍い音が響く。


「ッ――ぁ、ぁあ……」


 視界が白黒に点滅する。力が抜けて視界がぐにゃりと歪む。

 今のは結構、効いちゃった。

 おかげで手を離してしまった。


 試合終了。ゲームセットだ。

 なのに勝者であるはずの彼は恐怖に染まりきっていて、逃げるより先に、眼前の得体の知れない何かを確実に排除しなければという強迫観念に支配されて。

 もう一度わたしの頭部に打撃を加えた。

 しかも今度はフルスイング。野球だったらホームラン級の見事なバッティングで、わたしの頭蓋は間違いなく割れただろう。


「はぁ、はぁ……なんだったんだよ……こいつ……」


 熱い。身体は寒いのに、頭が熱い。

 おかしいな。さっきまで黒かった景色が、赤く染まって見える。

 朦朧とする意識。うまくできてるのかも分からない呼吸。

 わたしは生と死の境界線上に立って――それでもなお、身体を動かす。


「ゆ……な……」


「な、なんで……まだ動くんだよ……!」


「ゆるさ……ない……」


 もういい。ここまでされてはさすがに引き留める気も失せた。

 あれだけ期待させたのに、殺したいほどわたしから離れたいなんて、茶番にもほどがある。


 あー……冷めたな。

 よく見たら優しいとか物腰が柔らかいとか、ただヘラヘラしてるだけだし。

 声も無理してかっこよくしようとしてるだけの鼻声だし。

 そもそも股から垂れ流してるモノに興奮する変態野郎じゃん、こいつ。


 わたしを愛したいくせに、わたしに愛されたいとは思わない。

 そんなのを、お前は愛って呼ぶの?

 だったらそれは、わたしには必要のないモノだ。


「お前なんか……王子様でもなんでもない……」


 だから死ねよ。わたしを殺そうとしたんだから、そっくりそのまま返してやる。

 わたしはありったけの殺意を籠めて、枕の下に隠していた、いつか誰かの置き土産を手に取った。

 そこに笑顔が無かったことは、今でも少しだけ、後悔している。

 

「モデルガン? そんなおもちゃでなにッがぅえげ――――」


 引き金はどうしようもないくらい軽かった。

 こんなに軽くて簡単だから、人殺しは日常茶飯事なんだなと理解する。

 ああでも……ひとつ困ったことがある。

 引き金を引いたあと、持ち手(グリップ)が吸い付いたように離れない。

 いくら振っても、壁にぶつけても、拳銃(ソレ)はどうしてか、わたしの手を離してくれないんだ。


 もういいやと諦めて、顔を上げる。


「――――」


 実弾は入ってなかった。

 使われたのは、魔術によって組み上げられし《幻想の魔弾(ファントムトリガー)》。

 銃口から解き放たれた氷の柱に全身を貫かれ、彼は即死した。

 氷はすぐに砕けて霧散する。

 あとは何事もなく、ふたつの死体が残された殺人現場の完成だ。


 ――いや、違うか。

 そのうちに、死体はもうひとつ増えるだろう。


 頭の奥で何かが弾けている。

 感覚としては、梱包に使うぷちぷちを潰しているのに近い。

 それをひとつ感じるごとに、痛みが消えていく。身体の重さも。連続した思考も。何もかもが、無に消えていこうとしている。


「……はぁ……はぁ……あ、ぁ……」


 その前に、わたしは何とか壁際に立って……窓を開けた。

 冷たい雨が入り込んでくる。血も、汗も、涙も、すべてを洗い流そうと吹き付けている。


「……は、ぁ――、ぐッ――」


 文字通り最期の力を振り絞って、わたしは鳥籠の外へ出た。

 窓枠に身体を預け、少しずつ倒れるようにして向こう側に墜ちていった。

 幸いここは一階。地面はすぐそこで、倒立に失敗したかのような無様な着地をしても、即死はしなかった。

 まあ死ななかっただけで、身体はもう微塵も動く気配がないんだけどね。


 ――雨が降っている。雷が走っている。


 土草は不愉快なほど濡れて、湿って、大気はまともに呼吸できないほど、わたしに合ってない。

 でも、それでも。

 わたしは鳥籠の外に出たんだ。


 うん――――――全然、満たされないな。


 折れそうになる。諦めそうになる。

 お姉さんが言うように努力をしてみたけど、走り続けてみたけど、わたしは欲しいモノに手が届かなかった。

 その途中で手に入れた魔術も、人殺しも、鳥籠からの旅立ちも、何ひとつわたしを幸せな気持ちにはしてくれなかった。


 ねえ。これでもわたしは、望みを手放せないの?


 自分に問いかけてみる。


 ……うん、そうみたい。本当に最期だっていうのに、わたしは愛が欲しくて仕方がない。ひとつも愛せるモノがない自分が、不甲斐なくて仕方がない。 


 あーあ……よりにもよって最悪なハズレ引いちゃったなあ。

 全部あいつが、あのクソみたいな王子様気取りが、途中で止めたのが悪いんだ。

 あれが結ばれたらきっと、きっと全部上手くいったはずなのに。

 愛の証明ができたかもしれないのに。


 死に際に思う。

 もしも次に目覚めることがあったら、今度こそゴールに辿り着こう。

 今回のことはさすがに消えない傷になっただろうけど。

 でも構わない。

 それがきっかけで、もっと深いところで誰かと繋がれたら。

 誰かを愛し、愛される日が来るなら。

 孤独を消し去り、幸せに満たされる日が来るなら。


 どうか。どうか。どうか。

 だれか。だれか。だれか。



 今度こそわたしを――(あい)してください。



 そのお願いを最後に、目蓋を閉じた。

 そして、あるはずのない次が訪れたんだ。

 

 大いなる車輪に圧し潰されし者が行き着く世界――リタウテット。

 天国でも地獄でも楽園でもない小さな箱庭で、わたしは目を覚ました。


 次の恋愛と出会ったのは、一体いつのことだっただろうか。

 異世界リタウテットで始まった第二の人生。

 待っていたのは実のところ、前世とあまり変わらない日々。


 わたしの身体は厄介なことに、それまで重ねてきた月日だけでなく、その内側に巣食っていた病気も引き継いでこの世界に生まれ直していた。

 もしかしたらこの世界への転生は、前世での死因は消してくれても、直接の死因に至らなかった病は帳消しにしてくれないのかもしれない。


 それでもまあ、初めの頃はなんとでもなると思っていたんだ。


 わたしは人生のほとんどを病室で過ごしてきた。だから人とのコミュニケーションは苦手だし、家事炊事も経験がなく、まともな仕事なんてできやしない――けれど、特別な力は持っていたから。

 前世で教わった、命を奪うことも守ることもできる力。

 それを使えば、どうにかこうにか生きていけるだろうと思った。


 加えてこの世界には、魔法と呼ばれるものがある。

 元の世界では治療が難しかった病気も、お金とコネさえあれば治すことができるという話だった。

 未来は何となく明るい。

 そう思い、わたしはまたゴールに向けて走り出した――んだけど。


 ……うん。言ってしまえば舐めてた。

 わたしの身体は自分でも驚くくらい病弱で、仕事どころかちょっと町を散歩することすら厳しかった。

 おまけに勉強も交流もできないものだから、騎士団や八重城のお偉い方々が敷いてくれた福祉制度の存在も知らないままで。

 

 この世界に来て一か月弱。早々にわたしは、露頭に迷うことになったのでした。


 いや……でも待って。話はそこで終わりじゃない。

 なんと、そんな惨めな小娘の前に、救いの手を差し伸べる人が現れたではありませんか。

 違う。人ではない。人の形をした悪魔だ。


 悪魔の名は――アネモネ。


 この世界で人気の、役者でありアイドルであり演出家であり脚本家でありデザイナーでもある、とにかく他者の心を満たして虜にするスタァを超えたスタァ。


 せめて体力作りからとウォーキングを始めて、十分も立たないうちに公園のベンチで休憩していたわたしの前に、偶然通りかかったアネモネは、生きる力を与えてくれた。

 それは活力になる素晴らしいショーを見せてくれたとか、お金を恵んでくれたとか、医者を紹介してくれたとか、そういうことではなくて。


 本当に生きるために必要な力――アネモネが日々のスタァ活動で観客から頂戴していた()()を分けてくれたんだ。


 生気とは悪魔が不死性を存続させるために必要な、根源的生命エネルギーのこと。

 目に見えないガソリンのようなものだ。

 それを注がれたおかげで、わたしの尽きかけの命は首の皮一枚繋がった。

 進行はだいぶ遅くなったし、身体も随分軽くなった。


 わたしはすぐ、何かお手伝いできることはないかとアネモネに言った。

 直感したんだ。この悪魔がこんなにも他人に親切にするということは、それだけ他人から親切にされたい、愛されたいんだって。


 それならわたしと、互いに愛し愛されるような双方向な関係が作れるかもしれない。

 そう――思った。


 そうして色々な建前を張り付けてなんとか、わたしはアネモネの助手として共に時間を過ごすことになった。

 しばらくは楽しくも忙しい時間が続いたな。

 見るもの全部が初めて。覚えることも沢山。

 わたしの第二の人生は、ここからようやく始まったといっても過言ではない。


 ステージの裏方。舞台の共演。取材の手伝い。あとは家事についても、一通り経験することができた。

 特に料理。覚えるのは本当に大変だったけど、アネモネの喜ぶ顔が見たくて一生懸命頑張った。

 オムライスを美味しいって言ってくれたのが嬉しくて、そればっかり作った頃もあったっけ。

 髪のアレンジとか服のコーデにも手を出すと、センスが良いって褒めてくれた。


 そのうち、わたしは自然とアネモネ以外の人とも接する機会が増えて。

 尽くす生き方や自分を曲げない生き方の、表現の幅を知った。

 心の在り方だけじゃなくて、時には服装でそれを表したりとか、そういうこと。


 ――そうして、あっという間に二年が過ぎた頃。

 アネモネがある話を持ち掛けてきた。

 それは水面下で少しずつ進行しているわたしの病気を、完全に切り離す方法があるという話だった。

 ただしその方法は、わたしを人の道理や生命の輪廻から外してしまうらしい。

 

 アネモネはわたしに、考えて考えて考え抜いて結論を出してほしいと言ったが……即答で了承した。

 人の道理? 生命の輪廻?

 そんなのどうだって構わない。

 アネモネがわたしに選択肢をくれたという事実が大切で、答えなんか決まりきっていた。


 この二年間。わたしはアネモネと共に過ごして、少なからず空洞が埋められていくような感覚があった。

 ならばまさに、渡りに船というもの。

 今後もずっとずっと、人の一生よりも長い時間をアネモネと過ごせる方法があるなんて、素晴らしいことこの上ない。

 そう思った。

 同時にそれくらいしないと多分、わたしの飢えは満たされないのだとも。


 だから、何を躊躇う必要がある。

 わたしは迷うことなく、アネモネと眷属契約を交わした。

 人を捨て、人に通用するべき常識から外れた。

 元々そんなモノ、わたしにあったのかも分からないけど。


 かくして、二度目の生すら超えた新たなわたし。

 悪魔の眷属として、好きな人と二人三脚で生きていくこれから。

 触れるよりも見るよりも深いところで繋がれる悪魔の目でお互いを射抜いて――不意に答えを得た。


 見えないはずのモノが視えた、瞬間だった。


 その時、これまで走り続けてきた自分が、怖いほどに報われた。

 アネモネの目に映るわたしの愛は、わたしが思い描いた形そのもので。

 わたしの目に映るアネモネの愛は、わたしが欲しかった愛そのもので。



 ああ――良かった。わたしは何も、間違えてなかったんだ……。



 わたしの目を通して、あなたの心が伝わってくる。

 ありがとう。こんなにも不器用なわたしの愛を理解してくれたことが、本当に嬉しくて仕方がない。

 あなたの前でならわたしは、幸せな笑顔を浮かべるミアでいられると思う。

 だからそっと、わたしより少し大きいその身体を抱擁させてほしい。

 言葉もなく、わたしたちはお互いに安らぎの温度を共有しようとして。

 今度こそ、これまでの人生に足りなかったモノを手にする。

 はず、だったのに。



 ――ミア。君への愛は、黎明だった。

 でもボクはその夜明けを拒絶しなければならないんだ。

 


 意味が、分からない。

 わたしは間違いなくアネモネを愛していた。アネモネに愛されていた。

 アネモネは間違いなくわたしに愛されていた。わたしを愛していた。

 たった今、この瞬間まで、捻じ曲げようがないほどに、お互いがお互いを大切に思う相思相愛だったでしょうが。


 なのになんで……許せない。許せない、許せない。許せない許せない許せない。許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない――――――許せない‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼


 アネモネはサキュバスじゃなかった。それがどうした。

 アネモネはアネモネだった。それがどうした。

 アネモネは嘘を吐いていた。それがどうした。

 アネモネは欲しかったモノを自分から手放した。()()()()()、どうしても許せない。

 

 アネモネは、アンタは、お前は、わたしの内側に何を視た――?


 魔眼を通して、アネモネの視ているわたしの心象がフィードバックする。

 それは、かつて死の間際に抱いた、わたしの最期の望み。


 同時にアネモネの中には、相反するしかない欲望が渦巻いていた。


 ああ……そうか。

 最初に訪れたのは納得。けれどもすぐに、それは悔しさへと変化した。

 わたしはアネモネの傷を、無条件に癒すことができなかった。

 それが悔しくて。切なくて。疑問で。

 どうして。 



 どうして全部――無かったことにしちゃうんだよ。



 あ……まずい。これはダメだ。今にもぽきって心の折れる音が聞こえそうで、いやもう聞こえちゃってる。無理だ。限界だ。これ以上は努力できない。走れそうにない。これまで積み上げてきた自分が崩れてぐちゃぐちゃになっていくのを感じる。

 時間が遡るみたいに、お姉さんと出会う前の自分に戻っていく。

 目の前の景色が病室に、あの無機質な箱庭に、あの血塗れの鳥籠に上書きされていく。


 フィードバックする光景が、わたしの望みを見せる。

 それは最期のではなく、最初の願い。

 そこでわたしはまた、掛け替えのないモノを掴み損ねたのだと、理解した。

 

 言われてみたら昔、夢を見ていたっけ。

 もう退院していいよってお医者さんが言って、家族が迎えに来る夢。

 うん。なるほど。納得。それだから、ひとりじゃあ満たされなかったんだ。



 だってわたしは、いつか見た親子のように、誰かと一緒に鳥籠の外へ出たかったんだから――。



 左腕に見える注射痕。

 否定したくて刃を突き立てる。

 信念なんかどうでもいい。もう役に立たない。

 銃口よりもずっと、肌を切ったほうが痛いし、感じる。

 生きてる感覚を、味わえる。


 これまで避けてきた、してこなかったことなのに、気持ちがいい。

 満たされてるかは分からないけど、気は紛れる。

 いいね。これからはしてこなかったこと、どんどんしていこうよ。

 たとえばほら、わたしは恋をしたことが無い気がする。

 いつもその段階をすっ飛ばして双方向に行くから、恋をされても恋をすることはなかった。


 どうせ叶わないのならいっそ、一方的にしてみるのも、いいかも。

 それはもしかしたら、愛じゃなくて哀で、恋じゃなくて乞いかもしれないけど。

 気が紛れるならもう、どうにでもなってしまえばいいんだ。


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