12話『愛は、酩酊』
☆
銭湯をあとにしたオレは、案の定というかいつも通りというか、当てもなく町をぶらついていた。
もうミアの部屋に戻るつもりはない。
オレがよくても向こうがそれを許さないだろうし、向こうが許してもオレにだって思うところはある。
となると毎度、行き先に困るのがツキヨミクレハというもので。
最悪、一度断った騎士団を頼るか……。
確固たる自我という部分で答えは出たけど、なんでかオレの姿は未だに女のままだし。
また公園のベンチで寝て、シャーロットさんに怒られるのも嫌だ。
で、思い出したように、とある路地の入口で足を止めた。
そうだ。一区切りついたってことは、行ける場所が増えたってことじゃねえか。
正確には行く理由ができた、か。
――宿題ってのは、できたら提出しにいくものなんだろ?
そんなわけで、例のバー天使の店を訪れたのだった。
のだが。
「……やってなくね?」
明かりがついてない。変だな。時刻はもう夜で、看板に書かれてる営業時間を見たところ、一時間前にはもう開店してるはずだ。
今日は定休日ではないっぽいし。
扉に手を掛ける。なるほど。鍵は開いてるな。
「う、うーん……」
腕を組んで少し考えた末、中に入ってみることに決めた。
もしも何かしらの犯罪が絡んでるなら、オレはそいつを見過ごせない。
背負ったものに誓ってな。
で、何も異常がなかったとしてもまあ、それに越したことはない。その時はオレが泥棒に間違えられて、素直にごめんなさいと謝ろう。
「よし」
扉を開けて店内に入る。瞬間。
からんころん、と控えめなベルが鳴った。
「――――」
やっべ。少なくともこれで客が来たことはバレちまった。
……仕方ない。こうなったら慎重に、でも勢いで行くぜ。
ため息ひとつ。開き直って足音をガンガン立てながら、奥に構えたバーカウンターまで進む。
すると音もなく、胡散臭い笑顔の男がにょきっと生えてきた。
「やあ」
「ひやぁぁぁぁぁ――⁉」
悲鳴。もしも騎士が聞いていたら飛んで駆けつけるほどの、まごうことなき絶叫。
しかも女の甲高い声だから、自分で聞いてて耳がキンキンする。
「うわあ、びっくりするなぁ」
「ってアウフィエルかよ! 紛らわしい!」
危うく聖剣でぶった切るところだったぜ。
なんでいきなりカウンターの下から顔出してくるんだよ……。
予想もしていなかった登場の仕方に、オレの心臓は不覚にもドッキドキのバックバクだった。
つーかコイツ……なんで布団に包まってんだ?
よく見りゃ髪も服も乱れてるし、何となく顔色も悪いような。
いかにも体調を崩して寝込んでますって様子だ。
「風邪でも引いたか? 天使とはいえおっさんだなー。気ぃつけろよ」
「おやおや、随分なことを言ってくれるね。……まあ今はそういうことでいいか」
アウフィエルはのそのそ蠢きながら、手近なテーブル席に腰を落ち着かせた。
もしかして、立ってるのもカウンター席に座るのもツラいのだろうか。
「なんか必要なモンがあったら買ってくるけど?」
「はは、優しいね。老体に沁みるよ。でも気持ちだけで充分。解呪――じゃなくて、薬はもう飲んだあとでね。あとは治るのを待つだけなんだ」
「ならいいけど。わりーな。変な時に来ちまって」
「いいよ。丁度話し相手が欲しかったところだし、君だってそうだろう?」
向かいの席にどうぞ、と微笑みながら招かれたので座る。
相変わらず見透かしたようなことを言うヤツだ。
心にすっと入り込んでくる穏やかな声に、大人らしくも子供っぽくもある眼差し。胡散臭さは漂うものの表情は豊かで、全体的に柔らかい物腰。
多分、いろんな人と話すバーテンダーって仕事が、これ以上なく肌に合ってるヤツなんだろうな。
なんて改めて観察してみたが、ふむ。
吸血鬼としての夜目が効いてるのか、店の明かりがない分、前よりも色々と見えてる気がする。
「…………」
例えば。このおっさん表情とは別に、中々雰囲気のある顔をしているなー、とか。
整った顔が程よく年を取り、箔が付くというか貫禄がある感じで。
競ってるわけじゃないが何だか負けた気分になるぜ。
一朝一夕ではどうにもならない経験の差というのを、思い知らされるというか。
「なに……そんなに見つめられると照れるな。もしかして惚れちゃった?」
「気色わりーこと言うなよ……。単に、アンタはそんなんだったんだなって」
「これはまた女の子らしいというか、ロマンチックなことを言うね」
「はぁ? 何言ってんだ。色々と珍しいなって思っただけだぜ。顔とか目とか、あと髪とかさ」
ふむ。とアウフィエルは少し考えるように目を伏せてから、再び笑みを浮かべた。
どこか、何かを誑かすような笑みを。
「髪は、灰桜色だね。カウンターに立つと照明の影響で少し違って見えるけれど、これが自然な色さ。そして瞳は枯野色が近いかな。こう見えて昔はもっと鮮やかで綺麗だったんだよ。でも――枯れてしまうものだったから。ワタシの瞳は」
「そうか? この前も思ったけど、結構目を引くけどな。アンタの目」
言ってから後悔する。
なんでオレはおっさんの目の色なんか褒めてんだよ。思い入れがあるわけでもないのに。
これはまた軽口を叩かれる、と思いながらアウフィエルを見ると、彼は笑顔の仮面を被って言うのだ。
「ところでさ。さっきから訊きたかったんだけど――君ってクレハだよね?」
「は?」
そこで思い出す。……そういえばこいつは、オレが女の身体になったことを知らない。
マリアやユキノが容易く看破してきたから気にもしなくなってたが、今のオレと前のオレは、それはもう違う姿形をしていたのだ。主に胸とか。
「まさか、さっきまでオレが誰だか分からずに話してたのかよ」
「ごめんごめん。でも、ちゃんと考察はしたんだよ? ワタシが天使だと知っているから聖戦関係者。しかし君はその誰の外見にも当てはまらず、女の子扱いしたり口説いたら露骨に嫌がった。そこに加えて夜目が効いて牙のある種族であるという点、最近ワタシと目を合わせたという点、ほかにも仕草とかから分析して――君がクレハかクレハの模造品だってことまでは判別できた」
「で、結局は直接聞いたわけかよ」
呆れたように言うと、アウフィエルは少しだけ目を細めて、間を置いてから口を開く。
「あー……嘘。すまない。嫌な言い方をしたよね。さっきのは全部忘れて。本当は最初からクレハだと思ってたんだ。これは誓って、嘘じゃない」
なら、なんで面倒な言い訳までするんだ。
「ただその、そうだとしたら、ちょっと困るっていうかさ。ワタシの宿題が君を、女の子にしちゃうぐらい追い込んでいたのなら……出題者として複雑な気分になるだろう?」
そう告白するアウフィエルの顔は、なんだか言い訳をする子供のよう。
目を逸らして、困ったように口角を上げて……より顰蹙を買うようなことを言ってしまう。
「……アンタ、やっぱり人でなしって言葉がよく似合うよ」
「そうかなぁ?」
自覚がないあたりがよっぽど。
いや。自覚していてもついボロが出てしまう、出してしまうあたりがな。
「けど、これではっきりした。君がここに来た理由。答えは出たってことだよね?」
「ああ。そういうこと」
やっと本題に入れるぜ。
「そうか、そういうことなら……んん、ごほっごほっ……失礼」
「いや」
「早速、是非聞かせてほし――んぐッ、ごほッ、ごほ……失敬。……ぐへ」
間の悪い咳だ。しかもアウフィエルのヤツ、さっきよりも息が上がってる気がする。
そうだよな。治るのを待つだけってことはまだ治ってないってことだ。
リタウテット特有の良くない風邪かもしれないし、無茶させるわけにはいかない。
「……平気じゃねえなら、別に今じゃなくていいぜ? さっさとあったかくして寝な」
「悪いね。けど、むしろ安心した。今じゃなくていいってことは、その答えが簡単には変わらないという余裕の表れだ」
「どうかな。アンタのせいでオレ、一生女になっちまうかもよ?」
「あはは、いいよ。そっちの顔、かなりタイプだし」
「おえぇ……」
やっぱり少しくらい無茶させてやろうか、コイツ。
「まあでも、君はやっぱり男の子だよ。そう選ばれたし、君がそう選んだ」
「……アンタ、人を見てるよな。アネモネと似てる」
「アネモネと? まさか。ワタシのは磨けば誰もが使える技術。アネモネのは天性の才能さ。比べるものじゃないよ」
「才能頼りじゃねえよ、アネモネは。少なくともオレの前であの紅い目は使ってないぜ」
ミアも、そしてその力を借りてる時のオレも、人の心を読んだり内部に干渉することのできる悪魔の目を使っている時は、目の色が紅くなる。
それでいうとアネモネは、あの強盗事件から昨日まで、オレと接している間はただの一度だってそうなったことはなかった。
それがなくても、話してないことを言い当てたり、観客の心を掴み満足させる最高の舞台を作り上げていたんだ。
……だというのに。
「いや、あの子は使ってるよ」
あっさりと、アウフィエルは言い切る。
「――え?」
「雷の属性を起源とする人の内部に干渉できる力と、悪魔の特性たる魅了や幻惑を掛け合わせた魔眼――君の言う紅い目さ。うん、確かに使ってる」
それを聞いた瞬間。オレの中にあるミアの血の記憶が、疼いた気がした。
☆
アウフィエルの店のソファーを寝床にして夜を明かしたオレは、翌日アネモネの劇場を訪れていた。
理由は、昨日のミアとの一件と聖戦の今後についてを話すためだ。
初戦の内容は破綻した。最初から破綻していた。
だからこそ、新たに勝負方法を考える必要があった。
聖戦の期限も残り半月。再考するか、それとも誰かに対戦権を譲るか、どっちにしても話し合わなくちゃ始まらない。
レイラは相変わらず館に籠ってるから、吸血鬼としてはオレひとりで決めなくちゃいけないんだろうが――身も蓋もないことを言えば、聖剣は欲しい。レイラの願いを叶えてやりたい。
だからそのために、やれることはやっておきたかった。
……とは言いつつ、大切な眷属を傷つけたコトに対する謝罪をしに参ったってのが、気持ちとしては大きいんだけどな。
これはミアの分、これもミアの分、これも、これもこれも――って感じで何発か殴られる覚悟を胸に、いざ。
エントランスに入り、時計を見る。この時間ならアネモネは今日のリハを行っているだろう。
となると舞台裏じゃなくて、このまま劇場に行けば会えるな。
階段を上がり、正面にそびえる重い扉を開けて、中に入る。
「…………」
ああ、この空気感。
たった一日来なかっただけですっかり観客側の視点にさせられる。
舞台の上から見る観客席は夜空に浮かぶ星々のようで、観客席から見る舞台は星を照らす月明かり。
オレはもう照らされる側なのだな、と名残惜しいような、懐かしむような気持ちになりながら――ふと舞台の前に立つ違和感に気付いた。
「『……先ほどから述べている通り、何も知らない。付け加えて言うなら彼女は決して、ナイフなど使わないよ。いい加減理解してくれると助かるのだけれどね』」
「言いたいことは分かります。しかしこちらにも意地がある。手ぶらで帰るわけにはいかない。あなたの助手でしょう? ほんの少しでも何か、何か情報があるはずだ」
「『希望的観測だね。それに……元、助手だよ。彼女は』」
開演前なのに、役者でも観客でもない男がいた。
舞台と観客席の間で、その男はアネモネと何かを話している。
少なくとも、景気のいい話じゃあなさそうだが。
ちらりと、アネモネがオレを見る。それに釣られて男も。
見ればそいつは、腰に剣を携えた騎士だった。手元にはペンとメモ帳。その姿、事件調査のための聞き込みをしている刑事ってのが相場だが。
「失礼――君はツキヨミクレハさんですね! 少しお話を聞かせていただきたい!」
さすが騎士様。よく通る大きな声だ。
オレは言われるまま、ふたりのところへ歩いていく。
「『……なぜ来たんだい、クレハ?』」
「ミアのことでちょっとな。で、アンタは?」
「いやなに、君と同じだ」
「はいぃ?」
騎士はメモ帳に挟んだ手のひらサイズの紙を取り出す。
何枚かあるみたいだが、よく見えるように差し出された一枚目の紙には、昨日行った銭湯の内装を背景にオレとミアが描かれていた。
ちゃんと色まで付いてる。ところどころ、子供が色鉛筆で塗ったみたいに乱雑だけど。
「なんだこれ。写真?」
「そのようなものです。これは昨日あなたたちが訪れた公衆浴場の利用者の記憶から、念写したもの。描画度数はまちまちですが映ったモノは事実です。続いてこちらも」
次は女護連のふたり、シャーロットさんとエレーナさんだ。
さらに次はミアとエレーナさんが言い争っているようなやつ。
既にオレは映っていない。
「あなたはミアさんと共に入り、ミアさんを置いて先に帰った。そこに間違いはありませんか?」
「まあ……」
オレはちらりとアネモネを見てから言う。
「喧嘩したっつーか、ひと悶着あってな」
「『…………』」
騎士には分からないほど繊細に、アネモネはオレを睨んだ。
気まずい。でも、言い訳するつもりはない。
オレは大切な眷属を傷つけたんだ。責められて当然だと分かってる。覚悟はできてる。好きにしてくれて構わない。
そんな想いを込めて今度はまっすぐにアネモネを見つめ直すと、アネモネは強く握り締めた拳の力を、少しずつ緩めてくれた。
決して、怒りが収まったわけじゃないだろう。
ただ第三者が居るこの場には相応しくないと、判断を下しただけ。
ならオレもそれに倣うのみだ。
「それでは、こちらをどうぞ」
そんなオレたちの言葉無きやり取りを余所に、騎士が別の紙を見せてくる。
「――――、は?」
目を見張る。思わず声が出る。
映っていたのは裏路地で、地面らしき黒には別の色が上塗りされていた。
端に繊細な茶色を載せたヒト型と、その下にだらしなく広がる赤色。
オレは直感で理解したことを即座に放棄しようとした。
しかし騎士はそれを許さずに、淡々と口にするのだ。
「昨夜、この裏路地でシャーロット氏が殺害されました」
直感は、当たっていた。
地面に倒れているのはシャーロットさんで、広がる赤は紅――血液だ。
「死因は失血によるもの。腹部には小さな切り傷が二か所、大きなものが一か所。そして」
紙がもう一枚捲られる。
シャーロットさんが倒れているのは変わらない。
でもその傍らに、影で隠れていたものが浮き彫りになっていた。
黒い髪とピンクの服と禍々しい漆黒の――。
その特徴は、まるで。
「最後の一枚は同僚の記憶から念写されたものです。傷は深くないようですが、彼は肩から腰までを斜めに切り付けられ、現在治療中。我々騎士団は現在、犯人と思しきミアさんを捜索しています。何か情報があれば、ご協力を」
「…………」
頭が追い付かない。
シャーロットさんが死んだ?
信じられない。だって昨日会ったばかりで……しかもミアが殺したなんてあるはずがない。
理由は、動機はなんだ。
そもそもミアは今どこにいる。
オレがミアを傷つけたからこうなってしまったのか。
まさか、考えたくもないが、何か自覚していない部分で、オレのせいでシャーロットさんが殺されてしまったのだろうか――?
「『クレハ、知っていることがあるなら話してくれ』」
「……、あ……」
アネモネの声に、顔を上げる。
眼前の騎士はオレの顔をじっくりと観察していた。
ああクソ、おかげで冷静になったぜ。
この野郎、オレの反応を見るためにわざわざそういう見せ方をしやがったな。
見事に揺さぶりをかけられたってわけだ。
「悪いけど、オレは知らねえ」
「何も? 彼女が以前アネモネさんの助手をしていたことは?」
「……マジに何も知らねえよ」
そう答えると、騎士の威圧感が増した。
そっちも仕事だから仕方ないんだろうが、仲間がやられて気が立ってるんだろうが……嫌だね、人から疑われるってのは。
本当に何も知らなくても、何か後ろめたい気持ちにさせられる。
「……分かりました。ひとまずは結構。だがもし、これまでもこれからも、過ちを犯した彼女を庇うのであれば必ず罰が下る。それを覚えておいてください。情報があればいつでも騎士団へ」
庇うなら同罪。それが嫌なら突き出せ。
そう言って騎士は背中を向ける。
が、すぐにまた踵を返した。何か思い出したらしい。
「そうだクレハさん。サンモトマリアの情報も持っていたらいただけませんかね」
「――今、なんて言った?」
「サンモトマリアの情報です。安心してください。その件でのあなたの無実は、団長様が保証されている」
「その、件?」
ダメだ。もう一度聞いても分からない。
ともすればミアのこと以上に、頭が追い付かない。
「まさか知らないのですか? 彼女の身柄を確保するようにと団長から通達が出たこと」
「いつ」
「今から一週間ほど前に。……東区に甚大な被害をもたらした《妖刀》の最重要関係者ですので、無用な混乱を避けるため表立って動いてはいませんが、今月中に進展がなければ一般市民にもある程度の情報が公開されるでしょう」
なぜ、どうして。
マリアが妖刀の最重要関係者――そんなことは知っている。
だってそれをアヤメさんに伝えたのはオレだ。
そしてアヤメさんは、かの騎士団長は、マリアに対する調査を慎重に進めると言っていた。
じゃあどうして騎士団全体に通達を?
多分、何らかの確証を得たことで行動に踏み切ったってことだろう。
そこまではいい。
悪いコトをしたら叱られるものだ。
マリアが大きな過ちを犯したのなら、その確たる証拠が出たのなら、逮捕されてしかるべき裁きを受けるべきだろう。
ああ、そこは納得できる。ゆえに疑問に思うのは。
アヤメさんが、オレに何の報せもくれなかったという部分。
自惚れ過ぎだろうか。でもアヤメさんはそこを怠るような人じゃない。
オレに言えない理由があったのかもしれないけど。
でもだったら、それはなんだ。
マリアに会ったこともない騎士が伝えられて、オレには伝えられてない意図は。
オレは今、告げていいのだろうか。
昨日この南区で、マリアに会った事実を。
アヤメさんに伝えてくれと託していいのだろうか。
「…………。いや、そっちも何か分かったら、すぐに言いに行くよ」
逡巡の果てに。オレはそう言って騎士の背中を見送った。
劇場の扉が閉じ切るところまで見届けてから、手近な席に腰かけて軽く頭を抱える。
「どうなってんだよ……」
シャーロットさんが死んだ。殺した犯人はミア……ってことになってる。
オレがバーでアウフィエルと話していた裏で、まさかそんな事件が起きていたなんて。
そこにマリアだ。
あいつには確保命令が出されていた。それも一週間も前にだ。
本人はどう思っている。自分がお尋ね者だって、気付いてないなんてことがあるのか。
なぜあいつは昨日、オレの前に姿を現した――?
――きぃぃ。
マリアが現れて、ミアが事件に巻き込まれた。
そのふたつに関連性はあるのだろうか。
――ばたん。
今のオレがやるべきこと。
誓った約束がある。背負った責任がある。傷つけてしまった人がいる。
全部を一度に解決するのは無理かもしれない。
それでも、オレは。
――かつん、かつん。こん。
大丈夫。答えは何も揺らがない。
俯瞰しすぎて、自分の命が分からなくなるなんてことはないんだ。
さあ。できることをやっていこう。
「『立て、クレハ』」
「ああ……わりー、まだ話すことあったもんな」
「『そうじゃない。あれは、なんだ――?』」
教えてくれないか、そう呟いたアネモネの声音には、緊張が走っていた。
席を立つ。アネモネの見ているほうに視線を向ける。
そうしてオレは、ソレを認識した。
全身の産毛が逆立つ感覚。脊髄を引き抜かれたような吐き気。
「――――」
突如、世界は灰色の檻に閉じ込められる。
書き換えられる風景。上書きされる大気。
無機質な張りぼてが組み立てられていく。
薄暗い入口の前には、人が立っていた。
共にソレを見上げるオレとアネモネだったが、その認識には若干の、けれども大きな差があっただろう。
アネモネはそいつの顔を見ていなかった。
暗くて、きっと見えなかったんだ。
だから暗闇以上に深い漆黒へと目が向いていた。
それは出自不明の呪具。何者かによって作られ、与えられた、使い手を狂気の底に沈める災禍の一刀。
即ち――、
「――妖刀」
オレが反射的に呟いてしまったのも悪かった。
アネモネの理解はそこで止まってしまったのだ。
見えないモノが視えるからこそ、単純な外見にまで気が回らなかった。
その一方で、オレには見えていた。
人の内側。魂の形などを見る癖などはないから。
ただ単純に、薄暗い程度では妨げられない視野でそいつの顔を――目にしていた。
「『あれが噂に聞く妖刀か』」
アネモネが言う。視線を一振りの日本刀に注ぎながら、展開される世界に感心しながら。
「『そしてこれが幽世、空想の結界。懸命な判断だよ、クレハ。あんなヤツにボクの劇場を壊されるのはごめんだ』」
「違う……」
完成した空想の檻。幽世は劇場を模していた。
舞台があって、観客席があって、元の空間とさほど変わらない場所。
アネモネは舞台の上に立っていて、その少し後ろにオレが居て。
「……違うんだ!」
眩しい。熱い。舞台上に降り注ぐ光が視界を遮って仕方ない。
一方でやはり観客席は暗く、闇に包まれている。
これが劇場の正しき姿。そう、何も間違ってはいない。
なのに、だというのに、それでも違和感は拭えない。
なぜならば――。
「この幽世を展開したのはオレじゃねえ――ッ‼」
オレの右手には、いつの間にか聖剣が握られていた。
幽世とはオレがレイラから預かった聖剣、《ディレット・クラウン》の能力――心象風景の具現化によって生成される箱庭みたいなもの。
それが勝手に構築されたということは。
オレの内側に入り込まれて、心象風景に干渉されて、聖剣を使うように思考を操作されたということだ――。
刹那、ぱちんと指を鳴らす音が劇場に響いた。
同時にすべてのライトが向きを変え、アネモネから妖刀へ、妖刀からその持ち主へと注がれる。
ああ、これもまた正しい姿。
舞台に立つ役者が観客席を演出のひとつとして使う場合。
やはりそこにはライトが当たる。
オレは先ほどから見えていたその光景に改めて身構えるが、しかしアネモネは、ようやく目視した相手の姿にただ茫然と。
「――――ミ、ア?」
今回の妖刀所持者の名前を、己の眷属の名前を、口にした。
「どうして、君が……そんなものを……」
まるで演技を忘れた役者のように見ていられない顔。聞くに堪えない声。
それを冷めきった目で見下すミアは、普段通りの地雷系ファッションに混じった最低最悪の異物――妖刀と名付けられた災禍の日本刀を片手に告げる。
「『愛は、酩酊。脳は麻痺し、醜い真実は清廉潔白なる仮面の下に秘匿された。わたしはそれを望まない。ゆえに暴いてやろう。わたしはそれを拒絶する。ゆえに引き剥がしてやろう。さあ、約束を果たしに来たよ、アネモネ。
《第一幕 ライムライトで真実を》――開演』」




