21話『君の祈りは届くよ。手を合わせなくても』
☆
あーあ。また服、傷物にしちまったな。
「はぁ……はぁ……はぁ、ぁぐッ――!」
歯を食いしばり、腹に刺さった包丁を引き抜く。
鋭い激痛。逆流する血液。せり上がってくる赤。
しかしそれらは瞬時に、時間を巻き戻すように元の形へ戻っていく。
こういう時、吸血鬼ってのは便利だよなぁ。
まあ痛みはそのままだから、当然死のビジョンってやつがよぎったんだが――おかげで頭がすっきりした。
止水の境地。冷静な思考。それによって導き出されたオレが真っ先に取るべき行動は、牽制だ。
別の路地からこちらの様子を窺っていた騎士団の連中。そいつらに向けて、近づくんじゃねえと眼光を浴びせる。
次は遠ざかっていく馬車の荷台。
護衛のツバサが不穏な気配に気づいてるのは分かってる。
だからこそ、さっさと教会に行っちまえよと目で訴えた。
頼むから、この人に取り返しのつかない間違いを犯させないでやってくれ――と。
「え……ちょ、ちょっと! 大丈夫ですか⁉」
刺される覚悟はあった。そうまでして止める価値があった。
けれど実際に刺されたのは、自分ではないほかの誰かだった。
そんな状況に慌てるなというほうが無茶なんだろうが、今は無理にでも静かにしといてもらうぜ。
「少し黙ってな」
オレは着ていたシャツを捲って腹部を見せた。
無論、そこに刺し傷などはひとつもない。
「少年、くん……まさか……」
人並外れた回復能力。人並み外れた鋭い牙。
それらを目の当たりにした女は、ひとまず言葉を失ってくれた。
それでいい。
ここで騒がれたら、場を見極めようとしている騎士が駆け寄ってきてしまう。
それはちょっと困るんだ。
だってこの人は、まだ戻れるから。
「ほらよ」
オレは包丁を持ち直して、《カランコエ》の店主の奥さんに差し出す。
血色の悪い顔。乱れた髪。噛み癖のある爪。
同じだ。娘を失ったショックで路地裏を徘徊していたシンジョウと。
他人を見失い。自分を見失い。底無しの沼に落ちていく――その一歩手前に、この人は立っている。
きっと前のオレだったら、それを何とかしたいとは、思わなかっただろうな。
自分のことで手一杯で、無理をする理由も余裕もなかったから。
けど今は、そうじゃない。
「なん、で……?」
「アンタが持ってたほうが、あのおっさんも喜ぶんじゃねえの」
「わた、私っ……刺しちゃった、のに……?」
「今ので気が済まねえなら、あと一回だけ刺していいぜ。でも人はダメだ。バカでアホでクソなヤツになっちまう」
「…………っ」
包丁を受け取った奥さんは、その重さに耐えきれず、膝をつく。
――オレは責任を負った。
そして、それを果たさない結果を知った。
町があんな地獄になってしまった原因の一端は、力を上手く使えなかったオレにあるし。
例の告発記事ができたのだって、元を正せばオレが宿舎の壁に穴を開けたからだ。
自分の間違いや見逃しが、誰かの不幸に繋がる。
それは本当に、寝覚めが悪くなって仕方がないこと。
だからここに来た。
そういうのを取りこぼさないようにしたかったから。
「にしても、アンタが来たのは意外だった」
「……最初で、最期の……一回のつもりだったの……」
「ん」
この道の先に構えた教会を見る。
雨粒に反射する街灯の明かり。それに照らされる正門の前には馬車が止まっており、中にはもう誰も乗っていない。
何事もなくとはいかなかったが、護送は完了したらしい。
「あの人……もう行っちゃった。……私、これからどうすればいいの……?」
オレを、そしてその先の、雨雲に覆われた夜空を見上げる奥さん。
その頬に流れる雫は涙ではなく、ただの雨粒だ。
きっと、今のこの人は泣けない。
泣くことすらできないから、行き先を決めあぐねている。
けど、これでいいんだ。
復讐しなければならないが、どうしたらいいか分からないに戻っただけだが。
それでもとりあえず、あの包丁が誰かを殺したり、奥さんが騎士団に捕まるなんて事態は避けられたんだから。
オレにできるのはここまで。これが精一杯。
あとのことは、もっと相応しいヤツに任せるとしよう。
「さっき意外だって言ったのはさ、アンタならヤケは起こさねえだろうなって思ってたからなんだぜ? だってアンタは、自分で思ってるよりずっと独りじゃねえからよ」
そう言いながら隣の女に目線を送る。
女はすぐにオレの言いたいことを理解して、奥さんの身体を軽く抱きしめた。
「……そうなんですよ。あのお店を居場所にしていた子供たちは、いつだってあなたの助けになりたいと考えています……」
「そんなの、ただの傷の舐め合いだって……お互い分かってるくせに……」
「分かってます……。それでも、どんな形でも、あなた方に救ってもらったんです。もう一度生きることができたんです。だからお願いします。今度は私たちに、助けさせてください……!」
その優しい懇願に、返事はなかった。
だが同時に、それを問い詰めるような言葉もなく。
二人はしばらくの間、ひたすら冷たい雨に濡れながら――小さな温もりを抱きしめていたのだった。
☆
「やあ、クレハ」
一週間後。とある探し物が終わり、北区へ出かけることを考えていた矢先。
東区の噴水広場に設置された復興支援者用の仮設テントに、アヤメさんがやってきた。
しかも、いかにもお忍びという恰好で。
「アヤメさん、どうしてここに?」
ゆるめのお団子ヘアに、度の入っていない黒縁眼鏡と、普段とはまったく印象の違う騎士団長様の登場に、オレは首を傾げる。
「うん、以前中断したデートの続きをと思ってな」
「マジですか⁉ いやでも今日は……なんでしたっけ、慰霊のなんとかって。忙しいんじゃないですか?」
「確かに夕方からは追悼式がある。だからこそ、今しか暇がないのだ」
そう言って少し困ったように笑うアヤメさん。
その表情と普段とのギャップに胸を打たれたオレは、言われるままついていくことにした。
まあ、元から断る気なんてなかったけどな。
オレからも、ずっと迷ってはいたけど、アヤメさんに伝えなくちゃいけないことがあったし。
そういうことで案内されたのは、西区にある小さな喫茶店だった。
昔ながらのレトロな雰囲気の、純がつくような店。
「――――」
店内に入ったオレは、思わず息を呑んだ。
ここ、とんでもなく再現度が高いぞ。異様といってもいいぐらいだ。
床、壁、家具は敢えて摩耗させることで歴史の長さを演出し、木材に絡みついたコーヒーの匂いや、卓上に置かれたメニュー表、紙ナプキン、灰皿など細かいところにも、とにかく余念がなく。
窓から見える景色、日の差し込み加減、観葉植物、ゆったりと流れる音楽まで、まるで本物以上に本物らしい――ひらすらに、ここが異世界であることを忘れさせる空間。
元の世界にあってリタウテットに無い素材が多々ある以上、ここまでの完成度に至るまで、一体どれだけの時間と金が掛けられたのか。
こう言っちゃなんだが、金持ちの歴史再現だな……こりゃ。
ベストが似合う初老のウェイターに案内され、一番奥の席へ。
適当に飲み物を注文し、びしっとした革張りの椅子に座る。
「……すげぇっすね、ここ。なんだか落ち着かないですよぉ~……」
オレに宿ったシンジョウの記憶には、前世で純喫茶に行ったことがある記録も存在していた。
だから嫌でも、この何でもない店のすごさというものを実感してしまう。
つーかあいつ、前世じゃあ喫茶店巡りがちょっとした趣味だったらしい。
リタウテットに来てからも、それなりに気に入った店があったみたいだが……いや、これ以上は考えなくていい。
「西区は八重城――お姫様のお膝元だからな。文化の継承と存続を名目に、ホームシックを力づくでどうにかできてしまうお偉い方が多いのだ」
そしてこういった場所は内緒話に向いている、とアヤメさんは付け足した。
お偉い方か。お姫様って言葉が出たけど、王様とかもいるのかな。
一瞬、オレ以外の記憶が再び脳内に広がりかけたので、軽く頭を振った。
あんまり他人の記憶に頼りすぎると、人格ってのが揺らぎかねない。
前にレイラにも言われたことだし、注意しとかねえと。
「最近は復興作業を手伝ってくれているそうだな」
「あ~、瓦礫どけたりとか、簡単なことですよ」
「謙遜した言い方だな。聞いているよ。用意された賃金は受け取らず、食事と寝床さえあればいい変わり者の助っ人、だとか。悪くない評判だ。君は……変わったな」
「そんなことないですって。ただ探し物してただけで、それに町を壊しちまったのはオレもだし。見返りを貰うようなことじゃないってだけで」
「いや、やはり変わったよ。今の君からは、どこかツバサを思わせる何かを感じる。そしてそれは、少し注意すべきことのように思う。ただの勘だが」
「…………」
話が途切れたところで、注文した飲み物がやってくる。
アヤメさんはコーヒー。オレは、カフェオレだ。
「――本題に入ろう。まずはこれを」
茶色の封筒がテーブルの上に置かれた。
厚みは一センチ弱。中身がなんであるか想像するのは容易かったが、オレはとぼけたフリをして聞いてみる。
「なんですか、それ」
「ここ数日分の賃金だ。この前の護送に協力してくれた分も入っている。その節は本当に感謝しているよ。対象だけでなく《カランコエ》のご婦人も守ってくれたのだ。被害者も、そして加害者も出さなかったのは、まさに最善の行動だった」
「いや、オレは……」
「君は、貰える物は貰っておくタイプに見えたが?」
「……そう、だったかも」
レイラのシチューも、《カランコエ》でのタダメシも、オレは特に遠慮しなかったもんな。
受け取らないって選択肢はなさそうだし。だったら多分、これでいいんだ。
オレは封筒をポケットにねじ込んだ。
その際ちらっと確認したのだが、中には最低でも十万タウ――リタウテットでの共通貨幣――は入ってそうだった。
十万タウ。前にレイラから貰った分とほぼ同額だ。
失くした分の金を稼ぐという目標は、期せずして達成しちまったらしい。
なのに素直に喜べないのは、オレの感覚がおかしくなっちまったんだろうか。
自分が自分じゃないような、心の置き所が分からない感覚に襲われたオレは、当てもなく天井を見上げる。
で、そんなオレの心情を、案の定アヤメさんはお見通しで。
「次の話にいこう」
気持ち柔らかめの声で話題を変えられた。
「クレハ、学校に行ってみる気はないか?」
「ええ……? なんですか急に」
「本当は騎士団に勧誘を、と考えていたのだがな。今の君にはそっちのほうが重要だと思った。リタウテットはまだまだ未開拓の世界だから、知識や価値観のすり合わせも兼ねて、学ぶという行為はとても重要視されている。寮に入ることもできるし、支援金も出るぞ」
「支援金?」
「勉強ができてお金も貰える、ということだ」
「それは、はぁ……まあ……」
寝床と生活費が手に入る。それはわりと、どころかかなり美味しい話だ。
学校……か。
勉強したい、という気持ちはないこともない。
生きるために学校に行く必要があるかっつったら、経験上そうとは限らないが。
でもどの分野でも知識がありゃあ、生きるのが楽になるのは確かだ。
学校っていう場がないと、案外勉強の機会なんてないしな。
けどなぁ……オレ、前世じゃあ学校行ったことないんだぜ?
それこそ小学校すら。
……集団行動とか、まったく馴染める気がしねぇ。
生きるために必要なことは自然と身に付いたし、さらに吸血で得たツバサとシンジョウの記憶は、リスクはあるが常に見れるカンニングペーパーみたいなもんだ。
中途半端に、学校行かなくてもやっていける状態なんだよな。今のオレぁ……。
「……なんか頭痛くなってきちゃいました」
「答えはじっくり考えて出すといい。……さて、最後の要件を話そうか」
「まだ何かあるんですか?」
「長くなって申し訳ない。だが、この話はまず前置きからさせてくれ」
「はぁ……」
カフェオレを飲みながら、話を聞く姿勢を見せる。
するとアヤメさんは特別製の手袋を着用し、どこからともなく一枚の羽根を取り出した。
「あっ、それって」
その羽根には見覚えがある。
アヤメさんと初めて会って、宿舎に案内された時。
去り際にアヤメさんが落とし、けれども次の瞬間には消えてしまった――炎を帯びた羽根だ。
そういや妖刀が現れた時にも見た気がするな。
見間違いじゃなかったんだ、アレ。
「私は、自らの羽根を使い魔として使役することができる。こんな風にな」
小さく炎の弾ける音がして、アヤメさんの手にあった羽根は一匹の鳥へと姿を変えた。
防火性の手袋を足場に、鋭い眼差しをこちらに向ける火の鳥。
その身に纏う消えない炎は、コントロールされているのか、アヤメさんの赤メッシュのようにごく一部に止められている。
「この使い魔は私の目となり耳となる。不死鳥の炎の特性上、非常時以外はそう多く使わないのだが、ティアーズ卿の頼みで君にも一匹つけていた。心当たりはないか? どこかで鳥の鳴き声を聞いた、とか」
「……あ! 森で道に迷ったときに聞こえました! あの鳴き声コイツのだったんですか⁉」
「正確にはこの個体ではないのだが、そんなこともあったな」
アヤメさんはそう言いながら、近くの窓を開けてそこから鳥を放った。
不死鳥の炎は使い手の死をトリガーとすることでしか消せない。
あの鳥も同じなんだろう。
だから普段は多用できない、と。
それを理解したところで、アヤメさんの表情が変わる。
お忍びの姿ではありながらも、このリタウテットを守護する《不死鳥騎士団》の団長としての顔に。
前置きが、終わったんだ。
「妖刀出現の折にも、状況把握やその対処のためにこの力を使用した。そこで私は、使い魔の一匹を通して目撃したのだ。――マリアが人並みならぬの力を使った光景をな」
刹那。一瞬の瞬きの際。目蓋の裏側に投影される雨の日の記憶。
――弎本真理亜。それが私の名前。
連鎖的に想起する、シンジョウの記憶。
――路地裏。死者がそのまま立って動いているような少女。
そして、あの雪の日の記憶。
――オレとマリアが倒れている最期の光景。
静かに血の気が引いていく一方で、話は続けられる。
「結果は彼女にとっても計算外だったようだが、それは他者を守るために使われた。……しかし、物が物でな。マリアは懐から日本刀の刃を取り出し、去来した巨大な岩石を一刀両断したのだ。……クレハ。君は彼女の力の起源を知っているか?」
「……いや」
「そうか。……これは、あくまで可能性の話だから、落ち着いて聞いてほしいのだが」
その先の言葉は聞かずとも分かった。
だってそれは、オレがアヤメさんに話すか悩みに悩んで結局、伝えることを選んだ事実だったから。
「――あいつは妖刀に関係してますよ」
そう言い切った時、一秒前まで聴こえていたすべての音が遠のいた気がした。
でも次の瞬間には、心臓がやかましく早鐘を打っていて。
だというのに思考はどこまでも、冷静だ。
「それは、本当か?」
さすがのアヤメさんも、そんな答えが返ってくるとは思わなかったんだろう。声に僅かな動揺が乗った。
多分、まだ全部が可能性の段階だったんだ。
マリアが妖刀に関わっている可能性。
ならばそれは妖刀の作り手の味方か、あるいは敵対する立場か。
人並外れた力は先天的なモノか、後天的なモノか。
前世での死因は。オレとの関係は。
すべての要因がたまたま偶然に重なってしまった可能性は。
そういったものをひとつひとつ検証することは、地道だが真実への確かな道のりになる。
けどそれじゃあ、次に間に合わないかもしれない。
だからオレは、不確かでも伝えることにしたのだ。
「証拠はまだないです。けどシンジョウの記憶とか、弎本って苗字とか、はっきりしないけど細々とした断片はあって……そういやオレ、なんであいつと一緒に死んだのかも分かんねえ……」
「……話してくれてありがとう。この件は私のほうでも調査しよう。彼女の居場所は分かるか?」
「いや……さーせん、知らないです」
「そうか。……中央都市にいるならどこかに部屋を借りているはず。まずはそこからだな。時間はかかるが、調査は慎重に進める。もしその間に新たな妖刀が出現した場合は――」
「オレもできるかぎり戦います。町をぶっ壊させねぇってのが、オレなりに背負った責任なんで」
それにマリアからは、またねって言われてる。
オレが何もしなくたって、いつかは向こうからやってくるさ。
当然それじゃあ守れないものがあるから、自分なりに色々やってみるけどな。
――聖戦に勝ちレイラの願いを叶える。
――妖刀およびマリアの調査を進める。
――町と住民を守るために剣を振るう。
これが今の、オレの目標ってわけだ。
「ま、バチコーンってやってやりますよ」
どっちにせよ、オレにはそれしかねえし。
「……願いを託せたのが君で良かった」
「えっと……?」
「褒めているのだ。君ならきっと、聖戦を勝ち進むことができる」
「それは……どうも……?」
毎度のことだが、褒められた時ってどう反応するのが正解なんだろうな。
とりあえず、笑顔を浮かべて、それを返事とした。引きつった不器用な笑顔を。
「話はこれで終わりだ。付き合ってくれて感謝する。……丁度、時間だな。もう行かないと」
「追悼式でしたっけ。何するか分かんないですけど頑張ってください」
「なに、私がやるのはちょっとしたスピーチだ。重要なのは生者が死者を供養し、未来に向き直ること。誰が何を祈るか、だよ。君はどうする?」
「オレは……いいです。知らないヤツに祈られたって、向こうも困るだけですよ」
だからオレは、オレにできることをやらないといけない。
「そうか。君らしい考え方だと、私は思うよ。ではまた」
そう言ってアヤメさんは、オレの分まで代金を支払って店を出た。
残っていたカフェオレをぐっとあおり、オレも席を立つ。
行き先は決まっている。
北区の教会特区――シンジョウの奥さんに、渡すものがある。




