1話『今宵の月は緋色に染まって』
☆
――ハロー、人間。
暗闇の中で聞こえたその声は、まるで泣いてるようにか細く震えていた。
「…………あ~?」
目蓋を開くと、宙に浮かぶ月が見えた。しかもそれは赤く光っていて、数もひとつじゃなくてふたつだ。
ああ、ついに世界はおかしくなっちまったのか。
そんなことを思いながら、しかしよくよく目を凝らして見てみると、なんとオレが月だと思っていたそれは子供の目だった。
薄暗い路地裏に浮かぶ赤い目。そんなのを持ってるこの子供は、一目で見ただけで特別製だってことが分かる。
目だけじゃない。長くて綺麗な白髪も、傷ひとつない白い肌も、高そうな服も、爽やかな花の匂いも……ほかのどれをとっても、オレとは明らかに住む世界が違うヤツの外面だ。
それがなんで、オレに声を……。
「すまんがもうすぐ夜明けじゃ。時間がない。手短に説明するぞ」
「ああ?」
こいつ、見た目は小学生くらいのガキなのに、なんで婆さんみたいな喋り方して……?
子供らしくない雰囲気には妙に似合ってる気もするけど、でもオレは偉ぶるヤツは好きじゃないからなぁ。
つーかそもそも、どこだ――ここ。オレはいつもの硬くてホコリくせぇ長椅子で寝てたはずなのに、今はさらに硬くて冷たい壁に寄りかかってる。
周りを見るに今は夜。ここは外で、しかも見覚えのない路地裏ときた。体は寝違えたみたいに首と心臓の辺りが痛てぇし……何が何やら。
「ここはリタウテット――大いなる車輪に圧し潰されし者が行き着く場所。其方が暮らしていた世界とは別の世界じゃ」
「はぁ……?」
「大いなる車輪とはそれ即ち、運命。ざっくりと言うならば、ここは死後の世界のようなものよ」
車輪だか運命だか、話しかけられているのは間違いなくオレだってのに、何のことを言ってるのかさっぱり分からない。けど、死後って単語を聞いた瞬間――頭の奥のほうで激痛が走った。
それで思い出したのが、雪の降ってる中でオレと女が倒れてる光景と……あの感覚だ。
意識が端っこから溶けてくみたいに遠のいて、どんどん頭ん中が気持ちよくなって、そんでこのまま一生目を覚ますことはないんだろうなって、息の仕方忘れちまう――命が終わってく感覚。
それがオレの中には、はっきりと残ってる。
「……オレ、死んだのか? あん時……」
「心当たりはあるようじゃな。ここはリタウテットの中央都市。人間の大半はここで暮らしておる。己の目で見たほうが実感も持てよう。さあ、涙を拭い、立つがよい」
「え? あれっ……」
目元を触ると確かにオレは泣いてた。しかも器用なことに片方だけ。
涙の理由なんか知らないが、とにかくガキの前で泣くなんて情けねえとすぐに拭う。
すると次の瞬間、白くて細くて冷たい指が強引にオレの手を掴んだ。
「我が名は《麗しき夜の涙》――レイラ・ティアーズ。来てくれるか? 其方が必要なのじゃ」
レイラ……ティアーズ……。
知らない名前だ。でもどうしてか、口にしてみると馴染みがあるようにも思えた。
「往くぞ」
何なんだコイツ……オレはまだ、名乗ってすらいないのに。
けどダルくて仕方がない身体は徐々に軽くなって、オレは自然とレイラに続く一歩を踏み出していた。
だって――誰かに必要だって言われたのは、はじめてだったから。