16話『十六夜、誘う、扆座へと――いざ往こう』
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「おい起きろ、其方」
主の声に反応して、目蓋を開く。
雲の切れ間に浮かぶのは欠けた月。
「……ん、起きてるよ」
マリアとの別れからはや数時間。
雨は止み、日は沈んだ。
オレはベンチに寝かせていた身体を起こし、端のほうに座る。
するとレイラが、その反対側にちょこんと腰を下ろした。
「ずっとここで待っておったのか?」
「まあな。特にやることもねえし、町は昨日の今日だし。宿舎の部屋も、家が無くなっちまった人に使ってもらってる」
それに……実は、財布を失くした。
ずっとポケットに入れてたから、多分あの時一緒に燃えちまったんだろう。
おかげで無一文に逆戻り。
何よりレイラから貰った物を失くしたショックが本当に大きく。
だからオレはひとり、前にレイラと来たこの広場でぼーっとしてたんだ。
「そうか。昨日の疲れは取れたか」
「まあ、寝たら大体のことは忘れられるよ」
財布のことも。それにマリアのことも。
一旦は忘れられてる、ってことにした。
今は聖戦のほうが大事だ。
「勝算はあるか。無策で挑めば次は確実に負けるぞ」
「ん~そうねぇ。ま、一応オレなりに考えついたことはあるぜ」
「ほう」
「んな大層なことじゃねえけどな。ただオレは、菓子を平等に切り分ける前に、一緒に食べてくれるヤツや作ってくれるヤツが欲しいって思っただけ」
でもこれは案外、アヤメさんやツバサの主張に負けないモンになるかもだぜ。
「……それが、其方の答えか」
噛み締めるように、レイラは呟いた。
「…………」
ふと思ったけど、なんか妙な感じだな。
こう並んで座って、話をしてるってのは。
いつも上から見下ろされてたりとかそんなイメージがあるから、不思議と違和感があるというか。
「其方とは、あの場所で契約を結んだのじゃったな」
「ああ」
言われてオレは、少し離れたところにある街灯に目を向けた。
そうだ。あの街灯の下で初めてシチューを食って、それで吸血鬼になった。
まだそんなに日が経ってないってのもあるけど、オレとしてもあそこは強く記憶に残ってる場所だ。
でも、そっか。
わざわざ口に出したってことは、レイラも結構大事に思って――、
「――ワシは其方のことを、手札の一枚と思っておった。目的を達するための道具のひとつ、とな」
「え……」
心臓が、止まった気がした。
「なっ、なんだよ……急に……」
血の気が引いていくのが分かる。
指や足の先が、とんでもない速度で冷えていく。
脳裏によぎるのは聖戦の最中、冷たく指示を出す主の姿。
そうさ、それは分かり切っていたことだった。
オレだって承知の上だった。
だけど、こうして面と向かって言われると……胸に空いた孔の内側をなぞられたみたいな感じだ。
直接中身を弄られているような、ぐちゃぐちゃな気分。
「そうであろうな、其方にとっては突然のことであろう。しかしワシはずっと、問題を抱えておった。それはレイラ・ティアーズという存在の根本を揺るがしかねない問題であり、また命題であり、何よりそれには――其方も大いに関係している」
「ああ……?」
「昨夜其方が成したことを館へ持ち帰り、大いに思案し、熟考を重ね――そして先ほどの答えを聞いたことで、結論が出た。これは誰かに必然として定められたことではない。ワシ自身が確固たる意志で決断したことじゃ」
声が出ない。というか口を挟めない。
言葉の意図も何も分からないが。
今のレイラからは揺るぎない意志を感じる。
いつもの冷淡な感じも、憂いを帯びた様子もない。
聖戦への想いを語った、あの決意に満ちた必死さでもない。
ただなんていうか、建前のない素の前向きさみたいなのが、伝わってくるんだ。
「場所を変えるぞ。これはワシと其方の間のみで行われるべき会話じゃ」
優雅な白が揺れる。
レイラは立ちあがり、そして流れるようにオレの前に立った。
動くなと言うように、小さな手がオレの肩を抑える。
もう片方の手は胸、オレの内側にあるものを掴んでいた。
「っ……!」
「幽世、創世――」
引き抜かれた聖剣。唱えられた呪文。
今、世界は灰色に塗り替えられる。
組み立てられる空想の檻は、オレが昨日必死に作ったモンの何倍も精巧で――本物と何も変わらない存在感を放つ。
明るくも暗くもない空間。
埃ひとつない無機質な感触。
再現されたそれは広場でも町中でもない。
街灯は光のないシャンデリアに。柵は湖を映す大窓に。石畳は柔らかい絨毯に。ベンチは洒落た椅子に。そこに長テーブルを加え、空間は外から内へと再構築――完成したのはレイラの館の食堂だ。
「ここ、シチューを食った場所……」
「席に着け。其方は向かいへ」
前に座った席は長テーブルの両端だった。
でも今回は中心にふたつ。向かい合うようにして椅子が用意されてる。
言われるままオレは椅子の背もたれを引いた。
その時だ。
心臓を、剣に貫かれた。
「ッ――――⁉」
即座に一歩後退し、胸に手を当てる。
感じるのは平常を失った心拍音と、ジャージのざらざらとした触り心地のみ。
鋭利な刃などは、どこにもない。
「はぁ、はぁ……はぁ……ッ、今のは……」
「ここはワシの心象世界。幻を見せるのは容易い。すまんが、必要なことじゃったと理解してくれ」
幻、か。
今の死の感覚は結構本気に感じられたんだけどな。
クソ……まただ。ただでさえ血の気が引いてるのに、頭までどんどん冷たくなっていく。
冷静な思考。冷徹な判断。
納得より先に理解が決し、オレはひとまず席に着いた。
「オレは、何かを試されているのか? それとも……もう用済みってことか?」
レイラは小さく首を振る。
「少し回り道になるが、これから其方に開示することがみっつある」
長話になりそうだ。けど、元より聞かないという選択肢はない。
主人の望みに答えるのは眷属の義務。
大人しく話を聞く姿勢を見せると、レイラは真っすぐオレに視線を合わせ、それから口を開いた。
「ひとつ。其方にはとある暗示が施されておる。命の危機に瀕した場合、いや、生存本能を刺激された場合、其方の思考は強制的に透明な海へと沈み、そして波ひとつ立てない止水の境地に入るという暗示じゃ。戦闘中に陥るという冷静な思考の正体がそれよ。今も――そうなっておろう?」
眉をひそめる。
今の話が本当なら、そうか、さっきの幻はオレをこの状態にするのが目的だったわけだ。
暗示の説明、そして冷静なやり取り。
そのふたつを効率よく行えるように、と。
確かにこの冷え切った脳なら、今の話を意味不明だって反射的につっぱねることはないさ。
落ち着いて、冷静に、オレはその事実を受け止めることができる。
「なってるものをなってないとは言えないよな。……レイラが、オレにその暗示ってのをかけたのか?」
「いや、これは其方がこの世界に来る前から持ち合わせておったものじゃ」
この世界に来る前から、だと。
そんな催眠術みたいなものを掛けられた記憶なんかないぞ。
そりゃあ前の世界では、命懸けの殺し合いをするなんてことはなかったが。
一体いつから、オレの身体にこんなものが……。
「レイラはどうしてそれを知って――」
と、口にしたところで答えが浮かぶ。
「いや、オレの血を飲んだからか」
とんだ自問自答だ。
レイラは肯定も否定もせず、ただ無言を貫いた。
そして話は次段へ移行する。
「次いでひとつ。其方が妖刀との戦いで使ったという力についてじゃが、ワシはその正体を知っておる。名は――《血識羽衣》。血を吸った相手の能力を借り入れる能力じゃよ。ゆえにそれを発現した其方は、炎を纏うことができた。体内に吸収した不死鳥の眷属の血を道としてな」
血を吸った相手の能力を借りる、能力。
オレはあの時、ツバサの血を飲んだ。
そしてその後、炎は現れた。
オレの心臓に空いた隙間を埋めるように。
で、ツバサの記憶によると、不死鳥の炎は使用者の死をトリガーとすることでしか消せないものだが、オレの場合はあくまでツバサの炎を借りて使っている状態だったから、ツバサに炎を消すことができたってわけだな。
実際にそのシーンを見たワケじゃないが、あいつならオレのために一回死んでくれてもおかしくないだろう。
なるほど、辻褄は合ってる。
「土壇場の明鏡止水。幾重にも重なる《血識羽衣》。そのふたつが、其方の持ち得る武器じゃ。正しく認識しておくがよい。それは間違いなく其方の歩む道に不可欠なモノであり、何者にも譲れない己の構成材質である」
吸血鬼に牙があるように。
オレという存在には、そのふたつがあるのだと。
レイラは手解きでもするように言った。
「そして、最後にひとつ。――今のワシは満月の下でなければ全力を出せず、また太陽が空を支配している間は行動不能になってしまうという弱点が存在しておる」
「――――⁉」
ともすれば、その告白はこれまで聞いたどの話よりも驚きだった。
だって意図が分からない。
推測すら立たない。
レイラが弱点を打ち明ける理由、それが見当たらない。
百害あって一利なしの行為としか思えない。
それでも我が主は淡々と続けるのだ。
己が弱点の、説明を。
「これにより普段のワシは力を大幅に制限され、元の姿に戻ることもできん。加えて満月の夜であっても、魔力が勝手に漏れ出て不安定な状態が続く。そして昼には、己の意志に関係なく強烈な眠気に襲われて、館の玉座へと戻される。これこそが、今のところ不死鳥の娘しか知らぬワシの致命的な欠陥」
「どうして……」
「まるで誰かが世界のルールを書き換えたように、現在の吸血鬼には先の弱点が適応されるのじゃ。ワシが其方の吸血鬼化を半分で止めたのは、これが原因よ。完全な吸血鬼になってしまえば、其方にも何かしらの制約が――」
「そうじゃない。どうしてそれをオレに!」
「話すのか、じゃろう? 分かっておるさ。こんな今更、己が身勝手であることは充分理解しておる」
「なんで秘密にしていたのを悪いことみたいに言うんだ。話さなかったのは、オレが知る必要なかったからだろ?」
オレの意志に関係なく、こんな何でもありな世界なら人の嘘を暴いたり、心を読み取るような力があったって不思議じゃない。
だから、知ること自体がリスクになり得るんだ。
なのになんで……。
「……真意は、先ほど告げた通り。ワシはこれまで其方のことを道具としか思っておらんかった。聖戦の期日が迫る中で、ワシは其方を眷属にする以外の選択肢がなく、ゆえに其方という存在の本質を見極められぬまま契約を結んだ。じゃがな、今は違う。其方は――《血識羽衣》を使った。その事実がワシに其方という存在を理解させてくれたのじゃ」
「何を、言って……?」
「《血識羽衣》は他者との想いを繋ぎ、想いを背負うための力。その本質は寂寞の否定――つまり其方はな、心の底で孤独を拒絶しておるのじゃよ。吸血鬼にとっての吸血とは食事や繁殖、下賜のためのものじゃが。其方にとってはそのどれでもない、ただ他人との繋がりを創るための手段なのじゃ」
「……ひとりぼっちが嫌だっていうのか? オレが?」
「そうさ。自覚は無くとも事実、深層心理の具現として《血識羽衣》が発現した。なに、恥じることではない。ワシには分かる、分かるとも。なぜならワシも同じ感情を抱いておるから」
レイラの声音が変わる。
悲哀と温もりが不均等に混じり合った声で、続く言葉が紡がれる。
「かつての半身を失い、孤独の中に溺れながら孤独の中でもがき、寂寞を否定しておる。ワシと其方の間に奇妙な共通点があったものじゃ。それが見えた今だからこそ言える。其方になら――ワシの背中を預けられると。信用に足る存在じゃと。ゆえにその証として、話す必要が、義務があると判断した」
つまりレイラはこう言ってるのか。
寂しいモノ同士だって分かって親近感が湧いたから、オレのことを信じられるようになったと。
その証拠として、急所となる弱点を晒したのだと。
それは……。
「なんて傲慢。なんてワガママ。ワシが其方なら無様だと嘲笑しながら蹴り捨てるかもしれんな。しかし、どうか、それでもワシと共に戦ってはくれまいか」
「眷属、は……主人が望むなら」
「違うな、そうではない」
被せるようにレイラが否定する。
「確かにワシと其方は主人と眷属という上下の立場にある。しかしそんなもの、聖戦のルールに当てはめた建前に過ぎん。ワシはな、後ろを歩く下僕でも前を歩く先導者でもなく、並んで隣を歩く半身が、対等な相棒が欲しい!」
その決意こそが、今日のレイラに見え隠れしていた、前に進もうとする意志。
「今一度問おう。ひとりぼっちが嫌なもの同士。二人で一人の、相棒として。この《麗しき夜の涙》と聖戦を戦い抜いてくれるか――ツキヨミクレハ」
「っ――――」
それは、記憶違いでなければ。
幼い夜が零した初めての言葉。
レイラ・ティアーズという吸血鬼が、初めてオレの名を呼んだ瞬間だった。
……おかしいな。胸が、温かい。
オレはこの熱を知っている。痛みはないこの温度。
昨日、ツバサの炎を纏った時に感じたのは、この温かさだったんだ。
あいつの熱はオレを焦がすほどだったが、レイラのそれはなんていうか、ちょうどオレの足りてない部分にぴったりの歯車。
冷え切った頭が、緩慢に血熱を取り戻していく。
「……ぶっちゃけ、突然んなこと言われてもオレには分からない。アルカなんとかだの、対等だの相棒だの。オレは、オレが今どんな気持ちなのかもよく分かってねえよ」
だってそうだろ。オレは対等な存在なんて知らない。
周りの大人にはこき使われ、幼馴染のマリアとだって対等かどうか言えるほど深い関係じゃなくて、アヤメさんやツバサもまず騎士っていう立場と聖戦の対戦相手っていう立場があって、オレと接してくれてる。
それ以外知らないオレに、分かるはずがない。
ただそれでも言えるのは。
オレにとってレイラ・ティアーズという吸血鬼は、傍に居てほしい存在なんだ。
それは最初から、何も変わっちゃいない。
選ばれない側のオレを必要だと言ってくれた、あの時からきっと。
「……本当に、オレでいいの?」
「クレハがいい。クレハでなきゃ嫌じゃ」
なんだよ、子供みたいな言い方して。
そんな、見捨てられるのが怖いみたいに目を潤ませちゃってさ。
「そっかぁ……ならやっぱり、オレはレイラのために戦うよ。まあ安心してくれって。なんだかんだオレも一区切りついた」
上下関係の撤廃。要はこれからレイラに気ぃ遣う必要はねえってことだ。
生憎、友達一人いないオレには上手く言い表せないが、それは多分いいコトなんだろう。
それにもうひとつ。
レイラとは関係ない、個人的なモノだけど。
――寂寞に付け込むヤツがいる。
それはオレの幼馴染で、あいつがどうして妖刀なんてものに手を出したのかは分からない。
けどオレは、またねと言われた。
からのこれだ。一人じゃなくなるってことは、寂寞から遠ざかるってことで。
オレはどう足掻いても、マリアと相対することになるらしい。
そんな自分の位置を再確認できた。
それもまあ、一区切りだろう。
気分は晴れねえがすっきりはした。
考えるべきことにケリがついて、あとはなるようになるだけ。
悪くはない。だってこれから先は、似た者同士で歩いて行けるのだから――。
「よろしくな、レイラ」
「よろしくな、クレハ」
一度、お互いに晴れやかな顔を見合わせた。
呼応するように、灰色の世界は砕けていく。
空から降り注ぐ欠片は雪のようで、綺麗だ。
「んーで? これからどうするわけ?」
「ようやくスタートラインに立てたのじゃ。対等な立場としての初陣、華々しく飾るとしよう」
「あ~、はいはい、そういうことね。ったくいちいち難しい言い方しちゃって」
天蓋は消えた。空に浮かぶのは、黄金色の月。
満月には遠く、欠けてしまって、いるけれど。
何物にも代えがたい光を、力強く放っている。
「ふっ――では往くぞ」
「おう! アヤメさんの正義をぶち壊して、オレたちは聖戦を勝ち進む!」
四月十六日――夜。
仕切り直しは済んだ。想いの再確認は済んだ。
よって今宵、必然を以てそれは迎えられるだろう。
互いの願いを尊重し、互いの願いを殺し合う。
世界を変革する剣を賭けた聖なる戦争。
その、第一幕の決着が――。