15話『9月08日は聖母の誕生日だとか』
☆
金髪の少年が災禍諸共に炎を纏ってから、一体どれだけの時間が過ぎただろう。
主観時間ではおよそ五時間近く。
コンマ数秒の単位で破壊と再生は繰り返されている。
吸血鬼の不死性。
対する、怪物の再生力――否、維持力というべきか。
黒塗りの怪物の素体となったシンジョウさんは、おそらくもう死んでいる。
それを漆黒の刀から滲むオーラが強制的に使役している状態なのだ、あれは。
怪物が行っているのは再生などではなく。
消滅の一歩手前で死に続けるということ。
どこまでも救いのない存在だ。
あれはもはや生命ではなく、装置に等しい。
しかしそんな袋小路も、じき終焉を迎える。
吸血鬼に血を吸い尽くされ、業火に深淵を焼き尽くされ。
怪物を人間へと還すための、死の先にある葬送が――完了する。
ぱきっと、ガラスの割れるような音がした。
それはクレハの腹部に突き刺さった刃が砕けた音。
長い戦いの終わりと少年の勝利が今、ささやかに告げられたのだ。
「クレハ……! こんな無茶を、よく成し遂げてくれた……!」
すぐにクレハのもとへ駆け寄った僕は、耐え難い後悔を覚えた。
彼の肌は焼け、爛れ、再生し、また焼かれて。
未だその工程を延々と繰り返している。
見ていられないとはまさにこのことだ。
僕がもっと強ければ、彼にこのような重荷を背負わせることはなかった。
だが、悔いている時間などない。
不死鳥の炎はクレハを燃やし続けている。
一刻も早くこれを消さないと、炎は容赦なく彼まで灰にしてしまうだろう。
問題はこれが僕に止められるものかどうかという点だが、炎自体は僕のモノに間違いない。
理屈は分からないが、やはりこれも僕の死をトリガーに消失してくれるはず。
そう、信じるしかない。
「《開錠承認》」
僕は白銀の聖剣、《オース・オブ・シルヴァライズ》の能力を解放する。
戦いは終わった。
ならばもう、この刃が血に汚れる必要はない。
《Count Start. existence compression is from 87595》――機械的な音声が脳内に響き、生命の圧縮が開始される。
あとはただ、カウントがゼロになるのを待つだけ。
戦闘を考慮しないため、速度はほぼ最大。
寿命を使い切るまであと十秒弱。
もう少しだけ耐えてくれ、クレハ。
束の間、うつ伏せに倒れたクレハの手元に。
灰となった怪物の手元にあたる位置に。
――漆黒の日本刀を、見た。
予想通り、シンジョウさんを怪物に仕立てあげたこの刀は、呪具に類するものだったのだろう。
刀は持ち主を失ったことで自壊し、残ったのは柄の部分のみだ。
そしてそれも今、ガラス細工のように砕ける。
「……あっ」
偶然か必然か、茎の部分が露出した。
鍛冶職人が、己が鍛造物の証にと銘を切るその部分。
固唾を呑んで注視する。
正体不明の怪物。それを生み出した正体不明の刀。
その原点を探るための、唯一の手掛かりは――。
存在していた。
「これは……」
だがそれは確かなものではない。
ともすれば何かの不手際で偶発的についてしまったかのような、擦り傷にも見える風に。
茎には、漢数字の三のような文字が不確かに刻まれていた。
そこでタイムアップ。
僕の寿命はゼロに至り、そして刀もまた灰塵に帰す。
これにて、四月十五日に発生した未確認人型の魔物との戦闘は終わりを迎えた。
☆
「これを着るといい。前にアヤメさんから貰ったんだ」
夜。瓦礫の山の麓でオレは、ツバサからジャージを受け取った。
洗剤の香りがする、綺麗に畳まれた新品だ。
「着てもいいのかよ」
今のオレの身体は、吸血鬼の不死性ってヤツのおかげで傷ひとつないが、その代わり砂や灰で汚れに汚れてる。
何せ黒塗りと一緒に燃えたんだからな、着てた服も燃えカスになった。
おかげで目が覚めた時は驚いたぜ。
幽世は解かれてるし、周りは暗いし、オレは裸だし。
だから着れるなら何でもいいとは言ったけど、まさかアヤメさんからの贈り物が来るとは。
さすがにそれを汚しちまうのはオレとしても心苦しい。
しかしツバサは、遠い目をしながら小さく言う。
「まだ……十着ほどあるからね」
「え」
そういやアヤメさん、ジャージが大のお気に入りなんだっけ。
騎士団の制服にしたいとも言ってた。
……なんだかツバサの苦労が垣間見えた気がするな。
「それに東区はまだ混乱の最中にある。死傷者の確認。救助活動。医療用の物資の調達や今夜の食事、住居のことも。やることはまだ沢山。どっちにしたって選り好みはできないさ」
「……そうだな」
ジャージを着ながら、周囲を見回す。
明かりはないが、こういう時は吸血鬼の夜目が効く。
悲嘆に満ちた被害の痕跡は、ため息が出るほど鮮明に映ってくれるんだ。
崩れた建物。割れた地面。鼻に付く焦げ臭さ。人のいない、町の跡。
その奥には騎士団の本部の白壁がそびえているが、それが余計、この一帯の虚しさを大きく感じさせる。
戦いが終わって、それでハイ元通りってわけには、いかねえんだな。
「――何があった」
「うぉッ⁉」
オレとツバサしかいない場所で、不意に届いた子供の声。
それがあまりにも近くで聞こえたもんだから、オレは自分でも驚くほどの速さで振り返る。
瓦礫の山のてっぺん。
闇の中に浮かんでいたのは、ふたつの赤。
雲に遮られているはずの月光を纏ったような、淡く輝く白髪。
幼いながらも威厳を感じさせるその人、いやその吸血鬼は――オレの主人である麗しき夜の涙。
レイラ・ティアーズだ。
「レイラか……びっくりした~……」
そういや昼間は姿を見せないレイラだけど、今はちょうど夜か。
元々聖戦の予定もあったし、町に来てみりゃこの有り様ってのはさすがのご主人様でも驚――、
「――何があったと聞いておる。この魔力の残滓、まさか幽世無しで《死因概念》を打ち込んだのか?」
「はい……?」
珍しく詰め寄られる。
オレは直前の思考を放棄して、とりあえず状況を説明することにした。
「何だかよく分かんねえけど、これは……黒塗りのバケモンが、あ~いや、中には人間がいたんだけど、とにかくそいつが暴走ってか、まあ一応自分の目的のために戦ってたっつーか」
……レイラの表情が露骨に険しくなっていく。
我ながら下手な説明もあったもんだ。でもあんなの、どこをどう説明すればいいのか、難しいにもほどがある。
結果。
「あ、ああっ、あの、よろしければ僕のほうから説明をしてもよろしいでしょうか、ティアーズ卿」
と、見かねたツバサが口を出した。
レイラが頷き、ツバサは慣れた感じで事の経緯を語る。
突如現れた正体不明の未確認人型の魔物。
黒いオーラに覆われた怪物が引き起こした災害。
その正体は紛れもなく一人の人間であり、背後には人間を怪物に仕立て上げたとされる一本の刀の存在。
そして決着は、展開された幽世の中で、オレの手によってつけられた。
「担い手を狂気に堕とす漆黒の日本刀、か」
一通りの話を聞いたレイラが呟いた。
「騎士団では東洋を由来とした魔剣――《妖刀》と仮称しています。きっかけは一人の男の願いだったのかもしれませんが、この惨状を作り上げたのはあの刀だ」
「ふむ」
「……ティアーズ卿、残念ながら騎士団には妖刀に関する情報はまったくありません。唯一の手がかりは妖刀の自壊時に確認された、茎に刻まれた漢数字の三という文字のみ。それも実のところは、制作時に意図せず出来てしまった傷という可能性もあるでしょう。どうか、貴女の叡智をお貸しいただけないでしょうか?」
「固い言い方をする。すまんが、その妖刀とやらについてはワシも与り知らんよ。逆を言えばそうさな。その妖刀とやらは新造の呪具である可能性が高い。早々に元栓を締めねば、そのうち二本目三本目が出てくるかもしれんぞ」
「…………」
ツバサの返事はなく、その拳は強く握られていた。
噛み締めてるんだろうな。
今日起こったこと。
そして、これから起こることを。
「ところで其方、先ほどの話によれば一人で幽世を展開し、その手で妖刀に止めを刺したそうじゃな。昨夜まで戦いを知らなかった其方がそこまでやるとは、少し見直したぞ?」
「――え」
「なんじゃ、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしおって」
「いや」
思わずレイラから顔を逸らした。
意外だ。まさか褒められるなんて。いや、褒められたで合ってるんだよな?
内心、昨日のことを気まずいなって思ってたから、ちょっとだけ……不意を突かれちまった。
「ま、まあ? 倒したっつっても、一緒に丸焼きになっただけだし……?」
「――あっ、そうだ、クレハ。それについて聞きたいことがあったんだ」
「あ?」
「いや、君があの時に纏った炎のことだよ。あれは間違いなく不死鳥の、僕の炎だった。けれど僕はあの時、君に対して炎を使ってないんだ」
「なに?」
オレより先にレイラが疑問の声を上げる。
「確かに妖刀を倒すのに僕一人では力不足だった。でもだからって、君を尽きない燃料として利用するなんてことが本意であるもんか。そもそも僕は君と入れ替わる形で力尽きて、それから復活したわけで……そこが謎なんだ。どうして君は僕の炎を使えたんだい?」
「え~……知らねえよ、そんなこと」
「無我夢中だったということかな? それにしては、君は普段よりも冷静だったように見えたけど」
「戦ってる時はそうなるんだよ。勝手に頭が冷えてく感じで――あっ」
束の間。オレの声を遮るように、真白の手がかざされた。
レイラの手だ。これ以上喋るなという指示だと判断し、とりあえず口を閉じる。
「それでよい。不死鳥の眷属よ、実のところ今の話に関しては思い当たるものがある。が、それは企業秘密ということで、この場での追及はやめてもらいたい」
「それは……」
まさかそんな返事が来るとは思っておらず、ツバサは虚を突かれたように逡巡し、そして再びレイラへと視線を注いだ。
「ティアーズ卿がそう仰るのであれば……はい、吸血鬼としての固有の能力によるものと理解しておきます」
「うむ。では……ワシは館へ戻る。この分では、今宵の聖戦は明日以降に持ち越したほうがよかろう。不死鳥の眷属、主に伝えてくれるな?」
「承知しました」
「其方も今宵は自由に過ごせ。ではな」
レイラは軽く足場を蹴り、瓦礫の山から飛び降りた。
冷たい夜風が吹き抜ける。
着地の音はなく、主人の姿は霧のように消えた。
相変わらずマイペースというか、どうも掴めない。
少しくらい話ができたらなんて思ってたが、引き留める間もなかったな。
「僕もそろそろ行くよ」
「あ、ちょい待ちな」
話が一段落し踵を返したツバサを、今度はと呼び止める。
「なんだい?」
「いや、忙しい時にわりぃんだけど、アンタに聞きたいことがあんだよ」
「珍しいね。ご期待に添えるといいんだが」
「アンタが戦う理由ってやつだよ。前はアヤメさんの考えに賛同したからって言ってたけど、もうちょいその……深く知りたいっていうか」
「ほう?」
小さく首を傾けるツバサ。
意外な質問だとは自分でも分かってる。
けどこれは別に、雑談の相手が欲しかったからとかそういうのじゃない。
オレとしてはわりと真面目に、聞かなきゃならない理由があるんだ。
「――――」
一瞬の静寂。
ツバサは少しの間、オレを見定めるように視線を合わせて。
そして軽く、いつも通りの優しい笑みを浮かべながら腰に下げた剣を外した。
見上げる空に星はない。
周囲に明かりはなく夜闇は深い。まるで海の底。
ツバサは穏やかに、ここは告解室にうってつけだ、と呟いて瓦礫に腰を下ろす。
「質問の意図は測りかねるけど、僕が答えることで君に得るものがあるのなら話すよ。といってもホント、つまらない話だけどね。……三等分の話は覚えてるかな。ほら、ガレット・デ・ロワの」
「平等な幸せ、だったっけ」
「うん。あれは例え話だったんだけど、でもそれと同じ言い方をするとね――僕の母は、ガレット・デ・ロワを三等分できない人だったのさ」
ツバサは語る。
夜の帳が降りた世界に、過去を記したフィルムを投影する。
☆
僕の前世は、日本のごく一般的な家庭に生まれた子供だった。
兄弟はいない。両親は離婚して、母親だけ。
家は集合住宅のアパートの一室で、二人で住むには充分な広さ。
生活は裕福とは言えなかったけど、贅沢をしなければ暮らせていけた。
けれどね、僕は今でもその日々を、これっぽっちも幸せだったとは思ってないんだ。
なぜなら僕の母が、なんていうか小悪党な人でね。
子供のまま年齢を重ねて、大人になってしまった人というべきかな。
常にへらへらとした態度で。
厚顔無恥で。
自己中心的で。
他人を慮るということをしない人だった。
知らない男を家に連れ込んで。
マニキュアは換気もせず居間で行い。
車に乗ればたまに信号を無視し。
セルフレジでは店員の目を盗み商品の数を誤魔化す。
テレビにアイドルが映れば整形したとか不倫がどうの文句をつけて。
相続した祖母のボロ家の処分が面倒で誰か燃やしてくれないかと笑う。
誰にだって一度ぐらいはあるような小さな間違いを積み重ねる、法で裁けというほうが器が小さいとでも言わんばかりの、そんな小市民の小悪党。
僕はそれを間近で見てきた。
食事にいい思い出はないし、親を振りかざすことも、言い訳にすることもあった。
でも本当にたまに親らしいことをしてくれたこともあったよ。
旅行に連れていってくれたり、欲しいものを買ってくれたり。
ああ、高校受験の日に雪が降って、遠くまで車を出してくれたこともあった。
感謝していることも、それなりにある。
ただそれ以上に、理解も納得もできないことが沢山あってね。
僕は結局、そんな母に対する自分の愛情を肯定できなかったし、小さな間違いすら正せない自分を肯定できなかった。
そんな僕に訪れた結末が、事故死だ。
そういえばシンジョウさんの前世での死因も、そうだったらしいね。
でも僕の場合は、またちょっと事情が違う。
原因は相手の不注意ではないんだ。
あの時、僕は母の運転する車の助手席に座っていて。
母はせっかちなところがあって、別に急いでいるわけでもないのに、少しの渋滞を我慢できず強引に右折をした。
すると当然のように対向車が突っ込んできて。
僕はそこで死んだ。
多分だけど、母は助かった。
何せ前世での最期の光景は、パニックになった母の姿だったから。
あれだけ叫び声を出せるなら、まあ大きな怪我はなかったと思う。
そんな母を持つ僕は、自分を幸せだとは思えない。
けどね、勘違いしてほしくないのが、僕は自分のことを不幸せだとも思っていないんだよ。
だって僕の母のような人は、世の中に大勢いる。
それこそいちいち法で裁いていられないほどに。
猟奇殺人鬼というわけでも、根っからの極悪人というわけでもない。
ただ少し周りを傷つける倫理観と道徳を持った人。
そんな人でも社会でやっていけてるし、元を辿ればその人をそんな風にしてしまったのは、育った環境が原因かもしれない。
個人に責任を負わせて、それで良しとしていいことじゃない。
これは普遍的で、ごく当たり前のコトなんだよ。
母を変えるということはある意味、世界を変えることに等しかったんだ。
おかしいよね。
だから僕は、いつだって特別を求めていた。
普通のくせに、普通に寄る辺がないから。
特別な、立派な、理想を支えに生きてきた。
生きて、死に、そしてこの世界に辿り着いて、何者でもないただの僕として色々頑張った。
その結果、寿命がすごく減っちゃってね。
それでも頑張ろうって思ったところで、僕はアヤメさんと出会ったんだ。
初めてだった。過去を清算するために理想を体現しようとしている人は。
僕は心の底からあの人に惚れて、焦がれて。
あの人は僕を、剣の担い手に選んでくれた。
理想が叶わないから理想なんだってことは、理解しているつもりだよ。
でも叶わないからって諦めることはできなかった。
叶わないことは、挑むことを止めない理由にはならなかった。
理想に向かって歩き続けることだって、尊いことだと思えたんだ。
そうして、僕たちは聖戦に辿り着いた。
いや、聖戦でさえ駆け抜ける道の途中でしかないだろうね。
僕たちは平等な幸せを。不幸せのない平等を。
ただひたすらに願い、求め、剣を掲げる。
それが僕の――ツバサの選んだ道だ。
☆
「こんなところかな。さて、君に何か得るものがあったのなら幸いだけど」
「……ああ。聞きたいことは聞けた。ありがとよ」
「充分。さ、今度こそ僕は行くよ。君はどうする?」
「もう少し、この辺をぶらつくかな」
「そうか、ナイトウォーカーとはまた吸血鬼らしい。それじゃあね」
ツバサを見送る。
聞きたいことは聞けた。
長々と語らせちまって悪いが、オレにとって大事だったのは、ツバサの語る内情ではなくその内容だ。
ツバサの過去。想い。
それは確かに、オレが一度鏡の向こうに見た記憶と合致していた。
シンジョウのことといい、どうやら吸血鬼には飲んだ血に宿った記憶を見る力があるらしい。
そういやレイラも、血を飲むだけでその人が病気かどうか分かるみたいだからな。
オレのこれも、似たようなもんだろう。
それで結局のところ、オレが今の話で何を確かめたかったのかというとだ。
オレが見た風景。血の記憶。
そいつがどれだけ信用できるものなのか、知りたかった。
その結果がこれだ。疑う余地はない。
つまり、オレが血の記憶の中に見たアレ――路地裏でシンジョウが妖刀を受け取ったあの場面は、ちゃんと現実に起きた出来事ってことになる。
死者がそのまま立っているような少女。
そう印象を抱かれたヤツは実際に居る。
顔は見えなかった。声もはっきりとは分からない。
妖刀が記憶をいじくって、そうなるような仕掛けをしたのかもしれない。
だが何にしたって、オレはその女を知っている気がする。
それなりに長い付き合いである立場からすると否定したいところだが。
確たる証拠ってのもないんだが。
状況とか理屈を抜きにした直感でいうとあれは――。
☆
翌日。オレは《カランコエ》に来ていた。
営業はしてない。人は誰もいない。内外を隔てる壁もなく、もはや建物とも呼べない。
そこに在るのは、鉛色の空から落ちてくる雨に濡れるだけの残骸だ。
肌に纏わりつく湿気。鼻先に触れる土砂の臭い。
その両方に混じる、無機質になった鉄臭さ。
垂れてきた前髪を掻き上げると、すかさずまた新しい雫が頬を撫でる。
……傘、あればよかったかもな。持ってなんかないけどさ。
これでもまだ被害が少ないほう、なんだよな。
静かに息を吐くと、寂しい冷気が背筋を震わせた。
ゆっくりと全身に鳥肌が立つ。死を身近に感じたせいか、生の視界が遠ざかる。
どこか自分を俯瞰しているような感覚。
それを一言で表すならばまさしく――寂寞。
「クレハ」
名前を呼ばれた。
隣には和傘を差した女が立っている。
静謐を湛えた美麗な横顔。目を奪う鮮やかなプラチナブロンドの長髪に、宝石のような紫色の瞳。人形のように白く細い手足と、それを優しく包む気品のある白を基調とした服。
佇んでいるだけで絵になる、浮世離れしたその女の名は――聖母。
「奇遇ね」
「……店主のおっさん、死んじまったんだってな。今朝ツバサから聞いたぜ。店も、ほかの建物も、ほとんど壊れちまってよ、ひでえ話だ」
「そうね。本当に……酷いと思うわ」
「メシ食う所、無くなっちまったよ」
「うん」
「なあマリア、お前って」
その時、脳の奥で何かが割れるような音がした。
「――――――」
妙だ。続く言葉が出ない。
開いた目蓋。見ているのは確かに、残骸になった《カランコエ》なのに。降り注ぐ大粒の雨なのに。
心音が響くたび、網膜には雪の降る土手道が上書きされる。
首に、心臓に、まるで刃を通されたような鋭い痛みが奔る。
予感がした。
今ここで、何の準備もなくそれを口にしてしまったら最後、ここまで繋がれてきたものが、すべて台無しになってしまうような――。
「いきなりどうしたの、そんなに青い顔をしちゃってさ」
「……ぁ」
冷淡な声がオレの意識を引き戻す。
雨粒を弾く和傘の向こう、じっと視線を向けて出方を窺っている女の隣に。
ああ、ダメだ。焦るな。動揺するな。
これは絶対に気取られてはいけない。
「いや……マリアの苗字、どんなのだったかなって」
「それは、どういう意味?」
「オレはあのおっさんの名前も知らなかったんだなって思ったら、何となく浮かんだんだよ」
「……ふーん」
会話が途切れた。
静寂はない。絶えず響くのは雨音と、己の鼓動。
恋と見間違うほどの焦燥がたっぷり十秒続いた後、おもむろにマリアが言う。
「サンモト」
「え?」
「弋部に漢数字の三、それに一本二本の本で――弎本真理亜。それが私の名前」
三。漢数字の三。マリアはそう言った。
自分の口で、はっきりと、そう答えた。
「どこかで聞いた憶え、あった?」
「多分ねえな。聞いといてよかった」
「そっか。教えたの、特別だから。言いふらさないでね」
くるりと、傘が回る。
「もう行くわ」
背中を向けたマリア。その表情はもう見えない。
「じゃあ……また、か?」
オレは《カランコエ》が在った場所に目を向けたまま、別れの挨拶を送る。
返事は、少しの間を置いて紡がれた。
「ええ。――また、ね」
実のところ、オレは今。
吸血鬼としての聴力を使ってマリアの心音を聴いていた。
すっかりこの身体に慣れちまったオレとって、それは造作もないことだった。
けど、この結果はさすがに、自分の耳を疑わざるを得ない。
マリアの心音はここを訪れてから去るまでの間、ただの一度だって乱れることはなかった――。
どこまでも正確に。どこまでも機械的に。
とくん、とくん、と控えめにリズムを刻んでいたんだ。
凄惨な光景を目にしてなお。
妖刀に残された唯一の手掛かりと合致する単語を口にしてなお。
死者がそのまま立って動いているような、か。
本当に、これ以上ないほどぴったりな言葉だ。
「……ふざけんな、バカ……」




