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鏡面のクロノスタシス  作者: 悠葵のんの
一章【出会いの物語】
14/81

13話『ホットチョコレートでも飲めたらいいのにね』

 そう遠くない場所で建物が燃えている。

 降り注ぐ雨はそれを打ち消すことなく。

 上昇する湿度は、鼻先につんと来る異臭をより濃くするのみ。

 その異臭とはレンガや店先に置かれた食料、植物、布だけでなく、鉄と脂を含む人間の――焼け焦げた臭いだ。


「――きゃああああ!」


「あぁぁ――‼ ああああ……うぁぁあああああ‼」


「に、にっ……逃げろぉ! あ、あ――」


 前から走ってくる人の波に逆らい、この混沌の中心に近づくたび、聞くだけで胸糞悪くなる悲鳴があちこちから響いてくる。

 獣のような叫び。赤子のような叫び。

 それらはみな平等に、死と相対している。


 チクショウ……なんなんだよこれは。

 この先で一体何が起きてるってんだよ!

 立ち込める黒煙が邪魔をして視界が悪い。

 不意に、何かに躓いて転びかけた。

 妙な感触だったせいで、思わず下を向いて確認してしまう。


 そこにあったのは、人だったモノだ。


 もう動き出すことのない肉の塊。

 見れば頭を中心に血だまりができている。

 転んで打ちつけたのか、それとも逃げてきた人の波に揉まれた結果か。

 泥塗れになった全身はどこも酷く潰れていた。


「…………っ」


 あまりの非現実感に呆然とするしかない。

 しかしこうしている間にも、悲鳴は絶えず聞こえてくる。

 ああ、これは……オレが昔、食うに困って路地裏で死にかけてたのとはまるでレベルが違う。

 そんな緩やかなものじゃなくて……死ってヤツが急激に迫ってくると人間はこんな……こんなに目を逸らしたくなる光景を作っちまうのかよ。


 オレは何とか吐き気を堪え、血液の絨毯を踏みしめて、再び走り出す。

 向かう先はこの先の噴水広場――そこに、この地獄を作ったヤツがいる。

 アヤメさんの部下の報告を受けてから少し時間が経ってしまったが、原因はまだそこに在るはずだ。

 なぜならまだ、聞こえている。

 悲鳴に応じて弾ける花火のような轟音が。

 拡散する火花は大地を震わせ、文明を壊し、人々を燃やす。

 いくら空から無数の水滴が落ちてこようと、消火の助けにすらないほどの業火。


「――――」


 吸い込んだ黒煙を吐き出すと、足先から肩まで緩慢に鳥肌が立った。

 またこれだ。

 オレの思考はどういうわけか急激に澄んでいく。

 状況は最悪。けれど、だからこそ感情は冷静に。

 落ち着いて記憶を手繰り寄せ、倒壊した店の並びを頼りに道を往く。

 そうして最短ルートで、件の噴水広場に辿り着いた。


 開けた空間。ここはどういうわけか、空気中を漂う煙がほかより薄い。

 ゆえに地獄を一望できる。

 地面は隆起し、広場の中心に設置されていた円形の噴水は、原型を失くしてただの瓦礫になっていた。

 漏れ出た水は引火した炎によって容易く蒸発し。

 避難が間に合わなかった生命は、既に終わりを迎えている。

 血を流して倒れている者。

 瓦礫の下敷きになった者。

 綺麗な遺体なんてものはどこにもない。


 束の間、突風が吹き荒れた。

 同時に金属と金属が擦れ合うような甲高い音が聞こえて、オレはようやく認識する。

 衝突する刃と刃。

 剣圧によって流動する大気。

 黒煙の渦――その中心でツバサは戦っていた。


「なんだよ、あれ」


 騎士団の制服をボロボロにしながら、剣を振るうツバサ。

 その相手を見定めようとして、目を疑った。

 黒煙が邪魔をして姿を隠しているものだと思った。

 でも違う。その黒衣はいつまで経っても消えない。


 なら、アレが正解なんだ。

 オレの目に映ったあの姿が、正常なんだ。

 不死鳥の眷属たる男騎士――その相手を務めているのは、黒塗りの()()()


 髪が黒いとか、肌が黒いとか、服が黒いとか、決してそういうことではない。

 ただ本当に、黒いナニカとしか言いようがない。

 まるでそこだけが夜になったような。

 深淵がこの世というキャンバスを侵しているような。

 底の見えない漆黒のオーラを纏う――もといオーラそのものにも見える()()


 そう、かろうじて人型を保っているあの黒塗りは剣士だ。

 ツバサが剣を握るように、あの黒塗りもその手に一本の刀を握っている。

 剣ではなく刀。つまりは日本刀。

 切っ先から頭まで黒く染め上げられ、刀身には禍々しい紫紺を宿す――災禍。


「ッ――――」


 どうしてだ。あの刀を見ていると頭痛がする。

 頭の奥が、割れそうだ。


「ッ、クレハ!」


 名前を呼ばれ、意識は地獄に引き戻される。

 見ればツバサは黒塗りを押し退け、たった一歩の後退でオレのところまで飛んできた。

 隣に着地したツバサ。その表情に以前見た余裕はない。

 汗は大量に流れ、全身は細かな傷を負い、その剣の刃には(ひび)が入っている。


「アンタ、大丈夫かよ」


「僕のことはいい! 市民の避難が間に合ってないんだ! 持っているなら聖剣を使ってくれ! 君なら、かくり――」


 そこで一度、言葉は途切れた。

 ツバサの視線はオレ、ではなくその少し後ろ。


「ッ、クレ――」


 再開された言葉は間に合わない。

 いつの間にかオレの真横にいた黒塗りは、既に禍々しい刀を振り下ろしている。

 その速度は亜音速。

 対するオレは黒塗りの移動の加速で宙を舞った瓦礫と死体を目で追いながら、流れるように胸から聖剣を引き抜く。


「――――」


 思考より先に身体が動いていた。

 きっとオレの吸血鬼としての本能が起こした無意識下での行動。

 構えた聖剣で、黒塗りの一刀を受ける。


 次の瞬間、オレの身体は容易く吹き飛ばされた。


「んぐ、うぅぅぅ――――ッッッ⁉」


 腕が折れた。

 たった一撃受けただけで。

 間に合ったはずの防御は成功していなかったんだ。

 攻撃を受け止めきれなかったオレは、小数点以下の秒数で急速に遠のいていくツバサの背を眺めながら、一直線に打ち出された放物と化す。


 クソッ、浮いてるせいでうまく力が入らない。

 腕が折れたのに痛みが追いつかない。

 すべての音が風切り音で上書きされる。


「――がッ⁉」


 だらんと投げ出されていた足に何かが当たった。

 おそらく崩れた建物の外壁だ。

 おかげで、身動きが取れないながらも速度で安定していたオレの体勢は一瞬にして崩れる。

 身体は縦横無尽に回転し、かき混ぜられる内臓。

 視界は何も捉えることができず。

 眼球は今にも千切れて零れそう。

 遮られる呼吸。自由を奪う乱気流。

 首の骨が曲がったような感じがして、次の一瞬には全身があらゆる方向に曲がった自分が脳裏に浮かぶ。

 直後、頭蓋骨ごと脳を粉砕する衝撃が奔った。


「あがッ、はッァ――⁉」


 それはオレの頭から背中にかけてを何回も襲い、そのたびに四肢は浮遊感を獲得する。

 少しずつ勢いをつけて、身体を空き缶みたいに潰されるような感覚。

 最後に一際大きな衝撃を受けて、ようやく耳鳴りが鮮明になった。


 飛ばされていた体は、やっと止まってくれたらしい。

 砕けた歯。切れた舌。抉られた指。折れた四肢。露出した脊髄。陥没した頭蓋。

 それらは瞬く間に再生を始める。

 先んじて再構成されたのは脳。したがって痛覚が蘇り、叫び声を上げようとしたオレは、喉奥から込み上げてきた物をその場に吐き捨てた。

 

「……ンぐ、ヴぉえぇッ‼ ゴホッ、ゴホ‼ ……ぁ、……はぁ……はぁ……ッ、クソが……!」


 嘔吐している間に全身の骨も再生する。

 残ったのは途方もない不快感と、遅れて分泌される脳内麻薬。

 正常になった視界で周りを見る。

 ここは壁も屋根も崩れているが、どこかの民家だ。

 なるほど。飛ばされたオレの身体は建物の壁を何枚かぶち抜いて、地面をバウンドしながらようやくこの場所で止まったらしい。


 外壁だったモノに横たわる身体はまだ動きそうにない。

 しかし地獄はまだ、続いてる。


「……ッ、あぁ……?」


 霞んだ目を擦ろうとした手で、再び剣を握った。

 なぜなら、もう目の前に立っていたのだ。

 ツバサの片腕らしきものを肩に載せた、黒塗りの怪物が。

 漆黒の刃が、勢いをつけずに落ちてくる。

 立ち上がれないまま剣を構えたオレは、それを受け止めようとして――そして刃と刃が交差したその時。



 悲痛な絶叫が、脳に這入り込んできた。



『痛い――助けて――怖い――死にたくない――誰か――嫌だ――戦っちゃダメだ――お父さん――待って見捨てないで――逃げろ逃げろ逃げろ――子供がどこにもいないの――腕がないんだよ――目が見えないのなんでどうして――熱い熱い熱い――苦しい――喉から空気が漏れて――』


「ぐッ、あああぁぁぁぁ‼ がァ、ぎ、うる、せ――ぇ‼」


 何重にも。何十人も。

 まるで黒塗りがこれまで殺してきた生命の声を、繰り返し再生しているような現象。

 最後の悲鳴が、生涯の果てが、延々と脳内で乱反射する。

 抗えない。拒絶はできない。

 圧倒的意識の奔流に自意識が溶けそうになる。

 こんなものをずっと聞いてたら気が狂ってしまう。

 慟哭に心を侵食され、僅かに聖剣を握る手が緩んだ刹那――黒塗りはぐっと刃に力を込め直した。


 上からの圧力が増大し、オレが横たわっている外壁だったモノに亀裂が入る。

 その直後のことだ。

 脳内で共鳴し残響する悲鳴とはまた別の叫び声が、オレの真下から聞こえた。


「ぎゃッ――『ァぁぁああ(ァぁぁああああアアァ)ああアアァ(ァぁぁああああアアァ)‼』


 悲鳴が途中で終わったのは明らかで、続きはオレの内側に直接刻まれる。


「ぐッ、あ、ぁ!」


 オレは黒塗りの刃を受け止めながら何とか顔を横に向けた。

 確かめたかったのだ。

 嫌な想像をしてしまったから。

 それが勘違いだって、安心したかった。

 だけど見えた。

 見えて、しまった。

 オレが背を預けている薄氷の、その下から徐々に広がるのは……()()()()

 生命の、証拠。


「こんな、チクショウ!」


 人が、いたのか……オレの真下に……?

 吹き飛ばされたオレが壁をぶち抜いた時に、巻き込まれてたってのか……?

 それでもまだ生きてはいたのに、オレがこの場所に居たから、潰されてしまった……?

 オレが……人を?


「ちぃッ、胸糞わりぃ‼」


 しかもだ。事態はより最悪な状況に転がりつつある。

 いっそのこと、知らないままだったらよかったのに。

 顔を逸らした際に、目が合ってしまったのだ。

 ――足を怪我して逃げられずにいた女と。


「……ぁ……あ、ああっ……」


 これまで必死に息を殺して隠れており、そして限界を迎えたのだろう。

 一目見ただけで分かる。

 女はこれ以上、何かを考えることはできない。

 理性は感情を抑えきれず、恐怖が氾濫している。

 ダメだ。このままじゃ下敷きになったヤツの二の舞だ。


「さっさと逃げろ!」

 

「ひッ、ひぃ、ぃ、いいい……あああああああああああ‼」


「叫んでないで逃げるんだよ! 這ってでも‼ ぐ――――ぁ、あ」


 黒塗りは鍔迫り合いを止め、オレの胸倉を掴む。

 身体は軽々と持ち上げられ、そして一回転。

 オレは砲丸投げの要領で上空へと放り投げられた。

 あまりの加速の勢いに、持っていた聖剣を手放してしまう。


「うぅッ――!」


 生温い大気に揉まれる全身。

 鼓膜を切り裂く暴風。

 宙を舞いながら、それでもオレは廻る世界を必死に捉えた。

 何も問題ない。

 これは昨夜のツバサとの戦闘でも経験したことだ。

 あの紅い光翼を広げれば、それで立て直しは可能。

 空と地面が逆転し、元に戻り、また逆さになって。

 そのたびに血だか胃液だかがせり上がってくるが、構うものか。

 このまま変な着地をして、また知らないうちに人を巻き込むのだけはごめんだ。

 ――絶対に!


「ぐぅぅぅううッ……‼」


 意識を集中し、全身の血液を背中に流し込むようなイメージを抱いた――瞬間。

 さっきの、逃げ遅れた女の姿が見えた。

 その目前には刀を構えた黒塗りの化け物。

 映る光景が、スローモーションになった。

 限りなく静止した世界。

 届くはずがないと分かっていながらもオレは、手を伸ばしていた。


「やめ――――」


 慈悲も容赦も無く、黒塗りは刀を振り下ろす。

 撒き散らされるのは女の血液。

 ではなく、黒塗りが放った斬撃だ。

 どういう原理かは理解できない。

 けれどあの刀は斬撃を、纏ったどす黒いオーラをそのまま前方に射出したのだ。

 大きさは縦におよそ十メートル。

 半分は大地を抉り、半分は大気を裂く。

 そしてその中心に居た女は――溶けた。

 皮膚が焼かれ、肉が溶け落ちて、脂が地面に染みつく。

 その様はまるで、焦げ付いたフライパン。


「――クソ野郎がァッ‼」


 ドックンと、一際大きな鼓動が体内に響き渡った。

 同時に背には巨大な紅光の塊――両翼が展開され、跳躍も落下もすべては自在の飛行へと切り替わる。


 上空からの景色は最悪だ。

 建物も人も在るものすべて……ほとんどが平らにならされてしまっている。

 被害の中には少なからず、応戦したオレやツバサが原因のものだってあるだろう。

 こんな状況になってようやく理解した。

 聖戦でレイラがあの世界を作った意味が。

 無関係な人を巻き込まない幽世(かくりよ)が、どれだけ大切で優しい場所なのか!


「――――」


 その手に求めた瞬間、落としたはずの聖剣はどこからともなく現れた。

 《ディレット・クラウン》――淡い緑と桜色のオーラが渦を巻く、高潔なる王冠を鍔とする剣。

 アヤメさんの言葉を想起する。

 この聖剣の固有能力は心象、あるいは空想風景の具現化。

 つまりレイラは昨夜、この東区を丸ごと細部まで心に描くことで幽世という灰色の世界を作り出したのだろう。

 それはきっと、途方もない研鑽の果てに実現したものなのだろう。

 簡単に説明できるようなことじゃない。

 容易く想像していいことじゃない。


 だけど、それでも――今はオレがやるしかない。


 レイラみたいにできるかは分からないけど、オレがこの剣を使ってヤツを幽世に閉じ込め、これ以上の被害を防ぐんだ。

 それこそがアヤメさんの言った、()()()()()()()()なのだから。


 ここまでの思考時間は一秒。

 続く二秒目で、オレは降下を開始する。

 今なお降り注ぐ無数の雨粒を翼で受けながら、地上を目指す。

 するとそれを迎撃するように、深淵を宿した斬撃が弧を描くように飛んできた。

 黒塗りの仕業だ。

 明確にオレを狙った狙撃のような一太刀。


「ぐ――、ッ!」


 オレは息を止めて翼を翻し、身を捻ることでそれを避ける。

 まさに紙一重。

 さながら雷が横切ったかのように体の芯に響く衝撃と、不快な破裂音の余波が残響する。

 だがそんなことをいちいち気にしている暇はない。

 風に煽られながら、すぐにブレた体勢と視界を元に戻し、再び加速。

 ――全力で大気を蹴飛ばす。

 そのタイミングを狙って、さらに黒塗りの斬撃が飛んできた。


「ッ、ウ」


 翼の形を変えて、急転換。

 身体の関節を無理やり捻じるような力技で二撃目を回避する。

 斬撃はなおも続く。

 右、左、右と思わせてまた左――オレの回避行動を予測した知性ある攻撃。

 しかしそんなもの、オレにとってはほんの少しばかり助走が長くなっただけに過ぎない。


「ぐ、――ッ、――うゥ、ァ――――‼」


 翼を片側だけたたみ、左足を伸ばし、右腕を引き、胴体を曲げ、風を操り回転――重力加速度を無視した不規則な軌道を描きながら、紅の翼は灰色の空を舞う。

 結果、計七本の斬撃の包囲網を無傷で掻い潜ったオレの速度は、ゆうに亜光速へと達した。


 さあ、勝負はここからだ。

 聖剣を構え、自身を流星へと変換する。

 雷鳴の如き号砲――加速は二段階目に突入した。

 

 そして今、流星は地に堕ちる。


「うぉおおおおおおおおお――――ッッッ‼‼‼」


 振り下ろされた最高速の一刀。

 黒塗りは何の感情もなくそれを真正面から受けた。

 が、しかしその衝撃を止めきることはできない。

 紅の閃光が駆け抜け、一直線に抉れる大地。

 オレは加速の勢いを殺さぬまま黒塗りを押し込むようにして、戦場を再び噴水広場に移動させる。


 ここは被害が一番大きな場所だ。

 けどその分だけ、今安全なところに居る人々から遠い場所なのだ。

 もう生きている命はない。

 ここにいるのはオレみたいな半端者と、ぶっ殺されても文句言えないクソ野郎だけ――。

 オレは重なった刃を滑らせるようにして足を地面に設置、聖剣を構え直して二撃目を放つ。


「ッ、‼」


 切り裂いたのは虚空。

 黒塗りの姿は一瞬にして視界から消えた。

 最初にオレを吹き飛ばした時と同じパターンだ。

 だが、今度は反応してみせる。

 目で追えないなら鼻で。それがダメなら耳で。それでもダメなら直感で。

 吸血鬼としてのありとあらゆる感覚を研ぎ澄まし――絶対に逃がさない!


「――――ッ、‼」


 響き渡る重い金属音。

 亜音速で迫ってきた黒塗りを捉え、受け止めることに成功した。

 もちろん後ろに吹き飛ばされもしてない。


 だが、しかし。


「な⁉」


 防御には成功したが、衝撃波が背後に拡散した。

 必死に、地面が割れるほど踏ん張って耐えたのに。

 大量の瓦礫や岩石、燃えた木材が、飛ばされていくのが見えた。

 あれではまた誰かが被害を受ける……!


 ただ打ち合うだけでもこうなるなら、やはり早いところ幽世を展開しなければならない。

 それは理解している。危機感だって充分にある。

 けど、隙があまりにもなさすぎる。

 あの灰色の世界を思い浮かべている余裕など微塵もない。

 そのようなリソースがあるなら、真っ先に眼前の敵に充てざるを得ない。

 それに加えてあの禍々しい刀。

 あれに触れるたび、それが間接的であろうと、慟哭が脳を貫いて意識を乱してくる……!


 せめて誰かに足止めをしてもらわないと無理だ。

 けどこいつに対抗できるような存在が都合よく――――、


「クレハ……ッ!」


 見計らったように、聞き覚えのある声が届いた。

 意識を眼前の黒塗りに向けながら、ほんの少しだけ視線を逸らす。

 すると瓦礫の山の上には、彼がいた。

 失ったはずの片腕に炎を灯した――不死鳥の騎士ツバサが。


「そういや不死なんだったな!」


「幽世だ! 聖剣の力を使え!」


「やってやるさ! 指示をするなら時間を稼げ!」


「……それが僕の役割ならば!」


 かくして、ツバサもこの地獄に参戦する。

 吸血鬼。不死鳥。そして正体不明の怪物。

 役者は揃った。

 戦いの火蓋は今ようやく、切られたのだ。


 その日は雨が降っていた。

 空は曇天。肌を撫でる風は湿気を多量に帯び、私はそれに不快感を覚える。


 鬱陶しく重みを増すプラチナブロンドの髪。

 毛先が腰にまで届くこれを何度、短くして黒く染めてしまいたいと思ったことか。

 特にこんな曇った日は、この髪と紫色の瞳をひたすらに目立たせてしまう。

 人目につくのは好きじゃない。

 今後の私の立場からしても、それは避けるべきだと理解している。

 けれどそのたび、この髪と瞳を綺麗だと言ってくれた両親の優しい笑顔が浮かぶのだ。


 そう。この外見は私が私である意義なのだから――いつも、目的と理念をかけた天秤が傾くギリギリのところで、結局は思いとどまる。


「――――」


 余計な感傷だ。答えは変わらないというのに。

 でもそれこそが私にとって、人間の好きな部分であり嫌いな部分なのだ。


 一瞬だけ苦笑を浮かべ、現実を見つめ直す。

 未だ、今はまだ、何事もなく進行する人の波。

 それに混じって町を闊歩していると、見知った顔に声をかけられた。


「あら、マリアさん。こんにちは」


 布製品を扱う店の軒下にいたのは、《カランコエ》の店主の奥さんだ。

 以前と同じ割烹着姿で、その手にはロール状の布地を何種類か入れた袋を提げている。


「どうも、こんにちは」


「あ、今日は……何かこの辺りに御用ですか?」


 愛想よく返すと、多少訝しげな表情をされた。

 おそらく雨の中で傘をさしていなかったことが引っかかったのだろう。

 私としてはただ雨に濡れたい気分だったから以外に理由はないのだが、変に勘繰られるのも面倒だ。

 じんわりと水気を含んだ前髪を払いながら、私は軒下に入った。


「ええ、雨具など買いに。それに……そろそろかと思って」


「そろそろ?」


「リベンジです。ほら、前にご主人が」


「ああ、そうでしたそうでした。丁度お使いの帰り道だったんです。よろしければご一緒に――」


 彼女の言葉は続かない。

 落雷か。それとも爆発か。

 それは非日常の始まりを告げる鐘だ。

 次の瞬間、不自然な振動が伝播する。

 大地が揺れ、建物が揺れ、バランスを崩して倒れそうになった彼女を、私はそっと支えた。


「あ、ありがとうございます。なんでしょうね……今のは? 地震……?」


 違う。これは自然現象ではない。

 意図的に実行された暴力の結果だ。

 幕は切って落とされた。

 ならば私はそれを見届けなければならない。

 それが傲慢なことだとしても、私が私に代わるために。

 窓硝子に映った自分を一瞥し、小さく息を吐く。

 

 それから隣で呆然としている彼女に向けて言う。


「すぐに逃げたほうがいい。あっちへ走るのよ」


 指し示したのは騎士団の本部。

 あの場所が容易く崩れない城であることは、身をもって調査済みだ。

 非常時の避難場所にあれ以上適した場所など、この中央都市には存在しないだろう。


「え……ええっ、そんな………でも店には主人が」


 彼女は私の判断に戸惑いつつも、食い下がる姿勢を見せる。

 店はこの先。

 そしてそのさらに向こうからは、ちらほらと走って逃げてきた人たちの姿が見え始めている。

 不安を煽るには充分な悲鳴だっていくつも。

 状況からして騎士団は既に動き始めているだろう。

 そこに自衛の手段を持たない彼女が飛び込むのは、足手まといでもあるし、何より彼女自身が危険に晒される。

 そんなこと、あのご主人は望んでないでしょうに。

 でも……そう、理屈じゃないのよね。

 当事者からしたら。


「なら私が行くわ」


「だけどそれじゃあ貴女が……!」


「大丈夫。さあ、死にたくないなら走りなさい。無事な姿で待つのも努めよ。男でも女でも、残された側というのは……」


 そう言い残した私は、人の流れに逆らいながら《カランコエ》へと走り出した。

 遠くで黒煙が上がっている。

 きっとこの先では凄惨な光景ができあがっていることだろう。

 でも大丈夫。

 煙の位置からしておそらく、《カランコエ》周辺の被害は少ないはず。

 そう推測を立てた束の間――突風と共に眼前を何かが横切った。


「今のはまさか、クレハ……?」


 それは一直線に移動し、まるで巨大な弾丸のように射線上の建物を貫通していく。

 砕けて拡散した瓦礫は槍と化し、逃げる人々を襲う。

 直後、新たに場に乱入したのは妖しげな追跡者(チェイサー)

 漆黒の刀を手にし、黒いオーラそのものが浮かんでいるような存在。


 不意に――ソレと目が、合った。

 

 邂逅はほんの一瞬。

 場をかき乱すことなくヤツはクレハを追い、私の意識はすぐに別のモノへ向く。


「倒れてくるぞ! 逃げろ!」


 支柱を失い倒壊する背の高い建物。

 逃げていた人々の一人が叫び、状況はさらなる混乱に包まれた。


「おい立て! 潰されちまうぞ!」


「もう死んでる! 早く逃げろ!」


「きゃあああああああ!」


「やだ、やだああああああ!」


 私は悲鳴を背に走り出す。

 《カランコエ》はもう、目と鼻の先だった。

 

「……あなた何を!」


 店の前に辿り着いた私が、開口一番に店主に告げた言葉がそれだ。

 彼は無事だった。

 見たところ大きな怪我はない。

 だがむしろ、それがいけなかったのかもしれない。

 彼は必死に、柱の下敷きになった人を助けようとしていたのだ。


「お嬢さん! すまないがこれをどけるのを手伝ってください! でなけりゃ早く避難して騎士を!」


「う、うぅ……おやっさん……、はやく、いい、から逃げろ……ってぇ!」


「馬鹿言うな! おれは(ガキ)を見捨てて逃げたヤツのいる店なんか気に入らねえんだ! 勝手に諦めんならおれのために生きてくれよ!」


「ッ……人助けなんかしている余裕、ないでしょうに……」


 小さく毒づいた私は、懐に伸ばそうとした手を、すんでのところで抑えた。

 逡巡。刻一刻と状況は悪化していく。

 近いとも遠いとも言えないところから振動が発生するたびに建物は崩れ、油かアルコールに引火して炎は燃え広がる。

 地面だって縦にも横にも割れて不安定だ。

 先日訪れた往来の面影など、一片も残っていない。


 もうこれは、大規模な災害の最中……救う命を選ばなければならない状況なのだ。

 柱の下敷きになっているあの人は、体の半分以上が確認できず、血も大量に流れている。

 いかにこの世界の魔法とやらが現代の医療技術より優れていたとしても、限度というものがあるだろう。

 おそらくはもう、助からない。

 

 だとするなら、私の思考を支配するのは今どうやって彼に、あの下敷きになっている人を見捨てさせるか。

 その方法だ。

 まったく、どうしてこんなことに……。

 私の道はもう、前にしか続いていない。

 それはきちんと理解しているつもりだ。


 だったらやるべきことは、ひとつ。


「理想だけじゃ人の都合は動かせないのよ」


 地獄の中で小さく呟いた私は、大きな振動の後、()()が近づいていることに気づいた。

 即座に店主の腕を掴み、下敷きになっている人から引き剥がすように、とにかくその場から離れる。

 

「なッ、なにをぉ!」


 店主が抗議の声を上げたのとほぼ同じタイミングで、黒炎が通過した。

 見た目は不鮮明な漆黒の三日月。

 その実態は、斬撃を超高濃度の魔力で形にして飛ばしたモノ。

 それは最初にジリジリと電流が流れるような音を発し、次第に大気を破くような轟音に変化。

 下敷きになっている人を――のみならず周辺の建物や大地まで、触れたものすべてを容赦なく溶かし、焦がし、奪っていった。

 

「あ、ああ、あぁぁぁあああ‼ クソッ、くそったれがァ……! 二度と……こんな思いしないためにって……! だからおれは……ッ!」


「早く立って逃げて! あなたにも家族がいるんだって!」


 不安定な足場がまだ歩けることを確認して、私は店主に訴える。

 今ならまだ間に合う。

 振動と共に、紅い光が広場のほうへ向かうのが見えた。

 おそらくクレハか騎士団の誰かがアレを移動させたのだろう。

 いつ二次災害に襲われるかも分からない現状、これが地獄から逃げ出せる最後のチャンスかもしれない。


「……あいつだって、おれの家族で……」

 

「早くッ!」

 

 張り上げたせいで、自分の声が震えていることに気づいた。

 覚悟はしていた。今だってそのつもりだ。

 だけど、耳の奥で残響し続けている悲鳴が。

 肌に纏わりつく血を吸った熱気が。

 空から降り注ぐ鬱陶しい雨が。

 少しずつ――心を擦り減らしている。


 たとえそれがスクリーンに感情移入しているようなものだとしても……いや……ならいっそ、見捨てることさえできれば……。

 この期に及んで中途半端で情けない自分に苛立ちを覚え、拳を強く握り視線を下げた、その時。


「……、影!」


 太陽が落ちてくるかのように、地面の影が急速に肥大化していく。

 空を見上げると、無数の瓦礫や燃えた木材が瞳に映った。

 戦闘の衝撃で飛ばされてきたのだろう。

 中でも大きな岩のひとつが、私に直撃するコースで落ちてきている。


 すぐにでも逃げれば私は助かる。

 しかしそれでは、後ろにいる店主が守れない。

 ならばと私の手は、懐に伸びていた。


「ああッ、お嬢さん……‼」


 背後から何かが動く気配を感じた。が、私の意識は既に迫りくる落下物へ向けられている。


「――――」


 横腹を掴み、丁寧に取り出したのは刀――の、刃だ。

 本来あるべき長さには遠く及ばない、十センチ程度の抜き身の刃。

 それを下から上へなぞるように動かし、私は余裕を持って静かに目蓋を閉じた。

 聞こえたのは瓦礫の落着音。

 舞い上がる砂塵を肌で受け、落ち着いて目蓋を開けると、落ちてきた岩は一刀両断されて少し離れたところに転がっていた。

 

「使ってしまった……こんなつもりじゃ、なかったのに」


 とにかくこれで障害は消えた。

 早く彼を、安全な場所で待っている奥さんのところへ送ってあげよう。

 砂煙と降雨で悪くなる視界の中、私は店主を探した。


 一度呼び掛けたが返事がない。

 もしかしたら先ほどの衝撃で気を失ってしまったのかもしれない。

 まあそれならそれで好都合だ。

 感傷的になられるよりは……今はとにかく避難を優先しないと。

 店主が居たであろう場所を探し終えた私は、衝撃で吹き飛ばされた可能性も考えて、探索場所を広くしてみる。


「ん」


 ふと、踏みしめた足場に妙な感触を覚えた。

 熟れた果実でも踏んづけたような、けれどそれにしては、芯があるというか。

 足元を確認してみるとそれは、人の手だった。


「――、――――」


 瞳孔が開いていくのが分かった。

 私は自分でも嫌になるほど、即座に理解していた。

 これが……この、先ほど私が二分割した岩の下敷きになっているのが、店主であることに。

 店主だったモノで、あることに。


 なぜ。どうして。彼は間違いなく安全圏に居た。

 移動していたというの?

 だとすればその理由は……私しかない。

 彼は助けようとしたのだ。

 私が身を守る手段を持っていることを知らずに。

 だから守ろうとして、結局は自分が命を落としてしまった。


「よ、けいな……ことをッ……人形の分際で出てくるから……!」


 怒りのままに吐き捨てる。

 私は、助けるために来たのに。

 リベンジをさせてくれというから、その気になったのに。

 私を助けようとして。私が落石を切断したから。せっかくアレから助かったかもしれないのに。

 ――その結果が、こんなものだというのか。


「こんな……家族を残して先に死んじゃうなんて、ひどいことだよ……」


 誰にも聞こえないようにそう呟いた私は、長い前髪の一房を帽子のつばのように引っ張り、そっと目を覆った。

 恥も外聞もなく雨粒を垂れ流す灰色の空。

 そこには不死の焔を宿したオオトリが、眼下を観察するように羽ばたいていた。

 まもなく騎士がやってくる。

 私の行動は、あの女に見られていただろう。

 

 それに見合う収穫だったのかは分からない。

 けれど今はただ、とにかく寒い。

 遠い昔に母親が作ってくれたホットチョコレートを、切望するほど――。


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