12話『負け犬でも朝食にパンとコーヒーを』
☆
布団やベッドで快適に眠ることが、どれだけ幸せな行為なのか。
それについて一家言あるわけではないが、でも実際にそういったまともな寝具を使ったことのないオレからすれば、やっぱり恵まれたことなんだと思う。
暗闇の中で記憶を探る。
さすがに生まれた時ぐらいは病院のベッドで寝かされていたはずだ。
けどやはり記憶にあるオレの寝床は廃バスの固い長椅子か、公園のベンチ、大人たちの事務所の床くらいなもの。
父親は知らない。母親もいたけどよく知らない。
次に親代わりになったヤツらも、関係は親子というより飼い主とペットのようなものだった。
だから環境はいつも最悪で。
睡眠は安らぎには程遠い、浅い入水を繰り返すだけの消灯。
起きれば体中が痛いし怠いし、気分も最低だった。
誰かに叩き起こされると、目には見えない何かを削られている感覚があった。
それでもオレは、眠る行為自体は嫌いじゃなかった。
目蓋を閉じて好きなことを考えている間はクソな現実を忘れられたし、夢の中ならオレは決して孤独じゃなかったから。
「――――」
意識は自分が睡眠中だと判別できる程度には覚醒している。
今日はマシなほうだ。
体温は丁度良くて、気分も怠くない。
このまま目を閉じていれば、自然と二度寝ができるだろう。
何も考えずに。この心地良い微睡みに沈んでいけば、それで。
その前に一度、寝返りを打つ。
固い床で寝るといつも身体が凝り固まって仕方がない。
特に仰向けだと、胸の辺りが痛くなる。
丁度いい体勢を探り、身をよじりながら横向きになる。
少し楽になった。
あとはもう少し顔を前にして――、
「ぅんっ……」
あれ、なんだこれ。
布と、すごく温かいものが鼻先に当たった。
柔らかいのに芯がある壁のような何か。
一定のリズムでわずかに上下するそれは、馴染みのないフルーツの香りで満ちている。
どくん、と鼓動が跳ねた。
血液の巡りが加速し、意識は急激に覚めていく。
真っ先に浮かんだ疑問は、昨日オレがどこで寝たのかということ。
確か聖戦は仕切り直しってことになって、オレはそのまま眠って。
だとすればここはどこだ。
風の音はない。誰かの話し声も聞こえない。となるとここは、外ではない。
どこかの部屋。床に横になってるのは間違いない。
凝り固まった身体がその証拠だ。
でもそうなるとおかしい。
だって、頭部だけがその感触と一致しないんだ。
最初は自分で腕枕でもしてるのかと思ったけどそれも違う。
こんな熱は知らない。分からない。記憶にない。
オレは頭に当たっているモノの正体を見極めるべく、再び寝返りを打って仰向けになった。
するとだ。
「……んっ……」
先ほども聞こえた、オレではない誰かの吐息があった。
オレは直感し、そしてすぐさま、まさかと否定する。
そんなはずない。これは単なる勘違いだ。
できるだけ音を立てずに唾を飲み込む。
気付けば呼吸は止まっていた。心音がやかましく鳴り響いていた。
そして無限に思える一秒が経過して、永久に思える十秒が経過して。
耐え切れず、オレはおそるおそる薄目を開ける。
「――え」
思わず、目をかっと開いてしまった。
声も出ちゃって、誤魔化すことはできなそう。
だってもう見上げた先で、視線が重なってる。
長い睫毛に飾られた凛々しい瞳。
鮮やかな赤い野生を潜ませる髪。
それらはいつもより優しい印象で。
昨日は散々痛い目に合わされたというのに、オレは見惚れてしまう。
そして理解するのだ。
ここが騎士団の宿舎の一室で、そしてオレの後頭部に当たってるこれが、騎士団長――アヤメさんの太腿だという事実を。
「起こしてしまったかな。すまない。腹部に当たった君の寝息や髪が、少しくすぐったくて」
「あ――」
アヤメさんに膝枕をされている。
そう認識した瞬間から、じわじわと瞳孔が開いていくのが自分で分かった。
オレはすぐさま飛び起きて、アヤメさんから距離を取る。
その際、力加減も何も忘れてしまい、飛び跳ねた勢いのまま頭が壁に激突した。
ごつんと、致命的な音が脳髄に響き渡る。
「いッ、でぇ~……!」
「無事かっ?」
「ぜ、全然大丈夫です……」
「それは何よりだが……しかし君の場合、安否を確認するべきはむしろ……」
「え?」
――背中越しに、何かが崩れる音を聞いた。
ああ、そうか。
アヤメさんが言いたいのはこういうことだ。
半分吸血鬼のオレの頭突きは人間のソレと違い、何においてもまず自分より相手を心配するべきだと。
つまりはオレと石壁であれば、石壁のほうが壊れやすいのだと。
ごくりと唾を呑み、振り向く。
壁は想像通り、いやそれ以上に、オレの頭が当たった部分を中心に大穴が開いていた。
「やっば~……」
砂煙の向こう。
オレは隣の部屋に飾られた置物と、ばっちり目が合った。
☆
「へ~、アヤメさん今日休みなんですね」
「ああ。本来、不死鳥である私はどれだけ働いても業務に支障はないのだが、それでは部下に示しがつかないとツバサに諭されてしまって」
なるほど。だから今日は騎士団の制服を着てないんだな。
今のアヤメさんの恰好は、無地の白シャツに水色のパンツを合わせ、その上からベージュのシャツワンピースを前開けで着ている。
髪型も三つ編みで、いつものキリっとしたカッコイイ感じと違って、全体的にラフな格好だ。
「何か変だろうか?」
「いえ! 超絶カワイイです‼」
この世界に来てからずっと同じ服を着てるオレと比べるのもおこがましいくらい、最強に似合ってます。
「そ、そうか。可愛い、か……。ストレートに言われると存外照れるものだな。ありがとう」
騎士団本部の一階にある食堂。
オレとアヤメさんは朝食を載せたトレーを手に、窓際の席に座る。
メニューは聞いたところによると、クロワッサン、スクランブルエッグ、生ハムサラダ、きのことポテトのソテー、デザートに生のフルーツとのこと。
なお都合上、元の世界と原材料が少し違う似せ料理もあるらしい。
「ところでオレ、昨日の最後のほうあんま覚えてないんですけど、どうしてまたあの部屋で寝てたんですかね?」
「ティアーズ卿が運んだのだ。すっかり眠ってしまった君をね」
「じゃあアヤメさんにひ……膝枕、されてたのは?」
「君、昨夜はかなり無茶をしただろう? だから吸血鬼としての力、その反動が何らかの形で表れてないか気になってね。無礼を承知で部屋を訪ねた。すると予感は的中。君はベッドではなく床に転がって、酷くうなされている状態だった」
そうだったのか。
寝てる時のことはよく覚えてねえけど、目覚めた時はむしろ気分が良かったから驚きだ。
「ゆえに、私は君に膝枕をすることにした」
「いきなりですね」
「まあ聞いてくれ。不死鳥には己の生命力を他人に分け与える能力がある。君が今の体調を悪くないと感じるのなら、それは膝枕を通じて私の生命力が行き渡ったからだ」
「はぁ~、なんかありがとうございます」
「君の力の元栓を開けたのは私たちだからね。ケアをするのは当然さ。そうでなければ聖戦にも悔いが残る。だからお礼は無用だよ」
……聖戦、か。
思わず視線が窓外に向く。
そっか。そういやオレとアヤメさんは昨日、戦ったんだよな。
別に刃を交えたワケでもないし、交渉も全然切り返せなかったけど。
「…………」
また今日の夜もあるんだよな、アレ。
このままじゃ昨日の繰り返しになっちまう。
嫌なことや面倒なことはなるべく考えないのがオレの主義、というか癖みたいなもんだけど――今回はそういうわけにもいかない。
早めに何か、とにかく何でもいいから考えておかねえと。
クソ、こういう頭脳労働は苦手なんだけどなぁ。
ポテトをフォークで刺して、そのまま口の中に入れる。
ぼぎり、と変な感触がした。
何かと思い舌で確認すると、どうやら噛んだのがポテトではなくフォークそのものだったらしい。
オレはやれやれと、先の歪んだフォークを吐き出した。
するとばっちり、アヤメさんと目が合う。
「……そういえば昨日のアレ、すごかったですよね。幽世とかなんとかよく分からないですけど、周りが全部灰色になっちゃって」
誤魔化すように言葉を並べる。
「あれは君たちの聖剣の力だよ。心象、あるいは空想の風景を具現化する力――それこそが《ディレット・クラウン》の固有能力さ。それを持つがゆえに、ティアーズ卿は“場”の創造者として始まりの一戦を任された。私も昨夜が初見だったが、あれほどまで精巧に町を複製してしまうとは驚嘆に値する。あの世界なら市民を巻き込む心配は無用だろうな」
「へぇ……そうなんですね」
「ああ。思い悩んだ時は、気分を変えるのもひとつの手だよ」
「うっ…………」
どうやらオレが上の空なのはバレバレらしい。
いや、オレが隠しベタなだけか。
「……そうだな。うん、先ほども言ったが今日は休日で、特に予定がない。君さえよければ、気分転換に私と町を見て回るのはどうだろうか」
「えっ⁉」
「一昨日の案内は、ツバサの職務の都合で一時中断になったと聞いている。僭越ながら私がその続きをできたらと考えたのだが……どこか気になっている場所や欲しい物品などはないかな?」
「えぇ~⁉」
肘を立ててこちらを窺うように微笑むアヤメさん。
その表情からは、職務や義務といった堅苦しさは感じられない。
「じゃあ……新しい服とか欲しいかもです!」
「ふむ、なるほど。食べ終わったら、君の服を見繕うデートといこうか」
「デート……マジか」
その単語の響きに衝撃を受けたオレは、スプーンも噛み砕いたのだった。
☆
「おや――クレハさん、と騎士団長様? これはどうも!」
「ごきげんよう、店主」
「こんちわ~」
朝食後。昼や夜とはまた違った穏やかな賑わいを見せる大通り。
オレは私服姿のアヤメさんを連れて、《カランコエ》に来ていた。
ここはこの世界に来てから毎日世話になってる飯屋だが、その隣には店主の奥さんがやってる服屋がある。
タダメシ食わしてもらった恩もあるし、服はここで買おうと決めていたんだ。
そしてアヤメさんには、センスのないオレの代わりに服を選んでもらう予定だった。のだが……どうも様子が変だ。
服屋のほう、扉が閉じられてる。
「あれ、今日そっちの店閉まってね?」
「ええ、ありがたいことに昨日大量に品物が売れて。今日は仕入れの関係で妻が出かけており、営業は午後からの予定になってます」
「そっか……すみませんアヤメさん、せっかく来てもらったのに」
「気にすることはない。ただ巡り合わせが悪かっただけだ」
「何か入用でしたか? 急ぎということなら、通りをふたつ行った先にも一軒、衣類を扱ってるお店があります。そちらを訪ねてみてはどうでしょう?」
なんと、そいつは助かる提案。
「ふむ、その店には心当たりがある」
これが渡りに船ってやつか。
「そこはウチのお客さんの一人がやってる店なんです。妻の仕事ぶりに影響を受けたとかで。確かこの時間でも開いてますよ」
「……ほう、そのような繋がりがあったとは。これは市井に直接触れねば分からぬことだな。教えてくれて感謝する、店主。奥様のほうにもよろしく伝えてもらえると幸いだ」
アヤメさんは爽やかな笑顔を浮かべた。
「また来るよ」
その後は店主に別れを告げて、アヤメさんの案内で服屋に向かうことに。
道中、オレはデートに関する少ない知識を振り絞り出店を見て回ろうと言ったのだが、ぽつぽつと雨が降り出したことで寄り道は無しになった。
なんだか今日はついてない日だぜ。
壁はぶっ壊すし、店は開いてないし、雨には降られるし。
この後には聖戦が控えてるしな。
「…………」
いや、嫌なことを考えるのはやめだ。
隣にはアヤメさんがいる。
人が多い場所を通ると、たまに肩が当たる。
知らない建物を見ると、丁寧に説明してくれる。
昨日戦った相手とこんな時間を過ごすのは変かもしれない。
でも今はそれでいい。
アヤメさんが気を使ってくれたんだから。
それに甘えて、今はひたすらこのデートを楽しもう。
「この店だ」
小さな通りの一角。
東区の店にしては落ち着いた雰囲気の建物に到着する。
「いらっしゃいませ~」
店に入って早速、穏やかに挨拶を返してくれたのは若い女。
昨日、《カランコエ》で見かけたような気がする。ってことはこの人が店主か。
店主は奥のカウンターから歩いてきて、笑顔のまま軽く頭を下げた。
「騎士団長様、またいらしてくれたんですね。ありがとうございます」
「以前は世話になったな。今日は私ではなく、彼の服を見に来た」
「そうなんですね、ふむふむ………」
なんかジロジロ観察されてる。
「お客様は最近この世界に来た方でしょうか?」
「そうっすけど」
「なるほど……となると服は近代寄りで……え~っと細身で背が高いから……スタイルも悪くなさそうだし、少し派手めに……」
店主は一人でぶつぶつ言いながら、店の服を物色し始めた。
もしかしなくてもオレの服を選んでいる様子。
「オレまだ何も言ってないんだけど……」
「まあいいじゃないか。少し待とう」
アヤメさんがそう言うなら、待つか。
どうせオレ一人じゃ服のことなんか分からねえしな。
にしてもこの店、広いわけじゃないけど本当にいろんな服がある。
性別。年齢。国。元居た世界の年代。そして人間以外の種族用のものまで。
ひとつの商品の名前だっていろんな言語で書かれてるみたいだし、こう見るとこの世界の商売は大変そうだな……。
数分後。店主はとりあえず二着、上から下まで揃えたものを持ってきた。
着れたらなんだっていい精神のオレが悩むほど、どちらもいいセンスだ。
「うーん……アヤメさんはどっちがいいと思います?」
「どちらも似合っていると思うよ。しかし私としてはこちらも捨てがたい」
白く長い腕を伸ばし、アヤメさんが手に取ったのは。
「……ジャージっぽいですね」
「ジャージだからな。ダメだろうか、機能性は充分だと思うのだが。身軽で動きやすく、洗濯もしやすい。騎士団の制服をデザインしているデザイナーにも、これを採用できないかと日々相談しているのだが中々理解を得られなくてな」
「……まあアリかナシかで言えば、オレはアリですけど」
でも今のオレには別の服を着れる選択肢があるわけだし。
進んで着たいというより、着るべき状況になったら着る。という意味合いで返した。
するとアヤメさんはそれをプラスに受け取ったのか、ほんの少し不敵な笑みを見せてから、ジャージコーナーへと前進する。
「君には同志の素質がある。もう少し吟味してみるとしよう」
「…………えぇ」
なんか妙じゃないか?
アヤメさんの私服はかなり似合ってる。洒落てるとも思う。
でもあの服を選ぶ人が、ジャージを他人に勧めるもんなのかな。
オレが首を傾げると、不意に肩の辺りをつつかれる。
「つんつん、少年くん」
横を向くと、隣にはいつの間にか店主が立っていた。
「君がどうやってあの仕事中毒の騎士団長様をお連れしたのかは聞きません。でもね、団長様の服のセンスに期待しちゃいけませんよ。今着てる服も前に部下の赤メッシュくんに選んでもらってましたし」
「え」
「あはは、意外ですよね。香水の趣味とかもちょっと子供っぽくて……普段は凛々しいのにセンスはしっちゃかめっちゃかで。でもなんだか可愛らしいって結構人気あるんですよ」
「……へ~」
自慢するように話す店主。
センスに関してはオレも人のことは言えないけど、そっか……そうなのか。
まあ、それはさておくとして。
アヤメさん、町の人から好かれてるんだな。
人と繋がりを大切にして、平等な幸せを願い、絶対的な正義が欲しい騎士――昨夜は自分のことを愚かだと笑っていたけど、やっぱりオレにはそう思えない。
行動の結果が示しているんだ。
たとえアヤメさんの正義や願いが私利私欲のためだとしても、それは他人の幸せとか生活に繋がっているんだって。
もちろん願いを譲ることはできないけど。
でもやっぱり、尊敬に値する人だ。
そんなアヤメさんが、オレのためにこの時間を用意してくれた。
ならオレも、せめてアヤメさんの時間を無駄にしないようにしたいな。
ジャージも一着くらい買ってもいいか。
あとはぶらぶらと店を案内したりされたりして。
でも……そうなるとやっぱりこの雨がなぁ。
窓から外を見る。
小雨は止むどころかむしろ勢いを増してる。
これじゃあせっかくの休日も台無し――、
――――けて。
「……ん、なんだ今の……」
雨音の中に、何か混じっていたような。
甲高い、耳障りな音が。
無視してはいけない音が。
オレは少しずつ吸血鬼としての聴力を研ぎ澄ましていく。
――れ――すけて。
「どうかしたか?」
様子の変化を感じ取ったアヤメさんが、こちらを見る。
――や――ぁぁ――たすけ。
「いや今なんか悲鳴みたいなのが聞こえた気がして」
雨の冷気にやられたのかいつの間にか鳥肌が立っていた。
オレは目蓋を閉じて、意識を集中する。
刹那、爆音と共に地面が大きく揺れた。
――いや、きゃあああ――誰か助けて――!
とっさに両足を広げる。
隣にいた店主はオレの肩に掴まり、アヤメさんも近くの壁に手をついた。
振動は一瞬。
そして騎士が異常を察知したのも、一瞬だ。
「どうやら気のせいではないらしいな」
アヤメさんは髪を結んでいた紐を軽く引っ張り、即座に三つ編みを解いた。
それがスイッチだったのか、表情は騎士団長としてのモノに切り替わる。
「君、すぐに私の部下が駆けつける。落ち着いて指示に従い避難を」
返事を待たず、アヤメさんは店を飛び出した。
「あ、アヤメさん……オレも!」
外に出ると、雨風が思った以上に強いことに気付いた。
視界が悪い。これじゃあ何があったのかすぐには分からなそうだ。
そう思った矢先、一秒前の思考は撤回される。
状況は一目瞭然だ。
なぜなら煙が見える。
雨雲よりも黒い煙。
そしてそれを生み出す炎。
さっきの轟音と振動は、爆発事故のようなもので生じたのだろうと直感した。
ふと前方から負傷した騎士の一人が足を引きずりながら走ってくる。
「団長……!」
「――状況を教えてくれ」
「お、およそ一キロ先の噴水広場にて未確認人型の魔物が暴走中! 死傷者不明。先ほどツバサ先輩が戦闘を開始しましたが、市民の避難までは手が回っていません!」
ま、もの……?
事故じゃないのか。
戦闘って、つまりあの火事には原因になったヤツがいるってことか?
「承知した。魔物についてはツバサに任せ、我々は市民の救助と避難を優先する。指揮は私が、君は信号弾を撃った後、一度傷の手当てを」
「っ……了解!」
素早く指示を出すアヤメさん。
その間にも、雨の中を息も絶え絶えに走って逃げてきた人たちが騎士団本部に向かっている。
反対方向からは駆けつけた騎士。
その中の一人が黒いジャケットをアヤメさんに差し出す。
濡れた前髪を頬に張り付かせながら、アヤメさんは真剣な眼差しをオレに向けた。
「聞いての通り非常事態だ、クレハ。君は騎士ではないが――以前の貸しを覚えているな。協力を要請したい。聖剣の能力があればこれ以上の被害拡大を防げるだろう。どうか、頼む」
「えっ、ええ! アヤメさんの頼みとあれば、オレぁやってやりますよ!」
「感謝する。ではお互い無事を祈る――」
舞い散る無数の赤い羽根。
ジャケットを羽織ったアヤメさんは、部下を連れて駆け出した。
そしてオレも、避難してくる人混みの中に飛び込む。
その先で待ち構えていたのは正真正銘の――地獄だ。