11話『正義に負けたその瞬間』
☆
灰色に塗り替えられた無機質な世界。
吸血鬼の眷属と不死鳥の眷属は――互いに一歩、踏み出す。
聖戦。願いを懸け、願いを殺し合う戦い。
開戦の狼煙は上げられた。
ここはすでに戦場なのだ。
しかし、だとするなら、ひとつ妙なことがある。
対戦相手である男、ツバサは武器を手放していた。
先ほどまで腰に提げられていた剣は、少し離れた石畳の上に置かれている。
まるで、今の自分には必要のないものだと言わんばかりにだ。
代わりにその手に持っているのは、どこか覚えのある甘い匂いを漂わせた紙箱。
舞台の中から出てきたような豪華絢爛とした恰好のツバサは、小さく笑みを浮かべた。
「――君は、三等分できるんだったっけ?」
「……?」
三等分。何を意味しているかは分からなかったが、そのフレーズは最近どこかで聞いたような。
丁度そう、吸血鬼としての嗅覚が捉えたこの甘い匂いと一緒に。
「ガレット・デ・ロワだよ。《カランコエ》の店主に言って、用意してもらったんだ」
「は?」
そうだ。《カランコエ》――あの店でオレは昨日、ガレット・デ・ロワというお菓子を食べた。
この甘い匂いはそれと一致してる。
つまりツバサの言ってることは嘘じゃない。
けど、どうして今なんだ。
あのいけすかない優男は、なぜ戦場で剣を手放し、お菓子を掲げる?
理解できない。聖戦が普通の喧嘩や争いとは違うという説明は受けたが、にしてもだ。
さらに次の瞬間――ツバサはもっと意味の分からない言葉を口にする。
「ちょっとお茶でもどうかな? 話をしよう」
「はぁ?」
怒りや苛立ちよりも、呆れるという感情が先に来た。
すっかり出鼻を挫かれた気分だ。
ツバサは背を向けて、早速準備に取り掛かる。
オレはその光景を、冷え切っていた頭が熱を取り戻していく感覚と共に、ぼうっと眺めていた。
☆
この幽世っていう世界に、オレたち以外のヤツは誰もいない。
色を失った世界。けど町の風景はそのままだから、戦場を奇妙なお茶会に変えるのは簡単だ。
適当にその辺の店から椅子とテーブルを持ってきて、ツバサが用意したお菓子と紅茶を並べたらそれで完成。
道のど真ん中で椅子に座るってのは新鮮な体験だが、それより先に気にするべきことがある。
それはオレの正面に座ってるのがツバサじゃなくて、アヤメさんだってことだ。
「あの……アヤメさん。間違ってたら悪いんですけど、聖戦の初戦ってのは眷属同士がやるんですよね?」
そんで初戦は勝敗を決めるためなら、その内容や手段を問わない。
だからツバサが話し合いをしようと言ったのは、要はそういう作戦ってことなんだろう。
けどそこにアヤメさんまで加わるのは、ちょっとルール的に大丈夫なのか?
「そうだね、何も間違っていないよ。初戦では、主人である私は手を出せない」
被っていた重そうな帽子をテーブルに置いて、アヤメさんは微笑む。
「しかしクレハ、これは戦闘行為ではない。話し合いだ。ならば出すのは手ではなく、口だよ。これならルールには反さないだろう?」
「えぇ……?」
「はは、すまない。少しふざけた言い方だったね。だが私たちは、この聖戦で勝利を収めるためにはこれが最適な手段だと判断した。無論、本来ならばそれもツバサに任せるべきなのだろうが、君には私の言葉のほうが届きそうだから。つまりクレハ、これから始まるのは――交渉だ」
奥歯を噛む。
いや、知ってたさ。
聖戦の初戦がこういうもんだってのは。
求められるのは暴力じゃなくて謀略ってレイラも言ってた。
頭脳労働が苦手なオレには不向きなことだって分かってた。
それでも覚悟を決めてきたのに、これじゃあ実際の相手はアヤメさんだ。
しかもこの人は多分、そういうのをきちんと分かってる。
オレがアヤメさんに憧れてるのを知ったうえで、うまいこと口車に乗せようとしてんだ。
戦いとなるとこうも容赦ないのか、この人は。
「そう、緊張しないでくれ。これはお互いの理解を深めるための話し合いさ」
言いながらアヤメさんは黒手袋を外して、刃渡り五センチ程度のナイフをオレに差し出した。
切れってことか、三等分に。
ナイフを受け取ったオレは、慣れない手つきでガレット・デ・ロワに刃を通す。
中心から一本線を引き、皿を回してまた中心から一本。
それをもう一度繰り返して、三等分の完成。
「上出来だ。そう、平行になってはいけない。コツをおさえてるね」
「……汚くてすいません」
「充分だよ。ありがとう」
切り口が荒く、端からぽろぽろと崩れたそれに、アヤメさんとツバサはお礼を言って手を伸ばす。
二人が食うなら、オレも糖分補給しとくか。
なんか流れからして頭使いそうな感じするし。
手前の一切れを手掴みで一口。
ふと何か、柔らかい生地の中に歯ごたえがあった。
これは――、
「チョコ……ってこたぁ当たりなんだったよなぁ? おいおい、また幸運はオレのモンか~!」
「僕のも入ってるよ、チョコ」
「私のモノにもだ」
「え、ええ⁉ 当たりってのは普通ひとつじゃないんですか⁉ これじゃあ幸運ってのはどうなっちまうんだ……?」
真剣に悩むオレ。
それを見たアヤメさんは申し訳なさそうに小さく笑ってから、すぐに騎士としての表情に切り替える。
「前もってこういう注文をしていたのだよ。クレハ、これこそが私たちの願いだ。誰もハズレを引くことのない世界。誰もが平等に幸せを手に入れられる世界。それを為す絶対的な正義が――私たちは欲しいのだ」
「あ、あぁ――――?」
ハズレのない。誰もが。平等。幸せ。絶対的な正義。
そんなの無理に決まってる――と、言いかけた口をとっさに塞ぐ。
アヤメさんは騎士団の団長。元の世界で言うなら警察の署長みたいなもんだ。
イメージは正義の味方。
だから世界平和とか、そういった理想を本気で持ってても変じゃないとは思うぜ。
でも……そんなのは妄想だ。
無いものを有るとは言えないんだ。
「いくらアヤメさんだからって、そりゃあちょっと胡散臭ぇ感じですよ」
結局、真っ向から否定するようなことを言っちまった。
けどアヤメさんは嫌な顔ひとつせず、むしろそう言われるのを待っていたとばかりに言葉を続ける。
「ならば言い方を変えよう。私たちは例えば――人間の死因を寿命のみにしたい。理不尽な事故や病気などといった不幸を、窃盗や殺人などといった犯罪を、親が子供を捨てるような禁忌を、失くしたいと考えている」
親が子供を捨てる。その言葉は明らかにオレを意識していた。
ツバサを軽く睨んだ。
話しやがったなあの野郎。別に隠してたわけじゃねえが、だからっていい気分にはなれない。
それをこの交渉に利用するアヤメさんも……やっぱりそれだけ本気ってこと、なのか。
「……オレみたいな社会の爪はじきモンが居なくなるってことですか」
「そうだ」
アヤメさんは言いきった。
その真っすぐな目の奥に見えるのは、正義の炎。
時には悪以上に残酷な行いをする正しさ。
ため息が出る。なんだか怪しい宗教の勧誘でも受けてる気分だ。
「都合の良い妄想を垂れ流している自覚はある。しかし聖剣を揃えることができれば、それが可能となるのだ。冷たい影の無い、温かい光だけが降り注ぐ牧歌的な世界を作り上げることがね」
「昨日クレハも見たよね、あの路地裏を。リタウテットにだって、理想だけじゃ立ち行かないことはあるさ。《因果の引力》と呼ばれる不確かな法則に怯える人も大勢いる。でも聖剣が揃えば、それすらも変えられるんだよ」
ツバサが言ってるのは、あのシンジョウっておっさんのことだろうな。
事故で娘が死に、ショックで暗い路地を彷徨う。
アヤメさんが聖剣を揃えた先に待つのは、そんな不幸が無い世界――。
「……ご立派なことで」
皮肉を言ったわけじゃない。むしろ、逆だ。
オレだって嫌なことなら無いほうがいいと思うし、アヤメさんみたいに優しくて真っすぐな人なら、本当に理想の世界を実現しちまいそうだしな。
けどアヤメさんは言うんだ。
冷たく。平淡に。それは違う、と。
「クレハ。自分で言うのもなんだが、君が私を好いてくれていることをとても嬉しく思う。けれどこれは私利私欲に塗れた聖なる戦い。本当の私は……アヤメという女は薄汚い咎人なのだよ」
「え?」
「――私は前世で、人を殺す仕事をしていた」
目を見張った。心の底から驚いた。
人殺しの仕事をしていたこともだけどそれ以上に、そんな――アヤメさんも自分を嘲笑うような顔をするんだ。
アヤメさんは自分を抱えるように腕を組んで、ポツポツと語り始めた。
「君が生きていた時より昔。
そういったことがまかり通っていた時代のことだ。
母が病気で死に、貧困が原因で父は私を裏社会の人間に売った。
そこで新しく付けられた名前は――殺女。
まあ源氏名みたいなものさ。
私は後に《剣客殺女》と不名誉な称号を与えられるほど、立派な殺し屋として育てられた。
一本の刀で大勢殺したよ。
善人も悪人も。
大人も子供も。
男性も女性も。
区別差別は付けず、付けられず、躊躇は一切しなかった。
後悔など許される身分ではなかった。
ああ、何の因果か、晩年は今と同じように治安組織に与していた。
その結果が死だ。
法廷で裁かれるまでもなく、現場判断で正義のもとに殺された。
きっと恐れられすぎたのだよ。
有名な殺し屋など本末転倒だから。
その後、この世界で目を覚ました時は大層驚いた。
私の行く先はもっと地獄を想像していたから。
しかしだからといって、私の罪が帳消しになったわけではない。
すぐに立ち上がり、できることを探した。
その途中で私は先代の不死鳥と出会い、みっつの事柄を受け継いだ。
ひとつは、不死鳥という存在。
ひとつは、白銀の聖剣。
ひとつは、オオトリの名前。
力を手に入れた私は騎士団を立ち上げた。
当時はまだ不安定だった、人とそれ以外の存在のパワーバランスを整えるという目的のために。
何より正しきことを為すための象徴が欲しかった。
もう二度と過ちを犯さないために。
もう二度と私のような愚か者が現れないように。
私はただひたすら、償いの道を往くことを決めた。
ゆえに私は――全然まったく、立派などではない」
話はそこで終わった。
「どうかな。立派なことをしようとしてるってのに変わりはねえと思いますけど」
それがオレの正直な感想だ。
アヤメさんは苦笑している。
「……もう少し落胆するか、私を責めるのではと思っていたが」
「そういうのはオレ以外のヤツがやってくれるし」
むしろその間違いがあるからこそ、アヤメさんの言葉には説得力がある。
だって絶対的な正義を求めるにはまず、絶対的な悪ってのを知り尽くさなきゃ始まらない。
そうじゃなきゃ、何が良くて何が悪いのかの線引きができないから。
「君は変わっているな。物分かりがいいのか、あるいはすべてがどうでもいいのか。少しでも君の気を引けたらと考えたが、つまらない話を聞かせた。なにぶん聖戦が行われるのは今回が初めて。指針もなく踏み出すのは、いつだって勇気がいる」
「…………」
間を埋めるように紅茶を飲んだ。
……にげぇ。
こりゃあちょっと、オレ好みじゃねえな。
おえー、とべろを出すと、ツバサと目が合った。
「僕は昔アヤメさんに拾われて、今の話を聞いた。そしてその考えに賛同した。ゆえに僕はここにいる。さあクレハ、君の番だよ。聞かせてもらえるかな。君の、君たちの願いを」
口の中の苦味が増す。
ついに来ちまったか、オレの順番が。
攻守入れ替え。話の主導権を握れるチャンス。
でも……やっぱ、ダメだ。
今の話を聞いて返せるものが、何も見つからない。
「……オレの願いは特にない。オレもアンタと同じだぜ。レイラに拾われたから、レイラの願いを叶える。それじゃあダメですか?」
「ダメということはない。しかしそれでは話が進まないな。ティアーズ卿の願いとは?」
「助けたいヤツがいるんだとか」
「君も助けたいかい? その誰かを」
「んー……レイラが助けたいなら」
「なら私たちがその願いを叶えよう、と言ったら?」
ま、ずい――。
相手にとって都合のいいことを提案するのは、初歩にして最大の一手だ。
詐欺師の手口っていうと聞こえは悪いけど、ただでさえ難しい切り返しが、これで余計ハードル上がっちまったぞ。
「ティアーズ卿の願いだ。きっとその人物は、世界を変革するほどの力でないと助けられない存在なのだろう。だがその願いを、ティアーズ卿自身が叶える必要はあるのだろうか? 私たちがその存在を救うのではダメなのだろうか?」
「どう、ですかね。つーか他人の願いまで叶えられるんだったら、こんな大会開く必要なくないですか」
「他人に預けられない願いだってある。それをできる限り取りこぼさないためのルールで構成されたのが、この聖戦だ。ゆえに私たちの叶える願いで、再構築される世界で、実行可能な願いなら――私たちはそれを背負うことができる」
なんだよそれ……レイラはそんなこと、一言も……。
「――――」
いや、犬が主人を疑っちゃいけねえだろうが。
アヤメさんも言ったじゃないか。他人に預けられない願いだってある、と。
レイラにはレイラの考えがあるはずなんだ。
だったら、オレのやるべきことは。
「改めて問おう、クレハ。君はその願いを自分の手で叶えたいのか? この先、誰かの正しさを踏み潰してでも、その道を往く覚悟があるか?」
「オレは……オレぁ……譲れねえ、です。うまく言えないですけど……」
これがオレの精一杯の反撃。
――勝てないと判断したら、負けない立ち回りをしろ。
ああ、チクショウ。
レイラはこれを見越してたのかな。
これは交渉だ。オレが答えを出さなければ、話し合いは永遠に続く。
決着さえつかなければ、勝つことはないが負けることも、ない。
「それは困った」
ジッと鋭くなるアヤメさんの眼。
黒手袋を付け直し、重く吐かれるため息。
喉が渇くほど重いプレッシャーだ。
「話し合い、譲り合い、落としどころを見つける。これこそが聖戦に決着をつける方法だ。君たちが願いを諦めてくれるのならば、それは私たちが責任を持って叶えると誓おう。これが不死鳥の最大限の譲歩だ。さあ、吸血鬼はどうする?」
「…………ッ」
耐え切れず、オレはレイラに助けを求めた。
視線の先。小さなご主人様は、遠い建物の屋上にいる。
このテーブルで行われている戦争には目もくれず、その手にあるのはこの世界にないはずのスマホ。
そうか。オレは今、どうしようもなく孤独なんだな。
大丈夫。こういう時のやり過ごし方は知ってる。
何も考えない。嫌なことも、面倒なことも、全部。
目を閉じちまえばそれでいいんだ。
そうすりゃ全部、紛れてくれる。
「…………」
「それが、今の君の答えか。平行線だな。ツバサ……少し付き合ってやるといい」
「承知しました」
ツバサが席を立つ。
無言の中、聞こえてくる金具の音。
どうやらツバサは、先ほど手放した剣を使う準備をしているらしい。
「君も武器が必要なら準備するといい。刃を交えるだけがやり方ではないけどね。でも案外、体を動かせば考えがまとまるかもしれないよ」
試合放棄とみなされたら元も子もない。
付き合うしかない、か。
オレはだらんとぶら下げた手足に力を入れて、立ち上がる。
すると状況の変化を読み取ったのか、レイラが屋上から飛び降りた。
「……レイラ」
重力を感じさせない着地。
向かい合った吸血鬼の赤目には、褒めるとか呆れるとかそういった感情は見えない。
それでも与えられるのは戦うための理由。
聖剣と、言葉だ。
「及第点といったところかの。よい、其方がこれからやるべきことは、あの眷属に思う存分ぶつかることじゃ。あやつらの気遣いを利用し、吸血鬼としての力の使い方を学べ」
「……分かった」
指示には従う。それが眷属としての役目なんだ。
差し出された聖剣に、手を伸ばす。
「ではな」
それだけ言ってレイラは、建物の上に戻るべく音もなく飛び跳ねる。
揺れる白髪。その隙間から風に乗って聞こえた声があった。
「これでノルマは果たせる……次は剣の能力を……しかし今回の手札、思いのほか厳しいか……? しかし、それでも……」
「…………」
オレは聖剣を持ってツバサと向かい合う。
――頭の奥で、音がする。
距離は十数メートル。全力で踏み込めば数秒で届く。
――がちがちと歯車が噛み合っていない音。
ツバサはオレが構えたのを見て、ゆっくりと剣を抜いた。
――前世で上手くいかなかったヤツが、次こそは上手くやれるなんて保証はどこにもねえ。
何となく空気で分かる。どっちかが動いたら、それが始まりの合図。
――寒い。身体が、奥底から冷える。
まるで雪の降る世界に取り残されたみたいだ。
頭の中がゴチャゴチャしてる。クソな気分だ。さっさとすっきりしたい。なら体を動かすに限る。わりぃが今でも全然負ける気はしてねえ。だからハナから超全力でいくぜ。どうせ……死なねえんだろ、お前は。
「――――ッ‼」
一歩、踏み込んだ。
これまで抑えていた吸血鬼の身体能力を全開にした、八つ当たりな地団駄。
履いてたスニーカーが弾け、次に地面が砕ける。
当然だ。軽く押しただけで扉を壊しちまうような力が、オレの身体にはあるんだ。
ちょいとビビってもらうぜ、テメェにはよぉ!
「は」
突然――視界が逆転した。
天井にぶら下がる建物と、空に立つアヤメさんが見える。
分かるのは今、オレが逆さまになりながら猛烈な勢いで背中を引っ張られてるということだ。
あまりの速度に目玉が零れ落ちそうになって、思わず目蓋を閉じた。
同時に浮遊感は胃袋の中身を喉元まで押し上げ、呼吸を封じる。
「それはちょっと、危ないな」
心の底から心配するような優しい声。
次の瞬間、オレの身体が描いていた直線は曲線へと切り替わる。
放物運動からの解放。
身体を支配していた速度の鎖は一本ずつ確かに千切れ、そしてオレは再びレールに沿って飛び立つ。
続く緩慢な着地は、あまりにも不出来だった。
「ぶ、ごほッ――⁉」
地面に叩きつけられた衝撃でゲロをまき散らした。
遠のく意識と止まらない咳の間で混乱した脳が涙を垂れ流した。
擦り切れた手足の皮膚から溢れ出た真っ赤な血液を見て幾度となく喘いだ。
「あ、あ、あぁぁ……ゲホっ、ゲホッ、が、はァ⁉」
「何が起きたか分かっていないだろう? 人間の意識のまま吸血鬼としての力を振るうからだよ。端的に説明すれば君は、踏み込んだ加速の勢いでバランスを崩し宙で半回転、背を向けたまま僕に突っ込んできたんだ。そして僕はそれを受け流した。君の速度を殺しつつね」
「ぁは……はぁ、はぁ……ッ! ク、ソッ……ぁぁ、ッ……感謝、でも、しろってかァ……?」
意地だけで言葉を返す。
最低最悪の気分だ。
涙で前が見えねえ。
ゲロが臭えし汚えし息しづれえ。
内臓の位置がバラバラになったみたいで。
手足の震えが止まらない。
噛み合わない奥歯がガタガタ鳴ってる。
なぜか思考だけは怖いぐらいクリアだが……立てるような状態じゃないぞ、これは。
「お礼ならいらないさ。君は自分の持つ力の大きさを理解するべきだからね。その一助となるなら、僕は喜んで踏み台になると決めたまで」
偉そうに上から言いやがって。
そういうの、オレが一番嫌いなヤツだぜ。
「あぁ、そう、かッ――よォ‼」
理性も恐怖も怒りでねじ伏せ、聖剣を握り直し、再び全力で踏み込む。
裸足に砕けた石が刺さったが構いやしない。
ジェットコースターのように急加速する身体。
高速の世界に解き放たれる意識。
向かい風は強烈だが何も問題はない。
今度は姿勢を維持できている。
急激に縮まるツバサとの距離。
即座にタイミングを計り、オレは剣を振り下ろす。
「おおおおおッ‼」
「気後れしないのはいい根性、だけど!」
「ッ、ぐ!」
弧を描いた剣閃は、騎士の刃に容易く弾かれた。
それだけじゃない。
ツバサは瞬時に身を屈め、がら空きになったオレの腹部に蹴りを打ち込む。
「がハッ――⁉」
身体は押し上げられるようにして宙を舞った。
回転する上下。シェイクされる脳みそ。揺らぐ意識の境界。
それが三度繰り返されたところで、オレの瞳が捉えたのは建物の壁。
追突する。
また――偉そうに見下される。
そう考えた瞬間オレはとっさに聖剣を振るい、遠心力を利用して身を捻ることで、どうにか壁に着地した。
計算などない、ただの反射的行動。
だがそれでもいい。
とにかくオレはまだ動くことができる。
思考の枷を外せ。
鬼を解き放つ時が来たんだ。
既に始まっている落下より早く、次の一手を打つんだよ!
「ぐ、ぅぅッ」
建物の側面を足場に全身を折り曲げ、バネのように、そして。
「ぅぉぉぉおおおおおおおおおお‼」
己を弾丸のように射出する――。
目標は涼しい顔で立つ、あの不死鳥の眷属。
速度ならもはや音と並んだ。
今度は振り下ろすというより構えた刃を通すつもりで、それを攻撃とする。
普通の人間ならば絶対に反応できない、常人の反応速度を超えた動き。
これで決める。これなら決まる。
まさか放り投げた相手が壁を反射して音速で戻ってくるとは思うまい。
ゆえにこの奇襲は必ず成功する。
はずだ。
はずなのだ。
はず、なのに。
しかしツバサはそれを――確かに目で追っていた。
ハッタリなどではない絶対的な余裕を持って。
「――――ふッ」
迫る音速をツバサは軽く受けて、そのまま流す。
交錯する刃。滑走する刀身。舞い散る火花。
「その吸収力は称賛に値するよ。だったら次は、空だね」
束の間――ぐいん、と腕を引っ張られ、身体全体が大きく揺れた。
先ほどと同じように捻じ曲げられる放物線。
その線の先に、硬くて脆い石畳などは存在しない。
「うッ、ぐぅぅぅぅぅ――⁉」
思わず、噛み締めた奥歯のさらに奥から声が出てしまう。
重い。どうしようもなく全身が重い。
吹き荒ぶ灰色の風。
それは鼓膜を破裂させるほどの烈風。
俯瞰の風景になって、ようやく理解する。
どこにも接地しない足。重いのに浮き上がる四肢。真下に引っ張られる臓器。
これは間違いなく、空中だ。
オレは今、空を飛んでいる。
否、それは正確ではなかった。
オレの思う飛んでいる状態とは即ち飛行のことだ。
自由に旋回や上昇下降が可能な状態のことなのだ。
ならばツバサによって打ち上げられただけのこれは、ただの跳躍でしかない。
高さおよそ五十メートル。
命綱の無い上昇は、そこで終わりを告げた。
一瞬の静寂。法則に従って、レールが切り替わる。
「ッ――――」
警告が脳から全身に駆け抜けた。
音もなく始まった旅の終わり。
それは――無慈悲な落下だ。
両手を広げても、両足を広げても、どれほど念じても身体は止まってくれない。
否が応でも突きつけられる人体の重さ。
手加減など一切してくれない惑星のルール。
神様がかけた呪いか。それとも宇宙が編み上げた祝福か。
重力は、存在を等しく大地に縛り付ける。
因果と同じだ。
目には見えない引力に、オレは抗えず落ちていく。
だが幸い、どこまでも異常なほどに正常なオレの思考は手段を見据えていた。
オレは吸血鬼の眷属。半分は人間ではない。
ならば数秒後に迫る最悪を回避する方法が、ひとつだけある。
「先生のつもりになって――今度は翼を広げろって?」
そう。鳥のように翼を広げて、今度こそ飛行を行う。
それこそがこの落下から逃れられる唯一の手だ。
大丈夫。お手本なら一度見た。
レイラが、オレの主人である正真正銘の吸血鬼様が、淡く紅い光翼を広げて重力の鎖を無視したその瞬間を。
それと同じことを、今度は自分の身体でやる。
それだけじゃないか。
翼を広げたことなんて――ないけど、さあ。
網膜に投影されるのは、巣から落ちた雛。
飛べることを知らない幼子は、風も羽ばたきも忘れて死に至る。
助かるには親鳥によって再び巣に戻されるか、DNAに刻まれた起源を思い出すしかない。
落下の途中、レイラの姿を見た。
オレを必要だと言ってくれたあの小さな吸血鬼は、険しい表情をして手元のスマホを眺めている。
ふと心の中に浮かんだのは、怒りにも似た感情。
でも違う。
恨み、妬み、傷つける行為。それらの根本をオレは識っている。
寂寞を自覚した瞬間、全身の力が抜けた。
仰向けになって、目蓋を閉じて、四肢をぐっと伸ばす。
「――――」
いつの間にか背中には――オレを抱くようにしてソレが在った。
触れたら消えてしまいそうな、淡い光の群れが形成する紅い翼。
疑問はない。だって空を飛ぶことは、誰にも咎められないオレの権利だ。
使うのは思考ではなく直感。
手や足を感覚で動かすように、新たに備わった器官を掌握する。
ああ。風に身を任せるってのは結構、気持ちいいな。
緩慢な墜落。歓喜に満ちた全能感の到来。
視野が広がりすぎてしまった以上、もう飛べなかった自分には戻れない。
すべての制空権はオレの思うがままだ。
でも、それでも足りないよ。
重力から解放されても、まだ足りない。
見ろ。
口には出さず吐き出すように言う。
オレを、見ろ。
口には出さずもう一度だけと呟く。
レイラ――――オレを見ろ。
口には出さずまた何度だって叫ぶ。
その時、墜落は煌めく流星へと変貌を遂げた。
「ッ、ぐ――ぁぁぁぁぁぁあああああああ‼‼」
咆哮は紅色の光翼に撫でられ、風に乗って流れる。
虚空を蹴り飛ばし身を捻った。
回転する視界。浮遊する臓器。漏れ出る血液。
一度、それらすべての不快感を振り切るため加速。
二度、手放さないように聖なる剣を強く握り直す。
三度、オレとツバサの激突は不可避の段階へ移行。
翼を広げての急降下。
音を超え、光を纏い、さらに極限の果てへ突き抜ける。
そうして放たれるのは、地上にいるツバサを目標とした流星の如き一撃。
策も技巧もありはしない、ひたすらに速度の限界を叩きこむだけの一刀。
助走は充分。相手は待ち構えている。
あとはただ、ゴールに向かって煌めくだけ。
刃は今――神速で振り下ろされる。
「――――ッッッ‼‼‼」
「ぐッ、――――――⁉」
それをツバサは正面から受け止めた。
背後の地面、建物は衝撃で吹き飛ぶ。
ツバサの、先ほどまでの余裕に満ちた表情など、とうに消えている。
耐えるので精一杯。堪えるので必死。
それでもなお一歩たりとて退かないのは、ひとえに彼の実力が高いからだろう。
「意表を突いたね……素晴らしいセンスだ。けれどまだ、僕を超えるには足りないな!」
ツバサは防御を完遂したつもりになっている。
確かに通常の流星は大地に飛び込んだ時点で、もう動けない。
だがオレは違う。
この流星はこれで終わりではないんだ。
だってそうだろう。
オレには――オレの背中には、空高く舞うための両翼が存在しているのだから。
肺にため込んだ酸素を振り絞り、翼は大きく展開される。
がちり、と音がした。
それは腕の骨が折れる音か。あるいは頭蓋が潰れた音か。
答えは、否だ。
一陣の風というには荒すぎる暴嵐が幽世全体を駆け抜け、オレの速度はもう一段跳ね上がる。
重なる刃と刃の間から咲いて散る綺麗な火花。
それは大気の奔流に打ち消され、二度と現れることはない。
「……ッ、これ、は⁉」
不死鳥の眷属はそこでようやく理解した。
周回遅れで。すべて手遅れになってから。
再び、がちりと音がした。
それはツバサの持つ剣の刃に、オレの持つ聖剣の刃が噛みついた音だ。
剣戟が斬り結ばれることは、もうないだろう。
平行ではなく垂直に――聖剣は相対する刃を、噛み砕いた。
「―――――」
これもまた当然のこと。
聖剣は決して刃こぼれせず、折れず、曲がらない神具。
対して相手の剣は消耗し、摩耗し、一点を突かれることであっけなく折れてしまう諸刃。
元より勝ち目のない勝負。
ゆえにこの程度のことで熱を上げる心はない。
オレはどこまでも冷静に、冷徹に、砕かれた刀身のその向こう――ツバサ本人へと刃を整える。
全身の血液を沸騰させ、見据えるのは極限の果てのさらに果て。
つまりは、三段階目の加速だ。
オレは明確にツバサという存在を真っ二つにするイメージを網膜に焼き付け、流動し胎動する紅を広げる。
ツバサはそれだけですべてを悟ったのだろう。
その瞳には一瞬だけ、恐怖が浮かんだ。
「ぁ――――」
瞳孔が開いた。奥歯をぐっと噛み締めた。
瞬間、彼の身体の端から赤より紅い、業火の焔が溢れ出す。
それはここまで来て、ついに姿を現した不死鳥としての力。
火の鳥たる所以。少しずつ抽出されるように滲み出るそれは――しかし、差し込まれた白銀によって抑え込まれる。
「そこまでだ」
聞こえたのはあまりに落ち着いた凛々しき声。
気付いた時、オレとツバサの間には、純黒に身を包んだ騎士団長が颯爽と割り込んでいた。
彼女は己が眷属を空いた片手で押し退けて。
その後もう一方の“白銀の剣”を握った手で、オレの一太刀を過不足なく受け止めた。
負傷なし。損傷なし。乱れた髪すら美しく魅せるアヤメさんは、軽々と切っ先だけで打ち返す。
あまりにも流麗な剣技。
聖剣はオレの手から零れ落ちて、戦意そのものが削ぎ落された。
「あ、あぁ……?」
まるで人込みの中、誰かとぶつかったぐらいに軽く尻餅をつく。
あれだけの衝突がこんな、何事もなかったように呆気ない終わり方をするとは。
「……ツバサ、早めに炎の始末を。火事にでもなられては困る」
「すみません。すぐに消してきます」
髪や肩口に種火を宿したツバサが、背を向けて走っていく。
折れた剣を持ってどこへ行くというのか。
オレは追いかけるために立ち上がろうとする、はずが逆に力が抜けてその場で大の字になった。
なんだ……頭がぼうっとしてきちまったな……。
逆らえそうにない脱力感。ブレる視界。
その端っこで白いカーテンが揺れてる。
あれは、レイラの髪だ。
「ティアーズ卿。本日は」
「そうじゃな。元より先ほどのは初戦から逸脱した行為。今宵はこれにて、一度目の仕切り直しじゃ。また次の夜、ということでよいな?」
「問題ありません」
聞いた感じ、今日はもうお開きってことらしい。
それもそうか。場は完全に膠着状態ってやつだ。
話を持ち帰って検討して……それが許されるのが聖戦なんだな。
「…………」
オレは今日、勝負を引き分けにまで持ち込んだ。
負けてはいない。
けど、勝てないと判断した時点で負けたのと同じだ。
アヤメさんの正義にオレは負けて。
舐めてたツバサには先生面されて。
レイラとの関係はなんだか曖昧で。
――目蓋を閉じる。
誰にも合わせる顔がないから。
オレは、胸を貫いた寂寞を、眠って誤魔化すことにした。




