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第三幕 第一場より(その1)

「《尼寺へ行け》」男が言った。「《何ゆえ罪な人間を産みたがる?傲慢で、復讐心が強く、自分のことしか考えられない愚か者どもを。自分でも気付かぬ罪、想像のうちにまだ形を取ってもいない罪、機会さえあれば犯しかねないいくつもの罪、そのようなもので一杯の男が、天と地の間を這いずりまわり、いったい何をしようというのか?――なにも信じるな……尼寺へ行ってしまえ》」

 パンパンパンパン。と、教壇の上から手を打つ音が聞こえ、そこで男――ハムレット役の学生・末岡孝文は、そこでセリフを止めた。

 十字架の位置を確かめながら次のセリフの準備をしていたオフィーリア――オフィーリア役の女子学生・河井保美は、教壇の方を振り向くと、右手を上げて、「《このハムレットという男は――》ですか?」と、声を上げた。我らがデンマーク王子のセリフに付き合っているうちに、すっかりと覚えてしまったのだ。

「そう。そこが抜けていましたね」教壇の上の男が言った。「ですので……そうですね。オフィーリアが立ち上がるところからもう一度行きましょうか」

「《このごろお身体は?》からですか?」と保美。

 それに対して教壇の上の男・山崎和雄は、右手を上げながら、「そうですね」と言うと、まるで本当にいま想い付いたかのように、「……ああ、その前に」と言って、言葉を付け足した。「《the noble mind》について、すこし確認を……」

 その山崎の言葉に、オフィーリア役の河井保美が、「わたしの訳ですか?」と、反応した。

「そう……ですね」と山崎。「なぜ《心正しき女なら》と、訳されたんでしょうか?」

「なぜ?……とは?」

「《the noble mind》ですから、直訳すると《高貴な心》ぐらいですよね。《心正しき》では《noble》の意味合いが……あー、なんと言うか、薄い?のでは?」

 そう問われて保美は、一瞬、『ああ』と、感心と得心の入り混じったような表情をしたかと思うと、すぐに沈思黙考する格好となり、しばらく後、不意に「ハムレットは王子さまですよね?」と、言った。

 彼女の唐突な発言に内心驚きつつも山崎は、「そうですね」とだけ答えた。思ったより面白い展開に出来そうだ。

「オフィーリアは――」保美が続ける。「オフィーリアは、彼と相思相愛の間柄ですが――そう言って良いと思いますが、立場的にはポローニアス――宰相の娘でしかありません」

「確かに」

「その、家臣の娘と云う立場から、王子であるハムレットに向かって《高貴な心を持つもの》とか《品位を尊ぶ女》とか言うのは……なんと言うか、」

「偉そう?」と、ここで助け舟のつもりだろう、ハムレット役の末岡孝文が口をはさんだ。

 その末岡の言葉を受けて保美は、「そう!それ!」と、うれしそうな声で言った。「高慢な、偉そうな感じがしたんです」

 パチパチパチパチ。と、今度は拍手に近い音色で、教壇の上から手を鳴らす音が聞こえた。「すばらしい!よく考えて来ました」

 そう言って山崎は、椅子から立ち上がると、「今回の翻訳課題は、そのように皆さんが作品や登場人物に対して想いを巡らせたり馳せらせたりすることも目的のひとつにしています」と言った。「その意味で、我らがオフィーリアは、大変よい仕事をされたと言えるでしょう」

 そう言われてオフィーリア・河井保美は、少し照れながらお辞儀をすると、ゼミのみんなに「あ、ありがとうございます」と、答えた。

 が、しかし、

「が、しかし、」と、山崎は言う。「ポローニアスは、違う意見のようですよ」そう言いながら、クローディアスと伴にタペストリー(を模したA3のスケッチブック)の裏に隠れているポローニアス役の草薙美弥子に話を振った。「そんな顔をしているように見えますが?」

 そう問われて草薙は、少し困った顔で立ち上がると、河井の方を少し見た後、山崎に対し、「私――と云うかポローニアス的に言うとなんですが」と言った。「この父親は娘に対して、《気位を高く持て》みたいなことを言ってますよね?」

 草薙と保美の双方を一瞥してから、「そうですね」と、山崎は答えた。「第一幕第三場。ポローニアスによるオフィーリアへの説教・忠告の場面ですね」

 この言葉に我が意を得たりと想ったのだろう草薙は、「なので、」と、スケッチブックを持ち上げながら、「ここに父親がいると思えば《高貴な心を持つもの》ぐらいは言ってもおかしくはないんじゃないでしょうか?」そう答えた。

「なるほど」と、山崎。「つまり、父親を意識している?」

「父親に言わされている?」と、草薙。

 と、彼女が言うのと当時に、

「ああ!それでか!」と、突然、ハムレットが叫んだ。

「なんですか?ハムレット」と、山崎。これだから学問も対話も止められないのだ。

「この後の僕のセリフです」と、末岡。

「どのセリフですか?」

「オフィーリアのことを、《お前は貞淑か?》《美しい女か?》と、突然詰問するんです」

「それが?」

「ここで……えーっと、つまり、突然の《the noble mind》を受けて……だから、オフィーリアは突然こんなことを言う女性ではない。であるなら、どこかにポローニアスなり彼の密偵が隠れているのではないか?――と、気付いた?」

「それはつまり?」いいぞ、いい感じだ。ハムレット。

「つまり……そのことに気付いて、そこで急に、オフィーリアへの気持ちが冷めたんじゃないでしょうか?だからこそふたたび、狂気の演技へと戻って行く。《なまじの美しさが……》と云う女性嫌いのセリフに」

 我らがハムレットは、このように、敢えて言えば少し興奮気味に、自分の見解を述べると、その興奮気味の自分が恥ずかしくなったのだろう、立ち上がり掛けていた腰を椅子に戻すと、「……そう思ったんです」と、みなの顔を見廻しながら言った。

 パチパチパチパチパチパチ。そう今度は明らかに、拍手のつもりで、山崎は手を叩いた。

「すばらしい!」ハムレットに近付きながら彼は言う。「確かに、その方が会話の筋が通る」

 言われたハムレット・末岡孝文は、依然恐縮したままだったが、それは気にせず山崎が言う。

「良いですか?優れた作家と云うもの――いえ、いくら平凡であっても作家と云う生き物は、自分の仕事をよく知っています。知ろうと努めます。隅から隅まで計算……理解して、理解しようとして、劇なり小説なりを書いています。ですから、我々読者は、それを嗅ぎ出さなくてはいけません」

 壁に掛けられた時計を見るともなしに見た。そろそろ、楽しい劇の時間は終わりらしい。

「もちろん、ナイーブな作家、意地悪な作家――だけではないですが、彼ら彼女らは、そういうことを隠そうとし勝ちです。でも良いですか?必ず、彼も彼女も、きっと何処かに、そう云う《匂い》、キッカケを埋め込んでおくものなんです」

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