Bonus Tracks(2):坂道のある街
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大きな家が立ち並ぶ石神井池のほとりの道を、私はひとり歩いています。
数ヶ月前にはあんなにも満開だった桜の花はすでになく、街路樹たちはすっかりと翠緑の葉に変っています。
一人暮らしのアパートへ、帰ろうとした時でした。ひと際大きな、ソメイヨシノの向こうの家の、檜葉の木が、切り取られたのを知りました。
家の中から、中学生くらいでしょうか?女の子たちの笑い合う声が聞こえて来ました。歩道沿いの街灯たちが、ぽつぽつと、自分たちの仕事を始めようとしています。
街の方から、忙しそうな音が聞こえて、ちいさな私の記憶など、まだまだお呼びでないようでした。
いつも通る広い道に、工事用の車輛が止まっていました。家に戻るには、相応の遠まわりと、《一本の長く、曲がりくねった》坂の道を通る必要があるようです。
うっすらとした、白い月が浮かんでいました。
あなたが見ているこの空にも、この同じ月は出ているのでしょうか?
夏が、そこまで来ていました。
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『あなたのお父さんはもう帰っていますか。』池のほとりで誰かが言いました。
『いいえ。』と、同じ池のほとりで、もう一人の誰かが、かすかに頭をふりました。
『どうしたのかなあ。ぼくには一昨日大へん元気な便りがあったんだが――』と、最初の誰かが言いました。
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すると、ふたりの会話はそこで終わり、もう一人の誰か――それはきっと、お母さんのための牛乳を持った小さな男の子か女の子なのでしょう。その誰かは、胸がいっぱいでなんにも云えなくなって、もう一目散に、池のほとりを街の方へと走って行くのでした――橋を渡るその誰かの姿が、池の水面に写っていました。
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みなみの風が、吹きました。
坂のうえから、なつはづき。
夕暮れ過ぎた、おかのうえ。
見知った影が、ありました。
『ただいま。』と、手をつなぎます。
『おかえり。』と、手をにぎります。
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(終わり)
(後書き)
どうも、みなさん、樫山です。
今回は『エマとシグナレス』を最後まで読んでくれてありがとうございました。
――楽しんで頂けましたでしょうか?楽しんで頂けたようなら、幸いです。
もし、このお話が気に入られたようでしたら、「石神井公園」絡みの前作『川崎、生田、1969』も読んで頂ければと思います。スッゲー面白いので(宣伝)。
また、「石神井公園」ものとしては、次作『カトリーヌ・ド・猪熊のバラの時代(仮題)』を鋭意準備中ですので、いつか公開出来ればと想っています。
以上。
それでは、今後ともよろしくお願い致します。
樫山泰士
BGM:『坂道のある街』山崎まさよし