後日談(その6)
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「ところでさ、エマちゃん」と、佐倉八千代が手洗いに立った隙をうかがって、橋本茉菜が訊いた。「――あ、《エマちゃん》って呼んでも良い?」
そう訊かれた木花咲希は、八千代の右耳の辺りを描き直しているところだったけれど、その手を休めると、「もちろん良いわよ」と、微笑んで応えた。
そんな咲希の笑顔に茉奈は、本当に申しわけないと想いつつも、と云うか、いきなりこんな事を訊いて驚かれるかも知れないと想いつつも、いや、ひょっとして自分の勘違いだったりしたら恥ずかしいことこの上ないと想いつつも、この数日来ずうっと頭の片隅から離れてくれないある疑問を、彼女に訊いてみることにした。
「あのね、エマちゃん?」
「なに?真剣な顔して」
「気を悪くしないで聞いて貰いたいんだけど――」
「本当にどうしたのよ?」
「あのね、」
「うん?」
「エマちゃんってさ、(*検閲が入りました)さんじゃない?」
不意に、四秒程度――と、止まった時間の中で数えるのも妙な話だが、咲希の周囲で時間が止まった。
「ど、ど、どこ、どこで、ど、そ、その――」と、本当は『どこでその名を?』と訊きたいのだろうが、あまりにも突然のことに日本語を忘れた状態で咲希が言う。
「って言うかさ――」と、そんな咲希に追い打ちを掛けるように茉奈が、「この写真の(*検閲が入りました)くんもエマちゃんだよね?」と、自宅のパソコンからプリントアウトして来たと云う、超絶有名某ロボットアニメの人気キャラクター(男の子)――の格好をした女の子の写真を見せながら彼女に訊いた。
ふたたび、不意に、七秒程度――と、止まった瞬間を数えるのも、実に妙な話だが、咲希の周囲の瞬間が止まった。
「どどどど、どどどど、どっど――」と、まるで翌年の二月に発売されるであろう星野源のシングル曲でも歌い出しそうな勢いの咲希だが――本当は『どこのどなたのお話ですか?』としらばっくれたいところなのだろうが――、その分かり易すぎる態度が逆にすべてを物語っている。
「ああ、やっぱりそうだったんだね」と、茉奈が、追及するでも責めるでもない、どちらかと云うと安心と得心と感心が混じりあった声で、言った。
「いや、別にだからどうこうってワケでもないんだけどさ――ほら、和泉さん達がマンガ研究部を立ち上げようとしてエマちゃんを誘ったってのを放送部の細谷さんから聞いて――ほら、あの人うわさ話が大好きじゃない?――で、ほら、和泉さんって小学校の頃からBL関係にはご執心だったし、多分、そう云う方向でマンガ研究部も立ち上げようって魂胆なんだろうなっとは思ってたんだけど、でもそうすると、エマちゃんを部長に……って話がよく分からなくて、で、そんなことを考えてた時にエマちゃんのスケブを見せて貰ったじゃない?そうしたら『これ、どこかで見た線だな……』ってなって、いや、私も、そんな男の人同士がどうこうするマンガが大好きってワケじゃないのよ?――ただ、ほら、好きなアニメとかマンガとかをさ、ネットで調べてるとさ、時々出て来るじゃない?――で、そんな時にハイ○ューとテ○プリ関係のイラストの中に、すっごい好みの絵を描いている人がいて、で、それが同い年の人だって云うから更にすっごくビックリして、で、ブログの写真とか見てるとどうも石神井の人っぽいなあって――」……どうでも良いけど、二時間ドラマのクライマックスみたいな喋り方だな。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!」と、どうにかこうにか時間を動かしてから、咲希が言った。
「なんですか?(*検閲が入りました)先生?」
『その名は捨てた!!』と、ついつい叫びそうになってしまった咲希だが、それを叫んでしまっては、犯行を自供する犯人と同じだ。「――面白そうなお話ですけど……私、その先生みたいにアニメチックな絵って描けないじゃないですか……」と、兎にも角にも、すっとぼけつつ茉奈を煙に巻こうとしたのだが……めく○将棋で鍛えた委員長の深謀遠慮を侮ってはいけない。
「あ、じゃあ、(*検閲が入りました)先生の絵を見たことはあるのね?」と、茉奈……おお、だからコスプレ写真しか出さなかったんだな。「――いや、だから、本当に、これが分かったからどうこうって話じゃないのよ?――ただただ、尊敬している絵描きさんに実際に会えて嬉しいなって話と、その流れでネットを見てたらキレイな顔のカ○ルくんが出て来て、アレ?これ、エマちゃんにそっく――」
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カチャリ。と、店の奥扉が開き佐倉八千代が手洗いから戻って来た。自分がいない間に何かあったのだろうか?咲希と茉奈が大変、とっても、まるで旧知の戦友でもあるかの如く、親し気に何かを話し合っている。
『茉奈のことだから、きっとマンガかアニメの話ね――』と、八千代は想ったが、もちろん、そこから漏れ聞こえて来る会話――左がどうとか待ち受けがどうとかネコがどうとか――は、マンガと言えば『カトリーヌ・ド・猪熊』の作品しか知らない八千代の理解を遠く超えていて、結局その後も、八千代がこの手の話題に参加する・参加出来るようになることはなかった。
それから、これも、まあ、ただの余談ではあるが……。
この数日後、橋本茉奈の執り成しで、(完全にではないが)そちらの世界から足を洗った木花咲希と、引き続きそちらの世界も愛して止まない和泉宏子らグループの間での不戦条約が成立した。
そうして、その後、橋本茉奈及び木花咲希の見事な教職員らに対するロビー活動もあって、和泉宏子を初代部長とする緑ヶ丘中学マンガ研究部が無事発足したことは……一応、記載しておいても良いだろう。
『なんだかよく分からないけど……』と、マンガ研究部発足の日、佐倉八千代は想った。『和泉さんも、最初から茉奈に頼めば良かったのに』――その為の、委員長だものね。
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