後日談(その5)
*
「じゃあね……」と、橋本茉菜が言った。「4七銀」
「6三銀」と、佐倉八千代が応えた。
「5六銀」
「5四銀」
「6九玉」
「4二銀」
「……7九玉」
「7九玉?」
「そう。7九玉」
「うーん?……ちょっと待ってね……」
「ねえ……」と、ここで、木花咲希が彼女たちの会話会話?に割って入った。「――それ、本当に分かってるの?」
「え?」と、八千代。モデル中なので目線は大根の絵に向けたままだ。「このめ○ら将棋のこと?」おい!そこ!禁止用語!!
「ちゃんと分かってるわよ」と、茉菜。「――なので、5二金」
「えっと……、2五歩」と、再び八千代。今のところ、彼女が優勢……かな?
「実物もないのに?」と、信じられないと云った口調で咲希が訊く。「――頭の中だけでやってるってこと?」
「まあ、そうね」と、茉奈。「――じゃあ、3三角」
「一種の超能力みたいなものよ」と、八千代。「――エマちゃんの絵と一緒」
「ああ……」と、咲希……そうかなあ?
「私とヤッチのお父さんが同じ将棋倶楽部でね」と、茉奈が続ける。「3六歩。そこに小林さんっておじさんがいて――」
「4三銀」と、八千代。「私たちの師匠みたいなもんなんだけど、色々と鍛えて貰ったってワケ」
「へー」と、咲希。正直、そろそろどうでもよくなって来ている――スケッチに戻らなければ。
「あ、そうだ!」と、想い出したように八千代が咲希の方を向いた。「仔犬!」
「仔犬?」――モデルには動いて貰いたくないんだけど……。
「師匠が貰ってくれるって!」
*
「あら、また、この仔、真っ白なのね」と、小林美津子は言った。ボーダーコリーの女の子と聞いていたので、てっきり、あの、白黒模様の仔犬を想像していたのだ。
「他の二匹は、黒も入っていたようなんだがね――」と、八千代と茉奈のお師匠・小林日出夫は応えた。「この仔だけ、色がなかったんだそうだ」最近ふさぎがちの妻の気晴らしにでもなってくれれば良いのだが……。「……気に入らなかったか?」
「そんなことないわよ!」と、美津子。「とっても賢そうな仔じゃない?」……寝顔もとっても可愛いし。
「そうか?」喜んで貰えて良かった。「――なら、名前を決めないとな」
「あら、まだ決めてないんですか?」そう言いながら美津子は、テレビ台の上のピルケースを取った。
「お前の意見を聞いてからにしようと想ってな」と、台所に向かいながら日出夫は言った。「正直、名前を付けるのは苦手だし――」
「そうなの?」
「そうなんだよ」と、コップに水を入れながら日出夫は言う。……これまで何度、お前にダメ出しされて来たことか。
「そうね……」
「ほら、お水――今日は飲み忘れるなよ」
「はいはい」彼女は最近、赤い薬だけを飲み忘れていたことが二度ほどあった。「じゃあ、見てて下さいよ」
「ああ、」と、美津子の手に、赤と青の錠剤が一粒ずつ載せられていることを確かめてから、日出夫が言った。「――ちゃんと見ているよ」
それから美津子は、手にした二つの薬を、夫が運んでくれたコップの水とともに流し込むと、フッ。と想い出したように、「《コハリ》ってどうかしら?」と、言った。
「《コハリ》?」……なんだか変な名前だな?
「こんなに白いんですもの――」と、嬉しそうに美津子が言う。「《シラハリ》だと呼び難いし、犬に《ハクチョウ》って付けるのもおかしいでしょ?」
この女性と一緒になってもう三十年以上になるが、正直、今でも、彼女が何を言っているのかまったく分からない時がある……が、まあ、それでも、
「《コハリ》?」と、彼女に訊き返す。
「そう。《コハリ》」と、彼女は嬉しそうだ。
「コハリ……」なんだが、とっても良い名前のような気がして来た。「――コハリね」
「どう?」
「うん。そうしよう」と、どんな夢を見ていることやら、ソファの上でスヤスヤと眠る仔犬を見ながら日出夫は言った。「今日から、この仔は、《コハリ》だ」
石神井警察署の方から、誰かのクシャミが聞こえた。
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