『そのため』だけの部屋。
「死体の身元が割れたそうです」スマートフォンをコートのポケットに戻しながら高嶺ユカが言った。「思ったより早かったですね」
彼女の言葉を受けて、警視庁捜査一課一係の今井登は、「財布も携帯も持っていなかったからーー」と、手帳に書き留めて置いた住所を確認しながら「もう少し掛かるかと思ってましたけどね」と言った。
都内某所の高層マンション。二人のいる部屋の窓の外には月明りも星灯りも見えてはいたが、中層階に位置するこの部屋の奥まった構造もあり、二人の立つその場所まで街の灯りが入り込むことはなかった。
「丁度、内縁の夫から行方不明者届が出ていたそうで」と、高嶺。「身元確認は、その方が」
モデルルームのような室内には、白とブルーとペールカラーしか見当たらない。清潔感と統一感だけを持ち寄って、いかにも『必要なものはすべてそろっています』とでも言いたげな室内に仕立て上げている。なるほど、この部屋が言いたいのは、ただただ、『ここには誰も住んでいません』ということなのだろう。
そんな室内を今井は、見るともなしに眺めながらベランダの方へと向かおうとしていたが、ふと足を止めると、「夫?」と、訊き返した。「内縁の夫?」
部屋の入り口付近に立つとぼけた顔の管理人を見る。見られた当の管理人は、軽く首を横に振るだけで、先ほどからの『我関せず』の態度と表情をいっこうに崩すつもりはないらしい。なるほど。プライベートが売りのマンションも、その長所が行き過ぎれば、住人同士はもちろん、管理人すら住んでいる人間の顔を知らなければ、興味もないことになるわけだ。しかも今回は、肝心の防犯カメラも、訪問者の顔がハッキリと見えないような絶妙な角度に設置されてーーされ直されていた。
「その言い方」少し非難めいた口調で高嶺が言った。「なんとかBT差別ですよ」
昨年一係に来た高嶺とコンビを組まされたのは三ヶ月前。頭は切れるし回転も速いが、この若き才媛は、中途半端な正義感や責任感が捜査の判断を狂わすこともあるとはまだ知らないらしい。
「そう云う意味じゃないんですよ」今井はそう言うと、ベランダ側に向かっていた体を、ベッド側――『そのため』だけに置かれた大きなダブルベッドの側に向け直すと、「匂い、気付きませんか?」と、訊いた。
ベッド脇に置かれた青のブリーフケースは死んだ男性のものだろうし、これから向かうベランダに置かれているであろういくつかの品々もきっと彼のものだろう。生活感のないこの部屋で――清潔感と統一感ばかり必要以上に持ち寄ったこの部屋で、住人若しくは訪問者の痕跡は、そのぐらいしか見当たらない。
が、しかし、微かではあるが、この部屋の統一感を乱す『匂い』がある。
「匂い?」高嶺が訊き返した。「なんの匂いですか?」
そう言いながら彼女は鼻をひくつかせているが、ひょっとすると、女性である彼女には逆に分からないのかも知れない。
「ラクトンだったかプラトンだったか忘れましたが」今井が言った。「ゲイの中年男性が『そのため』だけに準備した部屋の統一感を乱すとしたら、これでしょうね」
香水も化粧品も石鹸もシャンプーも、そんなものを一切使わなくても、女性なら発することの出来る匂い――逆に、どれだけ注意しても、女性である以上は消すことの出来ない女性特有の匂い。
「死体の男性が本当に本物のゲイだったとして、この部屋――『そのため』だけに準備したこの部屋――に、若い女性の匂いがするのは、不自然じゃないですか?」
*
ピィン。エレベーターの扉が開き、管理人が、引き続き『我関せず』の表情と態度を貫いたまま、今井たちに先に降りるよう促した。
「それでは、」管理人が訊く。「これで終わりですか?」彼の体のそこかしこから『早く帰ってくれ』オーラが出ている。
「そうですね、」と、高嶺は答えようとしたが、それに被せるように今井が、「今日のところは、ですね……」と言った。
『いくら顔も知らない相手だとは言え、自分のマンションの住人が亡くなったのだ。なのに、その面倒臭そうな態度はなんだ!!』――本当なら、それぐらいのことは言ってやりたいところだが、言ってもどうせ理解も共感も得られず恨まれるのがオチだろう――と、そんなことをボヤっと思いながら今井は続けた。
「後日、ひょっとすると……」うん。直截的に嫌悪感を表すのは賢明ではない。「ああ、いやあ、多分、確実に?鑑識の人間を入らさせていただくことになるかも知れませんが……その際は、是非、管理さんにも立ち会って頂きたい……というか立ち会って頂かないと困るんですよね、警察的には」
この持ってまわった彼の言い方に、後ろで聞いていた高嶺の背筋が伸びた。どうにか彼女には、今井の怒りが伝わってくれたらしい。
だが、しかし、今井の予測は実に当たっていて、このとぼけた顔の管理人は、そのとぼけた顔をさらにとぼけさせると、ただただ、「はあ……」と答えるだけだった。