後日談(その3)
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「字はそれほど上手くはないな」警視庁捜査一課所属の司馬吉仲はひとりつぶやいた。
「――なにか言いました?」と、そのつぶやきが聞こえでもしたのだろうか、ななめ向かいの席で同僚と談笑をしていた高嶺ユカが訊いた。
「いや、なんでもない」司馬はそう答えると、持っていたA5サイズのノートを机の上にポン。と放り出した。「ひとりごとだよ」こいつもあのバカに会ったおかげで少しは勘が良くなったようだ。
「コムラサキの件――」高嶺が言った。「順調に進んでいるようですね」
そう嬉しそうに言う高嶺の顔を見ながら、こいつが良くなったのは勘だけのようだ――と、司馬は想った。出来れば性格の悪さも見習って……いや、そこまでこいつに求めるのも酷な話だな。
問題の男・コムラサキ・カオルの取調べ及び事情聴取は現在、すべて筆談形式にて行われている。
これはもちろん、彼の能力を考慮してのことだが、それでも逮捕直後は、電話やスピーカー、録音データ等による取調べ及び事情聴取も試していたのだが、職員によっては電話越しの声にすら 《反応》してしまうケースもあり、且つ、コムラサキ本人がパソコン等の扱いにまったく不慣れなこともあって、結果「紙と鉛筆」と云う前時代的な方法に落ち着いたのだった。
「定冠詞と不定冠詞ですよ」とか何とか、数カ月ぶりに話した石神井のバカは相変わらずバカなことを宣ってくれていたが、正直、アイツが何を言っていたのかは、今もってまったく全然分からない。
「若しくは、愛の力ですよ」みたいなことも言っていたが、いよいよもって仕事のし過ぎでいかれて来たのかも……まあ、だからと言って休むようなアイツでもないが。
まあ、それでも、いずれにせよ、筆談形式に落ち着いてからのコムラサキは驚くほどに協力的で、自分の過去の犯行だけではなく、所属している組織の構成から主だった幹部の名前、それに、他のメンバーのやった仕事やら何やらかんやらもスラスラ・ズラズラと並べ立ててくれた――なるほど、世の中には、自分の手すら汚さずに他人に死んでもらいたいと云うバカが、それこそ繁殖期のグランダナモキイロマダラカの卵みたいに、いくらでもいるらしい――『グランダナモキイロマダラカ』ってなんだ?
「しかし――」と、ふたたび司馬はつぶやいた。高嶺がまたこちらを見ようとしていたので、手を振って追い払った。「嘘を吐くほどよく喋る――」これだと、あの女はまったくの無実と云うことになる。
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「少し、あの町に似ているでしょ?」と、歩道橋からここの街並みを眺めながら山崎和雄は言った。「――覚えてますか?」どこかで、リンゴのにおいがした。
「もちろん」と、握られた手を、もう片方の手で優しくつつみながら、佐久間――山崎楓は応えた。「――自分では消せないもの」それから、野いばらのにおいもした。
並木道の桜は、すっかり青くなってしまっている。
――あの春の桜を、この人も見てくれただろうか?
――その前の春のことは、覚えてくれているだろうか?
――私は見たと、伝えるべきだろうか?
彼の首に、かるく、まぶたを寄せた。
――もう、行かなければいけない。
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