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後日談(その2)

     *


「じゃあ、木花さんって『エマ』って言うの?!」と、滅多なことでは驚かない坂本賢治は驚いていた。こんなに驚いたのは近所の動物園から大量の羊が逃げ出して以来だ。「でも、おまえ、ずっと『サキ』って呼んでるじゃん」


 浅野正之と木花咲希の出会いは幼稚園の入園式。たまたまトイレの順番待ちで一緒になった母親同士が意気投合し、それにつられる形でふたりも話をするようになった。

 当初、咲希は「『このはな えま』です。よろしくおねがいします」と、ああ、もう、これだけで愛くるしいなあ――と、おじさまおばさま連中が身もだえするような愛くるしさで挨拶をしていたのだが、丁度この頃、漢字に興味を持ち始めていた浅野が『あれで「えま」って読むのはおかしい。「さき」が正しいに違いない』と――丁度、その頃やっていた日曜朝のドラマのヒロインが「咲希」と書いて「さき」と呼ばれていたこともあって、「さきちゃん?」「さきちゃん!」「さーきちゃん!!」と彼女の名前を繰り返し呼ぶようになった。

 すると、もちろん咲希の方は、何度も何度も、彼に指摘をし、注意をし、時には泣いて見せたりもしながら、呼び方の修正及び改善を要求していたのだが、この必要以上に容姿端麗眉目秀麗・出前迅速落書無用な幼なじみは、咲希に指摘されるたびに、何度も何度も、彼女に謝罪をし、自身を反省し、時には大層ご立派な改善計画を立てたりもしながら、呼び方の修正及び改善に向けた努力をしては来たのだが、結局、一向に、これっぽっちも、この呼び名が修正されることはなかった――きっと、彼の中で彼女は「さき」で固定されてしまったのだろう。


『そう云うところだぞ、この残念イケメン』と坂本賢治は想ったが、担任の先生ですらこの美男子につられて「さき」と呼んでいる現状を鑑みて、と云うか、今の今まで疑ってもいなかった自分自身をも顧みて、それ以上、彼を追求することはしなかった。が、ただ、まあ、そうは言っても友は友なので、「もう一度がんばってみろよ」とだけは言っておくことにした――もちろん、ふたつの意味でだけど。


     *


 カラカラン。と、『シグナレス』のカウベルが鳴り、河井保美がゼミの仲間数名と店に入って来た。

「お好きな席にどうぞ」と言う店主・逢山美里の言葉にしたがい、例の川と橋の絵の前の席に座ろうとしたが、その当の絵がもう壁に掛けられていなかったので、少し考えたのち、母親が気に入っていたという大根の絵の前に座った――なるほど。言われてみれば、「スの入った大根」のように見える。公園の方から、管楽器を練習する音が聞こえた――トロンボーンの音が、礼砲のように、保美には聞こえた。


     *


『今日の午後は暑くなる』と、天気予報は言っていたが――なるほど、確かに。昼前なのにすでに真夏のような熱さだ。

 窓を開け、きつく締めていたネクタイをゆるめ、長年愛用している背広のジャケットをハンガーにかけた――かけたところで、河井保紀は、その背広のポケットの中に、先日、山崎和雄から受け取った辞表を、二つ折りにしたまま、入れっぱなしにしていたことを想い出した。中身は未だ見ていない――が、彼が書いたものだ。きっと中々の名文であることは間違いないだろう。文学研究者のはしくれとして、その文章を見てみたい衝動を否定するつもりもなかったが、しかし、それでも彼は、今回ばかりは、見てしまっては、もっと大きなものを失ってしまうとでも想ったのだろう、このまま、この辞表を燃やしてしまおうと、机の引き出しからライターを取り出そうとして、数年前の禁煙宣言の際にすべて捨ててしまっていたことを想い出し、仕方がないので、向かいの部屋の教務課のシュレッダーを借りることにして――事務の藤田さんに嫌味を言われた。


     *

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